2011年11月11日(金)
野尻~関川~田切~関山~松崎・二本木~新井~高田~脇野田
雨
6時55分に昨日歩いたスノーシェードの入り口から出発する。今日は朝から雨が降っている。雨の中を歩くのは嫌なものだが、ここまでくればもう先へ進むしかない。
豪雪地帯を象徴するようなスノーシェードは二か所あった。
赤川一里塚跡の標識が立っている。
左手小高いところにに「赤川神社」があり、石の祠の裏側に道標地蔵があって、「右 やまみち」「左 ぜんこうじみち」と刻まれているようだが、小さい祠だったので、ついうっかり調べないままに通り過ぎてしまった。 失敗だ。
旧国道から右へ分岐して一ノ橋を渡ると、そこに「関川の関所」跡がある。ここが信越国境で、参勤交代の道として、更に佐渡産金の輸送路として非常に重要な関所だったという。延享2年(1745)には全国に53の関所があったが、中でも特に重要な20関を「重き関所」としており、越後国内で「重き関所」はこの関川関所のみだったという。
左手に「淨善寺」がある。ここの第五世住職が一茶の弟子で、一茶と懇意にしていたことから、一茶の句碑が立っている。
右手に「明治天皇関川行在所址」碑が立っている。
左手に「天神社」があり、境内に樹齢800年以上という杉の巨木が立っており、国指定天然記念物になっている。
このあたり、冬の雪対策として、木々を支柱で囲っている。
右手に星野公園があり、そこに「スキー神社」がある。いかにも雪国らしい名前だ。
このあたりから毛祝坂地区に入るが、その先左手に「神明神社」があり、ここも杉の巨木が立っている。 ここは毛祝坂新田が開かれた正保5年(1648)の創建と伝えられている。
右手に「清き泉」がある。加賀前田藩主は参勤交代の際、この泉で身を清め、毛祝坂神名神社に参拝したという。
深沢橋を渡り、妙高高原北小学校の前に一里塚跡の標柱が立っている。
18号線を横断したところの少し上に天保11年(1840)の「馬頭観音」が立っている。
白田切川に架かる第2白田切橋を渡り、18号線のガード下をくぐったところ右手に、天明6年(1768)と町内では最も古いという「馬頭観音」と「聖徳太子碑」がある。
右手に榎が立っており、その下に「筆塚」があって、かすかに嘉永の文字を読むことができる。
左手に「明治天皇二俣御小休所址」碑が立っている。
左手に「西蓮寺」があり、創建年は不詳で信州壇田村(長野市)に創建されたが、弘治元年(1555)に焼失、慶長18年(1613)にこの地で再建、その後も火災で焼失し、明治25年に再建されたという。裏に神名神社があり、その前に複数の石仏がある。
左手に「馬頭観音」があり、その先橋の袂左手に近在の物をあつめたという「五輪塔」と「御館の乱、無名戦士の墓」と書かれた標柱が立っている。御館の乱とは天正6年(1578)の上杉謙信急死後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎との間で起こった内乱のことだ。
すぐ先で18号線に合流、その先で18号線から分岐して右へ進み、更にその先で18号線を横断、橋を渡ったところ左手に「馬頭観音」があって、湧水が流れている。ここは参勤交代の人々が水を飲んだところといい、新潟県名水百選大田切沢水として指定されている。
このあたりの家の屋根に特徴がある。これも豪雪対策なのだろうが、雪を家の裏側に落とすように作られているようだ。また道路の両端に紅白のポールが立っている。これも雪国の特徴だ。
坂口北の信号で18号線に合流、すぐ先で右斜めへ分岐、その先で18号線に合流、すぐに今度は左へ分岐と18号線と分岐、合流を繰り返す。
左手に秋葉神社があり、その先左手に「興善寺」がある。
右手に「大日如来坐像」と6体の「馬頭観音」がある。これも周囲にあったものを集めたものという。
道が左へカーブするところ右手に墓地があり、安政6年(1859)や嘉永7年(1854)といった数基の五輪塔があるが、ここは昔の刑場跡ということだ。
「泉地蔵尊」という大小2体の地蔵尊があり、ここから右折する。
関山神社バス停手前の細道を左折して進むと、右手に頭部だけの「弥勒菩薩」があり、県指定文化財になっている。
「関山神社」がある。ここは上杉謙信のころは加賀白山信仰や信州戸隠信仰との関連が強かったようで、七堂伽藍70余坊があったが、天正10年(1582)織田信長の家臣森勝蔵によって焼き払われてしまった。その後江戸幕府高田藩によって修復がなされたといったという。ここには仏足石があるが、小屋が閉められていて見ることができなかった。またここには平安時代末から鎌倉時代、一部は室町時代のものも含まれている石仏群があり、全部で25体安置されているという。神社正面には「明治天皇御駐輦碑」が立っている。
左手に「一里塚」がある。ここは片側のみだが、ほぼ完全な形で残っている。
右手、少し入ったところに「稲荷神社」があり、境内に平安時代末から鎌倉時代初めのものといわれる「猿石」と石造祠が並んでいる。
右手に「覚願寺」があり、その先右手に「筆塚」がある。年号は読めなかったが、資料によると嘉永3年(1850)のものという。
片貝橋を渡って進むと、左手岩の上に「馬頭観音」が3体が安置されている。
左手に「若宮神社」を見ながら進み、北国片貝踏切でJRの線路を横断する。
左手に岩をくりぬいた祠の中に石仏が安置されている。
右手に「安楽寺」がある。松崎・二本木宿は本陣が設けられず、この寺が本陣として利用されていたという。ここで昼食にする。今日もコンビニのおにぎりだ。飢餓状態に弱い私にとって、昼食は欠かすことができない重要なポイントなのです。
左手に「白山神社」があり、その境内に「従是内 口附無之 小荷駄乗通るべからず 邑の内 咥きせる無用 二本木宿」と刻まれた石柱が立っており、神社の横に「明治天皇二本木御小休所」碑が立っている。
北国街道踏切でJRの線路を横断するが、線路の消雪パイプから水が出ていた。
右手に二体の石仏を安置する祠があり、更にその先右手にも彩色を施した二体の石仏を安置している祠がある。
右手に「一里塚」がある。ここは片側のみだが、原型をとどめている。
左手に馬頭観音、その先右手に小祠があって一体の石仏が安置されている。
左手に神明神社があり、その先で一体の石仏を安置する小祠、更に左手に大小二体の石仏を安置する小祠がある。このあたり、こういった石仏が多い。
小出雲坂と松並木の説明板が立っている。それによると小出雲坂は上越市中郷区板橋と妙高市小出雲の間にある坂のことで、かって「越後見納め小出雲坂よ。ほろと泣いたを何時忘られよ」と里歌に歌われたように、この場所が高田平野を一望できる最後の場所だったという。
右手に「賀茂神社」があり、その先左手入ったところに「興雲寺」、その奥に享保16年(1731)に再建されたという「照光寺」がある。
その先の交差点右手に道標があり、「右 善光寺道」「左 飯山道」と刻まれている。これは近年になって建てられた新しい道標で、以前のものは賀茂神社境内にあると資料には書かれている。賀茂神社を訪れたときには気が付かなかった。見落としたのかもしれない。
辻屋橋を渡って進むと、左手に「上町延命地蔵」がある。江戸時代の初め、地蔵堂の尼僧がため池で人の呼ぶ声が聞こえたので、池を浚って見ると地蔵尊が二体出てきたので、これを祀ったところ、参詣した人に御利益があったので、次第に信仰する人が増え、明治に入ってお堂を建立したいう。お堂の前に題目石が二基立っている。
新井宿を通るが、ここは現在でも繁華な町だ。
左手に「東本願寺 新井別院」がある。ここは貞享2年(1685)に願生寺跡地を掛所として上信越地方末寺を管理したのが始まりという。その後焼失、再建を繰り返し、明治11年の明治天皇北陸巡幸にあたって、上杉謙信が幼少の頃、修行したという宝蔵院の庫裏を移設して行在所にあて、明治28年に現本堂を再建したという。「明治天皇新井行在所」碑が前に立っている。
石塚の一里塚跡碑が立っているが、遺構は残っていない。
しばらく歩いていくと、左手に石仏三体があり、更にその先右手に慶応元年(1865)の筆塚が立っている。
このあたりあまり見るものがなく、黙々と歩いていき、石沢踏切でJRの線路を横断して進む。
右手に大小二体の地蔵尊を安置する地蔵堂があり、その先左手に「明治天皇石沢御小休所址」碑が立っている。矢代川に架かる瀬渡橋を渡り、その先で16時30分に脇野田の駅に着き、今日の宿がある新井までJRで引き返す。
今日は終日雨が降り続いた一日だった。雨の中を歩くのは嫌なものだ。
本日の歩行時間 9時間35分。
本日の歩数&距離 48574歩、35.8km。
6時55分に昨日歩いたスノーシェードの入り口から出発する。今日は朝から雨が降っている。雨の中を歩くのは嫌なものだが、ここまでくればもう先へ進むしかない。
豪雪地帯を象徴するようなスノーシェードは二か所あった。
赤川一里塚跡の標識が立っている。
左手小高いところにに「赤川神社」があり、石の祠の裏側に道標地蔵があって、「右 やまみち」「左 ぜんこうじみち」と刻まれているようだが、小さい祠だったので、ついうっかり調べないままに通り過ぎてしまった。 失敗だ。
旧国道から右へ分岐して一ノ橋を渡ると、そこに「関川の関所」跡がある。ここが信越国境で、参勤交代の道として、更に佐渡産金の輸送路として非常に重要な関所だったという。延享2年(1745)には全国に53の関所があったが、中でも特に重要な20関を「重き関所」としており、越後国内で「重き関所」はこの関川関所のみだったという。
左手に「淨善寺」がある。ここの第五世住職が一茶の弟子で、一茶と懇意にしていたことから、一茶の句碑が立っている。
右手に「明治天皇関川行在所址」碑が立っている。
左手に「天神社」があり、境内に樹齢800年以上という杉の巨木が立っており、国指定天然記念物になっている。
このあたり、冬の雪対策として、木々を支柱で囲っている。
右手に星野公園があり、そこに「スキー神社」がある。いかにも雪国らしい名前だ。
このあたりから毛祝坂地区に入るが、その先左手に「神明神社」があり、ここも杉の巨木が立っている。 ここは毛祝坂新田が開かれた正保5年(1648)の創建と伝えられている。
右手に「清き泉」がある。加賀前田藩主は参勤交代の際、この泉で身を清め、毛祝坂神名神社に参拝したという。
深沢橋を渡り、妙高高原北小学校の前に一里塚跡の標柱が立っている。
18号線を横断したところの少し上に天保11年(1840)の「馬頭観音」が立っている。
白田切川に架かる第2白田切橋を渡り、18号線のガード下をくぐったところ右手に、天明6年(1768)と町内では最も古いという「馬頭観音」と「聖徳太子碑」がある。
右手に榎が立っており、その下に「筆塚」があって、かすかに嘉永の文字を読むことができる。
左手に「明治天皇二俣御小休所址」碑が立っている。
左手に「西蓮寺」があり、創建年は不詳で信州壇田村(長野市)に創建されたが、弘治元年(1555)に焼失、慶長18年(1613)にこの地で再建、その後も火災で焼失し、明治25年に再建されたという。裏に神名神社があり、その前に複数の石仏がある。
左手に「馬頭観音」があり、その先橋の袂左手に近在の物をあつめたという「五輪塔」と「御館の乱、無名戦士の墓」と書かれた標柱が立っている。御館の乱とは天正6年(1578)の上杉謙信急死後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎との間で起こった内乱のことだ。
すぐ先で18号線に合流、その先で18号線から分岐して右へ進み、更にその先で18号線を横断、橋を渡ったところ左手に「馬頭観音」があって、湧水が流れている。ここは参勤交代の人々が水を飲んだところといい、新潟県名水百選大田切沢水として指定されている。
このあたりの家の屋根に特徴がある。これも豪雪対策なのだろうが、雪を家の裏側に落とすように作られているようだ。また道路の両端に紅白のポールが立っている。これも雪国の特徴だ。
坂口北の信号で18号線に合流、すぐ先で右斜めへ分岐、その先で18号線に合流、すぐに今度は左へ分岐と18号線と分岐、合流を繰り返す。
左手に秋葉神社があり、その先左手に「興善寺」がある。
右手に「大日如来坐像」と6体の「馬頭観音」がある。これも周囲にあったものを集めたものという。
道が左へカーブするところ右手に墓地があり、安政6年(1859)や嘉永7年(1854)といった数基の五輪塔があるが、ここは昔の刑場跡ということだ。
「泉地蔵尊」という大小2体の地蔵尊があり、ここから右折する。
関山神社バス停手前の細道を左折して進むと、右手に頭部だけの「弥勒菩薩」があり、県指定文化財になっている。
「関山神社」がある。ここは上杉謙信のころは加賀白山信仰や信州戸隠信仰との関連が強かったようで、七堂伽藍70余坊があったが、天正10年(1582)織田信長の家臣森勝蔵によって焼き払われてしまった。その後江戸幕府高田藩によって修復がなされたといったという。ここには仏足石があるが、小屋が閉められていて見ることができなかった。またここには平安時代末から鎌倉時代、一部は室町時代のものも含まれている石仏群があり、全部で25体安置されているという。神社正面には「明治天皇御駐輦碑」が立っている。
左手に「一里塚」がある。ここは片側のみだが、ほぼ完全な形で残っている。
右手、少し入ったところに「稲荷神社」があり、境内に平安時代末から鎌倉時代初めのものといわれる「猿石」と石造祠が並んでいる。
右手に「覚願寺」があり、その先右手に「筆塚」がある。年号は読めなかったが、資料によると嘉永3年(1850)のものという。
片貝橋を渡って進むと、左手岩の上に「馬頭観音」が3体が安置されている。
左手に「若宮神社」を見ながら進み、北国片貝踏切でJRの線路を横断する。
左手に岩をくりぬいた祠の中に石仏が安置されている。
右手に「安楽寺」がある。松崎・二本木宿は本陣が設けられず、この寺が本陣として利用されていたという。ここで昼食にする。今日もコンビニのおにぎりだ。飢餓状態に弱い私にとって、昼食は欠かすことができない重要なポイントなのです。
左手に「白山神社」があり、その境内に「従是内 口附無之 小荷駄乗通るべからず 邑の内 咥きせる無用 二本木宿」と刻まれた石柱が立っており、神社の横に「明治天皇二本木御小休所」碑が立っている。
北国街道踏切でJRの線路を横断するが、線路の消雪パイプから水が出ていた。
右手に二体の石仏を安置する祠があり、更にその先右手にも彩色を施した二体の石仏を安置している祠がある。
右手に「一里塚」がある。ここは片側のみだが、原型をとどめている。
左手に馬頭観音、その先右手に小祠があって一体の石仏が安置されている。
左手に神明神社があり、その先で一体の石仏を安置する小祠、更に左手に大小二体の石仏を安置する小祠がある。このあたり、こういった石仏が多い。
小出雲坂と松並木の説明板が立っている。それによると小出雲坂は上越市中郷区板橋と妙高市小出雲の間にある坂のことで、かって「越後見納め小出雲坂よ。ほろと泣いたを何時忘られよ」と里歌に歌われたように、この場所が高田平野を一望できる最後の場所だったという。
右手に「賀茂神社」があり、その先左手入ったところに「興雲寺」、その奥に享保16年(1731)に再建されたという「照光寺」がある。
その先の交差点右手に道標があり、「右 善光寺道」「左 飯山道」と刻まれている。これは近年になって建てられた新しい道標で、以前のものは賀茂神社境内にあると資料には書かれている。賀茂神社を訪れたときには気が付かなかった。見落としたのかもしれない。
辻屋橋を渡って進むと、左手に「上町延命地蔵」がある。江戸時代の初め、地蔵堂の尼僧がため池で人の呼ぶ声が聞こえたので、池を浚って見ると地蔵尊が二体出てきたので、これを祀ったところ、参詣した人に御利益があったので、次第に信仰する人が増え、明治に入ってお堂を建立したいう。お堂の前に題目石が二基立っている。
新井宿を通るが、ここは現在でも繁華な町だ。
左手に「東本願寺 新井別院」がある。ここは貞享2年(1685)に願生寺跡地を掛所として上信越地方末寺を管理したのが始まりという。その後焼失、再建を繰り返し、明治11年の明治天皇北陸巡幸にあたって、上杉謙信が幼少の頃、修行したという宝蔵院の庫裏を移設して行在所にあて、明治28年に現本堂を再建したという。「明治天皇新井行在所」碑が前に立っている。
石塚の一里塚跡碑が立っているが、遺構は残っていない。
しばらく歩いていくと、左手に石仏三体があり、更にその先右手に慶応元年(1865)の筆塚が立っている。
このあたりあまり見るものがなく、黙々と歩いていき、石沢踏切でJRの線路を横断して進む。
右手に大小二体の地蔵尊を安置する地蔵堂があり、その先左手に「明治天皇石沢御小休所址」碑が立っている。矢代川に架かる瀬渡橋を渡り、その先で16時30分に脇野田の駅に着き、今日の宿がある新井までJRで引き返す。
今日は終日雨が降り続いた一日だった。雨の中を歩くのは嫌なものだ。
本日の歩行時間 9時間35分。
本日の歩数&距離 48574歩、35.8km。
旅の地図
記録
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2011年11月07日(月)
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2011年11月08日(火)
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2011年11月09日(水)
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2011年11月10日(木)
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2011年11月11日(金)
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2011年11月12日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん