2012年03月25日(日)
犀潟~米山
曇り時々雪
犀潟駅に9時16分に着き、歩き始める。もともとの旧道は砂丘と思われる山並みの内側を通っていたようで、現在の道に置き換えることは困難と資料ではなっている。そのため129号線を進むことにする。この道は一直線で、車の通りも少なく歩きやすい。
今日の天気予報では暴風雨となっていたが、幸い小雨が降っている程度なのでこの時はほっとする。ところがそれほど行かないうちに、風が強くなり、みぞれが降ってきた。かなり寒い。
左手に「火防地蔵尊」がある。ここにはかって防火を目的とした土塁が築かれていたという。
この少し手前あたりが潟町宿があったところだ。以前は黒井宿の次は柿崎宿だったそうだが、この間が四里あったことや、この辺りは浜辺の砂丘地で自然条件が悪く、交通に支障をきたしていた等の理由からこの地に新しく潟町宿を設置したという。
左手に潟町郵便局があるが、その少し先右手に「明治天皇潟町行在所」碑が立っている。
潟町駅へ向かう道が右へ分岐しているところ右手に「米山道」「「左 奥州道」と刻まれた道標が立っている。
左手に「どんとの石井戸」がある。ここは九戸浜と呼ばれていて、これはアイヌ語で「水気のある川、池のほとりのこんもりした丘陵」という意味といわれており、この井戸はどんな炎天下でも枯れることなく水が湧き出ていると資料に記されている。いまでも一部利用されているが、昭和25年頃までは村人の飲料水として利用されていたという。
左手に明治24年の筆塚を見ながら進んでいくと、左手に樹齢240年になるという黒松の防砂林がある。
その先で正行寺の裏手を通る旧道がわずかの距離だが残っている。
その先で再度129号線に合流して進むと、左手に了蓮寺がある。さらにその先左手に光徳寺がある。この辺りは海が近いせいか風が強く、ゴーゴーという風の音がすさまじい。風だけだとまだいいのだが、みぞれが降っているので傘を飛ばされないように、しっかりとつかんで進む。予報通りの暴風雨、いや暴風雪だ。
左手に藤野条助のまだ新しい碑が立っている。江戸時代にこの地に黒松を植えて防砂林とした人の顕彰碑だ。その先で道は二股に分かれており、旧道は直進するのだが、その先で行き止まりになっているため、右へ曲がる129号線を進む。
左手に「黒川神社」があり、境内には安政5年(1858)の石灯篭が立っている。
その先が柿崎宿があったところで、町並みが続いており、その中にお店があったのでそこに入って昼食にする。このあたりまで来るとみぞれは止んで、時折晴れ間が見え始めたのでほっとしたが、それもつかの間ですぐにまた風雪が強くなってきた。 その先で8号線に合流する。
右手に「二十三夜塔」「念仏供養塔」が立っている。
JRの線路に沿って伸びている8号線を進むが、線路の向こうは日本海だ。道路にある温度計が4℃を示しているが、とにかく風が強いので体感温度はさらに低く感じる。
左手に米山駅が見える少し先、左手に米山コミュニティセンターがある。事前調査で色々とお世話になったところなので立ち寄ってみたが、今日はあいにく日曜日でお休み。男性の方が一人おられたのでお礼を申し上げておく。そのすぐ先で旧道は8号線から左へ分岐しているので、これを進むと、右手に「たわら屋」跡がある。ここは松尾芭蕉が奥の細道を旅したときに宿泊したところというが、今は遺構は残ってなくて空き地になっていた。
その先左手に「鉢崎関所」跡の石碑と女性の通行手形を定めた高札が立っている。鉢崎関所は、慶長2年上杉家により設けられ、江戸時代には徳川幕府の全国53関所の1つとして領内出入りを取り締まり、越後頸城地方の三関(関川・鉢崎・市振)として重要な役割を持たされていたという。同じ頃、この鉢崎は北国街道の宿場町としても栄え、また、佐渡からの金銀輸送の継送に際し御金蔵が置かれ、金箱が納蔵されると、その夜は番頭を中心に70人もの人で警備にあたったという。この輸送は年に数回もあって、宿場側にとっては大きな負担になったという。
ここから坂を上って聖ケ鼻へ向かうのだが、ここから先の道は平成19年の中越地震で崩壊していて歩くことができないという。どのようになっているのかと思って見に行ってみたが、確かに大規模な崩落が起きていて道路が完全に寸断されていた。自然のすごさ、怖さを実感する。ここも猛烈な風が吹き荒れていて、じっと立っていることができないので、かろうじて写真を一枚だけ撮って右へ坂を下った。
右手に「蓮光院」があり、ここに「はっさき地蔵尊」がある。江戸時代の北国街道はこのあたりでは海沿いを通っていたため、冬の荒れる日本海では命がけだった。そのため通行安全を願って大小数多くの石像地蔵尊が祀られていたが、明治29年に信越本線がこの地を通る際、岩に刻まれたご本尊は移転できなかったため、爆破してしまった。ところがそれ以降、工事中に事故が相次いだため、散逸した仏体を拾い集めて新たにここにお堂を建立したところ、工事は順調に進んだという。
8号線に合流し、米山トンネルを抜けると、すぐ先で8号線から分岐して左へ下る道があるので、これを進むと、坂を下ったところに祓川橋が架かっており、その左手に天保4年(1833)ともう一つは年不詳の題目石が二基立っている。
橋を渡った右手に巨岩があり、そこに明治12年の米山塔や庚申塔が立っている。「米山塔」はこの地域でよく見かける石碑で新潟県内で約400基あるといわれており、柏崎市近辺にある米山への信仰からきているという。
その先右手に天明2年(1782)の題目石や二十三夜塔等が立っている。
その先で道は二股に分かれているので左手の坂を上っていく。このあたりも風が強く、更に雪も舞ってきて歩くのが大変だった。とにかく傘が飛ばされないように、壊されないように注意をしながら進む。傘が壊れると、傘を売っている店などないので大変なのだ。
このあたりに弁慶の産清水があると教えていただいていたのだがわからなかった。というか歩くだけで精一杯で探す余裕がなかった。
市指定の天然記念物になっている「牛が首層内褶曲」がある。これは米山周辺でよく見られる層内褶曲だ。
天気が良ければ佐渡島が見えるそうだが、あいにくの天気で全く見ることができない。
その先で道は二股に分かれているので、左へ進むと右手に天保と読むことができる庚申塔や二十三夜塔等数多くの石仏が立っている「多聞寺」がある。
ここから左へ坂を下っていくと、左手に笠島駅がある。その先で道は坂を上るが、その途中右手に石仏群がある。いずれも年不詳で、このあたりにあったものをここへ集めたような感じだ。
その先、左手にJRのトンネルが見えるところから細い坂道を上っていくと、道は二股に分かれている。本来の旧道は右手の細道なのでこれを進むと、高崎臨海学校のグラウンドに突き当たる。ここに一里塚の跡である「ヨロンゴ」がある。
道はグラウンドで途切れているので、少し戻って左へ細道の階段を下って下の道に合流する。この道は先ほど二股に分岐したところから左へ伸びている道だ。その先で8号線に合流する。右手に国民休養地を見ながら進み、左手に「青海川海水浴場」の標柱が立っているところから8号線から分岐して左へ進む。
すぐ先、左手に「明治天皇青海川行在所」碑が立っている。
左手に新茶屋という酒屋があるところの左手に細い道が下っている。入り口に「旧北国街道」「青海川駅」の標柱が立っており、その横に「牛頭大王」と刻まれた碑が立っている。
急な坂を下っていくと左手に青海川駅が見え、そこから伸びている道を横断して進むと向田橋が架かっており、これを渡って進むと行き止まりになっている。おかしいなと思って元に戻って地図を改めてみていると、地元の方がおられたので、道をお聞きすると、橋の手前から左へ進むと教えていただいたので、もう一度橋のところに行ってみた。そうすると、橋の手前に一本の木が橋として架けられており、それを渡ってJRのガード下を抜けると道が続いていた。
右手にJRのトンネルを見ながら急な崖を上っていくと、上ったところに「青海川駅 北国街道 六割坂」の標柱が立っていた。逆からくるとこの道はわかりやすいが、今回通った道は入り口がわかりにくかった。
ここからすぐ先に今日の宿であるホテルシーポートがあった。
17時17分に到着する。
今日は一日中風が強く、雪も降って、とても寒い一日だった。
本日の歩行時間 8時間1分。
本日の歩数&距離 40448歩、28.4km。
犀潟駅に9時16分に着き、歩き始める。もともとの旧道は砂丘と思われる山並みの内側を通っていたようで、現在の道に置き換えることは困難と資料ではなっている。そのため129号線を進むことにする。この道は一直線で、車の通りも少なく歩きやすい。
今日の天気予報では暴風雨となっていたが、幸い小雨が降っている程度なのでこの時はほっとする。ところがそれほど行かないうちに、風が強くなり、みぞれが降ってきた。かなり寒い。
左手に「火防地蔵尊」がある。ここにはかって防火を目的とした土塁が築かれていたという。
この少し手前あたりが潟町宿があったところだ。以前は黒井宿の次は柿崎宿だったそうだが、この間が四里あったことや、この辺りは浜辺の砂丘地で自然条件が悪く、交通に支障をきたしていた等の理由からこの地に新しく潟町宿を設置したという。
左手に潟町郵便局があるが、その少し先右手に「明治天皇潟町行在所」碑が立っている。
潟町駅へ向かう道が右へ分岐しているところ右手に「米山道」「「左 奥州道」と刻まれた道標が立っている。
左手に「どんとの石井戸」がある。ここは九戸浜と呼ばれていて、これはアイヌ語で「水気のある川、池のほとりのこんもりした丘陵」という意味といわれており、この井戸はどんな炎天下でも枯れることなく水が湧き出ていると資料に記されている。いまでも一部利用されているが、昭和25年頃までは村人の飲料水として利用されていたという。
左手に明治24年の筆塚を見ながら進んでいくと、左手に樹齢240年になるという黒松の防砂林がある。
その先で正行寺の裏手を通る旧道がわずかの距離だが残っている。
その先で再度129号線に合流して進むと、左手に了蓮寺がある。さらにその先左手に光徳寺がある。この辺りは海が近いせいか風が強く、ゴーゴーという風の音がすさまじい。風だけだとまだいいのだが、みぞれが降っているので傘を飛ばされないように、しっかりとつかんで進む。予報通りの暴風雨、いや暴風雪だ。
左手に藤野条助のまだ新しい碑が立っている。江戸時代にこの地に黒松を植えて防砂林とした人の顕彰碑だ。その先で道は二股に分かれており、旧道は直進するのだが、その先で行き止まりになっているため、右へ曲がる129号線を進む。
左手に「黒川神社」があり、境内には安政5年(1858)の石灯篭が立っている。
その先が柿崎宿があったところで、町並みが続いており、その中にお店があったのでそこに入って昼食にする。このあたりまで来るとみぞれは止んで、時折晴れ間が見え始めたのでほっとしたが、それもつかの間ですぐにまた風雪が強くなってきた。 その先で8号線に合流する。
右手に「二十三夜塔」「念仏供養塔」が立っている。
JRの線路に沿って伸びている8号線を進むが、線路の向こうは日本海だ。道路にある温度計が4℃を示しているが、とにかく風が強いので体感温度はさらに低く感じる。
左手に米山駅が見える少し先、左手に米山コミュニティセンターがある。事前調査で色々とお世話になったところなので立ち寄ってみたが、今日はあいにく日曜日でお休み。男性の方が一人おられたのでお礼を申し上げておく。そのすぐ先で旧道は8号線から左へ分岐しているので、これを進むと、右手に「たわら屋」跡がある。ここは松尾芭蕉が奥の細道を旅したときに宿泊したところというが、今は遺構は残ってなくて空き地になっていた。
その先左手に「鉢崎関所」跡の石碑と女性の通行手形を定めた高札が立っている。鉢崎関所は、慶長2年上杉家により設けられ、江戸時代には徳川幕府の全国53関所の1つとして領内出入りを取り締まり、越後頸城地方の三関(関川・鉢崎・市振)として重要な役割を持たされていたという。同じ頃、この鉢崎は北国街道の宿場町としても栄え、また、佐渡からの金銀輸送の継送に際し御金蔵が置かれ、金箱が納蔵されると、その夜は番頭を中心に70人もの人で警備にあたったという。この輸送は年に数回もあって、宿場側にとっては大きな負担になったという。
ここから坂を上って聖ケ鼻へ向かうのだが、ここから先の道は平成19年の中越地震で崩壊していて歩くことができないという。どのようになっているのかと思って見に行ってみたが、確かに大規模な崩落が起きていて道路が完全に寸断されていた。自然のすごさ、怖さを実感する。ここも猛烈な風が吹き荒れていて、じっと立っていることができないので、かろうじて写真を一枚だけ撮って右へ坂を下った。
右手に「蓮光院」があり、ここに「はっさき地蔵尊」がある。江戸時代の北国街道はこのあたりでは海沿いを通っていたため、冬の荒れる日本海では命がけだった。そのため通行安全を願って大小数多くの石像地蔵尊が祀られていたが、明治29年に信越本線がこの地を通る際、岩に刻まれたご本尊は移転できなかったため、爆破してしまった。ところがそれ以降、工事中に事故が相次いだため、散逸した仏体を拾い集めて新たにここにお堂を建立したところ、工事は順調に進んだという。
8号線に合流し、米山トンネルを抜けると、すぐ先で8号線から分岐して左へ下る道があるので、これを進むと、坂を下ったところに祓川橋が架かっており、その左手に天保4年(1833)ともう一つは年不詳の題目石が二基立っている。
橋を渡った右手に巨岩があり、そこに明治12年の米山塔や庚申塔が立っている。「米山塔」はこの地域でよく見かける石碑で新潟県内で約400基あるといわれており、柏崎市近辺にある米山への信仰からきているという。
その先右手に天明2年(1782)の題目石や二十三夜塔等が立っている。
その先で道は二股に分かれているので左手の坂を上っていく。このあたりも風が強く、更に雪も舞ってきて歩くのが大変だった。とにかく傘が飛ばされないように、壊されないように注意をしながら進む。傘が壊れると、傘を売っている店などないので大変なのだ。
このあたりに弁慶の産清水があると教えていただいていたのだがわからなかった。というか歩くだけで精一杯で探す余裕がなかった。
市指定の天然記念物になっている「牛が首層内褶曲」がある。これは米山周辺でよく見られる層内褶曲だ。
天気が良ければ佐渡島が見えるそうだが、あいにくの天気で全く見ることができない。
その先で道は二股に分かれているので、左へ進むと右手に天保と読むことができる庚申塔や二十三夜塔等数多くの石仏が立っている「多聞寺」がある。
ここから左へ坂を下っていくと、左手に笠島駅がある。その先で道は坂を上るが、その途中右手に石仏群がある。いずれも年不詳で、このあたりにあったものをここへ集めたような感じだ。
その先、左手にJRのトンネルが見えるところから細い坂道を上っていくと、道は二股に分かれている。本来の旧道は右手の細道なのでこれを進むと、高崎臨海学校のグラウンドに突き当たる。ここに一里塚の跡である「ヨロンゴ」がある。
道はグラウンドで途切れているので、少し戻って左へ細道の階段を下って下の道に合流する。この道は先ほど二股に分岐したところから左へ伸びている道だ。その先で8号線に合流する。右手に国民休養地を見ながら進み、左手に「青海川海水浴場」の標柱が立っているところから8号線から分岐して左へ進む。
すぐ先、左手に「明治天皇青海川行在所」碑が立っている。
左手に新茶屋という酒屋があるところの左手に細い道が下っている。入り口に「旧北国街道」「青海川駅」の標柱が立っており、その横に「牛頭大王」と刻まれた碑が立っている。
急な坂を下っていくと左手に青海川駅が見え、そこから伸びている道を横断して進むと向田橋が架かっており、これを渡って進むと行き止まりになっている。おかしいなと思って元に戻って地図を改めてみていると、地元の方がおられたので、道をお聞きすると、橋の手前から左へ進むと教えていただいたので、もう一度橋のところに行ってみた。そうすると、橋の手前に一本の木が橋として架けられており、それを渡ってJRのガード下を抜けると道が続いていた。
右手にJRのトンネルを見ながら急な崖を上っていくと、上ったところに「青海川駅 北国街道 六割坂」の標柱が立っていた。逆からくるとこの道はわかりやすいが、今回通った道は入り口がわかりにくかった。
ここからすぐ先に今日の宿であるホテルシーポートがあった。
17時17分に到着する。
今日は一日中風が強く、雪も降って、とても寒い一日だった。
本日の歩行時間 8時間1分。
本日の歩数&距離 40448歩、28.4km。