2012年04月27日(金)
尾花沢~名木沢~舟形~南新庄
晴れ
朝、宿から大石田駅へ向かうタクシーの中で運転手さんから聞いた話では、尾花沢は雪が多く、3mほどは積もるそうで、今年は特に雪が多く、つい一週間前までかなり雪が残っていたといっていた。たしかに道の端にはまだかなりの雪が残っており、そのため名産のスイカの作付けができなくて農家は困っているそうだ。
8時10分に昨日歩いた芦沢駅を出発、その先で街道に合流する。
左手に「長泉寺」がある。入り口に文政9年(1826)の百万遍供養塔が立っており、境内には嘉永7年(1854)の庚申塔や文化3年(1806)の三界万霊他が立っている。
右手に名木沢宿の本陣(織部氏)だった国分氏の住宅がある。ちょうどご主人が家の前に出ておられたので、しばらくの間お話を伺うことができた。本陣の前に関所があり、以前は織部館と呼ばれていたという。
その先で道は二股に分かれており、13号線から分岐して左へ進むと、左手に脇本陣だった矢部氏宅がある。難所の猿羽根峠を控える名木沢宿は佐竹氏が特に力を入れた宿場だったという。
その先左手に「一本杉」が立っている。ここは第15代応神天皇の第二王子大山守の命が王位継承に関し謀反を起こし追われる身となったが、新庄で捕えられた。大山守の命は「わが身を七刀に切って都に似た土地に葬ってくれ」と遺言を残した。しかし追討使が誤って王子の身を八つに切ってしまい、そのうちの七つの身はそれぞれ新庄近在に七所明神として祀られているが、残りの一片はこの地に投げ捨てられ、一本の杉を植えて追討使は立ち去ったという。そのことからこの一本杉が名木沢七所神社の元宮とし、この地を投げ沢と呼んでいたという。杉は途中から七本の枝に分かれ、大きくそびえている。
右手に安政と刻まれた庚申塔が立っている。
その先で猿羽根峠を越える旧道があるのだが、上山でお会いした富樫さんからこの地の方に連絡を取っていただいた。その結果旧道は今は誰も通らない道なので、まだ雪が残っていて歩くことができないということをだったので、旧道を歩くことを断念し、13号線を進むことにする。左手には最上川が流れており、かなりの急流だ。「五月雨を集めて速し最上川」の句が浮かぶ。岸にはまだかなり雪が残っている。右手の猿羽根峠を見ても雪が残っており、歩かなかったのは正解だったと思った。
猿羽根トンネルを抜けたところから13号線から分岐して左斜めへ進む。ところがその先でまた雪が積もっていて先へ進めない。仕方がないので引き返して13号線を進んだが、歩きながら左手のほうを注意してみていると、先ほど歩いた道は線路を横断して13号線に合流する道がないようで、、結局13号線を歩くしかできなかったようだ。
舟形宿に入るが、「本陣商店」の看板が上がった家があり、ここが舟形宿の本陣だった伊藤家だ。
右手に「定泉寺」がある。ここは戊辰戦争の新庄舟形口決戦で戦死した新庄藩士3名のお墓がある。
一旦13号線に合流して舟形橋をわたり、その先で再び13号線から左斜めへ分岐して欅坂を進む。このあたりが戊辰戦争舟形口決戦のあったところだ。羽州街道踏切でJRの線路を横断、その先で13号線に合流、10時52分に南新庄駅に着く。ここから新庄駅へ移動、その後羽田経由で九州に帰る。
本日の歩行時間 2時間42分。
本日の歩数&距離 17238歩、11.3km。
羽州街道(桑折~南新庄)合計
総歩行時間 42時間21分。
総歩数 218946歩。
総歩行距離 153.1km。
羽州街道純距離 136.9km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離で、金山峠は13号線を下った距離、立石寺分は除外しています)
朝、宿から大石田駅へ向かうタクシーの中で運転手さんから聞いた話では、尾花沢は雪が多く、3mほどは積もるそうで、今年は特に雪が多く、つい一週間前までかなり雪が残っていたといっていた。たしかに道の端にはまだかなりの雪が残っており、そのため名産のスイカの作付けができなくて農家は困っているそうだ。
8時10分に昨日歩いた芦沢駅を出発、その先で街道に合流する。
左手に「長泉寺」がある。入り口に文政9年(1826)の百万遍供養塔が立っており、境内には嘉永7年(1854)の庚申塔や文化3年(1806)の三界万霊他が立っている。
右手に名木沢宿の本陣(織部氏)だった国分氏の住宅がある。ちょうどご主人が家の前に出ておられたので、しばらくの間お話を伺うことができた。本陣の前に関所があり、以前は織部館と呼ばれていたという。
その先で道は二股に分かれており、13号線から分岐して左へ進むと、左手に脇本陣だった矢部氏宅がある。難所の猿羽根峠を控える名木沢宿は佐竹氏が特に力を入れた宿場だったという。
その先左手に「一本杉」が立っている。ここは第15代応神天皇の第二王子大山守の命が王位継承に関し謀反を起こし追われる身となったが、新庄で捕えられた。大山守の命は「わが身を七刀に切って都に似た土地に葬ってくれ」と遺言を残した。しかし追討使が誤って王子の身を八つに切ってしまい、そのうちの七つの身はそれぞれ新庄近在に七所明神として祀られているが、残りの一片はこの地に投げ捨てられ、一本の杉を植えて追討使は立ち去ったという。そのことからこの一本杉が名木沢七所神社の元宮とし、この地を投げ沢と呼んでいたという。杉は途中から七本の枝に分かれ、大きくそびえている。
右手に安政と刻まれた庚申塔が立っている。
その先で猿羽根峠を越える旧道があるのだが、上山でお会いした富樫さんからこの地の方に連絡を取っていただいた。その結果旧道は今は誰も通らない道なので、まだ雪が残っていて歩くことができないということをだったので、旧道を歩くことを断念し、13号線を進むことにする。左手には最上川が流れており、かなりの急流だ。「五月雨を集めて速し最上川」の句が浮かぶ。岸にはまだかなり雪が残っている。右手の猿羽根峠を見ても雪が残っており、歩かなかったのは正解だったと思った。
猿羽根トンネルを抜けたところから13号線から分岐して左斜めへ進む。ところがその先でまた雪が積もっていて先へ進めない。仕方がないので引き返して13号線を進んだが、歩きながら左手のほうを注意してみていると、先ほど歩いた道は線路を横断して13号線に合流する道がないようで、、結局13号線を歩くしかできなかったようだ。
舟形宿に入るが、「本陣商店」の看板が上がった家があり、ここが舟形宿の本陣だった伊藤家だ。
右手に「定泉寺」がある。ここは戊辰戦争の新庄舟形口決戦で戦死した新庄藩士3名のお墓がある。
一旦13号線に合流して舟形橋をわたり、その先で再び13号線から左斜めへ分岐して欅坂を進む。このあたりが戊辰戦争舟形口決戦のあったところだ。羽州街道踏切でJRの線路を横断、その先で13号線に合流、10時52分に南新庄駅に着く。ここから新庄駅へ移動、その後羽田経由で九州に帰る。
本日の歩行時間 2時間42分。
本日の歩数&距離 17238歩、11.3km。
羽州街道(桑折~南新庄)合計
総歩行時間 42時間21分。
総歩数 218946歩。
総歩行距離 153.1km。
羽州街道純距離 136.9km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離で、金山峠は13号線を下った距離、立石寺分は除外しています)
旅の地図
記録
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2012年04月23日(月)
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2012年04月24日(火)
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2012年04月25日(水)
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2012年04月26日(木)
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2012年04月27日(金)
プロフィール
歩人
かっちゃん