2011年10月11日(火)
石動~立野~高岡~小杉
曇り
7時25分に昨日の街道のところから出発する。今日も曇っていて歩きやすそうだ。
右手に廻向寺があり、左手に天正17年(1589)に現在地に移ったという「観音寺」を見ながら進んでいく。
小矢部商工会館の前に、天正10年(1582)に前田利家が今石動に宿場を作り、前田利秀が城主となったが、26歳で死去したため、その後、加賀藩家老だった篠島織部清了が町奉行になったという今石動宿の由来が書かれた石碑が立っており、道はここから右折して進む。
右手に「道林寺」があり、ここに「明治天皇石動行在所碑」が立っている。
庇に「霧よけ」がついた旧家がこのあたりにも点在していて、趣がある。
右手に「仁真寺」があり、ここの境内の一角に小矢部御蔵が建てられていたということだが、遺構は何も残っていない。小矢部川に架かる小矢部橋を渡ると、右手に弘化4年(1847)の石碑が立っている。
左手に小祠があり、その横に「源義仲が3万の兵を率いて小矢部河を渡り、埴生の八幡林に布陣した」という意味のことを刻んだ石柱が立っている。
真言宗の尼寺という「清月寺」のところで写真を撮っている方がおられ、その姿、様子から北陸道を歩かれている方だとすぐに分かった。相手の方も気が付かれたようで、お互いに挨拶を交わし、少しの間話をする。温厚な、感じのいい方で、名刺を交換したが、それを見て驚いた。今回、北陸道、北国街道の調査をしているときに、、参考にさせていただいたHPを作成された方だったのだ。その方のHPは
(腹の出た年輪の物語) あるいは
(ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く)
で検索できます。
この方も私と同様にGPSを持って歩かれているので、HPに地図が掲載されていて、とても参考になり、印象に強く残っていたのだ。思いがけない出会いにうれしくなってしまった。お互い写真を撮りあってお別れする。ほんの短い時間だったが、印象に残る出会いだった。
左手に「芹川の一里塚」碑が立っており、その横に祠があって大地蔵が2体、小地蔵が7体安置されている。
黒石川を渡り、8号線を横断して進むと、左手に「勅使桜」があり、その横に地蔵堂がある。この場所は慶応4年(1868)戊辰の役に際して、京都から江戸を目指して北陸道を進んだ官軍1700余人が休憩したところで、村民がこれを記念して桜を植えたのだという。
左手に「寶性寺」があり、その裏に樹齢400年を越えるといわれる夫婦杉等がある。 ここは、戦国時代の砺波の武将石黒左近成綱が木舟城主の頃に下屋敷を構え、「左近屋敷」と呼ばれていたが、天正13年(1585)の白山大地震によって木舟城は陥没し、城下町は崩壊。落城後、左近屋敷跡は加賀藩農政十村役の中山孫左衛門へわたり、江戸時代末期に寶性寺が木舟よりこの屋敷跡へ移ったという。
左手に「往還の松」跡がある。ここには松並木の松が一本だけ残っていたが、その後枯れた為、昭和55年に伐採されたという。現在は後継の松が植えられている。
荒屋敷の信号の横に5体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
岸渡川に架かる福岡橋を渡って進むと、里程標が立っており、「富山縣 距富山市西町元標 八里壱町」「石動町江 弐里三丁半間」と記されている。
すぐ横に「長安寺」がある。ここは江戸時代の稗島、四十万村の境界だったところで、参勤交代の時の御小休の本陣にあてられていたという。
「四百年の伝統 越中福岡の菅笠」というポスターがかかっている。この辺りは菅笠の産地だったようで、町並みには北国特有の歴史を感じさせる家が立ち並んでいる。
左手に「八幡宮」があるが、ここにもこの地方でよく見かけるしめ縄が下がっている。
荒又川に架かる新荒又橋を渡って進むが、このあたりにも昔は松並木があったそうだが、今ではすべて枯れてしまったため、新たに松を植えていた。
左手に阿弥陀坐像を中心にして六地蔵が安置された地蔵堂がある。
8号線と高岡栃波道路を越えて進む。地蔵尊2体を安置する地蔵堂があり、その横に兵士だった方のお墓がある。このあたりのお墓には正面に「南無阿弥陀仏」と刻まれたお墓が多い。
道の横にりんごがなっている。南国生まれの私にはとても珍しい光景だ。
左手に「西念寺」がある。ここは大永2年(1522)僧慶情が開基。石山合戦に第3世慶誓が門徒を率いて参戦したと伝えられており、法主顕如の感謝状が伝存しているという。現在の本堂は文化7年(1810)の建立で、富山県内では江戸期の遺構をよく残していると言われている。このお寺も屋根が高い。
道路の中央に消雪の装置が埋められており、道路は両端が少し低くなっていて、水が流れるようになっている。これも北国特有のもので、南国育ちの私には珍しい。
この辺りには地蔵堂が数多く祀られており、それを覗き込んでいると、町内の方と思われる人が話しかけてこられて、この辺りには町内ごとに地蔵堂が祀られていて、毎年9月に地蔵祭りがおこなわれると教えていただいた。
左手に「長久寺」があり、その入り口に「明治天皇立野御小休所」碑が立っている。ここは加賀藩二代目藩主前田利長の庇護が厚かったという。
ガラスで覆いをしている石仏坐像がある。ガラスで囲まれているのは珍しい。
祖父川に架かる三枚橋を渡ると、右手に「勤王志士惜別之処」という石碑が立っている。嘉永元年(1848)に頼三樹三郎と高岡の山本道斉がこの地で惜別をしたということが刻まれている。
左手に「長楽寺」がある。康正年中(1455~1456)に創建、天正(1573~1591)の頃に現在地に移ったという。境内に「侠客大長」の碑がある。大長に関しては多くの善行と逸話が残っているそうだが、その中でも嘉永元年(1846)に大門町を流れる庄川に自力で長さ八十間余の橋を架けて、北陸道の交通に多大な寄与をしたという。
「有磯正八幡宮」がある。ここは慶長15年(1610)高岡城築城に際し「有磯宮」と「横田正八幡宮」の二社が合祀された神社で、現在の社殿は、昭和10年に造営されたものだ。ここには「親子抱き合いの欅」がある。親木の傍らで芽吹いた子木が成長して、親子が助け合うようにして立っていたことからこの名前がついたという。子木の樹齢が約400年といわれているそうで、かなりの古木だ。
千保川に架かる横田橋を渡って進むと、右手に「川巴良諏訪神社」がある。ここの創建は慶長13年(1608)と伝えられており、もとは諏訪社と呼んでいたが、慶応3年(1867)に現在の社名に改めたという。境内には樹齢400年の大榎があり、神木となっている。
その先で食堂があったので、昼食をとり、ここから街道から外れてタクシーで「瑞龍寺」へ向かう。金沢のI君がぜひ見学するといいと教えてくれたところで、ここは加賀藩二代目藩主前田利長公を弔う為、三代目藩主の利常公によって創建されたお寺で、正保年間から利長公の五十回忌の寛文3年(1663)までの約20年間の歳月を費やして完成したという。山門、仏殿、法堂が国宝に、禅堂、大庫裏、大茶堂、回廊が重文に指定されている、江戸時代を代表する禅宗建築という。確かに素晴らしい建物だった。
またここからさほど遠くないところに「前田利長公」の墓所がある。総面積約1万坪という、大名個人の墓所としては国内屈指の規模という。ただ幅は15、5m、高さは5mで野田山前田家墓所にある初代前田利家の幅20m、高さ5,7mを上回らないように築かれているという。ここは当初街道から外れていることもあって、立ち寄る予定ではなかったが、実際に行ってみてよかったと思った。I君のアドバイスに感謝する。
先ほどの食堂まで戻って、歩き始める。左手に大法寺があるところに里程元標が立っている。「福岡 弐里拾町拾六間」「大門 壱里参町七間」と書かれているが、これは昭和52年に復元されたものだ。
ここから右折、その先で左折という具合に、道は枡形になっている。ここにNTTがあるが、これが天野屋伝兵衛の屋敷跡で、高岡宿の本陣があったところだ。
左手に「菅野家住宅」がある。菅野家は高岡の代表的な商家で、江戸時代末期から明治にかけて回船の隆盛にともない財を築いたという。現在の建物は明治33年の高岡の大火の後に築かれたもので、伝統的な町家が数多く残されている高岡の中でも、大規模で最も質の高いものとして重要文化財に指定されている。
「銅造阿弥陀如来坐像(高岡大仏)」がある。これは延享2年(1745)に木造金色の仏像を建立したのが始まりで、文政4年(1821)に焼失、天保12年(1841)に再興されたが、明治33年の大火で焼失、昭和8年に再建されたという。地上からの高さは16.5mあり、奈良、鎌倉の大仏とともに日本三大仏に数えられているという。境内にある釣鐘は文化3年(1806)に鋳造されたもので、かって高岡の時鐘だったという。明治の二回の大火を焼け残って昭和6年にこの寺に寄進されたという。
「定塚不動尊」があり、ここで道は二股に分かれているので、左の道を直進する。
第二定塚踏切でJRの線路を横断して進むと、右手に「井口神社」がある。ここは創建年は不詳だが、文化2年(1803)の記述によると、旧井口郷七カ村の惣社だったという。明治3年に井口神社と改称されたという。
すぐ先、右手に「蓮花寺」がある。ここは寛喜3年(1231)に創建され、元弘3年(1333)に再建されたという古刹で、県指定文化財である十一面観世音菩薩立像をはじめ藤原期、鎌倉期、室町期の木仏や鋳銅仏等すぐれた文化財が数多く安置されている。境内には鎌倉期の宝篋印塔や五輪塔があり、参道には数多くの石仏が並んでいる。
右手に恵比寿宮があり、題目石がある。題目石は福井あたりでは数多くあったが、このあたりではあまり見かけない。
庄川に架かる大門大橋を渡るが、この川に高岡の長楽寺の境内に碑があった侠客大長が大長橋と呼ばれた橋を架けたという。すぐ左折すると「大門神社」がある。ここは元来、神明社だったという。文政13年(1830)の石灯篭が立っている。
和田川に架けられたときわ橋を渡って進むと、右手に「誓光寺」があり、ここに「明治天皇御駐輦碑」が立っている。
野田踏切でJRの線路を横断して進む。周囲には田んぼが広がっていて、気持ちがいい。
枡形のように屈曲した道を進むと「新開発の地蔵堂」がある。三方入母屋正面唐破風造りというようだが、、地蔵堂にしてはあまり見かけない変わった形をしている。
街道は小杉高校の敷地で失われているため、学校の周囲を回るようにして進むと、右手に石仏と石柱が立っているが、由来はわからなかった。
すぐ先に地蔵堂と題目石が立っている。
赤壁酒店がある。庭や建物を合わせると延長31mになるという立派な家だ。
右手に「真福寺」があり、境内に「庚申像」の小祠がある。その前に「庚申講二百年」を記念した碑が立っている。文久2年(1862)の石灯篭が立っている。
左手に「西土寺」がある。ここの梵鐘は貞享4年(1687)に鋳造されたもので、太平洋戦争の際、数多くの梵鐘が供出されたが、この梵鐘は特に重要な工芸品ということで供出を免ぜられたという。
16時45分に小杉駅前にある今日の宿に入る。
本日の歩行時間 8時間45分(瑞龍寺を訪問した時間は除く)
本日の歩数&距離 46446歩、29.6km。
7時25分に昨日の街道のところから出発する。今日も曇っていて歩きやすそうだ。
右手に廻向寺があり、左手に天正17年(1589)に現在地に移ったという「観音寺」を見ながら進んでいく。
小矢部商工会館の前に、天正10年(1582)に前田利家が今石動に宿場を作り、前田利秀が城主となったが、26歳で死去したため、その後、加賀藩家老だった篠島織部清了が町奉行になったという今石動宿の由来が書かれた石碑が立っており、道はここから右折して進む。
右手に「道林寺」があり、ここに「明治天皇石動行在所碑」が立っている。
庇に「霧よけ」がついた旧家がこのあたりにも点在していて、趣がある。
右手に「仁真寺」があり、ここの境内の一角に小矢部御蔵が建てられていたということだが、遺構は何も残っていない。小矢部川に架かる小矢部橋を渡ると、右手に弘化4年(1847)の石碑が立っている。
