北陸道(福井~高田)を歩く

2011年10月07日(金) ~2011年10月17日(月)
総歩数:518812歩 総距離:342.7km

2011年10月07日(金)

福井九十九橋~船橋~舟寄・長崎~金津 

                               晴れ

 10時30分に福井駅に到着し、九十九橋から歩き始める。この橋は福井城下への出入り口となる橋で、戦国期末の朝倉氏時代にはすでに「北庄大橋」という名前で架けられており、古くはその長さが八十八間あったことから「米橋」とも呼ばれていたという。橋の袂に明治42年の「里程元標」と九十九橋の由来が書かれた石碑が立っている。
九十九橋九十九橋里程標

 5号線を進むが、すぐ先で右斜め、呉服町商店街のほうへ分岐する。その先で道は枡形になっており、松本通りを中心に右折、左折を繰り返す。突き当りを左折すると右手に「簸川神社」がある。ここは天正13年(1585)に堀秀政の父秀重が三の丸御座所裏門前の地に移設、その後、慶長6年(1601)、享保17年(1732)と移転を繰り返し、明治7年に現在地に移ったという由緒ある神社だ。
簸川神社
 左手に平成3年に建てられたという「加賀口御門跡」の石碑が立っている。福井城下の出入り口は7口あったが、その中で最も重要な口がこの加賀口であったという。
加賀口御門跡
 その先、左手に「松本荒町一里塚」のモニュメントが立っている。
松本荒町一里塚
 すぐ先を左折、その先を右折してえちぜん鉄道荒町踏切を渡り、お泉水通りを進むが、ここでスーパーがあったので、弁当を買って昼食にする。松本小学校が右手にあるところからお泉水通りから分岐して左へ進むと、右手に「小沢家」がある。いかにも旧家らしい立派な構えの家だ。
小沢家
 高木踏切でJRの線路を横断、用水に架かる七軒橋を渡って進む。昔、城の周囲に濠がめぐらされていたが、その名残として現在でもこのあたりのいたるところに用水が流れている。
 九頭竜橋の手前から右折すると「黒龍神社」がある。古来日本には常陸国に鹿島大明神、紀伊国に熊野大権現、安芸国には厳島大明神、越前国にこの黒龍大明神の四大明神があり、黒龍神社は日本の国家鎮護と黒瀬川(九頭竜)の守護神として創建された古社と説明されている。
 黒龍神社
 九頭竜川を渡るが、この川の由来はその昔、勝山平泉寺の白山権現の尊像を衆徒が川に捨てたところ、一身九頭の竜が現れ、尊像を捧げ戴いて川を下り、黒龍神社(船橋)の岸に着いたことから、この川を九頭竜川と呼ぶようになったという説と、すぐに氾濫したので、崩れ川と呼んでいたのが、なまって九頭竜川になったという説があるという。 また、天正6年(1578)柴田勝家が四十八艘の船を鉄鎖と藤の弦で繋ぎ、上に橋板を並べて舟橋としており、これは日本三大舟橋の中でも最古のものだったという。このあたりは宿場で本陣や脇本陣をはじめ数多くの茶屋、旅館があったそうだが、遺構は残っていない。
 橋を下ったところの左手に「一里塚跡」碑が立っている。本来はここから南西100m先にあったと刻まれている。
一里塚跡
 右手に「八幡宮」があり、ここに「筆塚」がある。これは権大僧都蓮皈院章賰法印大徳師の弟子たちが明治14年に建立したが、昭和23年の福井大地震で崩壊したので、平成元年に再建されたという。
筆塚
 用水路に沿って進むと、左手に「算塚」がある。これは算数の道に長じた教師、岸作兵衛を偲んで門弟らが明治15年に建立したものという。
算塚
 左手に新田義貞(1338没)、その弟の脇屋義助のころに建てられたのではないかと推測されているという、菅原道真を祀る石盛天満宮があり、その先の三叉路のところに「金戸まつや地蔵」がある。このあたりは昔は窪地で九艘橋といって舟を九艘並べて板を渡し、その上を歩いて渡っていたそうで、大雨の時には命を落とす旅人が数多くいたという。このことを憐れんで「まつや商店」のご夫妻がこの「金戸の渡し」で亡くなった方々を弔うために建立したという。台座に書かれていることから「津田地蔵」とも呼ばれているという。
金戸まつや地蔵
 左手に享和3年(1803)と刻まれた地蔵尊がある。
 左手に「住吉神社」があり、境内に「順徳天皇御霊御駐輦所」碑が立っている。承久の乱で鎌倉幕府を討とうと、後鳥羽上皇とともに挙兵した順徳天皇は敗れて佐渡に追放され、21年後に亡くなられたが、明治7年にその御霊が京都に送り還されるとき、この神社に御駐輦されたことを記念して建てられたという。
「順徳天皇御霊御駐輦所」
 右手少し入ったところに「黄楊の堂」がある。この地に逗留していた親鸞上人が、お菓子に添えて出された楊枝を庭にさし、「これから後、仏教が繁昌するならば、必ずこれから芽が出て栄えるであろう」と祈念して旅立たれた。そうすると翌日からたちまち根を生じ、芽をふきだしたという。
黄楊の堂
 南横地の信号の先で、道は二股に分かれていて左へ進むが、分岐点に不動明王と他に二体の地蔵尊が安置されている祠があり、その前に「左」という字のみ判別できる道標が立っている。(歴史の道調査報告書(以下資料という)でみると「左 よしさき道」という道標があるようになっていますので、これがそうかもしれません。)
左 よしさき道」
 右手に「八幡宮」があるが、このあたりが舟寄の宿場があったところだ。さらに右手に「白山神社」があり、その先に「左 加賀道」と刻まれた道標が立っている。
左 加賀道
 道は左折、右折を繰り返して進むと「地蔵堂」がある。
 右手に天保12年(1841)の念仏講中の碑が立っており、左手に「お早、良作の地蔵堂」がある。加賀藩士安達弥兵衛の次男良作と町人の娘お早が恋仲になるが、周囲に反対をされて駆け落ちをしてしまう。しかし追っ手に捕まったため、良作はお早を殺し、自らも自害してしまった。文化5年(1808)のことで、この悲恋物語は「お早良作」という越前万歳になっているという。元の地蔵堂は文久元年(1861)に建てられたが、現在のお堂は平成元年に再建されたものという。
お早、良作の地蔵堂」
 高畑踏切でJRの線路を横断して進むと、右手に「万福寺」がある。ここには聖徳太子自身の作と伝えられている聖徳太子像があるという。
 その先右手に文化4年(1864)の「諸人御道中為安全」の地蔵尊がある。
諸人御道中為安全
 田んぼの中の一本道を進んでいくと、左手に「振袖地蔵」がある。天保7年(1836)の大飢饉の際、福井でも6万人にも及ぶ餓死者を出したが、その中でも特に哀れを誘ったのが、娘たちが振袖を着たり、また振袖を持ったまま餓死してしまった姿だったという。そのため、地蔵を祀り、そこに振袖を刻み、また振袖を着せて供養したことが今に伝えられているという。
振袖地蔵
 右手に「関廼神社」がある。この神社は八幡神社、白山神社、関廼神社、神明神社が大正3年に合祀されたもので、境内にある石造りの堂と地蔵はともに元禄14年(1701)となっており、御神体の脇神の木像は慶長年間(1600年頃)のものだという。
関廼神社
 右手に「石団子の碑」がある。親鸞上人が越後に流された承久元年(1207)、この地を通られたが、その時ある民家に立ち寄られた。その家の老婆が里帰りしていた娘の嫁ぎ先へのお土産にと草団子を作っていたので、上人はこれを所望されたが、慾深い老婆は施しもせず、早々に立ち去るように邪険にふるまった。ところが出来立ての団子は石のように硬くなり、煮ても焼いても食べられなくなったという。
石団子の碑
 右手に「地蔵堂」があり、中に高さ1.5mの坐像が安置されている。これは江戸時代中期の作といわれており、当初は関の七曲りの第二曲がりに安置されていたものを、昭和40年にこの地に移されたという。地蔵堂の横に2体の地蔵尊がある。
 左手に「越前国下関一里塚」の碑が立っている。このあたりから関の七曲りといわれた場所で道は曲がりくねっている。
 七曲りを抜けて9号線に合流するところ左手に地蔵尊を安置する「地蔵堂」が立っている。
 南金津宿を通るが、遺構は残っていなかった。市姫橋を渡り、街道から外れて右折したところに今日の宿があった。
 今日は風が強くて肌寒い一日だった。

 16時40分に宿に入る。

 本日の歩行時間   6時間10分。
 本日の歩数&距離 37685歩、24.6km。