2012年04月02日(月)
あつみ温泉~羽前大山
晴れ
7時1分に出発する。今日はいい天気で風もあまりない。今日は歩き終えた後、飛行機を乗り継いで帰らなければいけないので、びしょ濡れ状態で終わりたくないなと思っていたので助かった。ただ、寒い。
右手に「芭蕉宿泊の家」がある。標柱が立っているが、建物は新しい。奥の細道の旅で温海で一泊後、鼠ケ関を通って越後へ向かったという。
「湯殿山碑や庚申塔、その他に墓石らしい石碑」が立っている。
「立岩」がある。まさに屹立しているという感じだ。
「塩俵岩」がある。これは塩俵を積んだように見える岩で昔からこの名があるという。これは玄武岩の柱状摂理が横に重複して巨岩を形成したものという。
右手に「赤地蔵尊」を祀る祠がある。
右手に薬師神社の社標があり、その下に「庚申塔」がある。
鈴村の「両墓制」といわれる墓地が集落の中ほど、右手坂を少し上ったところにある。まず、斜面に石が雑然と置かれており、ここが下墓と呼ばれる埋め墓で、その上にコの字状に墓碑が内側に向かって建っている。これを上墓と呼び、供養する墓になっているという。上墓と下墓は隣接しているのだが、その区別ははっきりしている。
道路にある温度表示が2℃を表示している。寒いはずだ。
右手に五十川駅があるところから7号線と分岐して右へ進む。すぐ先、川の向こう側に「古四王神社」がある。古四王神社はこの地より以北によくある神社のようで、日本の神社は北向きを避けるのが普通とされているが、古四王神社は北向きに建てるのが普通という。五十川の古四王神社も上山の中腹に北向きに建てていたが、鉄道工事のため大正13年に現在地に移転したという。神社の由緒によると、崇神天皇10年、四道将軍の大彦命、北陸道平定のため海路秋田へ向かう途中、大しけに遭って五十川に漂着、この地に滞在をしていた時に農業、製塩などの方法を授けられたことから、土地の人がその徳を慕い、一宇を建立して祀ったという。入り口に嘉永2年(1849)の湯殿山碑が建っている。
坂を上って波渡崎を巡り、大波渡の集落に入ると右手に「圓通寺」がある。ここは時宗のお寺で通称「留棹庵」と呼ばれている。ここは康平元年(1058)に創建されたといい、特に漁師の信仰を集めていたという。戸に鍵がかかっていなかったため、内部の写真を撮らせていただいた。
右手に嘉永7年(1854)の二十三夜塔や庚申塔、湯殿山碑がコンクリートに固められて立っている。
集落を抜け、7号線に合流したところ右手に 「鬼かけ橋」跡碑がある。芭蕉が奥の細道の旅でこの橋を通ったそうだが、その14年後に地震で壊れてしまったということだ。そのため古文書で、あったことは確認されているそうだが、場所の確定には異論があるようだ。
右手に「日元曼荼羅地蔵尊」がある。
小波渡の集落の入り口に金比羅宮がある。小波渡は文治5年(1189)奥州信夫郡の領主佐藤庄司基晴が一族とともに源義経のあとを慕って三瀬まできたが、義経がすでに亡くなったことを知って、建久6年(1195)この地に住み着いたのが最初といわれており、小波渡とは隣の堅苔沢に行くには切通しの難所があったため、小舟で渡ったので、小波を渡るということから名づけられたという。
集落の中ほどに生活に欠かすことのできない水、「オミジャ」があり、そこに開村の碑が建っている。
右手に東福寺社標と皇大神社の鳥居が立っており、そこに「湯殿山碑と天明6年(1786)の庚申塔」が立っている。
ガード下を通ってJRの線路を横断して進むと、集落の出口に「不動宮」があり、その奥に滝が落ちている。
ここから笠取峠を越えるが、笠取とは強風で旅人が笠を飛ばされることから名づけられたと伝えられている。今も昔も風が強いことに変わりはなかったのだろう。峠の中間の最も海に突き出しているところは馬ころばしと称し、昔廃馬を捨てたところという。眺めはいい。
峠を下っていくと三瀬集落に入る。ここにも入り口に赤い鳥居の小祠がある。
下りきったところに「羽州山浜通り三瀬組御本陣」の標識が立っている。
その先、三瀬の集落を抜けるところにも庚申塔が5基立っている。
その先で道は山の中へ入っていくが、左手に「一里塚跡」碑が立っている。ただ遺構は何も残っていない。
すぐ先で降矢川に架かる降矢橋を渡って進むが、このあたりになると道の端には雪がかなり残っている。
中山集落があるが、ここにも集落の入り口に庚申塔が立っている。
右手少し入ったところに「延命地蔵」がある。これは建立寄進者は不明だが、寛政10年(1798)の棟札が残っているという。高さ2.3mとかなり大きな仏像だ。
道はやがて矢引坂にかかる。ここは昔、土岐隼人という人がこの坂で村に災害をもたらしていた妖怪を矢で射落としたことから、この名がついたといわれているという。「熊に注意」の標識が何本も立っている。この時期はまだ大丈夫だろうが、熊が多いのだろう。
右手に庚申塔が立っており、矢引集落に入る。すぐ先、大谷川に架かる大谷橋を渡るが、渡ったところすぐ右手にも庚申塔が立っている。
「たまり」といううどん屋があり、ちょうど昼になったので、ここで昼食にする。ここまでくれば今回の予定が終わる地点まであとわずかだ。時間はまだたっぷりあるので、ここでゆっくりして食べていると、店の女性二人と会話が弾みだし、旅をしていることを話すと、何と、サインをしてくれと言って色紙を持ってきた。そんな大それたことをしているわけでもないし、第一字が下手なのだ。固辞したが、何でもいいから書いてくれといわれ、やむなく「旧街道を歩いて日本一周」と書かせていただいた。街道歩きでサインをさせていただいたのは初めての経験だ。お礼にお二人の写真を撮らせていただいた。思いがけない出会いで楽しいひと時を過ごす。こうしたちょっとした触れ合いが楽しい。
食事を終って先へ進む。川沿いの道を進んでいき、途中で道は二股に分かれているので、右へ進むと、左手に庚申塔がある。さらにその先右手に地蔵堂があり、その前に庚申塔がある。
このあたり庚申塔が数多く立っている。
八沢踏切でJRの線路を横断、その先で道は二股に分かれているので、左へ進み、左手に専念寺があるところから右折して進み、羽前大山駅から来た道まできたところで、14時35分、今回の旅を終ることにする。
この後、羽前大山駅から鶴岡駅へJRで移動、鶴岡駅から庄内空港へ行き、羽田経由で九州に帰る。
本日の歩行時間 7時間34分。
本日の歩数&距離 41599歩、28.3km。
浜街道(新潟~鶴岡)合計
総歩行時間 42時間12分。
総歩数 224995歩。
総歩行距離 168.7km。
浜街道純距離 158.9km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
7時1分に出発する。今日はいい天気で風もあまりない。今日は歩き終えた後、飛行機を乗り継いで帰らなければいけないので、びしょ濡れ状態で終わりたくないなと思っていたので助かった。ただ、寒い。
右手に「芭蕉宿泊の家」がある。標柱が立っているが、建物は新しい。奥の細道の旅で温海で一泊後、鼠ケ関を通って越後へ向かったという。
「湯殿山碑や庚申塔、その他に墓石らしい石碑」が立っている。
「立岩」がある。まさに屹立しているという感じだ。
「塩俵岩」がある。これは塩俵を積んだように見える岩で昔からこの名があるという。これは玄武岩の柱状摂理が横に重複して巨岩を形成したものという。
右手に「赤地蔵尊」を祀る祠がある。
右手に薬師神社の社標があり、その下に「庚申塔」がある。
鈴村の「両墓制」といわれる墓地が集落の中ほど、右手坂を少し上ったところにある。まず、斜面に石が雑然と置かれており、ここが下墓と呼ばれる埋め墓で、その上にコの字状に墓碑が内側に向かって建っている。これを上墓と呼び、供養する墓になっているという。上墓と下墓は隣接しているのだが、その区別ははっきりしている。
道路にある温度表示が2℃を表示している。寒いはずだ。
右手に五十川駅があるところから7号線と分岐して右へ進む。すぐ先、川の向こう側に「古四王神社」がある。古四王神社はこの地より以北によくある神社のようで、日本の神社は北向きを避けるのが普通とされているが、古四王神社は北向きに建てるのが普通という。五十川の古四王神社も上山の中腹に北向きに建てていたが、鉄道工事のため大正13年に現在地に移転したという。神社の由緒によると、崇神天皇10年、四道将軍の大彦命、北陸道平定のため海路秋田へ向かう途中、大しけに遭って五十川に漂着、この地に滞在をしていた時に農業、製塩などの方法を授けられたことから、土地の人がその徳を慕い、一宇を建立して祀ったという。入り口に嘉永2年(1849)の湯殿山碑が建っている。
坂を上って波渡崎を巡り、大波渡の集落に入ると右手に「圓通寺」がある。ここは時宗のお寺で通称「留棹庵」と呼ばれている。ここは康平元年(1058)に創建されたといい、特に漁師の信仰を集めていたという。戸に鍵がかかっていなかったため、内部の写真を撮らせていただいた。
右手に嘉永7年(1854)の二十三夜塔や庚申塔、湯殿山碑がコンクリートに固められて立っている。
集落を抜け、7号線に合流したところ右手に 「鬼かけ橋」跡碑がある。芭蕉が奥の細道の旅でこの橋を通ったそうだが、その14年後に地震で壊れてしまったということだ。そのため古文書で、あったことは確認されているそうだが、場所の確定には異論があるようだ。
右手に「日元曼荼羅地蔵尊」がある。
小波渡の集落の入り口に金比羅宮がある。小波渡は文治5年(1189)奥州信夫郡の領主佐藤庄司基晴が一族とともに源義経のあとを慕って三瀬まできたが、義経がすでに亡くなったことを知って、建久6年(1195)この地に住み着いたのが最初といわれており、小波渡とは隣の堅苔沢に行くには切通しの難所があったため、小舟で渡ったので、小波を渡るということから名づけられたという。
集落の中ほどに生活に欠かすことのできない水、「オミジャ」があり、そこに開村の碑が建っている。
右手に東福寺社標と皇大神社の鳥居が立っており、そこに「湯殿山碑と天明6年(1786)の庚申塔」が立っている。
ガード下を通ってJRの線路を横断して進むと、集落の出口に「不動宮」があり、その奥に滝が落ちている。
ここから笠取峠を越えるが、笠取とは強風で旅人が笠を飛ばされることから名づけられたと伝えられている。今も昔も風が強いことに変わりはなかったのだろう。峠の中間の最も海に突き出しているところは馬ころばしと称し、昔廃馬を捨てたところという。眺めはいい。
峠を下っていくと三瀬集落に入る。ここにも入り口に赤い鳥居の小祠がある。
下りきったところに「羽州山浜通り三瀬組御本陣」の標識が立っている。
その先、三瀬の集落を抜けるところにも庚申塔が5基立っている。
その先で道は山の中へ入っていくが、左手に「一里塚跡」碑が立っている。ただ遺構は何も残っていない。
すぐ先で降矢川に架かる降矢橋を渡って進むが、このあたりになると道の端には雪がかなり残っている。
中山集落があるが、ここにも集落の入り口に庚申塔が立っている。
右手少し入ったところに「延命地蔵」がある。これは建立寄進者は不明だが、寛政10年(1798)の棟札が残っているという。高さ2.3mとかなり大きな仏像だ。
道はやがて矢引坂にかかる。ここは昔、土岐隼人という人がこの坂で村に災害をもたらしていた妖怪を矢で射落としたことから、この名がついたといわれているという。「熊に注意」の標識が何本も立っている。この時期はまだ大丈夫だろうが、熊が多いのだろう。
右手に庚申塔が立っており、矢引集落に入る。すぐ先、大谷川に架かる大谷橋を渡るが、渡ったところすぐ右手にも庚申塔が立っている。
「たまり」といううどん屋があり、ちょうど昼になったので、ここで昼食にする。ここまでくれば今回の予定が終わる地点まであとわずかだ。時間はまだたっぷりあるので、ここでゆっくりして食べていると、店の女性二人と会話が弾みだし、旅をしていることを話すと、何と、サインをしてくれと言って色紙を持ってきた。そんな大それたことをしているわけでもないし、第一字が下手なのだ。固辞したが、何でもいいから書いてくれといわれ、やむなく「旧街道を歩いて日本一周」と書かせていただいた。街道歩きでサインをさせていただいたのは初めての経験だ。お礼にお二人の写真を撮らせていただいた。思いがけない出会いで楽しいひと時を過ごす。こうしたちょっとした触れ合いが楽しい。
食事を終って先へ進む。川沿いの道を進んでいき、途中で道は二股に分かれているので、右へ進むと、左手に庚申塔がある。さらにその先右手に地蔵堂があり、その前に庚申塔がある。
このあたり庚申塔が数多く立っている。
八沢踏切でJRの線路を横断、その先で道は二股に分かれているので、左へ進み、左手に専念寺があるところから右折して進み、羽前大山駅から来た道まできたところで、14時35分、今回の旅を終ることにする。
この後、羽前大山駅から鶴岡駅へJRで移動、鶴岡駅から庄内空港へ行き、羽田経由で九州に帰る。
本日の歩行時間 7時間34分。
本日の歩数&距離 41599歩、28.3km。
浜街道(新潟~鶴岡)合計
総歩行時間 42時間12分。
総歩数 224995歩。
総歩行距離 168.7km。
浜街道純距離 158.9km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
旅の地図
記録
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2012年03月29日(木)
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2012年03月30日(金)
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2012年03月31日(土)
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2012年04月01日(日)
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2012年04月02日(月)
プロフィール
歩人
かっちゃん