2013年01月24日(木)
宇地泊~嘉手納~喜名~仲泊
晴れ
宇地泊を7時50分に出発する。
このあたりを牧港といい、浦添市と宜野湾市を境とする牧港川の下流にある琉球最古の港だったところだ。 58号線を少し進んで右へ分岐する。右手に大謝名小学校を見ながら進み、車道に出る直前の細道を左折、その先でパイプラインと呼ばれる道に合流して進む。
その先でパイプラインから分岐して右へ進むと森川公園がある。ここに「森の川」の湧泉がある。ここで沐浴をしていた天女と奥間大親とが出会い、一男一女をもうけたという羽衣伝説ゆかりの地だ。
その横に真志喜集落の御嶽である「ウガンヌカタ}があり、石垣に囲まれている中には1725年に建立された、羽衣伝説のことを刻んだ「西森碑記」がある。
またここには真志喜集落の戦没者慰霊塔である「森川之塔」が立っている。
街道に戻って進み、その先で再び街道から外れて右折して進むと、「大山貝塚」がある。ここは沖縄貝塚時代前期後半に相当する貝塚で、このあたりは心霊スポットになっているようだ。
更に進んでいくと、米軍普天間基地の金網に行き当たる。ここを右折して金網に沿って進んでいくと、右手に「大山御嶽」(オオヤマウタキ)がある。約200年前に伊波子(イハシー)と言う人が大山御嶽の近くへ移り住んだが、当時は美底山(ミスクヤマ)と呼ばれた場所で、清水があり土壌は豊かな場所だった。伊波子は子孫繁栄を祈願して、ここに御嶽を建てて松を植えたのが今の大山御嶽という。
旧道に戻って進み、大山の信号で58号線を横断して進む。その先で右折して進み、更にその先で左折して宜野湾バイパスに合流して進む。このあたりも旧道は失われているようだ。左手に伊佐市営住宅があり、右手から58号線が合流するところの左手にちょっとした森があり、その中に「新造佐阿天橋碑」(シンゾウサアテンバシヒ)が立っている。これは琉球王府によって1820年に北谷間切(チャタンマギリ)と宜野湾間切の境界近くにある佐阿天川に琉球王府が石造橋を新設した記念に建立された石碑で、1820年にこれまでの山手側の難儀な公道から、海岸寄りの平坦な公道へと中頭方西海道を移動する大幅な改修工事が行われた際のものである。
58号線を進むが、右手に広大な普天間の米軍基地が広がっており、数多くの軍用車両が停まっている。
一旦基地は途切れるが、その先で再び基地が現れる。今度は嘉手納基地だ。旧道は基地の中に取り込まれて失われてしまっているので、58号線を進む。当初は右手だけに基地が広がっていたが、そのうち道路を挟んだ両側に基地が広がっている。このあたり、観光で何度も通ったことがあり、基地があることも知っていたが、今回改めてその横を歩いてみると、その広さに圧倒されてしまう。
左手に「野国貝塚」の碑が立っている。この貝塚は食糧残滓の獣骨の中に、イノシシの骨が径約2m・深さ50cmの凹地より一括して検出されたことで注目されたという。その横に「甘藷発祥の地」の碑が並んで立っている。1605年、野國總管(ノグニソウカン)によって中国福建省から我が国に初めてもたらされたことを記念して建てられた碑だ。野國總管とは野国村の一役職のことをいうので、当時この役職についていた人が甘藷を持ち帰ったということのようだ。
58号線を進むが、この辺りにも沖縄特有のお墓がある。亀甲墓と呼ばれるこの墓は、墓室の屋根が亀甲形をした沖縄県に多く見られる墓様式で、琉球王国時代は王陵に代表される破風墓とともに士族にのみに許された墓であったが、廃藩置県以後は庶民の間でも急速に普及したという。
嘉手納町の中心街に入って58号線から左へ分岐して進むと、右手に立派な建物の嘉手納町役場がある。嘉手納町はその面積の実に88%が基地として接収されているという基地の町だ。基地に飲み込まれてしまった旧道とはこのあたりで合流している。
食堂があったので、そこに入って昼食にする。
その先で58号線に合流して進み、「比謝橋」を渡るが、この橋は戦前まで五連続の石橋拱橋が残り、県下でも指折りの名橋の一つだったが、沖縄戦で破壊されてしまったという。橋を渡ったところ右手に「古屋チルー歌碑」が立っていて、「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わ身渡さと思て かきておきやら」(恨めしいこの比謝橋よ 情けない人が 私を渡そうと思って かけておいたのだろうか)と記されている。この歌は女流歌人古屋チルーが八歳で那覇仲島の遊郭に身売りされる際、詠んだといわれている。
その横に「比謝橋碑文」がある。比謝橋は1716年~1717年にかけて木橋から石橋へと改良されたが、この改良工事を記念し、比謝川周辺は風光明媚なこと、比謝橋は昔、小さな橋で、1667年と1689年に木橋修理を行ったこと、石橋工事は6か月余りを要し、工事後、人々に喜ばれたことが記されているという。
この碑文も沖縄戦で倒れていたが、昭和39年に現在地に建て直したという。
58号線を進んでいくと、右手に「喜名番所」跡があり、観光案内所として復元されている。喜名は首里・那覇と国頭地域の中間にあり、徒歩で双方の地域から朝出発すると丁度夕方頃に着く地理的位置であったため、旅人が宿を求める宿場町としてにぎわったという。
境内には「読谷山村道路元標」が立っている。間切が村に名称替えした1908年以降に建てられたものという。
ここでいかにも「歩いている人」と思われる方の姿を見かけたが、その方とは翌日一緒に歩くことになった。
ここから旧道を外れて左折して進んでいくと、右手に「喜名観音堂」がある。ここは1841年に金武の観音堂から勧請したもので、戦前まで境内には大きな松が空を覆っており、拝所としての尊厳が残っていたという。
建物は瓦葺で四周は石が積まれ、中には千手観音像が祀られていたということだが、現在ではセメント造りに改築されており、それもかなり傷んでいた。観音像はなく、祠だけが残っていたので、観光案内所の方にお聞きすると、観音像は盗まれてしまうので置いていないということだった。
その横に農業の守護神・「土帝君」を祀る石造りの祠があるが、土帝君の像は沖縄戦でなくなったという。
この喜名番所が中頭方西海道と国頭方西海道の分岐点になっている。
街道に戻って58号線を進んでいくと、左手に「梯梧の塔」と「さくらの塔」が立っているが、これも戦争の慰霊碑だ。沖縄にはこのような碑が多い。
周囲は原野で、その中を58号線が一本伸びているだけだ。
親志の信号で58号線から左へ分岐し、すぐ先で更に左へ分岐して山道に入る。ここから国頭方西海道で最も厳しい難所といわれた多幸山越えに入るのだ。山道に入るとすぐに道は二股に分かれているので、迷ったが、とりあえず右へ進んでみると、行き止まりだったので、引き換えして左へ進む。このあたりの道は地図に載っておらず、不安に思っていたところなので、その不安がいきなり的中してしまった。山道をどんどん進んでいくが、目印となるものが何もないので、この道で間違っていないかどうか不安になってきたころ、前方に「歴史の道 国頭方西海道」の標識が見えたのでほっとする。この場所が「御待毛」(ウチマモー)と呼ばれる場所で、琉球王国時代の国王や上級役人が地方巡検するとき、街道沿いの村人が一行を待ち受けたり、歓迎するための広場のことだ。
ここから右へ進むのだが、左手を見ると鉄条網が見える。米軍基地のようだ。山道を進んでいくと、やがて「真栄田の一里塚」がある。1609年の島津の琉球侵入後、その統治下に組み込まれた琉球にも道程標としての一里塚が設けられたという。この場所は喜名番所から一里の地点にあたる。
このあたりになると分岐する場所には必ずと言っていいほど標識が立っているのでわかりやすい。この標識はかって「萩往還」を歩いた時に設置されていたものと同じ形のものだ。どちらも文化庁「歴史の道」保存整備事業という補助金を使って整備している。
標識に従って進んでいくと右手に「フェーレー岩」がある。読谷山石灰岩のこの岩塊にフェーレー(追いはぎ)が出没し、竿先に鈎針を付けて多幸山越えする旅人から持ち物を奪ったという。