左手に小祠があり、その横に「源義仲が3万の兵を率いて小矢部河を渡り、埴生の八幡林に布陣した」という意味のことを刻んだ石柱が立っている。
真言宗の尼寺という「清月寺」のところで写真を撮っている方がおられ、その姿、様子から北陸道を歩かれている方だとすぐに分かった。相手の方も気が付かれたようで、お互いに挨拶を交わし、少しの間話をする。温厚な、感じのいい方で、名刺を交換したが、それを見て驚いた。今回、北陸道、北国街道の調査をしているときに、、参考にさせていただいたHPを作成された方だったのだ。その方のHPは
(腹の出た年輪の物語) あるいは
(ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く)
で検索できます。
この方も私と同様にGPSを持って歩かれているので、HPに地図が掲載されていて、とても参考になり、印象に強く残っていたのだ。思いがけない出会いにうれしくなってしまった。お互い写真を撮りあってお別れする。ほんの短い時間だったが、印象に残る出会いだった。
左手に「芹川の一里塚」碑が立っており、その横に祠があって大地蔵が2体、小地蔵が7体安置されている。
黒石川を渡り、8号線を横断して進むと、左手に「勅使桜」があり、その横に地蔵堂がある。この場所は慶応4年(1868)戊辰の役に際して、京都から江戸を目指して北陸道を進んだ官軍1700余人が休憩したところで、村民がこれを記念して桜を植えたのだという。
左手に「寶性寺」があり、その裏に樹齢400年を越えるといわれる夫婦杉等がある。 ここは、戦国時代の砺波の武将石黒左近成綱が木舟城主の頃に下屋敷を構え、「左近屋敷」と呼ばれていたが、天正13年(1585)の白山大地震によって木舟城は陥没し、城下町は崩壊。落城後、左近屋敷跡は加賀藩農政十村役の中山孫左衛門へわたり、江戸時代末期に寶性寺が木舟よりこの屋敷跡へ移ったという。
左手に「往還の松」跡がある。ここには松並木の松が一本だけ残っていたが、その後枯れた為、昭和55年に伐採されたという。現在は後継の松が植えられている。
荒屋敷の信号の横に5体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
岸渡川に架かる福岡橋を渡って進むと、里程標が立っており、「富山縣 距富山市西町元標 八里壱町」「石動町江 弐里三丁半間」と記されている。
すぐ横に「長安寺」がある。ここは江戸時代の稗島、四十万村の境界だったところで、参勤交代の時の御小休の本陣にあてられていたという。
「四百年の伝統 越中福岡の菅笠」というポスターがかかっている。この辺りは菅笠の産地だったようで、町並みには北国特有の歴史を感じさせる家が立ち並んでいる。
左手に「八幡宮」があるが、ここにもこの地方でよく見かけるしめ縄が下がっている。
荒又川に架かる新荒又橋を渡って進むが、このあたりにも昔は松並木があったそうだが、今ではすべて枯れてしまったため、新たに松を植えていた。
左手に阿弥陀坐像を中心にして六地蔵が安置された地蔵堂がある。
8号線と高岡栃波道路を越えて進む。地蔵尊2体を安置する地蔵堂があり、その横に兵士だった方のお墓がある。このあたりのお墓には正面に「南無阿弥陀仏」と刻まれたお墓が多い。
道の横にりんごがなっている。南国生まれの私にはとても珍しい光景だ。
左手に「西念寺」がある。ここは大永2年(1522)僧慶情が開基。石山合戦に第3世慶誓が門徒を率いて参戦したと伝えられており、法主顕如の感謝状が伝存しているという。現在の本堂は文化7年(1810)の建立で、富山県内では江戸期の遺構をよく残していると言われている。このお寺も屋根が高い。
道路の中央に消雪の装置が埋められており、道路は両端が少し低くなっていて、水が流れるようになっている。これも北国特有のもので、南国育ちの私には珍しい。
この辺りには地蔵堂が数多く祀られており、それを覗き込んでいると、町内の方と思われる人が話しかけてこられて、この辺りには町内ごとに地蔵堂が祀られていて、毎年9月に地蔵祭りがおこなわれると教えていただいた。
左手に「長久寺」があり、その入り口に「明治天皇立野御小休所」碑が立っている。ここは加賀藩二代目藩主前田利長の庇護が厚かったという。
ガラスで覆いをしている石仏坐像がある。ガラスで囲まれているのは珍しい。
祖父川に架かる三枚橋を渡ると、右手に「勤王志士惜別之処」という石碑が立っている。嘉永元年(1848)に頼三樹三郎と高岡の山本道斉がこの地で惜別をしたということが刻まれている。
左手に「長楽寺」がある。康正年中(1455~1456)に創建、天正(1573~1591)の頃に現在地に移ったという。境内に「侠客大長」の碑がある。大長に関しては多くの善行と逸話が残っているそうだが、その中でも嘉永元年(1846)に大門町を流れる庄川に自力で長さ八十間余の橋を架けて、北陸道の交通に多大な寄与をしたという。
「有磯正八幡宮」がある。ここは慶長15年(1610)高岡城築城に際し「有磯宮」と「横田正八幡宮」の二社が合祀された神社で、現在の社殿は、昭和10年に造営されたものだ。ここには「親子抱き合いの欅」がある。親木の傍らで芽吹いた子木が成長して、親子が助け合うようにして立っていたことからこの名前がついたという。子木の樹齢が約400年といわれているそうで、かなりの古木だ。
千保川に架かる横田橋を渡って進むと、右手に「川巴良諏訪神社」がある。ここの創建は慶長13年(1608)と伝えられており、もとは諏訪社と呼んでいたが、慶応3年(1867)に現在の社名に改めたという。境内には樹齢400年の大榎があり、神木となっている。
その先で食堂があったので、昼食をとり、ここから街道から外れてタクシーで「瑞龍寺」へ向かう。金沢のI君がぜひ見学するといいと教えてくれたところで、ここは加賀藩二代目藩主前田利長公を弔う為、三代目藩主の利常公によって創建されたお寺で、正保年間から利長公の五十回忌の寛文3年(1663)までの約20年間の歳月を費やして完成したという。山門、仏殿、法堂が国宝に、禅堂、大庫裏、大茶堂、回廊が重文に指定されている、江戸時代を代表する禅宗建築という。確かに素晴らしい建物だった。
またここからさほど遠くないところに「前田利長公」の墓所がある。総面積約1万坪という、大名個人の墓所としては国内屈指の規模という。ただ幅は15、5m、高さは5mで野田山前田家墓所にある初代前田利家の幅20m、高さ5,7mを上回らないように築かれているという。ここは当初街道から外れていることもあって、立ち寄る予定ではなかったが、実際に行ってみてよかったと思った。I君のアドバイスに感謝する。
先ほどの食堂まで戻って、歩き始める。左手に大法寺があるところに里程元標が立っている。「福岡 弐里拾町拾六間」「大門 壱里参町七間」と書かれているが、これは昭和52年に復元されたものだ。
ここから右折、その先で左折という具合に、道は枡形になっている。ここにNTTがあるが、これが天野屋伝兵衛の屋敷跡で、高岡宿の本陣があったところだ。
左手に「菅野家住宅」がある。菅野家は高岡の代表的な商家で、江戸時代末期から明治にかけて回船の隆盛にともない財を築いたという。現在の建物は明治33年の高岡の大火の後に築かれたもので、伝統的な町家が数多く残されている高岡の中でも、大規模で最も質の高いものとして重要文化財に指定されている。
「銅造阿弥陀如来坐像(高岡大仏)」がある。これは延享2年(1745)に木造金色の仏像を建立したのが始まりで、文政4年(1821)に焼失、天保12年(1841)に再興されたが、明治33年の大火で焼失、昭和8年に再建されたという。地上からの高さは16.5mあり、奈良、鎌倉の大仏とともに日本三大仏に数えられているという。境内にある釣鐘は文化3年(1806)に鋳造されたもので、かって高岡の時鐘だったという。明治の二回の大火を焼け残って昭和6年にこの寺に寄進されたという。
「定塚不動尊」があり、ここで道は二股に分かれているので、左の道を直進する。
第二定塚踏切でJRの線路を横断して進むと、右手に「井口神社」がある。ここは創建年は不詳だが、文化2年(1803)の記述によると、旧井口郷七カ村の惣社だったという。明治3年に井口神社と改称されたという。
すぐ先、右手に「蓮花寺」がある。ここは寛喜3年(1231)に創建され、元弘3年(1333)に再建されたという古刹で、県指定文化財である十一面観世音菩薩立像をはじめ藤原期、鎌倉期、室町期の木仏や鋳銅仏等すぐれた文化財が数多く安置されている。境内には鎌倉期の宝篋印塔や五輪塔があり、参道には数多くの石仏が並んでいる。
右手に恵比寿宮があり、題目石がある。題目石は福井あたりでは数多くあったが、このあたりではあまり見かけない。
庄川に架かる大門大橋を渡るが、この川に高岡の長楽寺の境内に碑があった侠客大長が大長橋と呼ばれた橋を架けたという。すぐ左折すると「大門神社」がある。ここは元来、神明社だったという。文政13年(1830)の石灯篭が立っている。
和田川に架けられたときわ橋を渡って進むと、右手に「誓光寺」があり、ここに「明治天皇御駐輦碑」が立っている。
野田踏切でJRの線路を横断して進む。周囲には田んぼが広がっていて、気持ちがいい。
枡形のように屈曲した道を進むと「新開発の地蔵堂」がある。三方入母屋正面唐破風造りというようだが、、地蔵堂にしてはあまり見かけない変わった形をしている。
街道は小杉高校の敷地で失われているため、学校の周囲を回るようにして進むと、右手に石仏と石柱が立っているが、由来はわからなかった。
すぐ先に地蔵堂と題目石が立っている。
赤壁酒店がある。庭や建物を合わせると延長31mになるという立派な家だ。
右手に「真福寺」があり、境内に「庚申像」の小祠がある。その前に「庚申講二百年」を記念した碑が立っている。文久2年(1862)の石灯篭が立っている。
左手に「西土寺」がある。ここの梵鐘は貞享4年(1687)に鋳造されたもので、太平洋戦争の際、数多くの梵鐘が供出されたが、この梵鐘は特に重要な工芸品ということで供出を免ぜられたという。
16時45分に小杉駅前にある今日の宿に入る。
本日の歩行時間 8時間45分(瑞龍寺を訪問した時間は除く)
本日の歩数&距離 46446歩、29.6km。
旅の地図
記録
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2011年10月07日(金)
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2011年10月08日(土)
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2011年10月09日(日)
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2011年10月10日(月)
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2011年10月11日(火)
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2011年10月12日(水)
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2011年10月13日(木)
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2011年10月14日(金)
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2011年10月15日(土)
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2011年10月16日(日)
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2011年10月17日(月)
プロフィール
歩人
かっちゃん