北陸道(福井~高田)を歩く

2011年10月07日(金) ~2011年10月17日(月)
総歩数:518812歩 総距離:342.7km

2011年10月14日(金)

下立~舟見~泊~境~市振~親不知~青海

                                     曇りのち雨

 

 下立駅を7時43分に出発する。地鉄の線路のガード下を通って進む。
 県道に合流するところ、左手に二つの祠があり、一つには地蔵尊が二体、もう一つには笠塔婆が安置されている。
地蔵尊が二体、
 右手に「流灌頂」があり、その説明板が立っている。流灌頂とは禅宗や真言宗における仏事の一つで、死者の霊を弔う為、初七日の法要が終わると、供花や塔婆をこの場所に運び、七如来の塔婆や名号を書いた白布を流れる清水に浸しておき、親族や街道を往復する人々が、新仏の冥福をお祈りすることをいい、一般的にこの仏事とともに、場所も含めて流灌頂という。右手に仏を弔う為、馬頭観音、千手観音、聖観音の三体が安置されている。その横に西国巡礼や地蔵菩薩、如意輪観音の石仏が安置されている。
流灌頂
 右手に玉垣で囲まれた大岩がある。これは「粕塚」といい、昔、一人の僧が酒屋に立ち寄って酒粕を所望したところ、店主が「これは酒粕ではなく、石です」といって断った。僧の立ち去った後、酒粕は石になっていたという。また酒屋(長者)の娘が嫁にいくことになったが、「俺の娘は大切で、土を踏ませられない」といって米俵の上を歩かせることにした。それに対し、相手の長者はうち上げ(結納)のために息子を酒屋へやるときに、餅の上を歩かせたという。ところが食べ物を粗末にしたため、その後貧乏して二軒ともなくなったという。酒屋(長者)の家があったところが、この粕塚のあるところといわれている。
粕塚
 左手に「愛本姫社」がある。昔、愛本橋の近くに一軒の茶屋があり、そこにかわいい娘がいた。この橋の下にいた大蛇がこの娘に懸想し、この娘を連れていっていってしまった。三年後に戻ってきた娘はやがて産気づき、出産をするが、出産する姿を見ることを禁止されていたにもかかわらず、母親がみてしまったところ、なんと娘が蛇の姿に変わっていたという。驚いた母親の声に見られたことに気付いた娘は家を去ることになったが、その際、戻ってきたときに土産として持って帰ったチマキを差しだし、これは幾年たっても腐らないものなので、これを食べて余生を送ってくださいと言い残して、再び黒部川水底に姿を消したという言い伝えが残っている神社だ。
愛本姫社
 黒部川に架かる愛本橋を渡る。現在は赤いアーチ型の鉄骨の橋になっているが、ここは寛文3年(1662)に加賀三代藩主前田綱紀によって、はじめて架橋され、日本三大奇橋といわれた刎橋だった。
愛本橋
 橋を渡った右手に「頼三樹三郎」が嘉永元年(1848)にここに来たときに詠じた漢詩が立っている。
 それには
「双竜吐気結成虹  百大飛橋迫架空」
「一任奔流流雷霆急 征驂御穏半天風」
と刻まれている。 なんとなく言わんとする迫力が伝わってくる。
 上高巧川に架かる高巧橋を渡って進んでいると、野生のサルが道路や家の屋根を動き回っているので驚いた。地元の方にお聞きすると、この辺りは猿が多くて困っているということだった。写真を撮ろうとしたが、動きが早くて撮ることができなかった。
 右手に小祠があるところから左折して進むと、中ノ口公民館があり、道なりに進んでいくと、右手に「丸彫弘法坐像」を安置する小祠がある。その先で13号線に合流するが、すぐ先で右手に階段があり、これを上っていく。中ノ口公民館へ左折する道がわからなくて、近くにいた方に道を教えていただいたのだが、その方がわざわざ車で追いかけてきて、この階段のことを教えてくれたのだ。教えていただかなければ気が付かずにそのまま13号線を進んでいただろう。感謝。 
階段
 階段を上ったところに小祠があり、地蔵尊が一体安置されている。
 さらにその先に「五輪塔」とその横に「納経供養塔」と刻まれた天保6年(1835)の笠塔婆が立っており、その横に白いエプロンをした石仏3体が並んで立っている。
納経供養塔
 その先、愛本の信号で13号線に合流する。
 新御前林の松の説明板が立っている。このあたりもかっては松並木があったようだ。
 その先右手にコンクリートの祠に多数の石仏が安置されている。このあたりにあった石仏をここに集めたのだろう。
 左手に「十三寺」がある。ここには行基の作と伝えられる千手観音菩薩があるそうだ。これは天正の頃、舟見城が落城し、山中に埋もれていたが、宝暦11年(1761)に発見されて、現在地に安置されたという。
十三寺
 この先で県道は斜め右に伸びているが、旧道はここを直進、その先で右折、左折を行う枡形になっている。この先に舟見宿があった。
 右手に「藤保内神社」がある。ここは天平12年(740)に創建されたが、その後荒廃していたので、元和元年(1615)に現在地に再建されたという。
藤保内神社
 右手に「富山県里程元標」が立っており、「富山市西町 元標」「舟見町 拾壱里弐拾六町弐拾七間」「下新川郡浦山村 壱里拾八町四拾八間」と記されている。この横に舟見本陣の説明板が立っており、脇坂悌冶氏宅に復元されていると記されている。
 左手にコンクリートの小祠があり、石仏が3体安置されている。
 舟川に架かる今江橋を渡る。右手に祠があり、4体の石仏が安置されている。その横に「小川温泉 是ヨリ○○半」と刻まれた道標が立っている。○のところは何故か削られたようになっている。
小川温泉
 その先、左手に祠があり、地蔵尊二体が安置されている。
 「藤塚磐持石」がある。これは明治から昭和にかけて村の若衆が力自慢を競った磐持石だという。
 右手にフジノナカンドという豪族の塚といわれる藤塚があり、その前に石仏二体が安置されている。
 右手に「横水一里塚」碑がある。盛り上がった土の上に文化8年(1811)の題目石が立っており、その横に祠がある。
横水一里塚
 小川に架かる小川橋を渡って進み、桜町の信号から左へ進む。
 右手に嘉永5年(1852)の「磐石石松」の草相撲の石碑が立っている。
 舟見街道踏切でJRの線路を横断すると、泊宿になる。
 街中を進んでいくと、右手に「常光寺」がある。ここには文明年間(1469~1487)に魚津で創建されたが、享保3年(1718)に現在地に移転したという。寛政10年(1798)から享保2年(1802)にわたって愛本用水を完成させたという伊東彦四朗の墓がある。
常光寺伊東彦四朗の墓

 ここから少し戻ったところに「明治天皇泊行在所」があり、碑が立っている。
明治天皇泊行在所
 もとに戻って進むと、右手に「松林寺」がある。ここは寛文3年(1663)に創建されたお寺で、境内には「一石一字法華塔」や安政4年(1857)の「宝篋印塔」がある。
松林寺宝篋印塔


 すぐ先、やはり右手に「妙輪寺」がある。ここには嘉永3年(1850)の「一石一字」の題目笠塔婆が立っている。ここだけ何故か写真を撮っていない。うっかりミスのようだ。
 その先で第5北陸街道踏切でJRの線路を横断して進むと、右手に「脇子八幡宮」がある。ここは大宝2年(702)に創建され、治承年中、木曽義仲が御所を造り、打倒平家の戦勝祈願がおこなわれたという。享保年中に高波に襲われたため、現在地に移転したという。境内に弁慶が黒部山から一跨ぎでこの石を踏んだという岩がある。
弁慶が
 右手に「弘善院(立園寺)跡碑が立っており、その横に題目石が立っている。
 横尾トンネル横を通るが、ここに数多くの題目石群があり、雑草に覆われている。
題目石群
 右手に石仏5体を安置する祠があり、すぐ横に墓地がある。
 その先右手に承久元年(1207)親鸞上人が越後へ行かれる途中に腰を掛けたという「腰掛石」があり、その横に欅の大木が立っている。
親鸞上人が
 笹川に架かる笹川橋を渡って進むと、右手に奥の細道に載っているという「わせの香や 分け入る右は ありそ海」という芭蕉の句碑が立っている。
 第6北陸街道踏切でJRの線路を横断して進むと、アルミサッシの戸がついた祠があり、3体の地蔵尊を安置している。
 右手に「鹿島神社」がある。背後にある樹叢は「宮崎鹿島樹叢」として国の天然記念物になっている。
鹿島神社
 右手、神社の神職のお宅の前に「明治天皇宮崎御小休所跡」碑が立っている。
 越中宮崎駅を右に見ながら進み、竹屋踏切でJRの線路を横断し8号線に合流し、その先で8号線から分岐して境の町中を進む。
 右手に境小学校跡があり、そのグラウンドのところに「境関跡」の碑が立っている。ここは越中(富山県)と越後(新潟県)の国境になっていたところで、加賀藩では慶長19年(1614)に関所を設置したという。
境関跡
 その先、左手に「境一里塚跡」がある。道より下がったところ、木々が繁ったところに一里塚があるが、県下では唯一原型をとどめた一里塚という。
境一里塚跡
 その横に富山県道路元標が立っており、「富山市西町 拾四里弐拾町五拾七間五尺 境」と刻まれている。
 境川に架かる境橋を渡る。いよいよ新潟県に入る。
 右手に祠が二つ並んであり、石仏が安置されているが、富山県の資料では石仏それぞれを細かく説明されていて、非常に助かったが、新潟県の資料ではあまり詳しく記されてなく、このような小祠のことは記載がないので、こういったことに詳しくない私はよくわからないので、ご了承いただきたい。
 跨線橋を渡って、市振の集落に入ると 右手に石仏がある。台座をみると九右衛門などという文字を読み取ることができるので、かなり古い仏像のようだが、年号は読み取ることができなかった。
 左手、市振小学校のところに「市振関所跡」碑が立っている。寛永年間(1624~)に設置されたもので、小学校の校庭にある関所榎は樹齢250年ほどという。この横に市振の本陣があった。
関所榎
 左手に「明治天皇市振御小休所跡」碑が立っている。
 右手に芭蕉が泊ったという桔梗屋跡がある。ここで「一つ家に 遊女も寝たり萩と月」という名句を残したという。桔梗屋は市振宿の脇本陣だったが、大正3年の大火で焼失してしまったという。今では碑が立っているだけだ。 
 その先に「弘法の井戸」がある。昔、弘法大師がこの地を通りかかったとき、水がほしいというと茶屋のおばあさんは1㎞も離れた赤崎のチビタミズ(冷たい水)を汲んできたので、弘法大師はこれを憐れんで、足元の土を杖で三度突いてこの井戸をつくったという。
弘法の井戸
 「海道の松」が立っている。昔の人はここから海岸に降りて、約10㎞の親不知子不知の海岸を歩いたのだ。
14時34分にここを通る。
海道の松
 現在はトンネルができているので、海岸を歩く必要はないのだが、しかしこわ~いトンネルを延々と通って進むことになる。先をみると海岸線に急峻な崖が迫っており、その崖際を打ち抜いてトンネルが通っている。ここのトンネルは極めて危険で、糸魚川市役所に問い合わせを行ったときも「道中十分に気を付けてください」といわれた場所だ。
トンネル
 実際歩いてみて、本当に怖い!延々とトンネルが続いていて、途中に信号がないので、車が猛スピードで走っている。しかも大型トラックが多い。さらに歩道がないので、トラック同士がすれ違うところに私がいると、どちらかが止まって対向車を先に通すほどの幅しかない。トンネルは洞門になっていて、海側は開いている。箱根駅伝で見かける函嶺洞門と同じ造りだ。とにかく身を縮めて、ひたすら先を急いだ。
 途中で一か所,天険トンネルのところからトンネルから外れる道があって、ホッとする。この道が旧国道で現在は車両は通行できないようになっている。ここを進んでいくと、展望台があって、そこに「如砥如矢」の説明板が立っている。それによると、この場所は昔の親不知で最も険しいところの崖の上80mのところにあるという。 絶壁を切り開いて通っているこの道は、明治16年に完成したという。その喜びを砥石にように滑らかで、矢のようにまっすぐという「如砥如矢」という言葉にして岸壁に刻んだという。この旧国道以前の道を第一世代の道、旧国道を第二世代、そして現在の8号線を第三世代の道と称しており、第四世代の道づくりが予定されているという。
第三世代の道と
 親不知観光ホテルがあり、ここから海岸へ下る道があるそうで、途中で出会った「腹の出る年齢」の方はここを下って写真を撮っておられたが、今日はあいにくの雨で降りることはあきらめた。もっとも車道を歩く際はほとんどがトンネルの中なので雨は関係ない。これが唯一の利点だった。この先から再びトンネルの中へ入っていく。歩いていると、トンネルの外側にところどころに幅1mほどの道が付いている。点検作業用の道なのだろうか?これ幸いとその道を歩くのだが、この道は連続しておらず、途切れている。仕方がなので、そこから車道へ戻るのだが、車道との間にフェンスがあって、これを跨がなければ車道に出ることができない。この歩道(?)にはパイプのようなものが通っていて、フェンスを跨ぐときに邪魔になる。パイプを見ると、ところどころへこんでいる。おそらくこのパイプに上ってフェンスを越えたのだろうと思っていると、案の定、パイプに「足掛け禁止」と書かれているところがあった。この道を歩き、そして行き止まりになったところから、パイプに足をかけてフェンスを越えて車道にもどったのだろう。皆考えることは同じなのだと、なんだかおかしくなってくる。ただ足掛け禁止の表示をするよりも、行き止まりのところのフェンスを開けていてくれれば、足掛けなどする人はいなくなると思うのだが、どうだろう。どうせここを歩く人間は私のような北陸道を歩く人間がほとんどで、その数は少ないと思うのだが。
パイプに
 やがてトンネルが終わって右手に親不知の駅が見える。ここで一瞬、ここからJRに乗って今日の宿がある糸魚川まで移動しようかと思ったが、まだ日没までには少し時間があるので、もう少し歩こうと思って先へ進む。後から考えると、ここで歩きをやめてJRに乗ったほうが断然よかったと思う。なにしろトンネルの中ばかりなので、何も見るものがなく、ただヒヤヒヤしながら歩くだけなのだ。
 もっともこの時点ではこの先トンネルがいつまで続くのか、皆目わからない状態でもあったのだ。
 駅をすぎると再び道はトンネルの中へ入っていく。しばらく歩いていくうちに、次第に周囲が暗くなってきた。日没の時間になったのだ。この時、ここのトンネルには照明がないことに気が付いた。これには参った!明かりは車のライトだけが頼りなのだ。こうなると逆に開き直ってしまった。もうなるようにしかならない、さぁ殺せ!という心境だ。そうすると不思議なもので気持ちが落ち着いてきた。
 そんなこんなで、ようやくトンネルを抜けたときは、周囲はもう真っ暗になっていたが、やれやれ、ようやく抜けたと心からホッとした。それにしてもこんなに長く(総延長は10㎞以上あるという)、危険なトンネルは初めて経験した。親不知は現在も大変な難所だ。
 懐中電灯で地図を見ながら進むと、やがて右へ分岐する道があったので、これを進む。神社があるようだが、もうみることはできないので、ひたすら歩き、何とか無事17時55分に青海駅に着いた。 幸いJRはすぐあったので、これに乗って今日の宿がある糸魚川へ向かう。 

 

 本日の歩行時間   10時間12分。
 本日の歩数&距離  58626歩、39.6km。