2012年05月28日(月)
鷹ノ巣~綴子~長坂~早口~大館~白沢
曇時々雨
8時5分に出発する。しばらく7号線を進むと標柱が立っているので、それに従って左へ分岐する。綴子川に架かる綴子橋を渡って進むと、左手に「綴子神社」がある。ここは社伝によれば第37代斉明天皇5年(659)阿倍比羅夫将軍が宇佐神宮より八幡大神を勧請したのが始まりといわれており、境内には町指定天然記念物となっている「千年桂」がある。
右手には「宝勝寺」がある。ここは寛正4年(1463)の創建といわれ、綴子を開いた高橋八郎兵衛家と深いつながりがあったという。本堂の建築年は不明だが、山門は元文2年(1737)の創建という。
最初は宝勝寺のところから右折してしまったが、山の中の道があるということを地元の方にお聞きしたので、途中で引き返して綴子神社と宝勝寺の間の道を直進すると、右手に「明治天皇御巡幸御小憩所」碑が立っている。
そのすぐ先右手に「肝煎役所 駅馬役所跡」の標柱が立っている。
左手に「綴子肝煎屋敷 本陣跡」がある。現在は何か工場になっているようで遺構は残っていない。
その先右手に羽州街道の標柱が立っているので、右折して進むと山道になる。
-- 歩き直した道にはこのように標柱が立っていたり、いくつかの遺構があるが、歴史の道報告書を読み返してみると、私が歩き直した道に「疑問がないわけではない」として、次のように記載されていたので、参考までにここにその部分を記載させていただきます。ーー
(愛宕神社まで北上することなく宝勝寺手前から右手に折れ、そのまま下町を通って現小学校西側に出るコースがより自然だからである。大堤集落の中央部から真北に北上し、現昭和集落南端を東西にはしる脇道につながる道もあるから、多少流動的に考えたほうがよいであろう。愛宕神社を西側から北側に廻る道は、東に向きを変えたところが直線的で不自然である。しかも上町・下町の名称は、街道を基準にしたものと思われ、宝勝寺手前を右手に曲がったコースが、比較的長期に利用された公算が大きい)
杉林の中の道を進んでいくと、「綴子一里塚」跡がある。山の中の一本道を進んでいき、やがて山道を抜けると舗装道になる。その先で十字路になるが、ここには標柱が立っているので、それに従って直進する。すぐ先で道は二股に分かれているので右へ進むと、左手に「太平山」と書かれた小さな鳥居がある。道なりに進んでいくと秋田渡橋があり、この橋を渡る手前に標柱が立っている。ところが橋を渡ると道は二股に分かれており、左手はこれまで進んできた道と同様に舗装された道であり、右手の道は土道になっている。ここであまり深く考えずに左へ進んでしまった。そのまま進んでいくとだんだん山の中へ入っていく。やがてT字路に差し掛かるが、どちらへ進んでいいのかがわからない。困ったなと思っていると、何やら機械の音が聞こえた。誰か人がおられるのだ!
その音を頼りに左へ進んでいくと、一人の方が草刈りをされていたので、道をお聞きすると間違っているという。ここでも言葉がよく聞き取れないので、お願いをして旧道の入り口まで車で戻っていただくことにした。ちょっと、というか、かなり厚かましかったが、快く了承していただいたのでありがたかった。そうすると、先ほどの秋田渡橋のところまでもどり、ここから二股を右へ進むことが分かった。わざわざここまで連れて戻ってきていただいたことに感謝をして、右へ土道を進む。ところがすぐ先で道は二股に分かれており、更にその先にも山の中へ入る道があって、ここも二股に分かれている。幸いここにも農作業をされている方がおられたので、もう一度道をお聞きすると、最初の二股は右へ直進し、その先の二股も右へ進むと教えていただいた。
ただその先の道をお聞きすると「アキタコウギョウ」があり、「ラグビー」という言葉も聞こえたように思ったので、ラグビーで有名な秋田工業高校があるのだと勝手に理解してしまった。山の中の道を進んでいくと道の両側が敷地になっている会社があり、その横を進んでいく。その先で道が二股に分かれているところがあったが、右折する道はその先で藪になっており、一方左手の道は山道ではあるが、きれいな道になっているのでこれを進んでいった。この先で山を抜けると秋田工業高校があり、広いラグビーグラウンドがあると想像しながら進んでいった。ところがどこまで進んでも山の中の道で高校があるような雰囲気ではない。むしろだんだん山の奥へ入っていっている感じだ。かなり進んだところでこれはおかしいと思いだした。ただ山の中なので道を聞く人は誰もいない。仕方がないので、一旦もとに戻ることにした。山を下ってきて、先ほどの会社のところまできたので、ここで街道のことをお聞きするがだれも知らないという。「アキタコウギョウ」があるはずなのですがというと、それはうちの会社のことだという。何と「秋田興業」という会社の名前だったのだ。ラグビーと聞こえたのは私の全くの聞き間違いだったようだ。何という言葉をラグビーと聞き間違えたのかは今もって不明だ。仕方がないのでとりあえず7号線に出ようと思ってお聞きすると、この会社のすぐ前が7号線だった。7号線に出て進んでいくと、左手に羽州街道の標柱が立っているので、ここから左へ入っていくと、「戸潟神社」があった。ここから更に奥へ入っていくと、先ほど見た二股に分かれた右手に進む道に合流していることが分かった。あの藪道を右折して進んでいれば、この場所に来るとこができたのだとこの時初めて分かった。今回の羽州街道は山の中をさまようことが多い。
7号線を進んでいくと、長坂のところで標柱が立っており、7号線から分岐して左へ進む。ここも山の中の道かと思っていたが、舗装道だったのでホッとする。
左手に「長坂の一里塚」があり、アカマツが立っていて塚として現存している。羽州街道で現存している数少ない一里塚の一つだ。横に安政2年(1855)の庚申塔が立っている。
その先で7号線に合流し、早口川に架かる早口橋を渡るが、すぐ先で7号線から分岐して右へ進む。
早口踏切でJRの線路を横断して早口集落の中を通り、山瀬踏切でJRの線路を横断して集落を抜ける。集落を抜けるとすぐに道は二股に分かれているので左へ進むと、「戊辰戦争岩瀬山激戦地」の標柱が立っている。
その先右手に「岩瀬一里塚跡」碑が立っているが、ここには遺構は残っていない。
すぐ先右手に地蔵堂がある。このあたりでカミナリが鳴り出した。今日は激しい雷雨になるという予報が出ていたので、いやだなと思っていたが、幸い大した降りにはならなかったので助かった。
その先で道を間違って一本早く7号線に合流してしまった。ただここにラーメン屋があったので昼食をとり、間違ったところまで道を戻って街道を歩く。このあたりで雨が降り出した。
7号線に合流し岩田橋を渡る。左手に「小林多喜二生誕の地」の標柱が立っている。このようなものはこの先で何度も見かけた。
川口の信号を左折するが、ここに「川口神社」がある。藩政期は八幡神社と呼ばれていたが、明治になって村内の各社を合祀して川口神社と称するようになったという。神殿南側の杉は樹齢500年という。
その先で道は二股に分かれているので、右へ進むと下川沿駅があり、その前にも小林多喜二生誕之地と刻まれた石碑が立っている。
川口踏切でJRの線路を横断して進むと、右手に「立花神明社」があるが、なぜか階段の登り口にござで仕切りがしてあって階段を上ることができないようにしていた。
7号線に合流し餅田橋を渡る。
その先片山一丁目の信号で7号線から分岐して右へ進んで行くと、右手に「大館神明社」がある。ここの創建は不明だが、平安時代に起きた蝦夷の反乱である元慶の乱(878)の頃にはすでに鎮座していたといわれており、大館草創の時代からの産土神社という。境内には弘化2年(1845)の狛犬や庚申塔群がある。
神明社踏切でJRの線路を横断して進むと、左手入ったところに「玉林寺」がある。ここはこの地の豪族だった浅利氏の菩提寺で大永7年(1527)に建立され、慶長7年(1602)に現在地に移転したという。その後火災による焼失を繰り返し、現在の本堂は昭和6年に建立されたという。
街道に戻って進むと左手に「宗福寺」がある。ここは大館初代城代小場義成公の祖小場義躬公が正平16年(1361)に現在の茨城県に建立したのが始まりで、その後、慶長7年(1602)藩主佐竹公の秋田遷封にともなって小場義成公が大館に入城、元和2年(1616)に愛宕町に建立、その後現在地に移ったという。
その先で2号線から右折、その先で左折して東大川に架かる東大橋を渡り、すぐ先で右折、更にその先で左折して進む。この辺りは渡し場があったのだろうが、現在はないため、橋を渡る前、渡った後で右折、左折を繰り返す。
岱野踏切でJRの線路を横断して道なりに進むと、右手に「神明社」がある。ここは中世後期の釈迦内城館跡という。
街道は神明社の手前から左折し、乱川に架かる釈迦内橋を渡って進む。
左手に「実相寺」があり、釈迦堂がある。鎌倉幕府執権の北条時頼は愛妾唐糸の前を残して旅に出たが、その留守の間に唐糸の前がいなくなってしまった。ようやく津軽で唐糸の前を探し当てたときは唐糸の前は落ちぶれていたので、その身を恥じて身を投げて死んでしまった。時頼はこれを憐れんで懇ろに弔い、遺髪を笈に納めて旅を続けていたが、ある川を渡ろうとしたとき、一陣の風が吹き、遺髪がその川に落ちて漂って流れない。そのため時頼は釈迦像を造って祀ったのが、釈迦内の釈迦堂で、その川が乱川だったという。その後、津軽の人たちが釈迦像を持ち去ったが、矢立峠を越えようとしたとき、にわかに重くなって運べなくなってしまった。そこへこれを取り返しに来た村人がやってきて、無事元の釈迦堂に祀られ、今日に至っているという。これらのことが釈迦内の地名の由来になっているという。
長面の標識から左斜めへ分岐し、森の中の道を進む。途中萩長山登山口の階段があり、その前に鳥居が立っており、猿田彦がある。かなりの距離森の中の一本道を進み、森を抜けたところに「橋桁一里塚跡」碑が立っている。その先で7号線に合流して進んだが、少し先に羽州街道の標柱が立っており、土道があるので、そこから戻ってみると、先ほど7号線に合流したところの少し手前に左折する道があり、これを進むとここに到達することがわかった。
そのまま7号線を進み、17時31分に白沢駅に着く。ここから18時3分の電車で大館まで引き返すのだが、18時3分の次は20時26分まで電車はない。
本日の歩行時間 9時間26分。
本日の歩数&距離 55855歩、41.9km。
8時5分に出発する。しばらく7号線を進むと標柱が立っているので、それに従って左へ分岐する。綴子川に架かる綴子橋を渡って進むと、左手に「綴子神社」がある。ここは社伝によれば第37代斉明天皇5年(659)阿倍比羅夫将軍が宇佐神宮より八幡大神を勧請したのが始まりといわれており、境内には町指定天然記念物となっている「千年桂」がある。
右手には「宝勝寺」がある。ここは寛正4年(1463)の創建といわれ、綴子を開いた高橋八郎兵衛家と深いつながりがあったという。本堂の建築年は不明だが、山門は元文2年(1737)の創建という。
最初は宝勝寺のところから右折してしまったが、山の中の道があるということを地元の方にお聞きしたので、途中で引き返して綴子神社と宝勝寺の間の道を直進すると、右手に「明治天皇御巡幸御小憩所」碑が立っている。
そのすぐ先右手に「肝煎役所 駅馬役所跡」の標柱が立っている。
左手に「綴子肝煎屋敷 本陣跡」がある。現在は何か工場になっているようで遺構は残っていない。
その先右手に羽州街道の標柱が立っているので、右折して進むと山道になる。
-- 歩き直した道にはこのように標柱が立っていたり、いくつかの遺構があるが、歴史の道報告書を読み返してみると、私が歩き直した道に「疑問がないわけではない」として、次のように記載されていたので、参考までにここにその部分を記載させていただきます。ーー
(愛宕神社まで北上することなく宝勝寺手前から右手に折れ、そのまま下町を通って現小学校西側に出るコースがより自然だからである。大堤集落の中央部から真北に北上し、現昭和集落南端を東西にはしる脇道につながる道もあるから、多少流動的に考えたほうがよいであろう。愛宕神社を西側から北側に廻る道は、東に向きを変えたところが直線的で不自然である。しかも上町・下町の名称は、街道を基準にしたものと思われ、宝勝寺手前を右手に曲がったコースが、比較的長期に利用された公算が大きい)
杉林の中の道を進んでいくと、「綴子一里塚」跡がある。山の中の一本道を進んでいき、やがて山道を抜けると舗装道になる。その先で十字路になるが、ここには標柱が立っているので、それに従って直進する。すぐ先で道は二股に分かれているので右へ進むと、左手に「太平山」と書かれた小さな鳥居がある。道なりに進んでいくと秋田渡橋があり、この橋を渡る手前に標柱が立っている。ところが橋を渡ると道は二股に分かれており、左手はこれまで進んできた道と同様に舗装された道であり、右手の道は土道になっている。ここであまり深く考えずに左へ進んでしまった。そのまま進んでいくとだんだん山の中へ入っていく。やがてT字路に差し掛かるが、どちらへ進んでいいのかがわからない。困ったなと思っていると、何やら機械の音が聞こえた。誰か人がおられるのだ!
その音を頼りに左へ進んでいくと、一人の方が草刈りをされていたので、道をお聞きすると間違っているという。ここでも言葉がよく聞き取れないので、お願いをして旧道の入り口まで車で戻っていただくことにした。ちょっと、というか、かなり厚かましかったが、快く了承していただいたのでありがたかった。そうすると、先ほどの秋田渡橋のところまでもどり、ここから二股を右へ進むことが分かった。わざわざここまで連れて戻ってきていただいたことに感謝をして、右へ土道を進む。ところがすぐ先で道は二股に分かれており、更にその先にも山の中へ入る道があって、ここも二股に分かれている。幸いここにも農作業をされている方がおられたので、もう一度道をお聞きすると、最初の二股は右へ直進し、その先の二股も右へ進むと教えていただいた。
ただその先の道をお聞きすると「アキタコウギョウ」があり、「ラグビー」という言葉も聞こえたように思ったので、ラグビーで有名な秋田工業高校があるのだと勝手に理解してしまった。山の中の道を進んでいくと道の両側が敷地になっている会社があり、その横を進んでいく。その先で道が二股に分かれているところがあったが、右折する道はその先で藪になっており、一方左手の道は山道ではあるが、きれいな道になっているのでこれを進んでいった。この先で山を抜けると秋田工業高校があり、広いラグビーグラウンドがあると想像しながら進んでいった。ところがどこまで進んでも山の中の道で高校があるような雰囲気ではない。むしろだんだん山の奥へ入っていっている感じだ。かなり進んだところでこれはおかしいと思いだした。ただ山の中なので道を聞く人は誰もいない。仕方がないので、一旦もとに戻ることにした。山を下ってきて、先ほどの会社のところまできたので、ここで街道のことをお聞きするがだれも知らないという。「アキタコウギョウ」があるはずなのですがというと、それはうちの会社のことだという。何と「秋田興業」という会社の名前だったのだ。ラグビーと聞こえたのは私の全くの聞き間違いだったようだ。何という言葉をラグビーと聞き間違えたのかは今もって不明だ。仕方がないのでとりあえず7号線に出ようと思ってお聞きすると、この会社のすぐ前が7号線だった。7号線に出て進んでいくと、左手に羽州街道の標柱が立っているので、ここから左へ入っていくと、「戸潟神社」があった。ここから更に奥へ入っていくと、先ほど見た二股に分かれた右手に進む道に合流していることが分かった。あの藪道を右折して進んでいれば、この場所に来るとこができたのだとこの時初めて分かった。今回の羽州街道は山の中をさまようことが多い。
7号線を進んでいくと、長坂のところで標柱が立っており、7号線から分岐して左へ進む。ここも山の中の道かと思っていたが、舗装道だったのでホッとする。
左手に「長坂の一里塚」があり、アカマツが立っていて塚として現存している。羽州街道で現存している数少ない一里塚の一つだ。横に安政2年(1855)の庚申塔が立っている。
その先で7号線に合流し、早口川に架かる早口橋を渡るが、すぐ先で7号線から分岐して右へ進む。
早口踏切でJRの線路を横断して早口集落の中を通り、山瀬踏切でJRの線路を横断して集落を抜ける。集落を抜けるとすぐに道は二股に分かれているので左へ進むと、「戊辰戦争岩瀬山激戦地」の標柱が立っている。
その先右手に「岩瀬一里塚跡」碑が立っているが、ここには遺構は残っていない。
すぐ先右手に地蔵堂がある。このあたりでカミナリが鳴り出した。今日は激しい雷雨になるという予報が出ていたので、いやだなと思っていたが、幸い大した降りにはならなかったので助かった。
その先で道を間違って一本早く7号線に合流してしまった。ただここにラーメン屋があったので昼食をとり、間違ったところまで道を戻って街道を歩く。このあたりで雨が降り出した。
7号線に合流し岩田橋を渡る。左手に「小林多喜二生誕の地」の標柱が立っている。このようなものはこの先で何度も見かけた。
川口の信号を左折するが、ここに「川口神社」がある。藩政期は八幡神社と呼ばれていたが、明治になって村内の各社を合祀して川口神社と称するようになったという。神殿南側の杉は樹齢500年という。
その先で道は二股に分かれているので、右へ進むと下川沿駅があり、その前にも小林多喜二生誕之地と刻まれた石碑が立っている。
川口踏切でJRの線路を横断して進むと、右手に「立花神明社」があるが、なぜか階段の登り口にござで仕切りがしてあって階段を上ることができないようにしていた。
7号線に合流し餅田橋を渡る。
その先片山一丁目の信号で7号線から分岐して右へ進んで行くと、右手に「大館神明社」がある。ここの創建は不明だが、平安時代に起きた蝦夷の反乱である元慶の乱(878)の頃にはすでに鎮座していたといわれており、大館草創の時代からの産土神社という。境内には弘化2年(1845)の狛犬や庚申塔群がある。
神明社踏切でJRの線路を横断して進むと、左手入ったところに「玉林寺」がある。ここはこの地の豪族だった浅利氏の菩提寺で大永7年(1527)に建立され、慶長7年(1602)に現在地に移転したという。その後火災による焼失を繰り返し、現在の本堂は昭和6年に建立されたという。
街道に戻って進むと左手に「宗福寺」がある。ここは大館初代城代小場義成公の祖小場義躬公が正平16年(1361)に現在の茨城県に建立したのが始まりで、その後、慶長7年(1602)藩主佐竹公の秋田遷封にともなって小場義成公が大館に入城、元和2年(1616)に愛宕町に建立、その後現在地に移ったという。
その先で2号線から右折、その先で左折して東大川に架かる東大橋を渡り、すぐ先で右折、更にその先で左折して進む。この辺りは渡し場があったのだろうが、現在はないため、橋を渡る前、渡った後で右折、左折を繰り返す。
岱野踏切でJRの線路を横断して道なりに進むと、右手に「神明社」がある。ここは中世後期の釈迦内城館跡という。
街道は神明社の手前から左折し、乱川に架かる釈迦内橋を渡って進む。
左手に「実相寺」があり、釈迦堂がある。鎌倉幕府執権の北条時頼は愛妾唐糸の前を残して旅に出たが、その留守の間に唐糸の前がいなくなってしまった。ようやく津軽で唐糸の前を探し当てたときは唐糸の前は落ちぶれていたので、その身を恥じて身を投げて死んでしまった。時頼はこれを憐れんで懇ろに弔い、遺髪を笈に納めて旅を続けていたが、ある川を渡ろうとしたとき、一陣の風が吹き、遺髪がその川に落ちて漂って流れない。そのため時頼は釈迦像を造って祀ったのが、釈迦内の釈迦堂で、その川が乱川だったという。その後、津軽の人たちが釈迦像を持ち去ったが、矢立峠を越えようとしたとき、にわかに重くなって運べなくなってしまった。そこへこれを取り返しに来た村人がやってきて、無事元の釈迦堂に祀られ、今日に至っているという。これらのことが釈迦内の地名の由来になっているという。
長面の標識から左斜めへ分岐し、森の中の道を進む。途中萩長山登山口の階段があり、その前に鳥居が立っており、猿田彦がある。かなりの距離森の中の一本道を進み、森を抜けたところに「橋桁一里塚跡」碑が立っている。その先で7号線に合流して進んだが、少し先に羽州街道の標柱が立っており、土道があるので、そこから戻ってみると、先ほど7号線に合流したところの少し手前に左折する道があり、これを進むとここに到達することがわかった。
そのまま7号線を進み、17時31分に白沢駅に着く。ここから18時3分の電車で大館まで引き返すのだが、18時3分の次は20時26分まで電車はない。
本日の歩行時間 9時間26分。
本日の歩数&距離 55855歩、41.9km。
旅の地図
記録
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2012年05月17日(木)
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2012年05月18日(金)
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2012年05月19日(土)
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2012年05月20日(日)
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2012年05月21日(月)
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2012年05月22日(火)
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2012年05月24日(木)
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2012年05月25日(金)
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2012年05月26日(土)
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2012年05月27日(日)
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2012年05月28日(月)
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2012年05月29日(火)
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2012年05月30日(水)
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2012年06月08日(金)
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2012年06月09日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん