2012年03月27日(火)
出雲崎~岩室
曇り後晴れ
7時25分に出発する。今日は幸いなことに雨、雪は降っていない。
「俵小路」の説明板が立っている。それによるとここは陣屋の御米蔵へ米俵を納めるための通路だったそうで、坂道だったため、人夫は大変な苦労をしたという。
右手に「淨玄寺」がある。ここは良寛の妹みか子が嫁に入ったところで、正安3年(1301)に建立されたお寺だが、現在の建物はまだ新しい。
右手に「光照寺」があり、その前に「明治天皇出雲崎行在所」の碑が立っている。昨日も同じ名前のお寺があったが、全く別のお寺ということだった。
出雲崎は右手に山が迫り、左手は海、その間のわずかな土地の両側に特徴のある妻入りの住宅が並んでいる。
井鼻海水浴場のところ、右手に「無縁の塔」、その他に名号石等の石碑が並んで立っている。
どこからともなく鶯の鳴き声が聞こえた。今回の旅で初めて聞く鳴き声だ。なんとも心のなごむ声だ。
はるか前方に弥彦山が霞んで見えるが、まだかなり雪が積もっている。海は今日も激しく波立っている。このあたりはポツンポツンと集落があるが、その間は人家は全くない。
長岡市に入るところで、右手に滝があった。
山田集落に入る。ここは江戸時代宿場があったところだ。集落の入り口右手に「番神堂跡」碑があり、その横に墓が3基ある。
その先右手に「十二神社」がある。資料には米山塔や庚申塔があると記されていたが、見当たらなかった。
すぐ先右手に「明治天皇山田御小休所跡」碑が立っている。
郷本集落には玄徳寺があり、その入り口に「良寛空庵跡」碑が立っている。良寛は寛政8年(1796)備中国(岡山県)玉島円通寺での修行を終えて越後に帰ったが、出雲崎の生家前を素通りして、ここ郷本海岸の空庵に仮住まいをした。良寛が土鍋一つで半年間過ごした空庵は現在の国道より10m海中にあったという。
海の向こうに微かに島影が見える。佐渡島のようだ。海から吹き付ける風は依然強く冷たい。その先で道は二股に分かれるので、右へ七ツ石の集落の中を進んでいくと、右手に「西国三十三か所四国八十八か所納経塔」がある。
金山集落に入ると道は二股に分かれているので、左へ直進すると、右手に「判官地蔵」がある。文治3年(1187)奥州平泉へ落ち行く源義経一行は直江津から船に乗ってこの地に漂着した。この庵は円福寺の前身の西向庵にあったといわれている。村人は一行の身の上を憐れんで、地蔵を祀り、九郎判官義経にちなんで、判官地蔵と呼んだという。
この先で街道から少し外れたところにコンビニがあったので、まだ10時20分だったが、とりあえず昼食のおにぎりを確保しておく。
街道に戻って進むと、右手に「延命地蔵」がある。
右手、階段を上ったところに「八幡神社」があり、階段の右手に「道祖神」がある。
その先右手、やはり階段を上ったところに「円福寺」があり、境内に「七輪石塔」が立っている。これは文治年間(1185~90)に奥州丸山城主佐藤庄司の子供継信、忠信が源義経に従って平家追討の戦いに加わったが、戦死してしまった。そのことを知った庄司の妻音羽御前はこの寺で出家し、石塔を二基建てて、わが子の菩提を弔ったという。
右手に松の巨木が立っている興琳寺があり、その先に照明寺、密蔵院がある。「密蔵院」は良寛が生涯で3度も居住したところで、天保12年(1840)に焼失、昭和33年に再建されたという。この辺りはすでに寺泊に入っているのだが、ここも海岸線まで山が迫ってきている。 従ってお寺はいずれも階段の上の高台にある。
右手に「親鸞聖人」の像が立っており、すぐ横に「白山媛神社」がある。創建は不明だが、承久の乱で敗れた順徳天皇が佐渡下幸の際(1220年代)に参詣されたという言い伝えがあるという。社殿は宝暦8年(1758)に焼失したが、明和8年(1771)に再建されたという。
その横に「生福寺」があるが、ここには元禄2年(1689)から3年間かけて描かれたという「観無量寿経曼荼羅」が所蔵されているという。ここも階段の上の高台だ。
右手に平安時代から明治時代初期まで北陸地方に勢力を振るった豪族菊屋五十嵐氏の邸宅があった跡という「聚感園」がある。
その先、右手に「聖徳寺」がある。ここには江戸時代に描かれたという「初君惜別之図」が所蔵されているという。
左手に文化13年(1816)の庚申塔があり、その先で道は二股に分かれているので、右へ進み、坂を上る。ここは全くの山の中の道だが、舗装されており、雪もないので歩きやすい。その先で8号線に合流して進む。
左手に吉田寺がある。
大河津分水路に突き当たるので右折、川沿いの道を進むと、右手に渡部城址があり、菅原神社の鳥居が立っている。ここの階段に座って昼食のおにぎりを食べる。このあたり店らしきものが全くないので、やはりあの時にコンビニで購入していて正解だったと思う。
渡部橋を渡ってすぐ右折、その先で左折して進むが、このあたりから先がよくわからなかったため、地元自治体に問い合わせをして確認をしていたのだが、やはり道に迷ってしまった。
その先で十字路に出る。「国上寺入り口」の標柱が立っている。
ここから左へ進み、国上バス停から右へ進むと「五合庵直進」と書かれた標示板があり、その横に米山塔があるので、これを左に見ながら坂を上っていく。 右手に国上集落センターがある。ここで道を聞けばいいと最初は思っていたのだが、閉まっていて誰もいない。仕方がないので更に坂を上っていくと、すぐ先から右手へ細い道があるので、この坂を上っていく。いかにも旧道の雰囲気がある。
坂を上ると舗装された道に出た。しかも道は二本ある。ここからわからなくなる。地図を見ながらどうしようかと思っていると、ちょうど車が通りかかったので、地図を見せて教えていただくと、右へ下って十字路を左折していけばいいと教えていただいたので、言われたとおりに右へ舗装された道を下っていくと、何と先ほどの十字路に出てしまった。いよいよわからなくなってきてまごまごしていると、また車が通りかかったので、その方に教えていただくと、今下ってきた道を戻って、その先に下る土道があるはずだと教えていただいた。またもとに戻るのかと思ったが、とにかく行ってみようと思って坂を今度は上っていくと、405号線が二本に分かれるところの右手に「てまりの湯 1.2㎞」と書かれた標柱が立っており、そこから右手へ下る土道があるので、これを下っていく。
ここも全くの山道だ。
地面はぬかるんでいて何度もすべりそうになる。ただ道はしっかりとついているのでそれに従って下っていくと、水路に出た。ここを左折して水路に沿っていくと、左手に「酒呑童子神社」があった。これが目印だったので、無事旧道を歩くことができたとホッとする。
左手に石仏2体と薬師如来を安置した祠がある。
旧道を進んでいくと、左手に「諏訪神社」があり、境内には巨木が立っている。
その先、左手入ったところに「旧武石家」がある。ここには「主屋」「味噌蔵」「薪小屋」「納屋」などがあり、「主屋」は江戸時代初期から中期(1700年頃)の構造、「味噌蔵」は幕末から明治の初期、「薪小屋」は昭和4年、「納屋」は昭和初期に建てられたという。主屋は弥彦村指定文化財、味噌蔵、薪小屋は国の登録有形文化財になっている。
左手から弥彦山スカイラインが合流するところがある。寺泊から海側を通って、スカイラインを歩く道もあるようだが、3月31日まで通行止めになっている。今年は特に雪が多くて4月になってもまだ歩くことができないのではないか言われたため、今回は内陸の道を歩いてきたのだ。歴史的には海側の道のほうが古いが、内陸の道のほうが難所が少ないので、こちらの道がよく利用されたという。その横に観音寺がある。
道は二股に分かれているので、右へ進むと、左手に「庚申塔」「と六十六部供養塔」が立っている。
その先に杉の巨木が立ち並ぶ弥彦神社参道の杉並木がある。
15時32分に弥彦神社のすぐ前にある清水屋旅館に到着する。
ただ、まだ時間は早いし、弥彦神社を見て回ってもそれほど時間がかかりそうになかったので、一休みした後、16時から荷物を置いて先へ進むことにする。明日は又天気が悪そうなので、少しでも先へ進んでおきたいのだ。宿から少し戻って、「北国街道 木戸坂」と標柱が立っているところから右折して進む。弥彦には宿場があったところだ。
突当りを左折、弥彦神社を参拝後、先へ進む。「弥彦神社」の創建は不詳だが、万葉集にも出てくる延喜式内社で越後国一宮だ。社殿は明治45年の火災で焼失、大正5年に再建されたという。
その先も杉並木が立っている。
弥彦競輪場のすぐ先、左手に「宝光院」がある。ここは建久6年(1169)源頼朝の発願によって建立されたもので、境内には松尾芭蕉や良寛上人の歌碑が立っている。また社殿の奥には樹齢1000年といわれる樹高40mの「婆々杉」が立っていて、県指定天然記念物になっている。
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上泉橋の先で道は二股に分かれているので、左の道を進むと、左手に「観音清水」があり、清水の脇には二体の不動明王が立っている。
右手に「金地地蔵」があり、祠の中に二体の地蔵尊が安置されている。
すぐ先、右手に「大日塔」と「庚申塔」がある。ともに年不詳だが、かっては西の山中にあったが、この地に移転したという。
2号線に合流するところ左手に180cmと大きな「庚申塔」が立っている。
左手に二体の地蔵尊を安置する祠がある。前からみると一体のように見えるが、真後ろにもう一体あり、地元では「子育て地蔵」と呼ばれている。
すぐ先、左手に明治25年の「湯殿山」碑が立っている。高さが2mある大きなものだ。
左手に「淨専寺」がある。ここは太田山城守宗親が1600年ごろに寺を建立、文化年間(1804~18)に現在地に移転したという。
次の信号から街道を外れて左折して進むと、「清龍寺」がある。ここは天平8年(736)に行基が開基したといわれている。上杉景勝の書状が寺に残されており、それによると天神山城主小国氏の祈願所であり、越後を平定した上杉氏から特権が与えられていたことなどがわかるという。薬師堂には舟に乗った珍しい地蔵堂があるということだが、見ることはできなかった。
街道に戻って進むが、その先でやはり街道から外れて、左折して進むと、「種月寺」がある。ここは文安3年(1446)に創建されたもので、本堂は元禄12年(1699)に造られたという棟札が残っているという。県指定文化財になっている。
街道に戻って進むと、左手に「石瀬の一本杉」がある。樹齢700年を超えるといわれており、新潟市の天然記念物に指定されている。
岩室の信号のところに岩室村道路元標が立っている。
左手に正徳3年(1713)に建立された「薬師堂」がある。地元ではこの薬師が温泉を授けてくれたといわれているという。
17時50分、ここで今日の歩きを終わることにする。
本日の歩行時間 11時間57分。
本日の歩数&距離 52701歩、38.1km。
7時25分に出発する。今日は幸いなことに雨、雪は降っていない。
「俵小路」の説明板が立っている。それによるとここは陣屋の御米蔵へ米俵を納めるための通路だったそうで、坂道だったため、人夫は大変な苦労をしたという。
右手に「淨玄寺」がある。ここは良寛の妹みか子が嫁に入ったところで、正安3年(1301)に建立されたお寺だが、現在の建物はまだ新しい。
右手に「光照寺」があり、その前に「明治天皇出雲崎行在所」の碑が立っている。昨日も同じ名前のお寺があったが、全く別のお寺ということだった。
出雲崎は右手に山が迫り、左手は海、その間のわずかな土地の両側に特徴のある妻入りの住宅が並んでいる。
井鼻海水浴場のところ、右手に「無縁の塔」、その他に名号石等の石碑が並んで立っている。
どこからともなく鶯の鳴き声が聞こえた。今回の旅で初めて聞く鳴き声だ。なんとも心のなごむ声だ。
はるか前方に弥彦山が霞んで見えるが、まだかなり雪が積もっている。海は今日も激しく波立っている。このあたりはポツンポツンと集落があるが、その間は人家は全くない。
長岡市に入るところで、右手に滝があった。
山田集落に入る。ここは江戸時代宿場があったところだ。集落の入り口右手に「番神堂跡」碑があり、その横に墓が3基ある。
その先右手に「十二神社」がある。資料には米山塔や庚申塔があると記されていたが、見当たらなかった。
すぐ先右手に「明治天皇山田御小休所跡」碑が立っている。
郷本集落には玄徳寺があり、その入り口に「良寛空庵跡」碑が立っている。良寛は寛政8年(1796)備中国(岡山県)玉島円通寺での修行を終えて越後に帰ったが、出雲崎の生家前を素通りして、ここ郷本海岸の空庵に仮住まいをした。良寛が土鍋一つで半年間過ごした空庵は現在の国道より10m海中にあったという。
海の向こうに微かに島影が見える。佐渡島のようだ。海から吹き付ける風は依然強く冷たい。その先で道は二股に分かれるので、右へ七ツ石の集落の中を進んでいくと、右手に「西国三十三か所四国八十八か所納経塔」がある。
金山集落に入ると道は二股に分かれているので、左へ直進すると、右手に「判官地蔵」がある。文治3年(1187)奥州平泉へ落ち行く源義経一行は直江津から船に乗ってこの地に漂着した。この庵は円福寺の前身の西向庵にあったといわれている。村人は一行の身の上を憐れんで、地蔵を祀り、九郎判官義経にちなんで、判官地蔵と呼んだという。
この先で街道から少し外れたところにコンビニがあったので、まだ10時20分だったが、とりあえず昼食のおにぎりを確保しておく。
街道に戻って進むと、右手に「延命地蔵」がある。
右手、階段を上ったところに「八幡神社」があり、階段の右手に「道祖神」がある。
その先右手、やはり階段を上ったところに「円福寺」があり、境内に「七輪石塔」が立っている。これは文治年間(1185~90)に奥州丸山城主佐藤庄司の子供継信、忠信が源義経に従って平家追討の戦いに加わったが、戦死してしまった。そのことを知った庄司の妻音羽御前はこの寺で出家し、石塔を二基建てて、わが子の菩提を弔ったという。
右手に松の巨木が立っている興琳寺があり、その先に照明寺、密蔵院がある。「密蔵院」は良寛が生涯で3度も居住したところで、天保12年(1840)に焼失、昭和33年に再建されたという。この辺りはすでに寺泊に入っているのだが、ここも海岸線まで山が迫ってきている。 従ってお寺はいずれも階段の上の高台にある。
右手に「親鸞聖人」の像が立っており、すぐ横に「白山媛神社」がある。創建は不明だが、承久の乱で敗れた順徳天皇が佐渡下幸の際(1220年代)に参詣されたという言い伝えがあるという。社殿は宝暦8年(1758)に焼失したが、明和8年(1771)に再建されたという。
その横に「生福寺」があるが、ここには元禄2年(1689)から3年間かけて描かれたという「観無量寿経曼荼羅」が所蔵されているという。ここも階段の上の高台だ。
右手に平安時代から明治時代初期まで北陸地方に勢力を振るった豪族菊屋五十嵐氏の邸宅があった跡という「聚感園」がある。
その先、右手に「聖徳寺」がある。ここには江戸時代に描かれたという「初君惜別之図」が所蔵されているという。
左手に文化13年(1816)の庚申塔があり、その先で道は二股に分かれているので、右へ進み、坂を上る。ここは全くの山の中の道だが、舗装されており、雪もないので歩きやすい。その先で8号線に合流して進む。
左手に吉田寺がある。
大河津分水路に突き当たるので右折、川沿いの道を進むと、右手に渡部城址があり、菅原神社の鳥居が立っている。ここの階段に座って昼食のおにぎりを食べる。このあたり店らしきものが全くないので、やはりあの時にコンビニで購入していて正解だったと思う。
渡部橋を渡ってすぐ右折、その先で左折して進むが、このあたりから先がよくわからなかったため、地元自治体に問い合わせをして確認をしていたのだが、やはり道に迷ってしまった。
その先で十字路に出る。「国上寺入り口」の標柱が立っている。
ここから左へ進み、国上バス停から右へ進むと「五合庵直進」と書かれた標示板があり、その横に米山塔があるので、これを左に見ながら坂を上っていく。 右手に国上集落センターがある。ここで道を聞けばいいと最初は思っていたのだが、閉まっていて誰もいない。仕方がないので更に坂を上っていくと、すぐ先から右手へ細い道があるので、この坂を上っていく。いかにも旧道の雰囲気がある。
坂を上ると舗装された道に出た。しかも道は二本ある。ここからわからなくなる。地図を見ながらどうしようかと思っていると、ちょうど車が通りかかったので、地図を見せて教えていただくと、右へ下って十字路を左折していけばいいと教えていただいたので、言われたとおりに右へ舗装された道を下っていくと、何と先ほどの十字路に出てしまった。いよいよわからなくなってきてまごまごしていると、また車が通りかかったので、その方に教えていただくと、今下ってきた道を戻って、その先に下る土道があるはずだと教えていただいた。またもとに戻るのかと思ったが、とにかく行ってみようと思って坂を今度は上っていくと、405号線が二本に分かれるところの右手に「てまりの湯 1.2㎞」と書かれた標柱が立っており、そこから右手へ下る土道があるので、これを下っていく。
ここも全くの山道だ。
地面はぬかるんでいて何度もすべりそうになる。ただ道はしっかりとついているのでそれに従って下っていくと、水路に出た。ここを左折して水路に沿っていくと、左手に「酒呑童子神社」があった。これが目印だったので、無事旧道を歩くことができたとホッとする。
左手に石仏2体と薬師如来を安置した祠がある。
旧道を進んでいくと、左手に「諏訪神社」があり、境内には巨木が立っている。
その先、左手入ったところに「旧武石家」がある。ここには「主屋」「味噌蔵」「薪小屋」「納屋」などがあり、「主屋」は江戸時代初期から中期(1700年頃)の構造、「味噌蔵」は幕末から明治の初期、「薪小屋」は昭和4年、「納屋」は昭和初期に建てられたという。主屋は弥彦村指定文化財、味噌蔵、薪小屋は国の登録有形文化財になっている。
左手から弥彦山スカイラインが合流するところがある。寺泊から海側を通って、スカイラインを歩く道もあるようだが、3月31日まで通行止めになっている。今年は特に雪が多くて4月になってもまだ歩くことができないのではないか言われたため、今回は内陸の道を歩いてきたのだ。歴史的には海側の道のほうが古いが、内陸の道のほうが難所が少ないので、こちらの道がよく利用されたという。その横に観音寺がある。
道は二股に分かれているので、右へ進むと、左手に「庚申塔」「と六十六部供養塔」が立っている。
その先に杉の巨木が立ち並ぶ弥彦神社参道の杉並木がある。
15時32分に弥彦神社のすぐ前にある清水屋旅館に到着する。
ただ、まだ時間は早いし、弥彦神社を見て回ってもそれほど時間がかかりそうになかったので、一休みした後、16時から荷物を置いて先へ進むことにする。明日は又天気が悪そうなので、少しでも先へ進んでおきたいのだ。宿から少し戻って、「北国街道 木戸坂」と標柱が立っているところから右折して進む。弥彦には宿場があったところだ。
突当りを左折、弥彦神社を参拝後、先へ進む。「弥彦神社」の創建は不詳だが、万葉集にも出てくる延喜式内社で越後国一宮だ。社殿は明治45年の火災で焼失、大正5年に再建されたという。
その先も杉並木が立っている。
弥彦競輪場のすぐ先、左手に「宝光院」がある。ここは建久6年(1169)源頼朝の発願によって建立されたもので、境内には松尾芭蕉や良寛上人の歌碑が立っている。また社殿の奥には樹齢1000年といわれる樹高40mの「婆々杉」が立っていて、県指定天然記念物になっている。
上泉橋の先で道は二股に分かれているので、左の道を進むと、左手に「観音清水」があり、清水の脇には二体の不動明王が立っている。
右手に「金地地蔵」があり、祠の中に二体の地蔵尊が安置されている。
すぐ先、右手に「大日塔」と「庚申塔」がある。ともに年不詳だが、かっては西の山中にあったが、この地に移転したという。
2号線に合流するところ左手に180cmと大きな「庚申塔」が立っている。
左手に二体の地蔵尊を安置する祠がある。前からみると一体のように見えるが、真後ろにもう一体あり、地元では「子育て地蔵」と呼ばれている。
すぐ先、左手に明治25年の「湯殿山」碑が立っている。高さが2mある大きなものだ。
左手に「淨専寺」がある。ここは太田山城守宗親が1600年ごろに寺を建立、文化年間(1804~18)に現在地に移転したという。
次の信号から街道を外れて左折して進むと、「清龍寺」がある。ここは天平8年(736)に行基が開基したといわれている。上杉景勝の書状が寺に残されており、それによると天神山城主小国氏の祈願所であり、越後を平定した上杉氏から特権が与えられていたことなどがわかるという。薬師堂には舟に乗った珍しい地蔵堂があるということだが、見ることはできなかった。
街道に戻って進むが、その先でやはり街道から外れて、左折して進むと、「種月寺」がある。ここは文安3年(1446)に創建されたもので、本堂は元禄12年(1699)に造られたという棟札が残っているという。県指定文化財になっている。
街道に戻って進むと、左手に「石瀬の一本杉」がある。樹齢700年を超えるといわれており、新潟市の天然記念物に指定されている。
岩室の信号のところに岩室村道路元標が立っている。
左手に正徳3年(1713)に建立された「薬師堂」がある。地元ではこの薬師が温泉を授けてくれたといわれているという。
17時50分、ここで今日の歩きを終わることにする。
本日の歩行時間 11時間57分。
本日の歩数&距離 52701歩、38.1km。