北国街道(信濃追分~直江津)を歩く

2011年11月07日(月) ~2011年11月12日(土)
総歩数:254228歩 総距離:183.5km

2011年11月07日(月)

 信濃追分~平原~小諸  

                                        晴れ

 北国街道は当初、中山道追分宿から分岐して福島城下までを指しており、その後慶長19年(1614)の高田築城とともに、高田城下までとなった。しかし佐渡産金の輸送路として重要性が増し、更に北陸諸大名の参勤交代道として利用されるようになったことから、出雲崎までを北国街道と呼ぶようになったという。また、新潟県歴史の道調査報告書では、その先の新潟市までを北国街道としているため、これにならって、追分宿から新潟市までを一括して北国街道と総称することにした。この街道はまた、北国往還や善光寺道とも呼ばれていたという。今回はこのうち追分宿から直江津までを歩いた。

 11時47分に信濃追分駅に着き、歩き始める。九州に比べると空気が冷たい。
 駅から追分宿を目指して進むが、紅葉が見事で、落ち葉が舞う道は歩いていて気持ちがいい。この辺りには別荘が散在している。
紅葉が見事
18号線を横断し、その先で中山道に合流すると、左手「堀辰雄文学記念館」の看板が立っているところに、「本陣門」(裏門)が移設されている。
本陣門
 右手に「油屋脇本陣跡」があるが、ここは堀辰雄が「風立ちぬ」を執筆したところで有名だ。
油屋脇本陣跡
 その先右手に「明治天皇追分行在所」の碑が立っている。ここが本陣の跡だ。そのすぐ横に高札場が復元されている。
 右手に慶長3年(1598)に創建された「泉洞寺」があり、その境内に堀辰雄が愛したという石仏が立っている。ここは歯痛の神様として今でも信仰されているという。
泉洞寺
 この辺りは中山道を歩いた時に通ったところなのだが、あの当時は街道歩きを始めたばかりで、ひたすら歩くことだけしか頭になく、周囲に目をくばって、見物をしながら歩くという感覚がなかった。そのため、上記のことの記憶はなく、当然当時のHPには記載されていない。いまから考えるともったいないことをしたと思う。もっとも歴史にあまり詳しくない私なので、この傾向は現在でも続いているのだが。。
 すぐ先で18号線から右へ分岐するが、この分岐する場所が中山道との分岐点の「追分の分去れ」で、「東 二世安楽 追分町」「右 従是北国海道」「左 中山道」と刻まれた延宝7年(1679)の道標が立っている。延宝7年頃に追分町と称されていたということは、当時すでにこの地はかなりの賑わいがあったということを表している。「わかされ」は江戸方面から来た人々にとってはこの場所で「わかされ」だが、北陸道や中山道を通ってきた人々にとっては、この地は「相逢(あいおう)」の場所であったことになる。当然通行する人が多かったのだろう。幕末の和宮降嫁の際は中山道を進んできたが、ここの「追分」を忌んで、この宿には宿泊をしなかったばかりか、行列の通過する前後はこの宿を「相逢宿」と呼んだという。
 この三角地には道標の他に大きな常夜燈や子持地蔵尊、勢至菩薩の立像がある。
追分の分去れ
 その先で再び18号線に合流して進む。右手に浅間山の姿がはっきりと見える。頂上付近に雲がかかっているが、雄大な浅間山は何度眺めても素敵な山だと思う。
浅間山
 御代田町に入るが、標高929mという標識が立っている。空気が冷たいはずだ。
 その先で18号線と分岐して左斜めへ進むが、馬瀬口一里塚が街道から外れたところにあるようなので、そちらへ向かう。雀ケ谷の信号から右折して進むと、右手に馬瀬口一里塚入り口の標柱が立っているので、ここから右折して進むと、「馬瀬口の一里塚」がある。ここは両塚が残っているが、街道からはかなり離れた場所にある。説明板が立っており、それには「正保国絵図」によると北国街道から分岐して塩野村へ向かう支道が描かれており、その途中に一里塚が描かれていることから、その一里塚がこれだろうと思われていると記されている。
馬瀬口一里塚
 街道に戻って進むと、右手に「明治天皇馬瀬口御小休所」の碑が立っている高山家がある。裏には御膳水の清水跡もあるというが、門が閉まっていて見ることはできなかった。
高山家
 右手に「柵口神社」がある。ここの創建は不明ということだが、以前は浅間明神と称していたという。安政2年(1855)に柵口神社と改称、現在の社殿は宝永元年(1704)の造営という。
 そのすぐ先、右手に「長泉寺」がある。ここは寛永16年(1639)に火災で焼失したが、宝暦4年(1754)に再建されたといい、参道には寛政等の年号が刻まれた古い石仏が並んでいる。
 小諸市に入るが、ここは標高が780mとなっている。御代田町より大分下ってきてはいるが、それでもまだかなりの高所だ。その先で18号線に合流、平原東の信号から再び18号線から左へ分岐して進むが、信号の手前左手に「馬頭観音」がある。
 分岐した先の左手に平原の「一里塚跡」の標柱が立っており、その横に寛政5年(1793)の「馬頭観音」が立っている。
一里塚跡
 右手少し入ったところに「金山神社」がある。平原は間の宿だったが、宿が作られたころ、この神社だけが南側の沢田に取り残されてしまった。悪病が流行したのはその祟りだということで、寛永年間に現在地に移されたという。
 右手に「長龍寺」がある。ここは寛永5年(1628)に創建されたお寺で、松代氏が参勤交代の際、昼食休みや小休止等でこの寺に立ち寄ったという。寺紋は六連銭だ。
 左手に「十念寺」がある。寺伝によると一遍上人がこの里に立ち寄り、里人に念仏踊りを教えたといい、その道場跡に正和2年(1313)僧大文が寺院を創建し、これを十念寺と名づけたという。ここに残されている二十五菩薩来迎会は奈良県の当麻寺とともに全国で二つだけ残っている貴重な無形文化財だという。
 右手に「光明寺」がある。ここは天正8年(1580)に創建されたお寺で、境内には元文5年(1740)の宝篋印塔が立っている。
「光明寺
 時刻は15時を過ぎて、急に寒くなってきた。このあたりの冬の寒さはどの程度なのだろうかと思う。
 平原の信号で一旦18号線に合流、右手に浅間山を眺めながら進んで、その先の四ツ谷東の信号で18号線から左斜めへ分岐して進むと、右手に御影村を開発した「柏木小右衛門生誕之地」の石碑が立っている。
 四ツ谷の信号を横断してコンビニの横の細道を下っていき、突き当りを右折して進むが、ここの左手に石仏や石碑、石塔が立っている。資料では道標が立っているとなっているが、どの石碑が道標なのかはわからなかった。ここが佐久甲州街道との分岐点となる場所という。
 141号線に合流した先の右手に平和公園というちょっとした公園があり、そこに「明治天皇御駐輦址」碑が立っている。
 唐松の信号で道は三本に分かれているので、その真ん中の道を進んでいく。
 右手に「高浜虚子記念館」がある。虚子が昭和19年9月から昭和22年11月までこの地に疎開していたことから記念館を建てたということだ。
 左手に「小山家」がある。ここは庄屋を務めた家で、17世紀初めの建築と思われており、東日本に現存するもっとも古い民家の一つという。小諸藩の殿様が時々訪れていたことから、警戒が厳重になっており、中からだけ相手が見えるのぞき戸や、いざという時に殿様が身を隠す隠し扉や、警備の人が隠れている部屋などが残っているという。
小山家」
 左手に「全宗寺」と「福徳稲荷」がある。全宗寺は寛永19年(1642)の創建で、福徳稲荷は安政年間(1854~1859)に創建されたという。福徳稲荷神社を挟んで左手に「岩舟地蔵」別名夜泣き地蔵、右手に「水子地蔵」が祀られている。ここは天保11年(1840)に火事で全焼、、その後仮堂宇を建て現在に至っているという。
全宗寺
 右手に「海応院」がある。ここは天文5年(1536)の開基で、境内には樹齢380年といわれる老松がある。
海応院
 突当りの右手に「光岳寺」がある。慶長7年(1602)に下総の関宿に創建され、寛永元年(1624)に現在地に移転したという。ここの山門は小諸城足柄門だったもので、足柄門は慶長元年(1596)に建立、寛保2年(1742)の大水害で流失したが、明和2年(1765)に再建され、明治5年に光岳寺山門として移設されたという。
光岳寺
 今日の宿はそのすぐ先、街道に面してあったので、とりあえずチェックインをし、日没までまだ少し時間があったので、先へ進むことにする。
 本町の信号から右折、すぐ先で左折すると、突当りに養蓮寺がある。
 ここから左折し、40号線に突き当たる。この辺りの道は枡形になっている。街道は40号線を進むのだが、これを横断したところに「小諸城大手門」が再建されている。これは慶長17年(1612)に小諸藩主だった仙石秀久が築いたもので、明治維新以降は民有となっていたが、平成20年に江戸時代の姿に復元されたという。国指定重要文化財になっている。
小諸城大手門
 街道に戻って進むと、右手に「粂屋」だった脇本陣があり、すぐ先右手に「小諸本陣」が残っている。これは国指定重要文化財に指定されている。
小諸本陣
 40号線を進んで行くと、突当りに寛保元年(1741)に現在地に移転してきたという諏訪神社があり、更に道なりに進んでいくと、道が二股に分かれているところ左手に大正2年と刻まれた「布引山釈尊寺」の大きな石碑が立っている。北国街道はここから右へ進むが、左へ行くと大久保を経て、釈尊寺へ至る道になっている。
布引山釈尊寺
 左手に「青木一里塚跡」の標柱が立っているが、遺構は残っていない。
 第1北国街道踏切でしなの鉄道の線路を横断、更に18号線を横断して進む。右手に西光寺があるが、周囲は暗くなってきており、写真は撮れなかった。
 その先押出入口の信号のところで18号線に合流するので、17時10分、今日はここまでとして、タクシーで宿まで帰る。

 本日の歩行時間   5時間23分。
 本日の歩数&距離 31485歩、22km。

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