2012年06月08日(金)
浪岡~大釈迦~鶴ヶ坂
曇
13時18分に青森南署前を出発する。
27号線を横断した先、右手に地蔵堂と安政5年(1858)の百万遍塔と明治15年の西国三十三番碑がある。このあたりでは百万遍塔をよく見かけるが、百万遍念仏の起こりは、元弘年間(1331年〜1334年)、京都で疫病が流行し、浄土宗本山京都智恩寺八世の善阿上人が勅命を奉じて念仏百万遍を唱えたところ、効験があったことが始まりとされている。百万遍念仏は、特に疫病退散を願う民衆によって、春・秋の彼岸の季節や疫病がはやり出すと臨時に行なわれてきたという。

左手に「加茂神社」があり、境内には安政7年(1860)の石灯籠が立っている。

左手に「白山神社」があり、入り口の社柱の下に天保6年(1835)の百万遍塔がある。

その先右手に地蔵堂があり、その横に明治26年の庚申塔、百万遍塔がある。

左手に地蔵堂と明治33年の百万遍塔がある。このあたりから先、このように地蔵堂と百万遍塔がセットになっているところが数多く存在する。

右手に「神明宮」があり、赤い鳥居が立っている。このあたりの神社は稲荷神社でもないのに、このように赤い鳥居が立っている神社が多い。境内には天保14年(1843)の庚申塔がある。

205号線を進んでいくと、左手に大釈迦郵便局があり、最初はそのまま直進したが、右手に集落の中を通る道が見えたので、引き返してそちらの道を進むと、集落の入り口左手に百万遍塔が2基ともう一基石碑がある。

その先で道は二股に分かれているので、左へ進むと左手の民家の庭に「明治天皇駐輦之地」と「明治天皇大釈迦御小休所」の二つの碑が立っていた。

このあたりでもカッコーの鳴き声が聞こえる。鶯の鳴き声もいいが、カッコーの鳴き声もなかなかいいものだ。
集落を抜けて101号線に合流するところ左手に地蔵堂と猿田彦、庚申塔が2基立っている。

右手少し入ったところに「柳久保神社」があるので、階段を上って進んでいくと、蛇が階段一杯に体を伸ばして寝転んでいる。足踏みをしたりして音を立てるのだが、一向に逃げる気配がなく、全くの無視だ。仕方がないので、迂回して先へ進む。何度見ても蛇は苦手だ。

神社の境内左手奥の小祠の前に安政5年(1858)の御神燈が立っている。松前城下泊川心天屋善兵衛と刻まれており、松前との間の交流があったことがわかる。

参拝をした後、階段を下ったが、先ほどの蛇がいない。わずかな時間しか経過していないので、まだこのあたりにいるはずだ。目の前にいるのもいやだが、姿が見えないのも気にかかる。周囲を注意しながら、急ぎ足で階段を下った。
101号線を進んでいくと、北釈迦の信号にくる。旧道はここから右斜めへ進むのだが、事前の調査ではよくわからなかったので101号線を進もうと思っていた。ところが現地に来てみると、旧道の入り口はきれいに舗装されている。それを見て迷いが出てきた。行けるところまで行ってみるか。。。
入り口の家の人がおられたので、その方に歩くことができるかどうかお聞きすると、藪になっているかもしれないが、道は一本道だという。ただ、二週間ほど前に熊が目撃されているので、注意はしたほうがいいといわれた。とにかく行ってみようと思って旧道を進む。最初は舗装された道が続いており、やがて土道になるが、道ははっきりわかる。さらに進むと森林が伐採されたようで木の切株だけが残っている。その木材を運び出したのだろう、キャタピラーの跡が道に残っているので、草は全く生えていない。ただ下り坂になったところから木材運搬のためと思われる道が縦横にできていて、どの道が旧道なのかさっぱりわからない。

これは無理とすっぱりあきらめて、元に戻り、101号線を進むことにした。
その先で7号線に合流、更にその先で7号線から右へ分岐して線路沿いに進む。
しばらく行くと「保食神社」が線路の向こう側にあるので、線路を横断していってみた。ここは踏切はなく、横断禁止の看板が立っていた。ただ、線路の向こう側には橋が架けられており、神社の入り口までは草も刈られていた。
津軽坂の牧(保食(うけもち)神社)
「津軽藩は、寛永15年(1638)南部領倉内村の牧司、倉内兵部の弟図書を知行三百石で招き、津軽坂に牧場を造りその経営に当たらせた。牧場の規模は、東西二里、南北三里、下付された馬は、牝馬十五頭、牡馬一頭であった。また、村に惣染堂(馬頭観音)を一宇建立して馬の守護神にした。寛文11年(1671)、藩主信義に良馬一頭を献納したことから、藩主の御染書が奉納され、ご神体として祭られるようになった。以後、惣染宮と改められ歴代藩主の崇拝の宮として、明治2年まで年々金一両二分を祭事費として藩から下賜された由緒のある宮であった。天保10年(1839)、藩の財政事情から牧場は閉ざされたが、二百余年間、津軽五牧の一つに数えられ馬の改良、繁殖、調教等に当たった。明治4年、惣染宮が一時廃止され、明治6年村社「保食神社」として継承された。」と記された説明板が立っている。
ここの鳥居にも縄のれんのようなしめ縄「じゃんばら」が下がっていた。
山の中を通った旧道はここに出てくるようになっているので、そちらのほうへ行ってみたが、なんとなく道の跡があるような感じではあったが、完全な藪になっていた。

17時20分に鶴ヶ坂駅に到着する。
今日は明日のゴールに立ち会ってくれる会社の仲間のうち、先発チームが青森に入っており、ここで待ち合わせをして、彼らが借りたレンタカーで青森市内まで戻る。
本日の歩行時間 4時間2分。
本日の歩数&距離 22157歩、16.3km。
13時18分に青森南署前を出発する。
27号線を横断した先、右手に地蔵堂と安政5年(1858)の百万遍塔と明治15年の西国三十三番碑がある。このあたりでは百万遍塔をよく見かけるが、百万遍念仏の起こりは、元弘年間(1331年〜1334年)、京都で疫病が流行し、浄土宗本山京都智恩寺八世の善阿上人が勅命を奉じて念仏百万遍を唱えたところ、効験があったことが始まりとされている。百万遍念仏は、特に疫病退散を願う民衆によって、春・秋の彼岸の季節や疫病がはやり出すと臨時に行なわれてきたという。

左手に「加茂神社」があり、境内には安政7年(1860)の石灯籠が立っている。

左手に「白山神社」があり、入り口の社柱の下に天保6年(1835)の百万遍塔がある。

その先右手に地蔵堂があり、その横に明治26年の庚申塔、百万遍塔がある。

左手に地蔵堂と明治33年の百万遍塔がある。このあたりから先、このように地蔵堂と百万遍塔がセットになっているところが数多く存在する。

右手に「神明宮」があり、赤い鳥居が立っている。このあたりの神社は稲荷神社でもないのに、このように赤い鳥居が立っている神社が多い。境内には天保14年(1843)の庚申塔がある。

205号線を進んでいくと、左手に大釈迦郵便局があり、最初はそのまま直進したが、右手に集落の中を通る道が見えたので、引き返してそちらの道を進むと、集落の入り口左手に百万遍塔が2基ともう一基石碑がある。

その先で道は二股に分かれているので、左へ進むと左手の民家の庭に「明治天皇駐輦之地」と「明治天皇大釈迦御小休所」の二つの碑が立っていた。

このあたりでもカッコーの鳴き声が聞こえる。鶯の鳴き声もいいが、カッコーの鳴き声もなかなかいいものだ。
集落を抜けて101号線に合流するところ左手に地蔵堂と猿田彦、庚申塔が2基立っている。

右手少し入ったところに「柳久保神社」があるので、階段を上って進んでいくと、蛇が階段一杯に体を伸ばして寝転んでいる。足踏みをしたりして音を立てるのだが、一向に逃げる気配がなく、全くの無視だ。仕方がないので、迂回して先へ進む。何度見ても蛇は苦手だ。

神社の境内左手奥の小祠の前に安政5年(1858)の御神燈が立っている。松前城下泊川心天屋善兵衛と刻まれており、松前との間の交流があったことがわかる。

参拝をした後、階段を下ったが、先ほどの蛇がいない。わずかな時間しか経過していないので、まだこのあたりにいるはずだ。目の前にいるのもいやだが、姿が見えないのも気にかかる。周囲を注意しながら、急ぎ足で階段を下った。
101号線を進んでいくと、北釈迦の信号にくる。旧道はここから右斜めへ進むのだが、事前の調査ではよくわからなかったので101号線を進もうと思っていた。ところが現地に来てみると、旧道の入り口はきれいに舗装されている。それを見て迷いが出てきた。行けるところまで行ってみるか。。。
入り口の家の人がおられたので、その方に歩くことができるかどうかお聞きすると、藪になっているかもしれないが、道は一本道だという。ただ、二週間ほど前に熊が目撃されているので、注意はしたほうがいいといわれた。とにかく行ってみようと思って旧道を進む。最初は舗装された道が続いており、やがて土道になるが、道ははっきりわかる。さらに進むと森林が伐採されたようで木の切株だけが残っている。その木材を運び出したのだろう、キャタピラーの跡が道に残っているので、草は全く生えていない。ただ下り坂になったところから木材運搬のためと思われる道が縦横にできていて、どの道が旧道なのかさっぱりわからない。

これは無理とすっぱりあきらめて、元に戻り、101号線を進むことにした。
その先で7号線に合流、更にその先で7号線から右へ分岐して線路沿いに進む。
しばらく行くと「保食神社」が線路の向こう側にあるので、線路を横断していってみた。ここは踏切はなく、横断禁止の看板が立っていた。ただ、線路の向こう側には橋が架けられており、神社の入り口までは草も刈られていた。
津軽坂の牧(保食(うけもち)神社)
「津軽藩は、寛永15年(1638)南部領倉内村の牧司、倉内兵部の弟図書を知行三百石で招き、津軽坂に牧場を造りその経営に当たらせた。牧場の規模は、東西二里、南北三里、下付された馬は、牝馬十五頭、牡馬一頭であった。また、村に惣染堂(馬頭観音)を一宇建立して馬の守護神にした。寛文11年(1671)、藩主信義に良馬一頭を献納したことから、藩主の御染書が奉納され、ご神体として祭られるようになった。以後、惣染宮と改められ歴代藩主の崇拝の宮として、明治2年まで年々金一両二分を祭事費として藩から下賜された由緒のある宮であった。天保10年(1839)、藩の財政事情から牧場は閉ざされたが、二百余年間、津軽五牧の一つに数えられ馬の改良、繁殖、調教等に当たった。明治4年、惣染宮が一時廃止され、明治6年村社「保食神社」として継承された。」と記された説明板が立っている。
ここの鳥居にも縄のれんのようなしめ縄「じゃんばら」が下がっていた。
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山の中を通った旧道はここに出てくるようになっているので、そちらのほうへ行ってみたが、なんとなく道の跡があるような感じではあったが、完全な藪になっていた。

17時20分に鶴ヶ坂駅に到着する。
今日は明日のゴールに立ち会ってくれる会社の仲間のうち、先発チームが青森に入っており、ここで待ち合わせをして、彼らが借りたレンタカーで青森市内まで戻る。
本日の歩行時間 4時間2分。
本日の歩数&距離 22157歩、16.3km。
旅の地図
記録
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2012年05月17日(木)
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2012年05月18日(金)
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2012年05月19日(土)
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2012年05月20日(日)
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2012年05月21日(月)
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2012年05月22日(火)
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2012年05月24日(木)
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2012年05月25日(金)
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2012年05月26日(土)
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2012年05月27日(日)
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2012年05月28日(月)
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2012年05月29日(火)
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2012年05月30日(水)
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2012年06月08日(金)
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2012年06月09日(土)
プロフィール

歩人
かっちゃん