2012年10月29日(月)
上中~熊川宿~水坂峠~保坂~檜峠~朽木宿~葛川細川
小雨後晴れ
小浜駅からバスで出発し、8時11分に天徳寺バス停に着き、歩き始める。
昨日は時間切れで天徳寺を見ることができなかったので、ここからスタートすることにする。
瓜割の滝口信号から右折して進むと、「天徳寺」がある。ここは約1300年前の養老年間、加賀・白山を開いた泰澄大師が当地宝篋ケ嶽に上り、馬頭観音像一体を刻んで山腹の岩窟に安置したことが寺の起こりで、元和年中(1615~1624)に現在地に再建されたという古刹である。境内に江戸初期、天和年間(1681~1684)の作庭といわれる方丈庭園がある。
境内の道を挟んだ反対側の階段を上ったところに「四国八十八か所石仏霊場」がある。この石仏は文化年間(1804~1818)に佐渡で造られたもので、88体の石仏を安置している石積は夜に積まれたことから、夜積石と伝えられているという。
更に坂を登っていくと「瓜割の滝」がある。これは環境庁の名水100選に選ばれており、水温は一月の大寒に12℃と温かく、八月のお盆には8℃と低温になるという。その精冷さで瓜をも割るということから名づけられたという。
27号線に戻って進み、天徳寺の信号で街道に合流、27号線から右へ分岐して進む。ここで雨が降ってきたので、今日も又雨かとうんざりしたが、幸いこの後はひどくなることはなかった。9時ちょうどに昨日歩いた上中駅への分岐点に着く。今日はそのまま直進するが、この辺りは街道の雰囲気が残っていて車も少なく、静かで気落ちのいい道だ。
右手にこのあたりでよく見かける大きな常夜灯があり、その先の四つ角に「すくちくふ志満道」「右 村道」「左 吉田」と刻まれた文久2年(1862)の町指定の道しるべが立っている。
その前、左手に「信主神社」があり、境内に町指定文化財に指定されている横井筆丸の句碑が立っている。
その先で山際の道を進むが、ここも静かな道で、沿道には地蔵堂が数多くある。
303号線に合流するが、ここに小浜まで四里と書かれた新しい看板が立っており、その横に熊川宿まで2.1㎞と記された標識が立っている。
303号線を進み、新道集落があるところから303号線から左へ分岐して集落の中を進む。その先で303号線に合流するが、更にその先で303号線から右へ分岐して熊川宿へ入っていく。
宿場へ入るところ、右側の水路の上に「熊川村新道 若狭道」と記された石碑が立っている。
そのすぐ先、水路の上に草にかなり覆われているが、「早竹善助墓碑」と読むことができる碑が見える。
右手に「孝子与七」の碑がある。享保6年(1721)にこの地に住んでいた与七とその妻は貧しい中、父母に孝行を尽くしていたが、そのことが小浜藩主の耳に入り、米数表を与えてその志を褒めたという。
熊川宿は天正17年(1589)領主の浅野長政が交通軍事上の要地として諸役免除の治政方針を打ち出して、40戸ほどの寒村が江戸末期には200戸を超える町になり、都と若狭を結ぶ荷物の中継地として栄えたという。ここはきれいに整備されており、「ふくい伝統的民家」もあって昔の雰囲気を色濃く残している。
町は私が歩いた順番に下の町、中の町、上の町に分けられており、下の町と中の町の間に、ここでは「まがり」と呼ばれている枡型がある。
左手に文化8年(1811)に建設されたという旧問屋である「倉見屋」があり、柱に「駒つなぎ」が今でも残っている。
すぐ先、右手に「松木神社」があり、昨日見た「松木庄左衛門」を祀っている。境内には直訴する松木庄左衛門の像があり、義民館がある。この地は旧小浜藩の御蔵屋敷跡でもあったという。
右手に「得法寺」がある。ここは北条義時の子、叡山西塔円房須智が嘉禄2年(1226)に開基、本堂は宝暦6年(1756)に改築されたという。
門を入ったすぐ左側に「家康の腰かけ松」がある。元亀元年(1570)、徳川家康は織田信長に従って浅井氏との戦いに参加し、この寺に宿泊をしたという。その際、腰かけたという松であるが、枯れた幹だけが残っており、その横に「徳川家康腰かけ松の跡」と書かれた標識が立っていた。
また境内には室町時代末期に建てられたと思われる、「熊川城主沼田氏の墓」とされる層塔が立っている。
得法寺のすぐ横に「白石神社」がある。
すぐ前左手に「御蔵道」がある。江戸時代の初期、小浜から熊川までは陸路の他に北川を川舟で荷物を運送していた時期があった。この路地の奥の船着き場から現在の松木神社の境内にあった蔵屋敷まで、その道路として重きをなしていたため、御蔵道の名がつけられたという。
右手に旧問屋「菱屋」がある。
右手に「旧逸見勘兵衛家」がある。旧逸見家は伊藤忠商事の社長になった伊藤竹之助の生家で、熊川を代表する町屋の一つとして町の指定文化財になっている。
右手に「熊川番所跡」がある。熊川宿は若狭と近江の国境に位置しており、小浜藩の番所があったが、明治3年にその役割を終え、その後民家として利用されていたというが、現在は当時の番所の姿として復元されている。
道の駅があり、その先で道は303号線から左へ分岐して進むが、その先で再び303号線に合流する。
寒風トンネルの手前から右へ分岐する旧道があるが、ガードレールで仕切られていて通行止めになっている。しかし構わず進んでいくと橋があり、その手前に「この道路は廃道ですので立ち入らないでください」という看板が立っている。ここも構わず進んでいくと、その先で崖崩れが起きていて、道が埋まっていて歩くことができなくなっていたので、元に戻って寒風トンネルを通って進む。
その先、右手に採石場があり、更にその先を進んでいくと、303号線が左へ大きくカーブしている手前に右へ下る道があるので、これを進む。空き家が目立つ集落の中を進んでいき、その先で303号線に合流する。
その先で303号線から左へ分岐する舗装道があるので、これを進むと水坂トンネルの上を通って水坂峠へ向かい、12時8分に峠を越える。
その先、右手に「金比羅宮と庚申塚」の説明板が立っているところから下る細道があるので、これを下っていく。中ノ川を渡ると「金比羅宮」があり、文政5年(1822)の灯籠が立っている。
この先の坂を登っていくと、道があったので、これが旧道かなと思ってウロウロしてみたが、どうも違うようだったので、元へ戻る。金比羅宮の右上に庚申塚が草に埋もれてあった。
303号線に戻って進むと、再び右手に下る細道があるので、これを下っていくと、「弁天宮」があり、天保2年(1831)の灯籠が立っている。
弁天宮を正面に見て左手に中ノ川が流れており、その川に沿って道があるのでこれを進むと、保坂の集落へ入っていく。
その先で道は二股に分かれているので、右へ橋を渡ると、橋の袂に「志ゅんれいみち・今津海道」「右 京道」「左 わ加さ道」と刻まれた安永4年(1775)の道標が立っている。
その先367号線に合流、右折して進む。右手に「六地蔵」を安置する地蔵堂がある。
この道は歩道がなく、車の通行量はかなりあるので、歩きにくい。
367号線を進んでいくと、道が二股に分かれているところがあるので、左へ進むが、その先、環境センターのあるところで再び367号線に合流する。
その先、檜峠を越えるが、ここもきれいに舗装された道だ。
しばらく367号線を進んでいくと、右へ分岐する道があるので、これを進んで朽木宿へ入っていく。
道端で水車が回っている。
左手に「織田信長の休憩地」の案内板が立っている。それによると、元亀元年(1570)織田信長は越前の朝倉氏を攻めるため、三万余の軍勢を従えて敦賀に進攻したが、湖北の浅井長政の離反によって朽木谷を通って京都へ逃れた。当時の領主・朽木元綱は信長が自領内を通ることを認めたうえ、道中の案内役も引き受けた。看板の立っているところは、元綱から接待役を命じられた長谷川茂政が、お茶とお菓子で信長をもてなしたという圓満堂の跡地という。生死の間をさまよっていた信長は、朽木家の対応に感激し、はいていた革袴と銀箸を茂政に与えたと記されている。
突当りを左折、すぐ先を右折する枡形になっているが、その突当りに昭和13年に建築されたという旧郵便局舎があり、右折した右手に「造り酒屋 松宮家住宅跡」がある。
右手に「旧商家・熊瀬家住宅」がある。熊瀬家は酒造りや醤油造りを本業とする一方で、藩の御用商人としての保護を受け、幅広い商業活動を行っていたという。
水路があるが、これは江戸時代の初めに整備されたといわれており、日常は種々の洗い物をするのに用いられ、夏には道路の打ち水として涼をとり、冬には除雪を融かすために利用され、更に火災が発生した際には消火用水として機能したという。
丸八百貨店という歴史を感じさせる建物から左折、その先を右折とここも枡形になっている道を進む。
説明板が立っている。それによるとここでは枡型とはいわず「鍵曲(かいまがり)」と呼ぶそうで、かって市場の集落内には13か所以上の鍵曲が設けられていたといわれ、現在でもその大部分が残っていると説明されている。
そのまま進んでいったが、今日の宿である安曇川荘にとりあえず荷物を置いて先に進もうと思って、宿まで引き返す。ここから先は江若バスが細川まで通じており、朽木へ帰る細川からの便は17時30分が最終である。ところが明日の朝は便がなく、朽木から細川へ向かう最初の便は12時3分しかないのだ。何かうまいアクセスはないものかと思って役所支所に行って聞くと、他に市営バスがあって朽木支所を朝8時35分に出る便があるが、その便は細川は止まらず支所前を出ると細川の先の梅ノ木のバス停までノンストップで行ってしまうそうだ。細川と梅の木の間は距離がかなりあるそうで、最悪安曇川からタクシーに来てもらって、それで細川まで行くしかないと思った。
367号線を進んでいくと、右手に「興聖寺」があり、ここに「旧秀隣寺庭園」がある。この庭は享禄元年(1528)に朽木稙綱が将軍足利義晴のために館を建てた際、築造したものと伝えられている。慶長11年(1606)朽木宣綱が亡き妻のために寺とし秀隣寺と号したが、のち朽木村野尻へ移転し、その跡地へ興聖寺が建てられたという。
ここから367号線をひたすら進んでいくと、途中左手川沿いに桑野の渡し場跡の復元作業が行われていた。
桑野橋を渡り、その先で大野、村井という集落があり、旧道はその集落の中を通っている。
朽木支所を15時21分に出たときは細川を17時30分のバスには余裕を持って乗ることができると思っていたのだが、意外に距離があって時間がかかり、ギリギリの時間になりそうだったので、先を急ぐ。このバスに乗り遅れるともう次はないのだ。周囲は次第に暮色が濃くなってきた。
そして17時20分に無事バス停に到着、この間の距離は約9.7㎞だった。バスはもうすでに到着していたので、これに乗り込む。17時30分にバスが出発したときには周囲はすでに真っ暗になっていた。つるべ落としの秋の夕暮を実感する。乗客は私一人だったため、運転手さんといろいろ話をする。それによるとこのあたりはバス停はあるものの、フリー乗降ができるそうで、手を挙げると乗せてくれるそうだ。
宿に帰り着くと、女将さんが明日の朝は息子さんの都合がつくので、細川まで車で送ってくれるということを言っていただき、とてもありがたかった。
本日の歩行時間 9時間9分。
本日の歩数&距離 50382歩、35.2km。
街道のみを歩いた場合の距離 29.1km。
小浜駅からバスで出発し、8時11分に天徳寺バス停に着き、歩き始める。
昨日は時間切れで天徳寺を見ることができなかったので、ここからスタートすることにする。
瓜割の滝口信号から右折して進むと、「天徳寺」がある。ここは約1300年前の養老年間、加賀・白山を開いた泰澄大師が当地宝篋ケ嶽に上り、馬頭観音像一体を刻んで山腹の岩窟に安置したことが寺の起こりで、元和年中(1615~1624)に現在地に再建されたという古刹である。境内に江戸初期、天和年間(1681~1684)の作庭といわれる方丈庭園がある。
境内の道を挟んだ反対側の階段を上ったところに「四国八十八か所石仏霊場」がある。この石仏は文化年間(1804~1818)に佐渡で造られたもので、88体の石仏を安置している石積は夜に積まれたことから、夜積石と伝えられているという。
更に坂を登っていくと「瓜割の滝」がある。これは環境庁の名水100選に選ばれており、水温は一月の大寒に12℃と温かく、八月のお盆には8℃と低温になるという。その精冷さで瓜をも割るということから名づけられたという。
27号線に戻って進み、天徳寺の信号で街道に合流、27号線から右へ分岐して進む。ここで雨が降ってきたので、今日も又雨かとうんざりしたが、幸いこの後はひどくなることはなかった。9時ちょうどに昨日歩いた上中駅への分岐点に着く。今日はそのまま直進するが、この辺りは街道の雰囲気が残っていて車も少なく、静かで気落ちのいい道だ。
右手にこのあたりでよく見かける大きな常夜灯があり、その先の四つ角に「すくちくふ志満道」「右 村道」「左 吉田」と刻まれた文久2年(1862)の町指定の道しるべが立っている。
その前、左手に「信主神社」があり、境内に町指定文化財に指定されている横井筆丸の句碑が立っている。
その先で山際の道を進むが、ここも静かな道で、沿道には地蔵堂が数多くある。
303号線に合流するが、ここに小浜まで四里と書かれた新しい看板が立っており、その横に熊川宿まで2.1㎞と記された標識が立っている。
303号線を進み、新道集落があるところから303号線から左へ分岐して集落の中を進む。その先で303号線に合流するが、更にその先で303号線から右へ分岐して熊川宿へ入っていく。
宿場へ入るところ、右側の水路の上に「熊川村新道 若狭道」と記された石碑が立っている。
そのすぐ先、水路の上に草にかなり覆われているが、「早竹善助墓碑」と読むことができる碑が見える。
右手に「孝子与七」の碑がある。享保6年(1721)にこの地に住んでいた与七とその妻は貧しい中、父母に孝行を尽くしていたが、そのことが小浜藩主の耳に入り、米数表を与えてその志を褒めたという。
熊川宿は天正17年(1589)領主の浅野長政が交通軍事上の要地として諸役免除の治政方針を打ち出して、40戸ほどの寒村が江戸末期には200戸を超える町になり、都と若狭を結ぶ荷物の中継地として栄えたという。ここはきれいに整備されており、「ふくい伝統的民家」もあって昔の雰囲気を色濃く残している。
町は私が歩いた順番に下の町、中の町、上の町に分けられており、下の町と中の町の間に、ここでは「まがり」と呼ばれている枡型がある。
左手に文化8年(1811)に建設されたという旧問屋である「倉見屋」があり、柱に「駒つなぎ」が今でも残っている。
すぐ先、右手に「松木神社」があり、昨日見た「松木庄左衛門」を祀っている。境内には直訴する松木庄左衛門の像があり、義民館がある。この地は旧小浜藩の御蔵屋敷跡でもあったという。
右手に「得法寺」がある。ここは北条義時の子、叡山西塔円房須智が嘉禄2年(1226)に開基、本堂は宝暦6年(1756)に改築されたという。
門を入ったすぐ左側に「家康の腰かけ松」がある。元亀元年(1570)、徳川家康は織田信長に従って浅井氏との戦いに参加し、この寺に宿泊をしたという。その際、腰かけたという松であるが、枯れた幹だけが残っており、その横に「徳川家康腰かけ松の跡」と書かれた標識が立っていた。
また境内には室町時代末期に建てられたと思われる、「熊川城主沼田氏の墓」とされる層塔が立っている。
得法寺のすぐ横に「白石神社」がある。
すぐ前左手に「御蔵道」がある。江戸時代の初期、小浜から熊川までは陸路の他に北川を川舟で荷物を運送していた時期があった。この路地の奥の船着き場から現在の松木神社の境内にあった蔵屋敷まで、その道路として重きをなしていたため、御蔵道の名がつけられたという。
右手に旧問屋「菱屋」がある。
右手に「旧逸見勘兵衛家」がある。旧逸見家は伊藤忠商事の社長になった伊藤竹之助の生家で、熊川を代表する町屋の一つとして町の指定文化財になっている。
右手に「熊川番所跡」がある。熊川宿は若狭と近江の国境に位置しており、小浜藩の番所があったが、明治3年にその役割を終え、その後民家として利用されていたというが、現在は当時の番所の姿として復元されている。
道の駅があり、その先で道は303号線から左へ分岐して進むが、その先で再び303号線に合流する。
寒風トンネルの手前から右へ分岐する旧道があるが、ガードレールで仕切られていて通行止めになっている。しかし構わず進んでいくと橋があり、その手前に「この道路は廃道ですので立ち入らないでください」という看板が立っている。ここも構わず進んでいくと、その先で崖崩れが起きていて、道が埋まっていて歩くことができなくなっていたので、元に戻って寒風トンネルを通って進む。
その先、右手に採石場があり、更にその先を進んでいくと、303号線が左へ大きくカーブしている手前に右へ下る道があるので、これを進む。空き家が目立つ集落の中を進んでいき、その先で303号線に合流する。
その先で303号線から左へ分岐する舗装道があるので、これを進むと水坂トンネルの上を通って水坂峠へ向かい、12時8分に峠を越える。
その先、右手に「金比羅宮と庚申塚」の説明板が立っているところから下る細道があるので、これを下っていく。中ノ川を渡ると「金比羅宮」があり、文政5年(1822)の灯籠が立っている。
この先の坂を登っていくと、道があったので、これが旧道かなと思ってウロウロしてみたが、どうも違うようだったので、元へ戻る。金比羅宮の右上に庚申塚が草に埋もれてあった。
303号線に戻って進むと、再び右手に下る細道があるので、これを下っていくと、「弁天宮」があり、天保2年(1831)の灯籠が立っている。
弁天宮を正面に見て左手に中ノ川が流れており、その川に沿って道があるのでこれを進むと、保坂の集落へ入っていく。
その先で道は二股に分かれているので、右へ橋を渡ると、橋の袂に「志ゅんれいみち・今津海道」「右 京道」「左 わ加さ道」と刻まれた安永4年(1775)の道標が立っている。
その先367号線に合流、右折して進む。右手に「六地蔵」を安置する地蔵堂がある。
この道は歩道がなく、車の通行量はかなりあるので、歩きにくい。
367号線を進んでいくと、道が二股に分かれているところがあるので、左へ進むが、その先、環境センターのあるところで再び367号線に合流する。
その先、檜峠を越えるが、ここもきれいに舗装された道だ。
しばらく367号線を進んでいくと、右へ分岐する道があるので、これを進んで朽木宿へ入っていく。
道端で水車が回っている。
左手に「織田信長の休憩地」の案内板が立っている。それによると、元亀元年(1570)織田信長は越前の朝倉氏を攻めるため、三万余の軍勢を従えて敦賀に進攻したが、湖北の浅井長政の離反によって朽木谷を通って京都へ逃れた。当時の領主・朽木元綱は信長が自領内を通ることを認めたうえ、道中の案内役も引き受けた。看板の立っているところは、元綱から接待役を命じられた長谷川茂政が、お茶とお菓子で信長をもてなしたという圓満堂の跡地という。生死の間をさまよっていた信長は、朽木家の対応に感激し、はいていた革袴と銀箸を茂政に与えたと記されている。
突当りを左折、すぐ先を右折する枡形になっているが、その突当りに昭和13年に建築されたという旧郵便局舎があり、右折した右手に「造り酒屋 松宮家住宅跡」がある。
右手に「旧商家・熊瀬家住宅」がある。熊瀬家は酒造りや醤油造りを本業とする一方で、藩の御用商人としての保護を受け、幅広い商業活動を行っていたという。
水路があるが、これは江戸時代の初めに整備されたといわれており、日常は種々の洗い物をするのに用いられ、夏には道路の打ち水として涼をとり、冬には除雪を融かすために利用され、更に火災が発生した際には消火用水として機能したという。
丸八百貨店という歴史を感じさせる建物から左折、その先を右折とここも枡形になっている道を進む。
説明板が立っている。それによるとここでは枡型とはいわず「鍵曲(かいまがり)」と呼ぶそうで、かって市場の集落内には13か所以上の鍵曲が設けられていたといわれ、現在でもその大部分が残っていると説明されている。
そのまま進んでいったが、今日の宿である安曇川荘にとりあえず荷物を置いて先に進もうと思って、宿まで引き返す。ここから先は江若バスが細川まで通じており、朽木へ帰る細川からの便は17時30分が最終である。ところが明日の朝は便がなく、朽木から細川へ向かう最初の便は12時3分しかないのだ。何かうまいアクセスはないものかと思って役所支所に行って聞くと、他に市営バスがあって朽木支所を朝8時35分に出る便があるが、その便は細川は止まらず支所前を出ると細川の先の梅ノ木のバス停までノンストップで行ってしまうそうだ。細川と梅の木の間は距離がかなりあるそうで、最悪安曇川からタクシーに来てもらって、それで細川まで行くしかないと思った。
367号線を進んでいくと、右手に「興聖寺」があり、ここに「旧秀隣寺庭園」がある。この庭は享禄元年(1528)に朽木稙綱が将軍足利義晴のために館を建てた際、築造したものと伝えられている。慶長11年(1606)朽木宣綱が亡き妻のために寺とし秀隣寺と号したが、のち朽木村野尻へ移転し、その跡地へ興聖寺が建てられたという。
ここから367号線をひたすら進んでいくと、途中左手川沿いに桑野の渡し場跡の復元作業が行われていた。
桑野橋を渡り、その先で大野、村井という集落があり、旧道はその集落の中を通っている。
朽木支所を15時21分に出たときは細川を17時30分のバスには余裕を持って乗ることができると思っていたのだが、意外に距離があって時間がかかり、ギリギリの時間になりそうだったので、先を急ぐ。このバスに乗り遅れるともう次はないのだ。周囲は次第に暮色が濃くなってきた。
そして17時20分に無事バス停に到着、この間の距離は約9.7㎞だった。バスはもうすでに到着していたので、これに乗り込む。17時30分にバスが出発したときには周囲はすでに真っ暗になっていた。つるべ落としの秋の夕暮を実感する。乗客は私一人だったため、運転手さんといろいろ話をする。それによるとこのあたりはバス停はあるものの、フリー乗降ができるそうで、手を挙げると乗せてくれるそうだ。
宿に帰り着くと、女将さんが明日の朝は息子さんの都合がつくので、細川まで車で送ってくれるということを言っていただき、とてもありがたかった。
本日の歩行時間 9時間9分。
本日の歩数&距離 50382歩、35.2km。
街道のみを歩いた場合の距離 29.1km。
旅の地図
記録
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2012年10月28日(日)
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2012年10月29日(月)
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2012年10月30日(火)
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2012年10月31日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん