2012年05月26日(土)
森岳~田床内~鶴形
曇
8時34分に森岳駅を出発する。
昨日、「森岳寺」を見落としていたので、少し戻って見学する。ここは慶長10年(1605)に補陀寺十一世天室宗龍がこの地に開山。現在の社殿は昭和43年に再建されたものという。入り口に宝暦4年(1754)の念仏供養塔が立っている。
街道に戻って進むと、左手に山本公民館があり、その前に羽州街道の標柱が立っている。その先の信号を渡ったところにも標柱が立っており、これに従って左へ進む。このあたりは以前森岡といわれていたが、明治38年に奥羽本線が開通し、その駅名を決めるときに、岩手県の盛岡と混同しないようにということで森岳になったと資料に記載されている。
右手に「経塚」がある。館主だった池内氏の子孫が明和元年(1764)から一字一石で経文を書いて塚下1mの土中に埋め、その上に塚を建てたものという。この横に中世のものと思われる「板碑」がある。
ここはちょっとした坂になっており、飛塚坂と呼ばれている。
左手に広場があり、儀右衛門公園となっている。ここは信太儀右衛門の旧宅の跡で、津軽藩の本陣の跡とも言われているという。ここに「明治天皇御巡幸御小休所」碑が立っている。当時随員は403名いたと記されているが、当時は旅をする側も、迎える側も大変だっただろうと思う。また、これまで見てきた色々な街道にある明治天皇に関連した石碑は同じ形をしたものがほとんどだったが、このあたりの碑はそれと形が異なるものが多く、形はバラバラだ。
4号線を横断したところに「善知鳥坂」の旧道がわずかの距離残っている。
右手に「白山神社」がある。ここは天正2年(1574)に加賀から下った三浦氏が、慶長2年(1597)に建立したという。
金光寺追分があり、ここに松が一本立っている。ここは能代道との分岐点である。
ここを右へ進むと、右手に桜並木があり、8本の桜が植わっている。
その先左手に「金光寺一里塚跡」碑が立っている。
一旦4号線に合流するが、その先で道は二股に分かれているので、標柱に従って4号線から分岐して右へ進む。
左手街道から大分外れたところに「七星神社」がある。ここは豊受姫など七神を祀ることからこの名がついたという。境内には天保12年(1841)の石灯籠がある。
左手に「賽の神」があり、その先に庚申塔2基がある。
ここで4号線に合流する。その先で資料では4号線から分岐して右へ三角形を描くような形で道が通っていたとなっており、大森のバス停のところから右折する道があったので、これかなと思っていると、地元の方が通りかかったのでお聞きした。そうすると羽州街道は4号線を直進するのだといわれたので、そのまま直進した。その先で4号線が左へカーブするところまで来ると、大森柏原一里塚の標柱が4号線に沿って立っている。
ただ、右手山手の方に何やら看板が立っているのが見えたため、そちらへ行ってみると、そこが「大森柏原一里塚」の跡だった。
そのため、そこから逆に道を進んでみると、先ほどの大森のバス停に出た。結局旧道はこのバス停のところから右折し、最初の角を左折して進むと、神社(杉沢神社?)があり、後は道なりに進むと、一里塚跡があり、その先で4号線に合流する。
その先左手に赤坂旧道の入口があり、標柱が立っている。ここは入り口こそわかるものの、その先は道がなくなっているということだったので、入り口の確認だけして先に進む。
その先で左手に標柱が立っていて出口があった。ここも最初の部分のみ草が刈られていてわかるようになっている。
その先で桧山城址の道路標識があるところから右折して進む。このあたりが桧山安東氏城館跡だ。街道から少し右手に入ったところに「多宝院」がある。ここは桧山城代多賀谷氏の菩提寺で、延徳元年(1489)に創建され、慶長15年(1610)にこの地へ多賀谷氏が移ったことで、桧山に移築された。天和3年(1683)に現在地に移り、本堂は明和9年(1772)に完成したもので、山門は文化15年(1816)の建立、鐘楼は18世紀後半のものと思われるという。
街道に戻って桧山集落の中を進むと、右手階段の上に「霧山天神宮」がある。ここは以前愛宕堂があった場所で、天神宮は当初は多賀谷氏の居館にあったが、昭和27年に現在地に移ったという。菅原道真を祀っており、木の葉天神、鏡天神ともいう。
左手に多賀谷氏居館跡の標柱が立っており、その先右手に「淨明寺」がある。ここは永正年間(1504~1521)に創建され、開基の西道は安東氏の親族とも、また四世成就坊は安東実季の次男であるともいわれる桧山安東氏にゆかりのある寺院という。山門は寛永11年(1634)に建立されたもので、桧山城から払い下げられた「城下がりの門」といわれている。建築年代が明らかな薬医門としては県内最古、東北でも2番目に古く、桃山様式を残す貴重な建築物という。
ここで昼食にする。いつものおにぎりだ。この辺りには食事をするような店もコンビニもない。
その先で左折し、桧山川に架かる桧山大橋を渡り、すぐ左斜めへ進むと左手に「桧山一里塚」がある。
ここから4号線に並行して伸びる旧道を進むと、「桧山の松並木」がある。現在13本残っており、樹齢は最高が約200年と推定されているという。
この松並木が途切れたところから右折する道があるのでこれを進む。すぐ先で左折して道なりに進むと、やがて十字路がある。直進する道と左折する道は舗装されており、右へ行く道は土道だ。右手に建物がある。ここでまず道を間違えて直進してしまった。やがて土道になるが、道は続いているので山奥の方へどんどん進んでいった。
やがて池があるところまで行くと道がなくなった。これはおかしいと初めて気が付いて、ここで「羽州街道をゆく」の著者である藤原さんに電話をしようとしたが圏外だ。仕方がないので電波が届くところまで戻ってきて電話をすると、街道沿いに池はないので道を間違っているようだといわれた。電話で話をしても目印になるものが何もないのでよくわからない。しかたがないのでとりあえず最初に戻ってやり直すことにした。この段階で松並木から分岐してすでに1時間50分が経過している。結局最初の十字路を左折するのが旧道だった。坂を下っていくと田床内の集落がある。最初の家に人の顔が見えたので、もう間違うことのないようにと思って道をお聞きすると、この道が羽州街道だと教えていただいた。この先の道をお聞きしたのだが、言葉がよく聞き取れない。なんとかとにかく直進するという言葉と、以前道を間違って沢へ降りて行った人がいたということは理解できたので、それを頼りに進んでいくと、道は山の中へ入っていく。
最初に左斜めに分岐する道があるが、これは直進する。その先で道が二股に分かれている所に来る。
右手の道は直進しているが、通行止めのような感じで鎖がかかっている。
左の道は左斜めへ進んでいるので、とにかくまっすぐに進むという言葉に従って、鎖を乗り越えてしばらく進むと、右手に谷川が現れた。ここで、以前間違って沢の方へ行った人がいたという言葉を思い出して引き返す。しかし左へ進む道はどう見てもカーブしている。仕方がないので、一旦山から戻ってやり直すことにした。幸い山から出たところに人がおられたので、道をお聞きする。今度は紙に道を示す線を引いて確認を取りながらお聞きすることにした。もう半分筆談だ。そうすると先ほどの道は左へ進むことがわかり、更にその先でもう一回二股に分かれているところがあり、ここは右へ進むということが分かった。
もう今度は大丈夫だと思って進んでいくと、なんと道は金網のフェンスに突き当たって行き止まりになっている。フェンスの向こう側には道路が見える。おかしい?
この時は、ここまで来るのに何度も道を間違えていて、いい加減辟易していたので、とにかく山の中から抜け出したい、とにかく道に出たい、という気持ちが強く、ここで遮二無二フェンスを乗り越えて外に出た。道路は大分下を通っているが、よく見ると高速道路だ。これではたとえ無理をして道路まで出たところで、歩くことができない。しばしの間立ち尽くして車の流れを呆然と見ていると、気持ちが少し落ち着いてきたので、もう一回フェンスをよじ登って山の中へ戻る。ここで少し間をとることができたので、ちょっと冷静になることができた。改めて考えてみると結局最後の二股に分かれているところを間違って左へ進んでしまったということしかないので、今来た道を注意をしながら戻っていくと、
あった!
二股に分かれているところがあった!
ここは少し藪状態で、よほど注意をしなければわからない、道とはいえないような道だった。道を見つけた喜びと早く山を抜けたいという思いと、更に本当にこの道で大丈夫なのだろうかというまだ半信半疑の気持ちとがすべて重なって微妙な思いだったが、とにかくここを進んでみようと思って先を急いだ。写真の左手の道が最初に歩いた道で、右手のわずかに道らしいところが本来の街道です。
ここから藪をかき分けながら進んでいくと、ようやく山を抜け、高速道路の下に出ることができた。ここで道はT字路になっているので、ここを右へ進み、更にその先で右折し、再び高速道路の下を通る。元に戻るような感じなのだが、ここまでくると道があり、左手に坂道があるので、これを進むと、7号線に合流する。ここに羽州街道の標柱が立っている。ようやく山を抜けたのだ。心底ホッとする。
最初から書き直すと、桧山の松並木が終わったところから右折、すぐ先で左へ進み、最初の十字路を左折、田床内の集落の中へ進んでいく。集落を抜けたところから山の中へ入っていき、最初に左へ分岐する細道があるが、ここは直進する。その先で道は二股に分かれているので、ここは左へ行く。そのまま進んでいくと再び道は二股に分かれているので、ここは右へ進む。ただここはわかりにくく、注意が必要だ。
7号線に合流し、右手に少し進むと左折する道があり、ここにも標柱が立っている。左手に赤い鳥居が立っている神社がある。資料によるとここが交通神社のようだ。
時計を見ると15時50分だ。松並木から分岐して右折したところから実に3時間20分近くかかっている。この間、道がわからずに山の中でウロウロしていたのだ。
右手に「鴨巣一里塚」がある。ここは原型をとどめている。
まっすぐに伸びる旧道を進み、鶴形踏切でJRの線路を横断、すぐ先で街道から外れて右折、宮踏切でJRの線路を横断すると「鶴形神社」がある。ここは仁寿年中(851~854)に慈覚大師が草堂を結んだのが始まりといわれる古い神社で、明治時代以前は宏大寺と呼ばれる修験道場だったという。
街道に戻ると標柱が立っており、それに従ってこれまで来た道から左折すると小川が流れているので、それに沿って進んでしまった。しばらく進むと、左折する前の道に合流した。おかしいなと思っていると、地元の方がおられたので、この道が羽州街道かどうかお聞きすると、「そうだ」という返事だったので、そのまま先へ進む。ところがその先で左手に羽州街道の標柱が立っており、そこから土道が伸びている。ここが旧道なのだ。明らかに道を間違っているのだ。仕方がないのでここから逆に戻ることにする。この道は完全な山道なのだが、道はしっかりしているので、道なりに進んでいくと、鶴形の渡し場跡の説明板が立っている。それによると鶴形村に北方39カ村を担当した御役屋(役所)や米蔵があり、これらの運搬や村人たちがこの渡しを利用していたという。山を抜けたところに案内板が立っていた。ここから直進すると小川を渡り、最初に見た標柱のところに出た。最初ここまで来ずに途中で小川に沿って右折してしまったのが間違いのもとだったのだ。
ここも最初から書き直すと、
左手に標柱が立っているので、ここから左折する。
小川を渡った先の突当りに案内板がある。
ここから左折して坂を上っていくと渡し場跡の説明板が立っており、その先は山の中の一本道だ。
結局入り口に戻ってしまった。今日は富根の駅までは行くつもりにしていたのだが、何度も道を間違ってすっかり時間を浪費してしまい、時計を見ると17時4分になっている。さすがにこれから富根駅まで行くのは厳しいし、山の中をさ迷い歩いたので、クタクタに疲れ、気力も失われてしまっているので、鶴形駅で今日は終わることにする。今日まで秋田駅のところにある東横インに泊まっていたので、ここから秋田駅まで引き返す。
後で精査してみると、今日は33.5km歩いているが、間違わずにすんなり歩くと18.6kmの距離だった。随分無駄な動きをしてしまったものだ。
本日の歩行時間 8時間30分。
本日の歩数&距離 48003歩、33.5km。
8時34分に森岳駅を出発する。
昨日、「森岳寺」を見落としていたので、少し戻って見学する。ここは慶長10年(1605)に補陀寺十一世天室宗龍がこの地に開山。現在の社殿は昭和43年に再建されたものという。入り口に宝暦4年(1754)の念仏供養塔が立っている。
街道に戻って進むと、左手に山本公民館があり、その前に羽州街道の標柱が立っている。その先の信号を渡ったところにも標柱が立っており、これに従って左へ進む。このあたりは以前森岡といわれていたが、明治38年に奥羽本線が開通し、その駅名を決めるときに、岩手県の盛岡と混同しないようにということで森岳になったと資料に記載されている。
右手に「経塚」がある。館主だった池内氏の子孫が明和元年(1764)から一字一石で経文を書いて塚下1mの土中に埋め、その上に塚を建てたものという。この横に中世のものと思われる「板碑」がある。
ここはちょっとした坂になっており、飛塚坂と呼ばれている。
左手に広場があり、儀右衛門公園となっている。ここは信太儀右衛門の旧宅の跡で、津軽藩の本陣の跡とも言われているという。ここに「明治天皇御巡幸御小休所」碑が立っている。当時随員は403名いたと記されているが、当時は旅をする側も、迎える側も大変だっただろうと思う。また、これまで見てきた色々な街道にある明治天皇に関連した石碑は同じ形をしたものがほとんどだったが、このあたりの碑はそれと形が異なるものが多く、形はバラバラだ。
4号線を横断したところに「善知鳥坂」の旧道がわずかの距離残っている。
右手に「白山神社」がある。ここは天正2年(1574)に加賀から下った三浦氏が、慶長2年(1597)に建立したという。
金光寺追分があり、ここに松が一本立っている。ここは能代道との分岐点である。
ここを右へ進むと、右手に桜並木があり、8本の桜が植わっている。
その先左手に「金光寺一里塚跡」碑が立っている。
一旦4号線に合流するが、その先で道は二股に分かれているので、標柱に従って4号線から分岐して右へ進む。
左手街道から大分外れたところに「七星神社」がある。ここは豊受姫など七神を祀ることからこの名がついたという。境内には天保12年(1841)の石灯籠がある。
左手に「賽の神」があり、その先に庚申塔2基がある。
ここで4号線に合流する。その先で資料では4号線から分岐して右へ三角形を描くような形で道が通っていたとなっており、大森のバス停のところから右折する道があったので、これかなと思っていると、地元の方が通りかかったのでお聞きした。そうすると羽州街道は4号線を直進するのだといわれたので、そのまま直進した。その先で4号線が左へカーブするところまで来ると、大森柏原一里塚の標柱が4号線に沿って立っている。
ただ、右手山手の方に何やら看板が立っているのが見えたため、そちらへ行ってみると、そこが「大森柏原一里塚」の跡だった。
そのため、そこから逆に道を進んでみると、先ほどの大森のバス停に出た。結局旧道はこのバス停のところから右折し、最初の角を左折して進むと、神社(杉沢神社?)があり、後は道なりに進むと、一里塚跡があり、その先で4号線に合流する。
その先左手に赤坂旧道の入口があり、標柱が立っている。ここは入り口こそわかるものの、その先は道がなくなっているということだったので、入り口の確認だけして先に進む。
その先で左手に標柱が立っていて出口があった。ここも最初の部分のみ草が刈られていてわかるようになっている。
その先で桧山城址の道路標識があるところから右折して進む。このあたりが桧山安東氏城館跡だ。街道から少し右手に入ったところに「多宝院」がある。ここは桧山城代多賀谷氏の菩提寺で、延徳元年(1489)に創建され、慶長15年(1610)にこの地へ多賀谷氏が移ったことで、桧山に移築された。天和3年(1683)に現在地に移り、本堂は明和9年(1772)に完成したもので、山門は文化15年(1816)の建立、鐘楼は18世紀後半のものと思われるという。
街道に戻って桧山集落の中を進むと、右手階段の上に「霧山天神宮」がある。ここは以前愛宕堂があった場所で、天神宮は当初は多賀谷氏の居館にあったが、昭和27年に現在地に移ったという。菅原道真を祀っており、木の葉天神、鏡天神ともいう。
左手に多賀谷氏居館跡の標柱が立っており、その先右手に「淨明寺」がある。ここは永正年間(1504~1521)に創建され、開基の西道は安東氏の親族とも、また四世成就坊は安東実季の次男であるともいわれる桧山安東氏にゆかりのある寺院という。山門は寛永11年(1634)に建立されたもので、桧山城から払い下げられた「城下がりの門」といわれている。建築年代が明らかな薬医門としては県内最古、東北でも2番目に古く、桃山様式を残す貴重な建築物という。
ここで昼食にする。いつものおにぎりだ。この辺りには食事をするような店もコンビニもない。
その先で左折し、桧山川に架かる桧山大橋を渡り、すぐ左斜めへ進むと左手に「桧山一里塚」がある。
ここから4号線に並行して伸びる旧道を進むと、「桧山の松並木」がある。現在13本残っており、樹齢は最高が約200年と推定されているという。
この松並木が途切れたところから右折する道があるのでこれを進む。すぐ先で左折して道なりに進むと、やがて十字路がある。直進する道と左折する道は舗装されており、右へ行く道は土道だ。右手に建物がある。ここでまず道を間違えて直進してしまった。やがて土道になるが、道は続いているので山奥の方へどんどん進んでいった。
やがて池があるところまで行くと道がなくなった。これはおかしいと初めて気が付いて、ここで「羽州街道をゆく」の著者である藤原さんに電話をしようとしたが圏外だ。仕方がないので電波が届くところまで戻ってきて電話をすると、街道沿いに池はないので道を間違っているようだといわれた。電話で話をしても目印になるものが何もないのでよくわからない。しかたがないのでとりあえず最初に戻ってやり直すことにした。この段階で松並木から分岐してすでに1時間50分が経過している。結局最初の十字路を左折するのが旧道だった。坂を下っていくと田床内の集落がある。最初の家に人の顔が見えたので、もう間違うことのないようにと思って道をお聞きすると、この道が羽州街道だと教えていただいた。この先の道をお聞きしたのだが、言葉がよく聞き取れない。なんとかとにかく直進するという言葉と、以前道を間違って沢へ降りて行った人がいたということは理解できたので、それを頼りに進んでいくと、道は山の中へ入っていく。
最初に左斜めに分岐する道があるが、これは直進する。その先で道が二股に分かれている所に来る。
右手の道は直進しているが、通行止めのような感じで鎖がかかっている。
左の道は左斜めへ進んでいるので、とにかくまっすぐに進むという言葉に従って、鎖を乗り越えてしばらく進むと、右手に谷川が現れた。ここで、以前間違って沢の方へ行った人がいたという言葉を思い出して引き返す。しかし左へ進む道はどう見てもカーブしている。仕方がないので、一旦山から戻ってやり直すことにした。幸い山から出たところに人がおられたので、道をお聞きする。今度は紙に道を示す線を引いて確認を取りながらお聞きすることにした。もう半分筆談だ。そうすると先ほどの道は左へ進むことがわかり、更にその先でもう一回二股に分かれているところがあり、ここは右へ進むということが分かった。
もう今度は大丈夫だと思って進んでいくと、なんと道は金網のフェンスに突き当たって行き止まりになっている。フェンスの向こう側には道路が見える。おかしい?
この時は、ここまで来るのに何度も道を間違えていて、いい加減辟易していたので、とにかく山の中から抜け出したい、とにかく道に出たい、という気持ちが強く、ここで遮二無二フェンスを乗り越えて外に出た。道路は大分下を通っているが、よく見ると高速道路だ。これではたとえ無理をして道路まで出たところで、歩くことができない。しばしの間立ち尽くして車の流れを呆然と見ていると、気持ちが少し落ち着いてきたので、もう一回フェンスをよじ登って山の中へ戻る。ここで少し間をとることができたので、ちょっと冷静になることができた。改めて考えてみると結局最後の二股に分かれているところを間違って左へ進んでしまったということしかないので、今来た道を注意をしながら戻っていくと、
あった!
二股に分かれているところがあった!
ここは少し藪状態で、よほど注意をしなければわからない、道とはいえないような道だった。道を見つけた喜びと早く山を抜けたいという思いと、更に本当にこの道で大丈夫なのだろうかというまだ半信半疑の気持ちとがすべて重なって微妙な思いだったが、とにかくここを進んでみようと思って先を急いだ。写真の左手の道が最初に歩いた道で、右手のわずかに道らしいところが本来の街道です。
ここから藪をかき分けながら進んでいくと、ようやく山を抜け、高速道路の下に出ることができた。ここで道はT字路になっているので、ここを右へ進み、更にその先で右折し、再び高速道路の下を通る。元に戻るような感じなのだが、ここまでくると道があり、左手に坂道があるので、これを進むと、7号線に合流する。ここに羽州街道の標柱が立っている。ようやく山を抜けたのだ。心底ホッとする。
最初から書き直すと、桧山の松並木が終わったところから右折、すぐ先で左へ進み、最初の十字路を左折、田床内の集落の中へ進んでいく。集落を抜けたところから山の中へ入っていき、最初に左へ分岐する細道があるが、ここは直進する。その先で道は二股に分かれているので、ここは左へ行く。そのまま進んでいくと再び道は二股に分かれているので、ここは右へ進む。ただここはわかりにくく、注意が必要だ。
7号線に合流し、右手に少し進むと左折する道があり、ここにも標柱が立っている。左手に赤い鳥居が立っている神社がある。資料によるとここが交通神社のようだ。
時計を見ると15時50分だ。松並木から分岐して右折したところから実に3時間20分近くかかっている。この間、道がわからずに山の中でウロウロしていたのだ。
右手に「鴨巣一里塚」がある。ここは原型をとどめている。
まっすぐに伸びる旧道を進み、鶴形踏切でJRの線路を横断、すぐ先で街道から外れて右折、宮踏切でJRの線路を横断すると「鶴形神社」がある。ここは仁寿年中(851~854)に慈覚大師が草堂を結んだのが始まりといわれる古い神社で、明治時代以前は宏大寺と呼ばれる修験道場だったという。
街道に戻ると標柱が立っており、それに従ってこれまで来た道から左折すると小川が流れているので、それに沿って進んでしまった。しばらく進むと、左折する前の道に合流した。おかしいなと思っていると、地元の方がおられたので、この道が羽州街道かどうかお聞きすると、「そうだ」という返事だったので、そのまま先へ進む。ところがその先で左手に羽州街道の標柱が立っており、そこから土道が伸びている。ここが旧道なのだ。明らかに道を間違っているのだ。仕方がないのでここから逆に戻ることにする。この道は完全な山道なのだが、道はしっかりしているので、道なりに進んでいくと、鶴形の渡し場跡の説明板が立っている。それによると鶴形村に北方39カ村を担当した御役屋(役所)や米蔵があり、これらの運搬や村人たちがこの渡しを利用していたという。山を抜けたところに案内板が立っていた。ここから直進すると小川を渡り、最初に見た標柱のところに出た。最初ここまで来ずに途中で小川に沿って右折してしまったのが間違いのもとだったのだ。
ここも最初から書き直すと、
左手に標柱が立っているので、ここから左折する。
小川を渡った先の突当りに案内板がある。
ここから左折して坂を上っていくと渡し場跡の説明板が立っており、その先は山の中の一本道だ。
結局入り口に戻ってしまった。今日は富根の駅までは行くつもりにしていたのだが、何度も道を間違ってすっかり時間を浪費してしまい、時計を見ると17時4分になっている。さすがにこれから富根駅まで行くのは厳しいし、山の中をさ迷い歩いたので、クタクタに疲れ、気力も失われてしまっているので、鶴形駅で今日は終わることにする。今日まで秋田駅のところにある東横インに泊まっていたので、ここから秋田駅まで引き返す。
後で精査してみると、今日は33.5km歩いているが、間違わずにすんなり歩くと18.6kmの距離だった。随分無駄な動きをしてしまったものだ。
本日の歩行時間 8時間30分。
本日の歩数&距離 48003歩、33.5km。
旅の地図
記録
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2012年05月17日(木)
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2012年05月18日(金)
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2012年05月28日(月)
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2012年06月09日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん