2012年05月25日(金)
大久保~下虻川~大川~森岳駅
晴
8時3分に大久保駅を出発する。104号線を進んでいくと、豊川橋の手前で道は二股に分かれており、その分岐点の右手に「姉こ石」がある。諸国巡礼の若い娘がこの地で倒れたという伝承があるという。
ここを左へ進むと、左手に「下蛇川神明社」がある。ここは寛文4年(1664)二代藩主義隆が建立したといわれており、境内には彼が植えたという槻の大木が二本立っている。
下虻川は津軽氏の参勤交代に際し、大久保村と半月交代で宿駅を務めたといい、また藩主の鷹狩の際の御休所もあったという。
右手に東伝寺を見ながら進むと、左手に庚申塔が6基ならんでいる。
その先右手に「飯塚神明社観音堂」がある。これは室町時代末期に八郎潟東岸で建立されたのち、現在地に移転したと考えられており、享保19年(1734)の銘がある棟札が残っているので、江戸中期に再建されたものと考えられているという。国の重要文化財に指定されている。
その横に「板碑」がある。板碑は地位の高い人を弔う墓石かまたは供養塔として建てられるもので、この板碑には貞和3年(1347)と刻まれている。これは北朝の年号で、この頃この一帯を支配していた安東氏勢力下の土豪が建立したものと考えられているが、当時の八郎湖岸一帯は足利氏の北朝勢力下にあったことを示す重要な遺物となっている。ここには他に天保6年(1835)の手水鉢がある。
ここで道は二股に分かれているので、104号から分岐して左へ進む。このあたりに一里塚があったそうだが、遺構は何も残っていない。
右手に「小玉家住宅」があり、潟上市重要文化財になっている。小玉家は、小玉醸造株式会社の創業家で、家業のかたわら奥羽本線羽後飯塚駅や郵便局・銀行出張所の誘致、耕地整理などを手がけ、地域の振興に尽力したという。小玉家住宅は、約4,548平方メートルの敷地の周囲に堀と石塀を廻らし、敷地中央に主屋が建ち、北西側に文庫蔵、米蔵、車庫を配している。その先に小玉醸造がある。
7号線を横断した右手に「上堤敷のけやき」が立っており、これは潟上市の天然記念物に指定されている。
右手に「神明社」があり、弘化2年(1845)の金毘羅大権現碑等の石碑が立っている。
井川に架かる井川橋を渡って進み、その先で7号線に合流する。
その先右手に「一里塚跡」碑が立っている。
大川三叉路の信号で7号線から分岐して左へ進み、大川踏切でJRの線路を横断する。馬場目川に架かる竜馬橋を渡って進むと、右手少し入ったところに一日市神社があり、更に進んでいくと右手に「諏訪神社」がある。入り口に欅の大木が立っているこの神社の棟札には「宝永4年(1707)造立諏訪堂二世」と記されていることから、一世の諏訪堂は江戸時代初期にはすでに現在地にあったものと推定されている。
すぐ先左手に「一里塚」碑が立っている。
夜叉袋踏切でJRの線路を横断し、その先で7号線を横断する形で右斜めに伸びる砂利道を進む。JRの線路と平行して進み、三倉鼻踏切でJRの線路を横断、その先で7号線に合流する。
7号線を進み、北緯40度の看板が立っているところから左斜めに分岐する道を進み、浜鯉川集落に入っていく。ここには標柱が立っている。その先で集落を抜けて7号線に合流したところに「庚申塔と大漁記念之碑」が立っている。
道の駅「ことおか」があったので、ここで食事をしようと思っていたのだが、なんと食堂は本日休日だ。仕方がないのでパンを買って食べるが、パンを売っていてよかった!というべきか。
すぐ先で7号線から左へ分岐して、7号線と並行して伸びる道を進む。
右手に文久と読める太平山碑、寛政と読むことができる庚申塔、他に庚申塔1基と金毘羅山碑があり、その横に「一里塚跡」碑がある。
右手に民俗資料館があり、その前の道路沿いに「従是千六百弐拾間鹿渡村丁場」と刻まれた石柱が立っている。これは付近の堤を埋め立てた際に土手から発見されたそうで、藩政期の道普請の持場を定めた標柱だろうということだ。ただ元あった場所は不明ということだ。
右手に「松庵寺」がある。ここは天文年間(1532~54)補陀寺八世察心寿鑑が開基したと云われており、宝永年間(1704~11)に現地に移ったという。
その先、右に入ったところに「鹿渡神社」がある。ここは明治43年に近郷の諸社十数社を合祀して村社になったという。
その先、右手に小祠と弘化3年(1846)の庚申塔と3基の石碑がある。
右手に「神明社」があり、境内に文化10年(1813)、文化4年(1807)、天保、文政と刻まれた庚申塔がある。
さらに進むと右手に「龍江寺」がある。ここは慶安3年(1650)に秋田の天徳寺十一世鑑察和尚が創建したと伝えられており、境内には文化年間のものと思われる大型の宝篋印塔が立っている。
新屋敷橋バス停のあるところに標柱が立っているので、それに従って右へ進む。
右に「一里塚跡」碑が立っており、江戸から154里と記されている。
秋田自動車道の高架下の先で道は二股に分かれているので、右へ進み、JRの線路に突き当たるので、階段でこれを横断する。
左手に羽州街道の標柱と庚申塔が立っている。
右手に「林崎一里塚」碑が立っている。
左手に地蔵尊8体を安置する地蔵堂がある。
三種川に架かる歌橋を渡り、15時23分に森岳駅に着く。
本日の歩行時間 7時間20分。
本日の歩数&距離 42755歩、30.4km。
8時3分に大久保駅を出発する。104号線を進んでいくと、豊川橋の手前で道は二股に分かれており、その分岐点の右手に「姉こ石」がある。諸国巡礼の若い娘がこの地で倒れたという伝承があるという。
ここを左へ進むと、左手に「下蛇川神明社」がある。ここは寛文4年(1664)二代藩主義隆が建立したといわれており、境内には彼が植えたという槻の大木が二本立っている。
下虻川は津軽氏の参勤交代に際し、大久保村と半月交代で宿駅を務めたといい、また藩主の鷹狩の際の御休所もあったという。
右手に東伝寺を見ながら進むと、左手に庚申塔が6基ならんでいる。
その先右手に「飯塚神明社観音堂」がある。これは室町時代末期に八郎潟東岸で建立されたのち、現在地に移転したと考えられており、享保19年(1734)の銘がある棟札が残っているので、江戸中期に再建されたものと考えられているという。国の重要文化財に指定されている。
その横に「板碑」がある。板碑は地位の高い人を弔う墓石かまたは供養塔として建てられるもので、この板碑には貞和3年(1347)と刻まれている。これは北朝の年号で、この頃この一帯を支配していた安東氏勢力下の土豪が建立したものと考えられているが、当時の八郎湖岸一帯は足利氏の北朝勢力下にあったことを示す重要な遺物となっている。ここには他に天保6年(1835)の手水鉢がある。
ここで道は二股に分かれているので、104号から分岐して左へ進む。このあたりに一里塚があったそうだが、遺構は何も残っていない。
右手に「小玉家住宅」があり、潟上市重要文化財になっている。小玉家は、小玉醸造株式会社の創業家で、家業のかたわら奥羽本線羽後飯塚駅や郵便局・銀行出張所の誘致、耕地整理などを手がけ、地域の振興に尽力したという。小玉家住宅は、約4,548平方メートルの敷地の周囲に堀と石塀を廻らし、敷地中央に主屋が建ち、北西側に文庫蔵、米蔵、車庫を配している。その先に小玉醸造がある。
7号線を横断した右手に「上堤敷のけやき」が立っており、これは潟上市の天然記念物に指定されている。
右手に「神明社」があり、弘化2年(1845)の金毘羅大権現碑等の石碑が立っている。
井川に架かる井川橋を渡って進み、その先で7号線に合流する。
その先右手に「一里塚跡」碑が立っている。
大川三叉路の信号で7号線から分岐して左へ進み、大川踏切でJRの線路を横断する。馬場目川に架かる竜馬橋を渡って進むと、右手少し入ったところに一日市神社があり、更に進んでいくと右手に「諏訪神社」がある。入り口に欅の大木が立っているこの神社の棟札には「宝永4年(1707)造立諏訪堂二世」と記されていることから、一世の諏訪堂は江戸時代初期にはすでに現在地にあったものと推定されている。
すぐ先左手に「一里塚」碑が立っている。
夜叉袋踏切でJRの線路を横断し、その先で7号線を横断する形で右斜めに伸びる砂利道を進む。JRの線路と平行して進み、三倉鼻踏切でJRの線路を横断、その先で7号線に合流する。
7号線を進み、北緯40度の看板が立っているところから左斜めに分岐する道を進み、浜鯉川集落に入っていく。ここには標柱が立っている。その先で集落を抜けて7号線に合流したところに「庚申塔と大漁記念之碑」が立っている。
道の駅「ことおか」があったので、ここで食事をしようと思っていたのだが、なんと食堂は本日休日だ。仕方がないのでパンを買って食べるが、パンを売っていてよかった!というべきか。
すぐ先で7号線から左へ分岐して、7号線と並行して伸びる道を進む。
右手に文久と読める太平山碑、寛政と読むことができる庚申塔、他に庚申塔1基と金毘羅山碑があり、その横に「一里塚跡」碑がある。
右手に民俗資料館があり、その前の道路沿いに「従是千六百弐拾間鹿渡村丁場」と刻まれた石柱が立っている。これは付近の堤を埋め立てた際に土手から発見されたそうで、藩政期の道普請の持場を定めた標柱だろうということだ。ただ元あった場所は不明ということだ。
右手に「松庵寺」がある。ここは天文年間(1532~54)補陀寺八世察心寿鑑が開基したと云われており、宝永年間(1704~11)に現地に移ったという。
その先、右に入ったところに「鹿渡神社」がある。ここは明治43年に近郷の諸社十数社を合祀して村社になったという。
その先、右手に小祠と弘化3年(1846)の庚申塔と3基の石碑がある。
右手に「神明社」があり、境内に文化10年(1813)、文化4年(1807)、天保、文政と刻まれた庚申塔がある。
さらに進むと右手に「龍江寺」がある。ここは慶安3年(1650)に秋田の天徳寺十一世鑑察和尚が創建したと伝えられており、境内には文化年間のものと思われる大型の宝篋印塔が立っている。
新屋敷橋バス停のあるところに標柱が立っているので、それに従って右へ進む。
右に「一里塚跡」碑が立っており、江戸から154里と記されている。
秋田自動車道の高架下の先で道は二股に分かれているので、右へ進み、JRの線路に突き当たるので、階段でこれを横断する。
左手に羽州街道の標柱と庚申塔が立っている。
右手に「林崎一里塚」碑が立っている。
左手に地蔵尊8体を安置する地蔵堂がある。
三種川に架かる歌橋を渡り、15時23分に森岳駅に着く。
本日の歩行時間 7時間20分。
本日の歩数&距離 42755歩、30.4km。
旅の地図
記録
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2012年05月17日(木)
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2012年05月18日(金)
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2012年05月19日(土)
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2012年05月20日(日)
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2012年05月21日(月)
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2012年05月22日(火)
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2012年05月24日(木)
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2012年05月25日(金)
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2012年05月26日(土)
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2012年05月27日(日)
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2012年05月28日(月)
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2012年05月29日(火)
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2012年05月30日(水)
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2012年06月08日(金)
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2012年06月09日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん