2011年10月09日(日)
小松~寺井~水島~柏野~松任~野々市~金沢
晴れ
6時35分に出発する。竜助町の信号の左手に「本覚寺」があるので、街道を外れて行ってみた。ここは建久3年(1192)越前和田村で創建され、慶長9年(1603)に現在地に移ったという。蓮如上人自筆の「親鸞聖人遺文二尊大悲」が残されており、小松市指定文化財になっている。

一旦、街道に戻る。街道は竜助町の信号から直進する101号線を進むのだが、街道から外れた二つ右手の道にお寺が並んで建っているので、そちらの道を歩くことにする。「勧帰寺」がある。ここは文明6年(1474)に本折で創建され、寛永19年(1642)に現在地に移ったという。親鸞聖人と蓮如上人を描いた郡中御影は小松市指定文化財になっている。

「勝光寺」がある。元中2年(1385)に創建されたが、その後この地に移転したという。

「称名寺」があるが、朝が早いせいか、まだ門が開いていなかった。ここは佐々木盛綱が越前折立郷に創建、その後能美郡赤井村にあったが、寛永16年(1639)に現在地に移転したという。このあたり、古いお寺が並んで建っている。
その先で旧道に合流するが、このあたりの旧い歴史を感じさせる家には「こまつ町家指定」という看板がかかっている。小松市の中心市街地には、約1,100軒の伝統的な建築様式の「こまつ町家」が存在し、寺院などとともに町人文化が栄えた時代の面影を町並みに残している。こまつの町家は、町割りにより高密度に区画されていて、建物の側面が隣りの家と接するため、屋根は切妻平入りの構造とし、通りに面しては格子戸が設けられている。

芦城公園に突き当たるが、ここは加賀藩三代藩主前田利常が居城として建設した小松城三の丸跡地だ。
小松宿の本陣や脇本陣はこのあたりにあったようだが、遺構は何も残っていない。ここを右折して進み、その先で左折する。右手に「興善寺」があるが、ここの山門は福井県の丸岡城の城門を移設したと伝えられている。ここには本願寺が志納金(年貢)を受け取ったという文書、蓮如上人御消息が残っているが、これは原文としては全国に二通しかないという貴重なもので、小松市指定文化財になっている。

「西照寺」が右手にあるが、ここは蓮如上人の直弟子だった教明によって開基されたお寺で、ここの梵鐘は貞享元年(1684)に鋳造されたものという。小松市指定文化財になっている。

大川町の信号で右折して進むと、「来生寺」がある。ここの寺門は明治5年に小松城鰻橋御門を移設したもので、入母屋造、間口七間、奥行二間半の長屋門だ。ここも小松市指定文化財になっている。

梯川に架かる梯大橋があるが、ここに橋が架けられたのは江戸時代初期のことで、当時は舟を並べた舟橋だったそうで、前田利常が小松城に入った寛永17年(1640)に、より強固な橋に架けかえられたという。これを渡ったところに「延命地蔵尊」を安置する祠が立っている。
右手に「白山神社」があるが、ここの棟木には慶安4年(1651)と記されており、明治21年に小松城内にあった本殿を移築したという。

左手に寺井中学が見えるところで宮竹用水に架かる南天橋を渡るが、この橋には昔の街道の風景が描かれている。
右手に「即得寺」があるが、ここは天和2年(1683)に小松の本折から移ってきたもので、境内に「狐塚」がある。狐からもらったという短刀があって、「火除けの刀」として祀られている。

右手に「稱佛寺」があり、すぐその先に「寺井野村道路元標」が立っている。
ここから街道を外れて右折して進むと「奥野八幡神社」がある。ここは延元元年(1336)の創建と伝えられており、境内に朝鮮半島から持ち帰ったと伝えられる七重塔があって、小松市指定文化財になっている。

