北陸道(福井~高田)を歩く

2011年10月07日(金) ~2011年10月17日(月)
総歩数:518812歩 総距離:342.7km

2011年10月13日(木)

早月加積~魚津~三日市~浦山~下立 

                                           曇り

 7時50分に早月加積駅に着いて歩き始める。このあたりも電車の本数が少ない。
 街道に合流して進むと、右手に「明治天皇追分御小休所」碑が立っている。明治天皇の行幸碑は奥州街道を歩いた際に、数多く立っていると思ったが、北陸道もかなり立っている。当時、これだけの旅をするのは大変だっただろうと思う。
治天皇追分御小休所
 中村西の信号から1号線から分岐して、集落の中を進むが、その先で再び1号線に合流し、早月川に架かる早月橋を渡る。このあたりの川の水はどこもきれいだ。水族館前の信号から左へ分岐して進むと、左手に地蔵堂がある。
地蔵堂がある
 角川に架かる角川橋を渡り、突き当りを左折、さらにその先で法務局があり、ここを右折するが、ここに街道松と思われる一本の松が立っている。
 右手に「金比羅宮」「天満宮」を見ながら進むと、左手に「ここは大町 北陸街道」「魚津城址まで一町十八間」の標柱が立っている。この標柱はかなり頻繁に立っていて、いい道案内になった。
この標柱
 その先の「ここは荒町」「北陸街道」の標柱が立っているところから右折すると、突き当りに「ここは真成寺町」の標柱が立っているので左折する。このあたりまでがかってのメイン道路だったようだ。銀座商店街という看板がかかっているところを通って神明橋を渡る。この辺りは商店街だ。
 左手に「魚津神社」がある。ここはもともとは神明社という神社だったが、昭和31年の魚津大火で火災地域にあった4つの神社を統合して魚津神社としたという。
魚津神社
 右手に立山を開いたといわれる慈興上人、佐伯有若が創建したと伝えられる「大徳寺」があり、その横に「明治天皇持光寺御小休所」碑が立っている。 
 ガード下を通って、JRの線路横断するが、ここに祠があって、4体の石仏と一基の板石塔婆が安置されている。
 片貝川に架かる片貝橋を渡り、さらにその先の布施川に架かる布施橋を渡る。ここも清流だ。
 右手に天保9年(1838)と明治8年、明治26年の名号碑が立っている。
 その先右手に「光徳寺」があり、その前に「蓮如上人遺跡」碑が立っている。
 第3北陸街道踏切でJRの線路を横断して進むと、右手に「明治天皇田家天覧所跡」碑が立っている。

 右手に天保2年(1831)の題目石が立っている。
天保2年(1831)
 左手に「八心大市比古神社」がある。ここは延喜式に記載されている式内社で、昔から五穀豊穣の守護神として尊崇されてきた。神社には慶長元年(1596)獅子頭を奉持して家々を回り、家内安全、無病息災を祈った「獅子頭御入之家」の古文書や寛文4年(1664)に寄進された鰐口、元禄2年(1689)作の「鶏之図絵馬」などが社宝として保存されているという。また、神社の北、道路建設で飛び地になったところに「三島の化藤」と称される大藤が樹齢200年といわれる欅の巨木に覆いかぶさっている。藤の開花期には欅を藤の花で飾るので見事な景観になるということだ。
八心大市比古神社
 左手に「徳法寺」があり、ここには「親鸞聖人の御腰掛石」がある。
徳法寺
 その先、左手に「西徳寺」がある。ここは建物は新しいが、鎌倉時代中期に現在地で創建されたという。徳本の名号碑があり、地蔵堂には数多くの地蔵尊が安置されていた。
西徳寺
 「しま健美堂」という薬局が右手にあり、ここが三日市宿の本陣だったところという。ここには明治22年にアメリカ人バーシバル、ローエルという冥王星の存在を予言した人が宿泊をしたという。
 この薬局の道路を挟んだ前の家で明治天皇が御小休されたという。
 富山地方鉄道を跨線橋で横断すると、下ったところ左側にコンクリートの祠があり、笠塔婆型庚申塔と2体の地蔵尊が安置されている。
 左手に「箱根清水」がある。ここには昔、七本の松が立っており、七本松と呼ばれて、旅人の休憩場所になっていたという。さらにこの脇に清水が発見されたので、その横に小屋を建て、茶店を開いて旅ゆく人たちをもてなしたので、大変喜ばれたという。今でも清水が出ている。
箱根清水
 左手に「廿四輩第二関東稲名寺分地」の石碑が立っている。
 右手に3体の石仏と弘化2年(1845)の名号碑、さらに文化13年(1816)の徳本名号碑が立っている。
 その先の石祠には弥陀と地蔵立像が安置されている。
 「石敢當」が立っている。魔除けの碑だが、鹿児島を歩いた時によく見かけたものの、ほかの地域ではほとんど見かけないので、珍しい。
石敢當
 「史跡浦山駅と御旅屋跡」の案内板が立っている。このあたりが浦山宿の中心地だったのだろう。
 すぐ先右手に「願蓮寺」があり、ここに「蓮如上人遺跡」碑が立っている。
 左手に「富山県里程標」が立っている。「富山市西町元標 十里七町三十九間」と書かれた明治42年に建立され、昭和49年に復元されたものである。 
 その先、左手に宇奈月体育センターがあるところから、資料によると右手にあぜ道の旧道があるようになっていたが、わからない。地元の方がおられたのでお聞きしたが、わからないということだった。仕方がないので、そのまま直進、次の右から合流する道のところ右側に「歯痛によく効く」という地蔵堂がある。これは資料に記載されているので、ここから右折して道がないか見てみたが、わからなかった。
歯痛によく効
 舟子川に架かる下立橋を渡って進むと、右手に祠が二つある。資料ではここに合流するようになっているが結局わからなかった。この祠のことは資料では、「青面金剛 1」、別の小堂には「丸彫薬師坐像 1 それに奉納六十六部供養塔と刻むオベリスク状の石柱一基」となっている。
青面金剛
 その先、右手に木造の小祠がある。ここも資料を引用すると「二童子を従えた青面金剛の浮彫像と丸彫の地蔵立像」がある。
木造の小祠
 右手に「三十三観音」を安置する古い祠がある。ここも資料を引用すると「中央にあたかも本尊のごとく庚申塔があり、その左右に三十三観音の浮彫石像をそれぞれ三段に並べる。丸彫弘法像・浮彫如意輪観音各一体、それに五輪塔一基分も混じる。庚申塔は笠塔婆型で塔身部に青面金剛とその眷属、基礎に二猿、二鶏を浮き彫りにするところの街道でみる類型的なものである。ただし塔身部の側面に「左全龍寺入り口」「右往来」の刻字がある。
三十三観音
 旧道はこの先歩行困難になるので、これまでの道を進み、御旅屋1号踏切で地鉄の線路を横断、すぐに左折して進むと、右手、杉林の中に「下立神社」がある。

 下立駅に16時3分に到着し、ここから魚津駅まで引き返す。今日の宿は魚津駅のすぐ近くだ。

 本日の歩行時間   8時間13分。
 本日の歩数&距離 37372歩、25km。