2012年04月25日(水)
上山~黒沢~松原~山形~天童
晴れ
7時7分に出発する。
左手に「観音寺」がある。ここの大日堂はもと上山藩の御霊の宮だったが、廃藩置県による領主の上京とともに神霊も移されたので、今は大日如来が安置されている。この屋根破風の頂点の拝に取り付けられた、懸魚と御堂の前に主屋から突き出て、上に屋根、下に階段のある向拝部分にある龍の彫刻は栗野音松の作によるもので、文政9年(1826)に御堂が再建されたときの作という。ともに上山市の指定文化財になっている。
上山は温泉地であるが、この温泉は長禄2年(1458)に僧月秀が一羽の鶴が傷ついた足を沼水にひたし、全快して飛び立ったのを見て、村人とともに沼の排水工事を行い、自然湧出している温泉を開発したという。嘉永元年(1624)上山藩主松平重忠が城下町発展のため、「下大湯共同浴場」を作ったが、現在でもこの共同浴場は観音寺の下にあった。
その横に「鶴泉園」があり、ここに復元された上山藩と山形藩の領界石標と、かって沼地の中にあったという鏡石がある。この石は月の光を浴びて鏡のように美しかったことから鏡石と呼ばれていたという。
その先に四ツ谷枡形跡が残っており、更に進むと旧道は13号線から分岐して左へ進むが、四ツ谷の信号のところ左手に享保15年(1730)の庚申塔と六幢地蔵が立っている。
その先、左手に「大日堂」があり、安政2年(1855)の湯殿山碑、大神宮碑等が立っている。
その先に新町地蔵尊があり、更にその先右手に観世音妙昇堂があって、3体の地蔵尊が安置されている。
左手に渡辺家があり、この家の裏に明治天皇の行在所が残っているということだったが、見ることはできなかった。
右手に「黒沢一里塚」碑が立っているが、ここは江戸から91里のところという。黒沢は間の宿で次の松原宿と協同で宿駅を務めたという。
左手に「黒沢観音堂」があり、祠の前に文政10年(1827)の馬頭塔と如意輪観音像及び道祖神がある。
その先の信号の左手に「松原番所跡」碑が立っている。元和8年(1622)に上山藩と山形藩が分離したため、この場所に番所を置き、松原宿が新設されたという。
この碑のある道路を挟んだ右手に「上の本陣」と呼ばれていた山本家がある。
左手に「長秀寺」がある。ここは寛永5年(1628)に開山したもので、本堂は寛保2年(1742)に再建されたものという。また、観音堂に安置されている聖観世音菩薩像は室町時代後期の作と推定されているという。入り口右手に宝永6年(1709)の六幢地蔵があり、その前に文化9年(1812)の常夜燈がある。
境内には「宇留野春庵の墓」がある。延享4年(1747)飢饉と圧政に苦しんだ農民が百姓一揆をおこした際、上山藩医だった宇留野春庵は単身駆けつけて暴動を未然に防いだ。しかし幕府を恐れる藩役人に疎まれ、追放されて長秀寺に配流された。上山領の農民は春庵の御恩を忘れず、夜ひそかに春庵を訪ねてくる者があとを絶たなかったため、このお寺の木戸は閉められずにいたので、世人はこれを「夜あき門」と呼んでいたという。
左手に「草苅家」があるが、ここが「下の本陣」と呼ばれていたところだ。
右手に「円龍寺」がある。ここは宝徳3年(1451)に創建され、寛永2年(1625)に現在地に移転してきたという。境内の大けやきはこの時に植えられたものという。
常盤橋を渡って街道は左折して進むのだが、右折した川沿いに「常盤水天宮」がある。明治45年に再建されたもので、歌人海上胤平撰文による「常盤橋碑」が立っている。
街道に戻ってJRのガード下を通って51号線に合流する。
左手に「上町柵跡 山形南口」の碑が立っている。
突当りに「正徳寺」がある。ここには宝暦9年(1759)の百万遍供養塔や寛政4年(1792)の青面金剛塔、ほかに地蔵堂等がある。
ここから左折して進むと左手に「上町勢至堂」があり、入り口に「南無得大勢至菩薩」と刻まれた宝暦4年(1754)の石柱が立っており、境内には嘉永4年(1851)の天照皇大神碑や宝暦2年(1849)の地蔵尊、文政11年(1828)の庚申塔、宝篋印塔等古い石碑が数多く立っている。
五日町踏切でJRの線路を横断する。この辺りは山形の中心街で、その先、右手に山形銀行の本店があるが、ここが山形宿の本陣があったところだ。
突当りに旧県庁があり、ここから左折、そのすぐ先で右折して進むと、左手に天保12年(1841)の「鳥海山月山両所宮」の社柱が立っている。
その先、左手に入ったところに「両所宮」がある。ここは平安時代に鎮守府将軍源頼義およびその長男八幡太郎義家によって勧請創建されたという、山形地方きっての古い神社で、歴代の山形城主も篤く信仰したが、特に最上義光は文禄4年(1595)に社殿を再建するなどして深く信仰したという。「随神門」は天明3年(1783)に建立されたもので、山形市有形文化財に指定されている。
このあたり桜が満開で、ちょうど桜前線に沿って歩いて来ている感じだ。
馬見ケ崎川に架かる千歳橋を渡り、その先で左折してJRのガード下を通って進むと、右手に吉峰神社碑と延享5年(1748)の庚申塔が立っている。
12時35分に羽前千歳駅に着き、12時49分の電車で立石寺へ行くため街道を外れて山寺駅まで行く。仙山線は一時間に一本しかないので、あらかじめ時間を調べておいたのだが、ばっちり時間通りに着くことができた。電車が来るまでのわずかの時間におにぎりを食べる。
山寺駅に着くと、すぐ前の切り立った崖の上に点々と堂宇が建っている。ここの創建について、寺伝では貞観2年(860)に青和天皇の勅命で円仁が開山したとされているが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定されているという。大永元年(1521)寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失したが、その後堂宇の再興が行われ、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。全山を構成する角礫凝灰岩は奇岩怪石となって素晴らしい景観をなしている。1015段もの階段の途中にはたくさんの堂塔が建てられ、数多くの句碑や板碑が立ち並んでいる。元禄2年(1689)に門人河合曽良とこの地を訪れた松尾芭蕉は有名な「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句を残している。
山を下ってくると、間もなく電車が来たのでこれに乗って羽前千歳駅まで戻り、14時58分に街道を再び歩き始める。立石寺を往復する間は計算通りに動けたため、電車の待ち時間があまりなくて時間を効率よく使うことができた。
街道に戻って歩いていくと、右手に「如意輪観音堂」がある。ここはかって長寿寺という称念寺の隠居所があったところで、ご本尊の如意輪観世音菩薩は元禄13年(1700)に開眼供養が行われたという。また、堂内には安政2年(1855)の最上三十三観音像があり、境内には湯殿山碑や庚申塔をはじめとした多数の石碑群がある。
左手に「浄土院」があり、宝暦9年(1759)の名号石が立っている。
右手に「遍照院」があり、入り口に享保2年(1717)の大乗妙典六十六部日本四国供養塔や文化2年(1805)や天保12年(1841)の名号石がある。
左手に中川医院があるが、資料によるとこの病院を中心にして200m四方に漆山城があったということだが、遺構は全く残っていない。
立谷川に架かる立谷川橋を渡った右手に「熊野神社」があり、慶応3年(1867)の鳥居が立っており、大神宮碑や湯殿山碑等の石碑群がある。
左手に「願行寺」がある。ここの創建は文明年間(1469~87)に願正上人が開山したと伝えられ、天文6年(1537)頃に専称寺と称すようになり、山形城下にも開創した事で最上家から庇護されるようになった。その後、現在地に移り改めて本山から願行寺の名称を与えられて現在に至っているという。
その先でJRの跨線橋を渡った先の信号右手に「一日町市神」がある。
左手入ったところに「三寶寺」がある。ここは文政13年(1830)に幕府寺社奉行から織田宗家の菩提寺に申し付けられて御霊屋を建立したが、慶応4年(1868)に戊辰戦争で焼失した。現在の御霊屋は昭和6年に再建されたもので、太祖織田信長公はじめ代々の藩主や家族、79名の方々のお位牌が安置されているという。
右手少し入ったところに「仏向寺」がある。ここは弘安元年(1278)に成生荘に開基され、その後現在地に移転、現在の本堂は文政8年(1825)に再建されたものという。境内には鎌倉時代の「大日板碑」と「石仏」があり、天童市文化財に指定されている。
天童駅のすぐ近くにあるコンフォートホテルに17時33分に到着する。
本日の歩行時間 10時間26分 。
本日の歩数&距離 49377歩、33.6km。(立石寺へのJRによる移動距離は除外し、立石寺見物の距離2.6kmは含んでいます)
旅の地図
記録
-
2012年04月23日(月)
-
2012年04月24日(火)
-
2012年04月25日(水)
-
2012年04月26日(木)
-
2012年04月27日(金)
プロフィール
歩人
かっちゃん