2012年04月18日(水)
宮海~吹浦~象潟
晴れ
昨日歩いた宮海集落入り口まで、バスがないのでタクシーで来て7時15分に出発する。
右手に「大物忌神社」があるが、資料によると宮海は鳥海山大物忌神社との関わりが深く、伝説によるとある時、どこからともなく獅子頭がこの地に舞い降りてきた。その頭を大物忌神社に奉納したことから宮海と称したという。
集落を抜けると又松林の中の道を進む。ここも飛砂防備林で車も少なくて気持ちのいい道だ。
日向川に架かる栄橋を渡って進むが、その先で資料では7号線に合流する前に左折して進むようになっている。しかし今はこの道はなくなっていて歩くことができないので、直進して7号線に合流する。その先で左折して進むと左手に「願専寺」があり、その横に「旧青山本邸」がある。ここはニシン漁で成功し、北海の漁業王といわれた青山留吉が明治20年から3年間かけて建てたニシン御殿で、国の重要文化財に指定されている。
ここから海岸沿いの道を進むが、車はもちろん人も通っていない。昔はこの辺りは全くの砂原で、風砂に悩まされながら歩いたようだ。今日は幸い好天で気持ち良く歩くことができる。前回のような荒れた天気の日にここを通ると大変だっただろうなと思いながら、黙々と歩く。ところがしばらく進んでいくと、道が崩落していて歩けなくなっている。ただ距離はそれほど長い距離ではなかったので、迂回をして、灌木が生えている中を進み、その先で再びこれまで歩いてきた道の延長線上と合流する。
この道はかなりの距離があるが、特に見るものは何もないので、気持ちはいいものの、少々退屈な道だ。幸い途中で友人やその他の電話が何本かかかってきたので気が紛れて助かった。
しばらく歩いていくと、急に道がなくなった。これは困ったと思ったが、いまさら引き返すわけにもいかないので、そのまま砂浜を進んでいくと、前方に建物が見えてきた。近づいてみると倉庫のような感じの建物だ。建物があるということは少なくともそこに行く道があるはずだと思って進んでいくと、右手に道があったのでこれを進んで集落へ入った。ようやく砂浜を脱出することができたのだ。
集落の中に「稲荷神社」があり、ここは文化8年(1811)に再建されたと説明されており、境内には寛政12年(1800)の庚申塔がある。
ここから先で7号線に合流する。というか7号線を歩くことにしたといったほうが正解かもしれない。
月光川に架かる新吹浦橋を渡るが、右手に雪を被った鳥海山が見える。ただ山頂部分は雲に覆われていて見ることができない。鳥海山は標高2236mの山形県と秋田県にまたがる活火山で、出羽富士あるいは秋田側では秋田富士とも呼ばれている日本100名山のひとつだ。この先もしばらく山の姿が見えていたが、山頂は雲に覆われていることが多くて、なかなか見ることができなかった。
吹浦駅を右手に見ながら進み、すぐ先の踏切でJRの線路を横断、その先を左折して進むと突当りに「大物忌神社」がある。ここは景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられているが、詳細は不明ということだ。本殿は鳥海山頂にあり、麓の吹浦と蕨岡の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称している。また山頂の本殿は噴火焼失と再建を繰り返しているので勧請についても諸説あるという。ここは延喜式神名帳に名神大社として記載されている式内社で、出羽国一宮となり、八幡太郎義家の戦勝祈願や北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造営など、時々の武将にも篤く崇敬されてきたという。山頂の本殿は伊勢神宮と同様に二十年毎に建て替える式年遷宮となっている。
このあたりに本陣があったようだが、場所はわからなかった。
その先左手に「海禅寺」があり、境内には万延元年(1860)、天保6年(1835)、天保10年(1839)の庚申塔がある。
道なりに進み、ゆのた踏切でJRの線路を横断して7号線に合流、海沿いの道を進む。
左手に祠があり、天明5年(1785)の三界万霊や庚申塔が立っている。
滝の浦のバス停の小屋で昼食にする。旅館で作っていただいたおにぎりだ。
7号線から分岐して女鹿集落に入ると右手に「松葉寺」があり、境内に文政5年(1822)の庚申塔が立っている。
集落を抜けて再び7号線に合流したところ右手に「延命地蔵」がある。
その先右手大分入った小高い所に戊辰の役で戦死した秋田藩士豊間源之進の墓がある。旧道はこのあたりを通っていたようだが、今は道がなくなっている。
三崎峠に来るが、ここは奥の細道の旧道が残っている。ここには有耶無耶の関があったところで、大変な難所だったという。現在でもその道が残されており、ここを歩くがいかにも旧道らしい雰囲気があってなかなかいい道だ。
山道を登っていくと左手に「大師堂」と「五輪塔」がある。
その上には「戊辰の役 三崎山古戦場慰霊碑」が立っている。
峠を登り切ったところが山形県と秋田県の県境になっている。いよいよ秋田県に入ったのだ。ここから峠を下っていくが、途中に一里塚跡碑が立っている。
今日改めて海を見ながら歩いたが、九州とは海の色が違うことに気が付いた。ただいずれにしても好天のもとで見る海は気持ちがいい。峠を抜けて7号線に合流する。その先で道は二股に分かれているので、左へ進み、小砂川へ向かう。左手に「八幡神社」があり、柱に龍の彫刻がなされている。
その先で道は二股に分かれており、ここを左へ進んで集落の中へ入り、その先で先ほど二股に分かれたもう一方の道と合流、すぐ先で右へ進むのだが、道を間違えて直進してしまい、郵便局のところから右折してしまった。小砂川駅に出たので線路伝いに戻って大須郷踏切でJRの線路を横断、その先で7号線のガードをくぐって進む。ガードをくぐったすぐ先左手に八王子神社の社標が立っており、その前に庚申塔がある。
その先、街道から外れて右手に入ったところに「八王子神社」がある。
旧道に戻って進むが、その先で道がわかりにくかった。道が二股に分かれているところを左へ進むが、ここで地元の方がおられて親切に道を案内していただくことができた。その先で二股に分かれているところを右へあぜ道のような道を進んで、その先で7号線に合流する。
しばらく7号線を進み、関集落へ入るため二股に分かれている道を左へ進み、奈曽川に架かる白糸橋を渡る。その先で再び7号線に合流、市役所入り口の信号から7号線と分岐して左へ進むと左手に「大宰府天満宮」がある。天満宮は各地によくあるのだが、太宰府天満宮という名前がついているのは珍しい。大宰府と何か関係があるのかもしれない。
すぐ右手に「蓮成院」がある。
左手に「豊受神社」があり、境内に文化2年(1805)の石碑が立っている。
左手に「古四王神社」がある。ここは弘長3年(1263)に現秋田市の古四王神社から勧請して建立したことが始まりで、その後遷座、消失を繰り返し、現社殿は嘉永元年(1848)に再建されたものという。ここには船頭や船主が奉納した船絵馬が37点現存しているという。境内には庚申塔、出羽三山碑、猿田彦などがある。
右手に「戸隠神社」がある。ここは応仁元年(1467)に創建されたといい、県内最古とされる安永9年(1780)の船絵馬が奉納されているという。
左手に本隆寺があり、その横に「御蔵屋敷跡」の説明板が立っている。正保2年(1645)矢島藩生駒家と本荘藩六郷家の国境として木戸が設けられたが、同じころ矢島藩の年貢米を保管する米蔵と番所が置かれ御蔵屋敷と呼ばれたという。当時は本隆寺のすぐ裏まで海であり、米はここからハシケという小舟で運び出されたという。
そのすぐ先、右手にその「木戸跡」の説明板が立っている。
右手には芭蕉が曽良とともに奥の細道の旅をした時に宿泊したという「向屋跡」の説明板が立っている。
さらにその先左手に「能登屋跡」の説明板が立っている。ここの芭蕉が宿泊をしたところという。このあたりこうした説明板が頻繁に立っているが、遺構は残っていない。
左手に淨専寺があり、その先左手少し入った所に若宮神社がある。旧道はここから右折して進むが、その先右手に菅江真澄が宿泊したという岡本屋跡の説明板が立っている。
右手に江戸時代初期の大名仁賀保氏の居城跡という塩越城跡の説明板が立っているがここも遺構は残っていない。
左手に「熊野神社」がある。ここは文治2年(1186)に熊野山からご分霊を奉じて創建されたといい、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、秋田藩荒川久太郎秀種を隊長とする遊撃隊はこの神社前で髻を切って奉納し、必勝を祈願して庄内藩と戦うために三崎口の戦場に向かったという。
その先、象潟橋を渡った左に「船つなぎ石」がある。左右往還と刻まれた文字は道標になっている。
その先で7号線に合流し、温泉保養センターはまなす前のバス停まで歩いたところで終わりとする。
18時9分に到着する。
本日の歩行時間 10時間54分。
本日の歩数&距離 53852歩、37.7km。
昨日歩いた宮海集落入り口まで、バスがないのでタクシーで来て7時15分に出発する。
右手に「大物忌神社」があるが、資料によると宮海は鳥海山大物忌神社との関わりが深く、伝説によるとある時、どこからともなく獅子頭がこの地に舞い降りてきた。その頭を大物忌神社に奉納したことから宮海と称したという。
集落を抜けると又松林の中の道を進む。ここも飛砂防備林で車も少なくて気持ちのいい道だ。
日向川に架かる栄橋を渡って進むが、その先で資料では7号線に合流する前に左折して進むようになっている。しかし今はこの道はなくなっていて歩くことができないので、直進して7号線に合流する。その先で左折して進むと左手に「願専寺」があり、その横に「旧青山本邸」がある。ここはニシン漁で成功し、北海の漁業王といわれた青山留吉が明治20年から3年間かけて建てたニシン御殿で、国の重要文化財に指定されている。
ここから海岸沿いの道を進むが、車はもちろん人も通っていない。昔はこの辺りは全くの砂原で、風砂に悩まされながら歩いたようだ。今日は幸い好天で気持ち良く歩くことができる。前回のような荒れた天気の日にここを通ると大変だっただろうなと思いながら、黙々と歩く。ところがしばらく進んでいくと、道が崩落していて歩けなくなっている。ただ距離はそれほど長い距離ではなかったので、迂回をして、灌木が生えている中を進み、その先で再びこれまで歩いてきた道の延長線上と合流する。
この道はかなりの距離があるが、特に見るものは何もないので、気持ちはいいものの、少々退屈な道だ。幸い途中で友人やその他の電話が何本かかかってきたので気が紛れて助かった。
しばらく歩いていくと、急に道がなくなった。これは困ったと思ったが、いまさら引き返すわけにもいかないので、そのまま砂浜を進んでいくと、前方に建物が見えてきた。近づいてみると倉庫のような感じの建物だ。建物があるということは少なくともそこに行く道があるはずだと思って進んでいくと、右手に道があったのでこれを進んで集落へ入った。ようやく砂浜を脱出することができたのだ。
集落の中に「稲荷神社」があり、ここは文化8年(1811)に再建されたと説明されており、境内には寛政12年(1800)の庚申塔がある。
ここから先で7号線に合流する。というか7号線を歩くことにしたといったほうが正解かもしれない。
月光川に架かる新吹浦橋を渡るが、右手に雪を被った鳥海山が見える。ただ山頂部分は雲に覆われていて見ることができない。鳥海山は標高2236mの山形県と秋田県にまたがる活火山で、出羽富士あるいは秋田側では秋田富士とも呼ばれている日本100名山のひとつだ。この先もしばらく山の姿が見えていたが、山頂は雲に覆われていることが多くて、なかなか見ることができなかった。
吹浦駅を右手に見ながら進み、すぐ先の踏切でJRの線路を横断、その先を左折して進むと突当りに「大物忌神社」がある。ここは景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられているが、詳細は不明ということだ。本殿は鳥海山頂にあり、麓の吹浦と蕨岡の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称している。また山頂の本殿は噴火焼失と再建を繰り返しているので勧請についても諸説あるという。ここは延喜式神名帳に名神大社として記載されている式内社で、出羽国一宮となり、八幡太郎義家の戦勝祈願や北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造営など、時々の武将にも篤く崇敬されてきたという。山頂の本殿は伊勢神宮と同様に二十年毎に建て替える式年遷宮となっている。
このあたりに本陣があったようだが、場所はわからなかった。
その先左手に「海禅寺」があり、境内には万延元年(1860)、天保6年(1835)、天保10年(1839)の庚申塔がある。
道なりに進み、ゆのた踏切でJRの線路を横断して7号線に合流、海沿いの道を進む。
左手に祠があり、天明5年(1785)の三界万霊や庚申塔が立っている。
滝の浦のバス停の小屋で昼食にする。旅館で作っていただいたおにぎりだ。
7号線から分岐して女鹿集落に入ると右手に「松葉寺」があり、境内に文政5年(1822)の庚申塔が立っている。
集落を抜けて再び7号線に合流したところ右手に「延命地蔵」がある。
その先右手大分入った小高い所に戊辰の役で戦死した秋田藩士豊間源之進の墓がある。旧道はこのあたりを通っていたようだが、今は道がなくなっている。
三崎峠に来るが、ここは奥の細道の旧道が残っている。ここには有耶無耶の関があったところで、大変な難所だったという。現在でもその道が残されており、ここを歩くがいかにも旧道らしい雰囲気があってなかなかいい道だ。
山道を登っていくと左手に「大師堂」と「五輪塔」がある。
その上には「戊辰の役 三崎山古戦場慰霊碑」が立っている。
峠を登り切ったところが山形県と秋田県の県境になっている。いよいよ秋田県に入ったのだ。ここから峠を下っていくが、途中に一里塚跡碑が立っている。
今日改めて海を見ながら歩いたが、九州とは海の色が違うことに気が付いた。ただいずれにしても好天のもとで見る海は気持ちがいい。峠を抜けて7号線に合流する。その先で道は二股に分かれているので、左へ進み、小砂川へ向かう。左手に「八幡神社」があり、柱に龍の彫刻がなされている。
その先で道は二股に分かれており、ここを左へ進んで集落の中へ入り、その先で先ほど二股に分かれたもう一方の道と合流、すぐ先で右へ進むのだが、道を間違えて直進してしまい、郵便局のところから右折してしまった。小砂川駅に出たので線路伝いに戻って大須郷踏切でJRの線路を横断、その先で7号線のガードをくぐって進む。ガードをくぐったすぐ先左手に八王子神社の社標が立っており、その前に庚申塔がある。
その先、街道から外れて右手に入ったところに「八王子神社」がある。
旧道に戻って進むが、その先で道がわかりにくかった。道が二股に分かれているところを左へ進むが、ここで地元の方がおられて親切に道を案内していただくことができた。その先で二股に分かれているところを右へあぜ道のような道を進んで、その先で7号線に合流する。
しばらく7号線を進み、関集落へ入るため二股に分かれている道を左へ進み、奈曽川に架かる白糸橋を渡る。その先で再び7号線に合流、市役所入り口の信号から7号線と分岐して左へ進むと左手に「大宰府天満宮」がある。天満宮は各地によくあるのだが、太宰府天満宮という名前がついているのは珍しい。大宰府と何か関係があるのかもしれない。
すぐ右手に「蓮成院」がある。
左手に「豊受神社」があり、境内に文化2年(1805)の石碑が立っている。
左手に「古四王神社」がある。ここは弘長3年(1263)に現秋田市の古四王神社から勧請して建立したことが始まりで、その後遷座、消失を繰り返し、現社殿は嘉永元年(1848)に再建されたものという。ここには船頭や船主が奉納した船絵馬が37点現存しているという。境内には庚申塔、出羽三山碑、猿田彦などがある。
右手に「戸隠神社」がある。ここは応仁元年(1467)に創建されたといい、県内最古とされる安永9年(1780)の船絵馬が奉納されているという。
左手に本隆寺があり、その横に「御蔵屋敷跡」の説明板が立っている。正保2年(1645)矢島藩生駒家と本荘藩六郷家の国境として木戸が設けられたが、同じころ矢島藩の年貢米を保管する米蔵と番所が置かれ御蔵屋敷と呼ばれたという。当時は本隆寺のすぐ裏まで海であり、米はここからハシケという小舟で運び出されたという。
そのすぐ先、右手にその「木戸跡」の説明板が立っている。
右手には芭蕉が曽良とともに奥の細道の旅をした時に宿泊したという「向屋跡」の説明板が立っている。
さらにその先左手に「能登屋跡」の説明板が立っている。ここの芭蕉が宿泊をしたところという。このあたりこうした説明板が頻繁に立っているが、遺構は残っていない。
左手に淨専寺があり、その先左手少し入った所に若宮神社がある。旧道はここから右折して進むが、その先右手に菅江真澄が宿泊したという岡本屋跡の説明板が立っている。
右手に江戸時代初期の大名仁賀保氏の居城跡という塩越城跡の説明板が立っているがここも遺構は残っていない。
左手に「熊野神社」がある。ここは文治2年(1186)に熊野山からご分霊を奉じて創建されたといい、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、秋田藩荒川久太郎秀種を隊長とする遊撃隊はこの神社前で髻を切って奉納し、必勝を祈願して庄内藩と戦うために三崎口の戦場に向かったという。
その先、象潟橋を渡った左に「船つなぎ石」がある。左右往還と刻まれた文字は道標になっている。
その先で7号線に合流し、温泉保養センターはまなす前のバス停まで歩いたところで終わりとする。
18時9分に到着する。
本日の歩行時間 10時間54分。
本日の歩数&距離 53852歩、37.7km。
旅の地図
記録
-
2012年04月16日(月)
-
2012年04月17日(火)
-
2012年04月18日(水)
-
2012年04月19日(木)
-
2012年04月20日(金)
プロフィール
歩人
かっちゃん