その先、坂を下っていくと、右手に「歴史の道」の標識と説明板が立っている。この時はあまり深く考えず、これを見ながらそのまま舗装された道を下っていってしまった。
山を下り終わると、真栄田の公民館がある。これはおかしいと、この時初めて気が付いた。どこかで道を間違ってしまったようだ。ちょうど地元の方がおられたので、確認すると道を間違っていることがわかったので、とりあえず目印である山田小学校・中学校までいくことにした。学校へ向かう途中にも、これまであったのと同じ標識が立っているので、この道でもいいのかな?と混乱してしまった。山田小学校・中学校まで来て、旧道に合流するところに「寺川矼→」という標識が立っている。この矢印を逆にたどっていくと、フェーレー岩の所に出ることができそうだ。時計を見ると16時だ。この先、山の中の道になるようだったが、沖縄は日没が遅いので、何とかなるだろうと思って、標識に従って逆方向に歩き始めた。ここでも辻ごとに標識が立っているので、それにしたがって山道を進んでいくと、舗装された道に出た。そこに先ほど見た「歴史の道」の標識と説明板が立っている。この時初めてこの場所が分岐する場所だったのだと気が付いた。
改めてこの標識から右折、山道を下っていく。
垂川に架かる「寺川矼」(テラカワハシ)を渡る。1978年に撤去されるまでの寺川矼は床版部の石を両橋台部の石積みでささえ、床版石はそれぞれ同形状とみられる二つの石版が架かっていたが、現在は仮設の橋になっている。
その先の突当りを右折、更にその先で左折して進み、車道にでる。このあたりも随所に標識が立っているのでそれにしたがって進む。その先で左手に山田小学校・中学校があり、ここにも「山田グスク」「寺川矼」の標識が立っているので、それにしたがって右折して進むと、58号線にでるので、これを横断して進む。
二つ目の角にも標識が立っており、ここを左折して坂を登るが、ここは山道だ。
ここを登っていくと、突き当りに標識が立っており、旧道は左へ進むのだが、ここを右へ進み、階段を登っていくと「護佐丸父祖の墓」がある。これは山田城主だった護佐丸父祖一族の墓で琉球石灰岩洞穴を利用して造られている。墓前には一族によって建てられた碑文がある。これには墓の修復(1714)や碑の建立(1750)などを記しているという。
旧道に戻って進むと、「久良波大主の墓」への標識があるので、それにしたがって旧道から外れて進んでみた。この道はあまり人が通らないようで、かなり荒れていたが、その奥に墓があった。久良波大主に関しては、調べてみたが、山田の豪族だったようだということ以外わからなかった。
旧道に戻って進むと「山田谷川に架かる石矼(イシハシ)」がある。これは琉球石灰岩ののづら積みの桁部分にアーチ型式を施してあるが、全体的に粗い仕上げの石矼と言えるという説明がなされている。現在の石矼はこれまでのアーチ部分の六枚の石が崩れ落ちたため、これを復元し、既存の石四枚と組み合わせて修復したものという。山手側の奥まったところは近年まで周辺住民の水浴場となっていたところといい、
「山田谷川に、思蔵つれて浴びて、恋しからたる 仲のあしゃぎ」(愛しい人と共に山田谷川で浴びて、仲のあしゃぎで恋を語りあいたいものだ」という琉歌があるという。
17時4分に一度山の中の道を抜ける。無事暗くなる前に山の中の道を抜けることができてホッとしたのだが、その先で再び山道があった。 58号線に出たところに、「東大井戸、久良波大主の井戸、大木の井戸」と記された祠があり、国際海洋博のため、58号線の新装工事を行ったので移転したと記されている。
58号線の山田の信号の先の右手に階段があり、これを登っていくが、ここにも標識が立っている。
その先に「比屋根坂の石畳道」がある。この石畳道は上り道と下り道の二か所あり、首里王府時代の北部と中・南部を結ぶ主要道路で、現在残っている真栄田の一里塚と仲泊の一里塚を結ぶ歴史の道という説明がなされている。このあたりにも「ハブに注意」の看板が立っている。
山を下ったところに「仲泊遺跡の貝塚」がある。岩陰内は沖縄先史時代後期の住居跡で、岩陰前面部は中期の貝塚という。発掘前の岩陰内は風葬墓で人骨、石棺、陶器棺などがあったが、これらを移動して発掘を行うと、住居跡が検出されたという。17時24分に無事山を抜けることができた。
左手に「唐人の墓碑」がある。1824年中国福建省の商船が嵐のため難破し、乗務員32名中6名がこの地に漂着。しかし5名は死亡しており、1名のみが餓死寸前で助けられ、この地で手厚い治療を受けて無事帰国した。このことは中国側の資料にも残っているという。5名は手厚く葬られたが、第二次大戦後米軍の道路拡張によって壊され、墓碑のみが残っている。
仲泊(南)の信号で58号線を横断すると、右手に「前の御嶽」がある。伝承では津波の被害で「古島」から現在地へ村をあげて移動した際、新しい村の背後に「御嶽」を設けたという。
その先右手の民家の裏に「仲泊の一里塚」がある。かって恩納村には五か所の一里塚があったが、現存しているのは仲泊と真栄田の二か所のみだという。ここは少し場所は離れているが両塚残っている。
仲泊の集落の中の道を進むと左手に仲泊小学校・中学校があり、この敷地内に「後の御嶽」がある。校庭内には入るわけにいかないので、道路から写真を撮る。
シーサイドドライブインが左手にあり、その左手にちょっとした森がある。これが「親王森」で能久親王が沖縄来訪の際、休憩をしたところという。
18時20分に今日の宿であるビーチ沖縄に着いたが、周囲はすでに暗くなっている。この宿は民宿だと思っていたのだが、マンションの一室だった。したがって部屋があるだけで、アメニティグッズやタオル等は何も置いていない。ただ洗濯機や乾燥機、風呂もあるので、助かった。
本日の歩行時間 10時間30分。
本日の歩数&距離 55124歩、35.4km。
本日の純距離 28.8km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
宇地泊を7時50分に出発する。
このあたりを牧港といい、浦添市と宜野湾市を境とする牧港川の下流にある琉球最古の港だったところだ。 58号線を少し進んで右へ分岐する。右手に大謝名小学校を見ながら進み、車道に出る直前の細道を左折、その先でパイプラインと呼ばれる道に合流して進む。
その先でパイプラインから分岐して右へ進むと森川公園がある。ここに「森の川」の湧泉がある。ここで沐浴をしていた天女と奥間大親とが出会い、一男一女をもうけたという羽衣伝説ゆかりの地だ。
その横に真志喜集落の御嶽である「ウガンヌカタ}があり、石垣に囲まれている中には1725年に建立された、羽衣伝説のことを刻んだ「西森碑記」がある。
またここには真志喜集落の戦没者慰霊塔である「森川之塔」が立っている。
街道に戻って進み、その先で再び街道から外れて右折して進むと、「大山貝塚」がある。ここは沖縄貝塚時代前期後半に相当する貝塚で、このあたりは心霊スポットになっているようだ。
更に進んでいくと、米軍普天間基地の金網に行き当たる。ここを右折して金網に沿って進んでいくと、右手に「大山御嶽」(オオヤマウタキ)がある。約200年前に伊波子(イハシー)と言う人が大山御嶽の近くへ移り住んだが、当時は美底山(ミスクヤマ)と呼ばれた場所で、清水があり土壌は豊かな場所だった。伊波子は子孫繁栄を祈願して、ここに御嶽を建てて松を植えたのが今の大山御嶽という。
旧道に戻って進み、大山の信号で58号線を横断して進む。その先で右折して進み、更にその先で左折して宜野湾バイパスに合流して進む。このあたりも旧道は失われているようだ。左手に伊佐市営住宅があり、右手から58号線が合流するところの左手にちょっとした森があり、その中に「新造佐阿天橋碑」(シンゾウサアテンバシヒ)が立っている。これは琉球王府によって1820年に北谷間切(チャタンマギリ)と宜野湾間切の境界近くにある佐阿天川に琉球王府が石造橋を新設した記念に建立された石碑で、1820年にこれまでの山手側の難儀な公道から、海岸寄りの平坦な公道へと中頭方西海道を移動する大幅な改修工事が行われた際のものである。
58号線を進むが、右手に広大な普天間の米軍基地が広がっており、数多くの軍用車両が停まっている。
一旦基地は途切れるが、その先で再び基地が現れる。今度は嘉手納基地だ。旧道は基地の中に取り込まれて失われてしまっているので、58号線を進む。当初は右手だけに基地が広がっていたが、そのうち道路を挟んだ両側に基地が広がっている。このあたり、観光で何度も通ったことがあり、基地があることも知っていたが、今回改めてその横を歩いてみると、その広さに圧倒されてしまう。
左手に「野国貝塚」の碑が立っている。この貝塚は食糧残滓の獣骨の中に、イノシシの骨が径約2m・深さ50cmの凹地より一括して検出されたことで注目されたという。その横に「甘藷発祥の地」の碑が並んで立っている。1605年、野國總管(ノグニソウカン)によって中国福建省から我が国に初めてもたらされたことを記念して建てられた碑だ。野國總管とは野国村の一役職のことをいうので、当時この役職についていた人が甘藷を持ち帰ったということのようだ。
58号線を進むが、この辺りにも沖縄特有のお墓がある。亀甲墓と呼ばれるこの墓は、墓室の屋根が亀甲形をした沖縄県に多く見られる墓様式で、琉球王国時代は王陵に代表される破風墓とともに士族にのみに許された墓であったが、廃藩置県以後は庶民の間でも急速に普及したという。
嘉手納町の中心街に入って58号線から左へ分岐して進むと、右手に立派な建物の嘉手納町役場がある。嘉手納町はその面積の実に88%が基地として接収されているという基地の町だ。基地に飲み込まれてしまった旧道とはこのあたりで合流している。
食堂があったので、そこに入って昼食にする。
その先で58号線に合流して進み、「比謝橋」を渡るが、この橋は戦前まで五連続の石橋拱橋が残り、県下でも指折りの名橋の一つだったが、沖縄戦で破壊されてしまったという。橋を渡ったところ右手に「古屋チルー歌碑」が立っていて、「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わ身渡さと思て かきておきやら」(恨めしいこの比謝橋よ 情けない人が 私を渡そうと思って かけておいたのだろうか)と記されている。この歌は女流歌人古屋チルーが八歳で那覇仲島の遊郭に身売りされる際、詠んだといわれている。
その横に「比謝橋碑文」がある。比謝橋は1716年~1717年にかけて木橋から石橋へと改良されたが、この改良工事を記念し、比謝川周辺は風光明媚なこと、比謝橋は昔、小さな橋で、1667年と1689年に木橋修理を行ったこと、石橋工事は6か月余りを要し、工事後、人々に喜ばれたことが記されているという。
この碑文も沖縄戦で倒れていたが、昭和39年に現在地に建て直したという。
58号線を進んでいくと、右手に「喜名番所」跡があり、観光案内所として復元されている。喜名は首里・那覇と国頭地域の中間にあり、徒歩で双方の地域から朝出発すると丁度夕方頃に着く地理的位置であったため、旅人が宿を求める宿場町としてにぎわったという。
境内には「読谷山村道路元標」が立っている。間切が村に名称替えした1908年以降に建てられたものという。
ここでいかにも「歩いている人」と思われる方の姿を見かけたが、その方とは翌日一緒に歩くことになった。
ここから旧道を外れて左折して進んでいくと、右手に「喜名観音堂」がある。ここは1841年に金武の観音堂から勧請したもので、戦前まで境内には大きな松が空を覆っており、拝所としての尊厳が残っていたという。
建物は瓦葺で四周は石が積まれ、中には千手観音像が祀られていたということだが、現在ではセメント造りに改築されており、それもかなり傷んでいた。観音像はなく、祠だけが残っていたので、観光案内所の方にお聞きすると、観音像は盗まれてしまうので置いていないということだった。
その横に農業の守護神・「土帝君」を祀る石造りの祠があるが、土帝君の像は沖縄戦でなくなったという。
この喜名番所が中頭方西海道と国頭方西海道の分岐点になっている。
街道に戻って58号線を進んでいくと、左手に「梯梧の塔」と「さくらの塔」が立っているが、これも戦争の慰霊碑だ。沖縄にはこのような碑が多い。
周囲は原野で、その中を58号線が一本伸びているだけだ。
親志の信号で58号線から左へ分岐し、すぐ先で更に左へ分岐して山道に入る。ここから国頭方西海道で最も厳しい難所といわれた多幸山越えに入るのだ。山道に入るとすぐに道は二股に分かれているので、迷ったが、とりあえず右へ進んでみると、行き止まりだったので、引き換えして左へ進む。このあたりの道は地図に載っておらず、不安に思っていたところなので、その不安がいきなり的中してしまった。山道をどんどん進んでいくが、目印となるものが何もないので、この道で間違っていないかどうか不安になってきたころ、前方に「歴史の道 国頭方西海道」の標識が見えたのでほっとする。この場所が「御待毛」(ウチマモー)と呼ばれる場所で、琉球王国時代の国王や上級役人が地方巡検するとき、街道沿いの村人が一行を待ち受けたり、歓迎するための広場のことだ。
ここから右へ進むのだが、左手を見ると鉄条網が見える。米軍基地のようだ。山道を進んでいくと、やがて「真栄田の一里塚」がある。1609年の島津の琉球侵入後、その統治下に組み込まれた琉球にも道程標としての一里塚が設けられたという。この場所は喜名番所から一里の地点にあたる。
このあたりになると分岐する場所には必ずと言っていいほど標識が立っているのでわかりやすい。この標識はかって「萩往還」を歩いた時に設置されていたものと同じ形のものだ。どちらも文化庁「歴史の道」保存整備事業という補助金を使って整備している。
標識に従って進んでいくと右手に「フェーレー岩」がある。読谷山石灰岩のこの岩塊にフェーレー(追いはぎ)が出没し、竿先に鈎針を付けて多幸山越えする旅人から持ち物を奪ったという。
その先、坂を下っていくと、右手に「歴史の道」の標識と説明板が立っている。この時はあまり深く考えず、これを見ながらそのまま舗装された道を下っていってしまった。
山を下り終わると、真栄田の公民館がある。これはおかしいと、この時初めて気が付いた。どこかで道を間違ってしまったようだ。ちょうど地元の方がおられたので、確認すると道を間違っていることがわかったので、とりあえず目印である山田小学校・中学校までいくことにした。学校へ向かう途中にも、これまであったのと同じ標識が立っているので、この道でもいいのかな?と混乱してしまった。山田小学校・中学校まで来て、旧道に合流するところに「寺川矼→」という標識が立っている。この矢印を逆にたどっていくと、フェーレー岩の所に出ることができそうだ。時計を見ると16時だ。この先、山の中の道になるようだったが、沖縄は日没が遅いので、何とかなるだろうと思って、標識に従って逆方向に歩き始めた。ここでも辻ごとに標識が立っているので、それにしたがって山道を進んでいくと、舗装された道に出た。そこに先ほど見た「歴史の道」の標識と説明板が立っている。この時初めてこの場所が分岐する場所だったのだと気が付いた。
改めてこの標識から右折、山道を下っていく。
垂川に架かる「寺川矼」(テラカワハシ)を渡る。1978年に撤去されるまでの寺川矼は床版部の石を両橋台部の石積みでささえ、床版石はそれぞれ同形状とみられる二つの石版が架かっていたが、現在は仮設の橋になっている。
その先の突当りを右折、更にその先で左折して進み、車道にでる。このあたりも随所に標識が立っているのでそれにしたがって進む。その先で左手に山田小学校・中学校があり、ここにも「山田グスク」「寺川矼」の標識が立っているので、それにしたがって右折して進むと、58号線にでるので、これを横断して進む。
二つ目の角にも標識が立っており、ここを左折して坂を登るが、ここは山道だ。
ここを登っていくと、突き当りに標識が立っており、旧道は左へ進むのだが、ここを右へ進み、階段を登っていくと「護佐丸父祖の墓」がある。これは山田城主だった護佐丸父祖一族の墓で琉球石灰岩洞穴を利用して造られている。墓前には一族によって建てられた碑文がある。これには墓の修復(1714)や碑の建立(1750)などを記しているという。
旧道に戻って進むと、「久良波大主の墓」への標識があるので、それにしたがって旧道から外れて進んでみた。この道はあまり人が通らないようで、かなり荒れていたが、その奥に墓があった。久良波大主に関しては、調べてみたが、山田の豪族だったようだということ以外わからなかった。
旧道に戻って進むと「山田谷川に架かる石矼(イシハシ)」がある。これは琉球石灰岩ののづら積みの桁部分にアーチ型式を施してあるが、全体的に粗い仕上げの石矼と言えるという説明がなされている。現在の石矼はこれまでのアーチ部分の六枚の石が崩れ落ちたため、これを復元し、既存の石四枚と組み合わせて修復したものという。山手側の奥まったところは近年まで周辺住民の水浴場となっていたところといい、
「山田谷川に、思蔵つれて浴びて、恋しからたる 仲のあしゃぎ」(愛しい人と共に山田谷川で浴びて、仲のあしゃぎで恋を語りあいたいものだ」という琉歌があるという。
17時4分に一度山の中の道を抜ける。無事暗くなる前に山の中の道を抜けることができてホッとしたのだが、その先で再び山道があった。 58号線に出たところに、「東大井戸、久良波大主の井戸、大木の井戸」と記された祠があり、国際海洋博のため、58号線の新装工事を行ったので移転したと記されている。
58号線の山田の信号の先の右手に階段があり、これを登っていくが、ここにも標識が立っている。
その先に「比屋根坂の石畳道」がある。この石畳道は上り道と下り道の二か所あり、首里王府時代の北部と中・南部を結ぶ主要道路で、現在残っている真栄田の一里塚と仲泊の一里塚を結ぶ歴史の道という説明がなされている。このあたりにも「ハブに注意」の看板が立っている。
山を下ったところに「仲泊遺跡の貝塚」がある。岩陰内は沖縄先史時代後期の住居跡で、岩陰前面部は中期の貝塚という。発掘前の岩陰内は風葬墓で人骨、石棺、陶器棺などがあったが、これらを移動して発掘を行うと、住居跡が検出されたという。17時24分に無事山を抜けることができた。
左手に「唐人の墓碑」がある。1824年中国福建省の商船が嵐のため難破し、乗務員32名中6名がこの地に漂着。しかし5名は死亡しており、1名のみが餓死寸前で助けられ、この地で手厚い治療を受けて無事帰国した。このことは中国側の資料にも残っているという。5名は手厚く葬られたが、第二次大戦後米軍の道路拡張によって壊され、墓碑のみが残っている。
仲泊(南)の信号で58号線を横断すると、右手に「前の御嶽」がある。伝承では津波の被害で「古島」から現在地へ村をあげて移動した際、新しい村の背後に「御嶽」を設けたという。
その先右手の民家の裏に「仲泊の一里塚」がある。かって恩納村には五か所の一里塚があったが、現存しているのは仲泊と真栄田の二か所のみだという。ここは少し場所は離れているが両塚残っている。
仲泊の集落の中の道を進むと左手に仲泊小学校・中学校があり、この敷地内に「後の御嶽」がある。校庭内には入るわけにいかないので、道路から写真を撮る。
シーサイドドライブインが左手にあり、その左手にちょっとした森がある。これが「親王森」で能久親王が沖縄来訪の際、休憩をしたところという。
18時20分に今日の宿であるビーチ沖縄に着いたが、周囲はすでに暗くなっている。この宿は民宿だと思っていたのだが、マンションの一室だった。したがって部屋があるだけで、アメニティグッズやタオル等は何も置いていない。ただ洗濯機や乾燥機、風呂もあるので、助かった。
本日の歩行時間 10時間30分。
本日の歩数&距離 55124歩、35.4km。
本日の純距離 28.8km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
旅の地図
記録
-
2013年01月23日(水)
-
2013年01月24日(木)
-
2013年01月25日(金)
-
2013年01月26日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん