羽州街道(桑折~南新庄)を歩く

2012年04月23日(月) ~2012年04月27日(金)
総歩数:218946歩 総距離:153.1km

2012年04月26日(木)

天童~六田~宮崎~楯岡~本飯田~土生田~尾花沢

                                    曇りのち雨

 7時8分に出発する。
今日も一直線に伸びている22号線を進む。倉津川に架かる多嘉橋を渡って進むと、右手に「熊野神社」がある。この神社は以前久野本字中道にあって、慶長のころ羽州街道ができてから、この地に移築されたという。大名通行や巡検使等の通行があると、村役人等がこの熊野神社まで出迎えたという。境内には樹齢600年と推定されている大ケヤキが立っている。
熊野神社2
 乱川に架かる万代橋の手前右手に嘉永6年(1853)の「万界供養、草木供養塔」が立っている。この草木供養塔はこれまで東北地方では山形県の置賜地方にだけあるといわれており、40数基確認されている珍しい石碑という。
草木供養塔2
 神町南のバス停のところに街道の松並木を思わせる5本の松が立っている。
 右手に5体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
右手神町公民館の横に「明治天皇駐輦記念碑」が立っている。
その先、左手に地蔵尊3体を安置する地蔵堂がある。
東根の松並木跡があり、一本だけ松が残っている。これは「相生の松」と呼ばれている。
相生の松2
 左手に入ったところに「與次郎稲荷神社」がある。ここは秋田藩の城主佐竹義宣につかえていた飛脚那珂與次郎が六田宿で殺された霊を供養するために建てられたもので、鳥居は最上三大鳥居の一つといわれており、背が低く、柱が太いずんぐりむっくりの鳥居だ。
與次郎稲荷神社2
 左手に「六田宿蟹沢街道辻 名水だんご屋の水」がある。奥州の山脈を水源として流れる乱川、野川、白水川は日本でも有数の複河扇状地を作り、最上川近くになると湧水群として噴出している。その一つが六田の地にもあって、昔は宿場町六田の佐竹井戸と呼ばれ、秋田佐竹藩の殿様が参勤交代の折りに飲んでいたという。
名水だんご屋の水2
 左手に「春日神社」がある。ここは藤原藤房郷にゆかりのある神社で、お参りをすると風邪をひかないといわれているという。
春日神社2
 右手に「佐竹八幡」という小祠がある。秋田佐竹藩が参勤交代でこの六田宿を通った際、急病になって傳右衛門宅で養生された。その後回復をして無事江戸に着かれたが、その帰途、手厚い介護に感謝して八幡様の御神体を授けられたので、傳右衛門は屋敷の南に祠を建てて、佐竹八幡と称したという。
佐竹八幡2
 六田宿と宮崎宿の境だった白水川に架かる白水川橋の手前右手に「観音堂」がある。 元禄の頃(1700年代)白水川の上流から流れ着いた石仏を祀り、白水川観音堂を建立したという。嘉永2年(1849)の俳額があるという。最近では信心深い老人の往生した姿を見て、コロリ観音とも呼ばれている。龍の天井絵があるそうだが、見る事はできなかった。
右手に観音堂2
 楯岡宿に入るが、現在の村山郵便局があったところが本陣の跡だ。 天童から六田、宮崎、楯岡、本飯田、土生田と続く村山六ケ宿のうち、本陣があったのは天童と楯岡だけで、ほかは間の宿だったという。
 すぐ先、右へ入ったところに「本覚寺」がある。ここは天正元年(1573)に開創され、その後火災によって数度焼失したが、文化元年(1804)に本堂が再建されたという。境内には臥龍型のアカマツがあり、これは天明年間(1781~1789)に俳人左右が献じたことから「左右のマツ}と呼ばれており、県指定天然記念物になっている。また、観世音菩薩像があり、周囲を石仏で囲まれている。その中に「宝篋印塔」があり、年不詳だが、300年ほど前のものと推定されているという。
左右のマツ}宝篋印塔

 その先、左手に「愛宕神社」がある。ここは楯山山麓の西端の突角部分が、明治11年、当時の山形県令三島通庸によって行われた「切通し開削工事」によって切り離されたところで、ここに樹齢110年と推定されている「三島けやき」がある。これはもともと石割けやきであったものが、開削工事の際、岩の片側が持ち去られたため、根が肥大して巨岩を抱きかかえ、双頭の龍のような姿になっている。
愛宕神社2
 道を挟んだ反対側に文化2年(1805)の大きな湯殿山碑が建っている。ここもゴツゴツとした岩山で、その横に「大市姫神」がある。
湯殿山碑大市姫神

 左手少し入ったところに「竹駒神社」があり、文政13年(1830)の石碑が立っている。その右手に「熊野神社・居合神社」がある。ここは大同2年(807)に林崎地区の東方に熊野権現が祀られたのが始まりで、永承年中(1046)から正安2年(1300)の間に当地に遷座され、熊野明神と改められたという。天文16年(1547)に居合道の始祖林崎甚助重信が坂上主膳に暗殺された父親の仇を討つため、熊野明神に参篭して修行に励み、京都で主膳を討ち本懐を遂げたので、後世、重信公を神格化して「居合神社」を創建、熊野明神の一角に祀ったという。明治維新前にここを通行する剣士たちは必ずこの神社を参拝したという。明治10年に明治政府に公認され「熊野・居合神社」なったという。
熊野・居合神社2
 このあたりから周囲には雪が残る風景が広がっている。桜はまだ固いつぼみのままだ。
 その先で13号線に合流したところに樹齢650年と推定される「尾上の松」があり、その横に食堂があったので、ここで昼食にする。ここはあらかじめ調べていたところで、予定通りに着くことができたので、今日は珍しくおにぎりではなくてまともな定食を食べる。ここのお女将さんがいい人で、私の姿を見て歩いているのかと聞いてこられ、色々と話をしてくれた。ほっちゃり顔の明るい人で、黙々と歩いていると、こうしたちょっとした触れ合い、会話が楽しい。
尾上の松2丁目
 左手に「六面幢」があり、その他に石碑が立っている。
左手に六面幢2
 土生田橋を渡るが、ここは以前は眼鏡橋だったそうで、昭和35年に架け替えられたという。
 右手に「渓永寺」がある。この寺はもと本飯田にあり、六千石の館主飯田播磨守の開基と伝えられている。境内にはかなりの雪が残っている。
渓永寺2
 その先に追分の三叉路があるが、ここが大石田街道との分岐点で、今も昔も追分と呼ばれている。
 13号線に合流した後、120号線に分岐して進むと、右手に「龍昌寺」がある。ここは明応7年(1498)に開山されたといい、現在の本堂の建物は天保12年(1841)に再建されている。境内に尾花沢代官大貫次右衛門の墓がある。大貫次右衛門は天保2年(1831)にこの地の代官になり、その後14年間に渡って手腕をふるい、天保の大飢饉では領民の救済に努め、天保改革を領内に徹底させた名代官だったという。残念ながらお墓はシートに覆われていた。
龍昌寺1-2龍昌寺2丁目-2

 道を挟んだ左手に「念通寺」がある。ここは寛永7年(1630)に創建されたお寺で、本堂伽藍は、鈴木家三代目八右衛門・清風の私財により元禄10年(1697年)に建立されたという。山門と鐘楼は、鈴木一族三家の共同寄進によって元禄12年に建立されている。
念通寺2
 15時46分に今日の宿加登屋に入り、荷物を置いて16時5分に再び先へ進むが、ここから雨が降り出した。
 右手に「諏訪神社」があり、入り口に文化3年(1806)の湯殿山碑が立っている。
諏訪神社2
 左手に「養泉寺」がある。ここの観音堂はもと坂下にあったものを元和元年(1615)に移建したものという。元禄2年(1689)松尾芭蕉がこの寺に一週間滞在したので、境内には宝暦12年(1762)俳人路水、素州らが芭蕉を偲んで建てた涼塚がある。
養泉寺2
 右手にポツンと庚申塔が立っている。
ポツンと庚申塔2
 その先で右手にわずかの間、旧道が残っていたが、雪が積もっていて歩くことができなかったので、120号線を進む。
 野尻川橋の手前で、その旧道と合流するのだが、そこに「地蔵堂と3基の庚申塔」が立っている。
地蔵堂と3基2丁目
 芹沢踏切でJRの線路を横断するが、その手前左手に「庚申塔」が立っている。
 右手に「種林寺」があるが、これは白鳥義守公が開基し、寛延2年(1749)に再建されたという。境内には文化8年(1811)の「三界万霊」や嘉永2年(1849)の西国三十三観世音供養塔、延命地蔵等がある。
種林寺1-2種林寺2-2

 雨が激しくなってきており、霧が立ち込めて幻想的な雰囲気を醸し出している。
霧が立ち2丁目
 18時2分に芦沢駅に着き、大石田駅までJRで戻る。

 本日の歩行距離  10時間54分。
 本日の歩数&距離 57202歩、40.2km。

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