このあたりに寺井宿があったところだ。右手に寺井高校があるところ、左手に「北国街道復元工事」という石碑が立っている。
その先に「吉田村の道路元標」が立っており、ここから右折する。
このあたりの地域の駅伝大会が行われていて、選手が前方から次々に走ってくるのに行き当たった。近所の人々も道路に出て、盛んに声援を送っていた。
吉光八幡神社の鳥居があるところで道は二股に分かれているので、左へ進んでいくと、左手少し入ったところに「粟生八幡神社」がある。ここの創建は不詳だが、本社本殿は藩政末期の建築といわれ、壁板は三面とも欅の一枚板を使用しており、立派な彫刻が施されている。この地方では稀な建造物として、寺井町指定文化財となっている。

手取川に架かる手取川橋を渡って進むが、この川は霊峰白山に源を発する県下最大の河川で、人々の生活を潤してきたが、一方では暴れ川と呼ばれるように、何度も洪水を引き起こして、被害を及ぼしてきていた。藩政時代、粟生の宿駅と右岸との交通は「粟生の渡し」と呼ばれる、綱繰り渡船だけが唯一の渡河手段で、増水時には数日間粟生の宿駅に足止めされる旅人もあったという。
その先、水島南の信号の横に古い墓地があり、天保、嘉永等と刻まれた墓が数多く立っている。
水島郵便局の横に「一里山跡」「右 水島迄一町」「左 柏野迄三十二町」と刻まれた、まだ新しい道標が立っている。このあたりに水島宿があったのだろう。
右手に「夏の水観音」がある。夏の水とは5月ごろに水が湧き出し、秋の終わりごろに涸れる清水のことをいい、昔、福留村天正寺の僧が観音の霊夢によって、この地に湧水があることを知り、水不足に苦しめられていた人々の苦しみを救ったという。ここの湧水は諸病を治すといわれて、遠く京都、大阪から水をもらいに来たという。現在は水は枯れているという。横に観音堂があるが、これは明暦年間(1655~1658)に十一面観音像を石に刻み、天正寺に安置したが、寛文年間(1661~1673)にこの地へ移し、以後33年に一度御開帳されるという。
8号線を地下道で抜けて進むと、左手に「明治天皇御駐輦記念碑」が立っている。
右手に楢本神社を見ながら進み、中屋川橋という小さな橋を渡って進む。このあたりが柏野宿があったところだ。金沢バイパスを地下道で抜けて進むと、右手に「宮丸一里山跡」碑が立っており、「右 柏野迄四町」「左 松任迄弐弐十八町」と刻まれている。平成2年に建立されたまだ新しい石碑だ。
もう一度地下道で金沢バイパスを抜け、その先の宮丸の信号で再び金沢バイパスを横断する。このあたり、何度も金沢バイパスを横断する。
右手に「本村井神社」がある。ここは延喜式神名帳に記載されている式内社で、大宝2年(702)に創建された古い神社だ。かってこの地には古い大池があり、子供が落ちて溺死するので、これを潰してしまった。ところが逆に疫病が流行したので、大池の跡に少名彦名命を祀ったのが起源という。天正2年(1573)の毘沙門天面が所蔵されているという。

井の手橋を渡るが、ここは昔、大池の排水のための川があり、葦が茂っていて昼でも不気味な場所だったという。あるとき、力持ちの力善右衛門が大きな枝を曲げて腰を下ろしていたところ、一人の旅人が同席した。善右衛門が立ちあがったところ、枝が跳ね上がって、旅人は橋の上に跳ね飛ばされたが、怪我をしなかったことから命橋(井の手橋)と呼ばれるようになったという。
右手に「出城八幡宮」がある。ここは天平18年(746)に万葉の歌人大伴家茂が越中守として下向の折り、神宝を奉じ、この地に社殿を建立したのが始まりといわれており、その後兵火によって廃滅していたが、木曽義仲によって再建、その後も焼失、再建を繰り返したが、文禄3年(1594)に再度再建され、その後33年毎に御開帳を行うようになったという。入り口近くに松の大木が立っているが、これは往時、街道に植えられていた松並木の一株だという。

「木戸跡」碑が立っているが、ここは藩政時代、上口往還(北陸街道)が通り、松任町と成村の境界であったこの場所に、通行出入り者を取り締まるための木戸や番所があったという。
「獅子まつり」が行われていて、数多くの見物人が集まっていた。獅子舞は松任に伝わる代表的な民俗芸能という。時期的に丁度秋祭りの時期で、歩いているとこのような祭事があちこちで行われている。

左手に「聖興寺」がある。ここは明応4年(1495)に創建され、慶安元年(1648)に松任町内に移った。境内には「千代尼塚」がある。

このあたりでも祭りがおこなわれていて、神輿が出ていた。

松任宿本陣である「青木家」がある。18世紀後半の建立と考えられており、中村用水に接することから、「臨川書屋」と呼ばれていたという。青木家は歴代町年寄役を勤めた家柄で、寛保元年(1741)からは正式に松任旅館御用を勤めるようになったという。

右手に「本誓寺」がある。ここは松任四ケ寺の一つで、もとは天台寺院だったが、親鸞が越後に流されたときに改宗、江戸時代に現在地に移転したという。ここの大門は加賀藩家老長家屋敷の門で、明治期に移設したが、棟札によれば享和元年(1801)に竣工したという。

左手に「延命地蔵」がある。これは康永元年(1342)の作で、天和2年(1682)に加賀藩の鋳師平井但馬守家長が台座部分を補鋳したもので、白山比咩神社の前身である白山権現地蔵堂護摩堂の本尊であったといわれている。

ここで金沢在住のI君と合流する。前回福井まで来たときに、金沢まで足を伸ばして一献傾けたのだが、今回はここから金沢まで一緒に歩いてくれるということで、ここで合流、とりあえず昼食を一緒に済ませて歩き始める。I君とは学生時代同じクラブで、一緒に汗を流し、同じ釜の飯を食べた仲間だ。
「停車場往来」の大正3年の碑が立っている。明治37年に松任と金沢の野町三丁目とを結ぶ馬車鉄道が開通、大正3年には電車となったが、その始発駅の跡にこの石碑が立っている。
昔、このあたりに一里塚があったことから一里塚橋という名前の橋を渡って進むと、右手に「地蔵石」がある。これはかって地蔵橋という幅70㎝ほどの溝に架けられていた板石のうちの一枚で、かってこの地にあった「エンドウ寺」という寺に地蔵菩薩が祀られていたが、溝に石を渡して、通行する人がその石を踏むことによって、安全を願ってやりたいというその地蔵尊の霊夢によって地蔵橋が造られた。この地蔵石はその板石のうちの一枚で、昭和31年に板石を撤去した際、この由来によって地蔵像が彫られたという。

右手に大きな忠魂碑を見ながら進み、徳用の信号からわずかに残る土道を進むと、なにやらまたお祭りがあっている。ここも秋祭りかなと思って進んでいくと、野々市がこの度、野々市市になるので、それを祝うイベントだった。
左手に「喜多記念館」がある。ここは明治24年の野々市の大火災で罹災したので、この地へ移築したそうで、文化文政時代(1804~1830)に建てられており、ゆるい勾配の屋根の下には深い軒の出を支える腕木や両側の袖壁があり、軒先に風返しがつけられ、下屋の軒下には霧除けがついているなど、金沢町家の典型的な建物だ。

左手に「布市神社」がある。ここは寛弘6年(1009)に創建されたとも、また文治元年(1185)に創建されたとも言われている。境内には一向一揆の時、騎馬戦随一の武将と称された木村九郎左衛門孝信の墓標という大銀杏があり、また武蔵坊弁慶が大石を鞠のように投げつけたという「力石」があるが、この石はまた、明治初期まで干天の際、住民がこの石を担ぎまわったところ、必ず雨が降ったことから、「雨乞い石」とも呼ばれているそうだ。

右手に「照台寺」があるが、ここにも大きな銀杏の木が立っている。ここは元弘元年(1331)に天台宗から真宗大谷派へ宗派がえになったという。
神輿を背景にして家族で記念写真を撮っていた。この辺りは昔の野々市の宿場の雰囲気が色濃く残っていて、旧いたたずまいの家が立ち並んでいる。

この先、比較的見物をする場所が少なかったこともあって、I君と色々と話をしながら進んでいく。
左手に「国造神社」がある。ここは天平勝宝3年(751)の創建とされ、前田利家公所蔵の虚空蔵菩薩が奉納されたことから、虚空蔵之宮とも呼ばれた。また歴代大聖寺藩主の崇敬も篤かったという。三十年に一度、式年祭がおこなわれている。

右手に「念西寺」がある。ここは宝暦4年(1754)ごろ、52歳の千代女が剃髪後、5年ほど過ごしたところという。境内に「千代尼塚」があるが、これは文化8年(1811)に千代女の三十七回忌に建立されたものだという。

左手に「泉八幡神社」がある。ここは加賀国の富樫泰高が文亀年中(1502)ごろに創建したといわれている。境内には大きな銀杏が立っている。

右手に金沢特有の「石置き屋根」の家がある。珍しい屋根だ。

左手に「神明宮」がある。ここは延文2年(1357)に現在地へ移設され、その後、前田氏の庇護のもと、社地を拡張したという。金沢の旧五社の一つで、その境内に樹齢800年といわれる大きな欅が立っている。これは石川県の巨樹第一位ということだ。

左手に「雨宝院」がある。ここは天平8年(736)に創建されたところで、室生犀星が育ったところだ。

犀川に架かる犀川大橋を渡って進み、香林坊にある今日の宿に17時10分に到着する。
その後、I君と夕食をともにするが、食事に出る前に、ホテルで写真を撮る。3時間ほど一緒に歩いてくれたが、このように一緒に歩くことはめったにないことなので楽しかった。感謝である。

本日の歩行時間 10時間35分。
本日の歩数&距離 56659歩、35.8km。
6時35分に出発する。竜助町の信号の左手に「本覚寺」があるので、街道を外れて行ってみた。ここは建久3年(1192)越前和田村で創建され、慶長9年(1603)に現在地に移ったという。蓮如上人自筆の「親鸞聖人遺文二尊大悲」が残されており、小松市指定文化財になっている。

一旦、街道に戻る。街道は竜助町の信号から直進する101号線を進むのだが、街道から外れた二つ右手の道にお寺が並んで建っているので、そちらの道を歩くことにする。「勧帰寺」がある。ここは文明6年(1474)に本折で創建され、寛永19年(1642)に現在地に移ったという。親鸞聖人と蓮如上人を描いた郡中御影は小松市指定文化財になっている。

「勝光寺」がある。元中2年(1385)に創建されたが、その後この地に移転したという。

「称名寺」があるが、朝が早いせいか、まだ門が開いていなかった。ここは佐々木盛綱が越前折立郷に創建、その後能美郡赤井村にあったが、寛永16年(1639)に現在地に移転したという。このあたり、古いお寺が並んで建っている。
その先で旧道に合流するが、このあたりの旧い歴史を感じさせる家には「こまつ町家指定」という看板がかかっている。小松市の中心市街地には、約1,100軒の伝統的な建築様式の「こまつ町家」が存在し、寺院などとともに町人文化が栄えた時代の面影を町並みに残している。こまつの町家は、町割りにより高密度に区画されていて、建物の側面が隣りの家と接するため、屋根は切妻平入りの構造とし、通りに面しては格子戸が設けられている。

芦城公園に突き当たるが、ここは加賀藩三代藩主前田利常が居城として建設した小松城三の丸跡地だ。
小松宿の本陣や脇本陣はこのあたりにあったようだが、遺構は何も残っていない。ここを右折して進み、その先で左折する。右手に「興善寺」があるが、ここの山門は福井県の丸岡城の城門を移設したと伝えられている。ここには本願寺が志納金(年貢)を受け取ったという文書、蓮如上人御消息が残っているが、これは原文としては全国に二通しかないという貴重なもので、小松市指定文化財になっている。

「西照寺」が右手にあるが、ここは蓮如上人の直弟子だった教明によって開基されたお寺で、ここの梵鐘は貞享元年(1684)に鋳造されたものという。小松市指定文化財になっている。

大川町の信号で右折して進むと、「来生寺」がある。ここの寺門は明治5年に小松城鰻橋御門を移設したもので、入母屋造、間口七間、奥行二間半の長屋門だ。ここも小松市指定文化財になっている。

梯川に架かる梯大橋があるが、ここに橋が架けられたのは江戸時代初期のことで、当時は舟を並べた舟橋だったそうで、前田利常が小松城に入った寛永17年(1640)に、より強固な橋に架けかえられたという。これを渡ったところに「延命地蔵尊」を安置する祠が立っている。
右手に「白山神社」があるが、ここの棟木には慶安4年(1651)と記されており、明治21年に小松城内にあった本殿を移築したという。

左手に寺井中学が見えるところで宮竹用水に架かる南天橋を渡るが、この橋には昔の街道の風景が描かれている。
右手に「即得寺」があるが、ここは天和2年(1683)に小松の本折から移ってきたもので、境内に「狐塚」がある。狐からもらったという短刀があって、「火除けの刀」として祀られている。

右手に「稱佛寺」があり、すぐその先に「寺井野村道路元標」が立っている。
ここから街道を外れて右折して進むと「奥野八幡神社」がある。ここは延元元年(1336)の創建と伝えられており、境内に朝鮮半島から持ち帰ったと伝えられる七重塔があって、小松市指定文化財になっている。

このあたりに寺井宿があったところだ。右手に寺井高校があるところ、左手に「北国街道復元工事」という石碑が立っている。
その先に「吉田村の道路元標」が立っており、ここから右折する。
このあたりの地域の駅伝大会が行われていて、選手が前方から次々に走ってくるのに行き当たった。近所の人々も道路に出て、盛んに声援を送っていた。
吉光八幡神社の鳥居があるところで道は二股に分かれているので、左へ進んでいくと、左手少し入ったところに「粟生八幡神社」がある。ここの創建は不詳だが、本社本殿は藩政末期の建築といわれ、壁板は三面とも欅の一枚板を使用しており、立派な彫刻が施されている。この地方では稀な建造物として、寺井町指定文化財となっている。

手取川に架かる手取川橋を渡って進むが、この川は霊峰白山に源を発する県下最大の河川で、人々の生活を潤してきたが、一方では暴れ川と呼ばれるように、何度も洪水を引き起こして、被害を及ぼしてきていた。藩政時代、粟生の宿駅と右岸との交通は「粟生の渡し」と呼ばれる、綱繰り渡船だけが唯一の渡河手段で、増水時には数日間粟生の宿駅に足止めされる旅人もあったという。
その先、水島南の信号の横に古い墓地があり、天保、嘉永等と刻まれた墓が数多く立っている。
水島郵便局の横に「一里山跡」「右 水島迄一町」「左 柏野迄三十二町」と刻まれた、まだ新しい道標が立っている。このあたりに水島宿があったのだろう。
右手に「夏の水観音」がある。夏の水とは5月ごろに水が湧き出し、秋の終わりごろに涸れる清水のことをいい、昔、福留村天正寺の僧が観音の霊夢によって、この地に湧水があることを知り、水不足に苦しめられていた人々の苦しみを救ったという。ここの湧水は諸病を治すといわれて、遠く京都、大阪から水をもらいに来たという。現在は水は枯れているという。横に観音堂があるが、これは明暦年間(1655~1658)に十一面観音像を石に刻み、天正寺に安置したが、寛文年間(1661~1673)にこの地へ移し、以後33年に一度御開帳されるという。
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8号線を地下道で抜けて進むと、左手に「明治天皇御駐輦記念碑」が立っている。
右手に楢本神社を見ながら進み、中屋川橋という小さな橋を渡って進む。このあたりが柏野宿があったところだ。金沢バイパスを地下道で抜けて進むと、右手に「宮丸一里山跡」碑が立っており、「右 柏野迄四町」「左 松任迄弐弐十八町」と刻まれている。平成2年に建立されたまだ新しい石碑だ。
もう一度地下道で金沢バイパスを抜け、その先の宮丸の信号で再び金沢バイパスを横断する。このあたり、何度も金沢バイパスを横断する。
右手に「本村井神社」がある。ここは延喜式神名帳に記載されている式内社で、大宝2年(702)に創建された古い神社だ。かってこの地には古い大池があり、子供が落ちて溺死するので、これを潰してしまった。ところが逆に疫病が流行したので、大池の跡に少名彦名命を祀ったのが起源という。天正2年(1573)の毘沙門天面が所蔵されているという。

井の手橋を渡るが、ここは昔、大池の排水のための川があり、葦が茂っていて昼でも不気味な場所だったという。あるとき、力持ちの力善右衛門が大きな枝を曲げて腰を下ろしていたところ、一人の旅人が同席した。善右衛門が立ちあがったところ、枝が跳ね上がって、旅人は橋の上に跳ね飛ばされたが、怪我をしなかったことから命橋(井の手橋)と呼ばれるようになったという。
右手に「出城八幡宮」がある。ここは天平18年(746)に万葉の歌人大伴家茂が越中守として下向の折り、神宝を奉じ、この地に社殿を建立したのが始まりといわれており、その後兵火によって廃滅していたが、木曽義仲によって再建、その後も焼失、再建を繰り返したが、文禄3年(1594)に再度再建され、その後33年毎に御開帳を行うようになったという。入り口近くに松の大木が立っているが、これは往時、街道に植えられていた松並木の一株だという。

「木戸跡」碑が立っているが、ここは藩政時代、上口往還(北陸街道)が通り、松任町と成村の境界であったこの場所に、通行出入り者を取り締まるための木戸や番所があったという。
「獅子まつり」が行われていて、数多くの見物人が集まっていた。獅子舞は松任に伝わる代表的な民俗芸能という。時期的に丁度秋祭りの時期で、歩いているとこのような祭事があちこちで行われている。

左手に「聖興寺」がある。ここは明応4年(1495)に創建され、慶安元年(1648)に松任町内に移った。境内には「千代尼塚」がある。

このあたりでも祭りがおこなわれていて、神輿が出ていた。

松任宿本陣である「青木家」がある。18世紀後半の建立と考えられており、中村用水に接することから、「臨川書屋」と呼ばれていたという。青木家は歴代町年寄役を勤めた家柄で、寛保元年(1741)からは正式に松任旅館御用を勤めるようになったという。

右手に「本誓寺」がある。ここは松任四ケ寺の一つで、もとは天台寺院だったが、親鸞が越後に流されたときに改宗、江戸時代に現在地に移転したという。ここの大門は加賀藩家老長家屋敷の門で、明治期に移設したが、棟札によれば享和元年(1801)に竣工したという。

左手に「延命地蔵」がある。これは康永元年(1342)の作で、天和2年(1682)に加賀藩の鋳師平井但馬守家長が台座部分を補鋳したもので、白山比咩神社の前身である白山権現地蔵堂護摩堂の本尊であったといわれている。

ここで金沢在住のI君と合流する。前回福井まで来たときに、金沢まで足を伸ばして一献傾けたのだが、今回はここから金沢まで一緒に歩いてくれるということで、ここで合流、とりあえず昼食を一緒に済ませて歩き始める。I君とは学生時代同じクラブで、一緒に汗を流し、同じ釜の飯を食べた仲間だ。
「停車場往来」の大正3年の碑が立っている。明治37年に松任と金沢の野町三丁目とを結ぶ馬車鉄道が開通、大正3年には電車となったが、その始発駅の跡にこの石碑が立っている。
昔、このあたりに一里塚があったことから一里塚橋という名前の橋を渡って進むと、右手に「地蔵石」がある。これはかって地蔵橋という幅70㎝ほどの溝に架けられていた板石のうちの一枚で、かってこの地にあった「エンドウ寺」という寺に地蔵菩薩が祀られていたが、溝に石を渡して、通行する人がその石を踏むことによって、安全を願ってやりたいというその地蔵尊の霊夢によって地蔵橋が造られた。この地蔵石はその板石のうちの一枚で、昭和31年に板石を撤去した際、この由来によって地蔵像が彫られたという。

右手に大きな忠魂碑を見ながら進み、徳用の信号からわずかに残る土道を進むと、なにやらまたお祭りがあっている。ここも秋祭りかなと思って進んでいくと、野々市がこの度、野々市市になるので、それを祝うイベントだった。
左手に「喜多記念館」がある。ここは明治24年の野々市の大火災で罹災したので、この地へ移築したそうで、文化文政時代(1804~1830)に建てられており、ゆるい勾配の屋根の下には深い軒の出を支える腕木や両側の袖壁があり、軒先に風返しがつけられ、下屋の軒下には霧除けがついているなど、金沢町家の典型的な建物だ。

左手に「布市神社」がある。ここは寛弘6年(1009)に創建されたとも、また文治元年(1185)に創建されたとも言われている。境内には一向一揆の時、騎馬戦随一の武将と称された木村九郎左衛門孝信の墓標という大銀杏があり、また武蔵坊弁慶が大石を鞠のように投げつけたという「力石」があるが、この石はまた、明治初期まで干天の際、住民がこの石を担ぎまわったところ、必ず雨が降ったことから、「雨乞い石」とも呼ばれているそうだ。

右手に「照台寺」があるが、ここにも大きな銀杏の木が立っている。ここは元弘元年(1331)に天台宗から真宗大谷派へ宗派がえになったという。
神輿を背景にして家族で記念写真を撮っていた。この辺りは昔の野々市の宿場の雰囲気が色濃く残っていて、旧いたたずまいの家が立ち並んでいる。

この先、比較的見物をする場所が少なかったこともあって、I君と色々と話をしながら進んでいく。
左手に「国造神社」がある。ここは天平勝宝3年(751)の創建とされ、前田利家公所蔵の虚空蔵菩薩が奉納されたことから、虚空蔵之宮とも呼ばれた。また歴代大聖寺藩主の崇敬も篤かったという。三十年に一度、式年祭がおこなわれている。

右手に「念西寺」がある。ここは宝暦4年(1754)ごろ、52歳の千代女が剃髪後、5年ほど過ごしたところという。境内に「千代尼塚」があるが、これは文化8年(1811)に千代女の三十七回忌に建立されたものだという。

左手に「泉八幡神社」がある。ここは加賀国の富樫泰高が文亀年中(1502)ごろに創建したといわれている。境内には大きな銀杏が立っている。

右手に金沢特有の「石置き屋根」の家がある。珍しい屋根だ。

左手に「神明宮」がある。ここは延文2年(1357)に現在地へ移設され、その後、前田氏の庇護のもと、社地を拡張したという。金沢の旧五社の一つで、その境内に樹齢800年といわれる大きな欅が立っている。これは石川県の巨樹第一位ということだ。

左手に「雨宝院」がある。ここは天平8年(736)に創建されたところで、室生犀星が育ったところだ。

犀川に架かる犀川大橋を渡って進み、香林坊にある今日の宿に17時10分に到着する。
その後、I君と夕食をともにするが、食事に出る前に、ホテルで写真を撮る。3時間ほど一緒に歩いてくれたが、このように一緒に歩くことはめったにないことなので楽しかった。感謝である。

本日の歩行時間 10時間35分。
本日の歩数&距離 56659歩、35.8km。
旅の地図
記録
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2011年10月07日(金)
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2011年10月08日(土)
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2011年10月09日(日)
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2011年10月10日(月)
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2011年10月11日(火)
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2011年10月12日(水)
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2011年10月13日(木)
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2011年10月14日(金)
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2011年10月15日(土)
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2011年10月16日(日)
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2011年10月17日(月)
プロフィール

歩人
かっちゃん