2011年05月19日(木)
斎宮~小俣~筋向橋~伊勢神宮外宮
晴れ
7時32分に斎宮駅に着き、歩き始める。今日もいい天気だ。
左手に観音寺跡の説明板が立っている。それによると天正4年(1576)斎宮の乾源休がその菩提寺として斎宮寮跡の西南、最勝寺に創建、その後乾覚右衛門によってこの地に移され、観音寺としたが明治元年に廃寺となり、本堂は現在佐田清光寺の本堂になっていると説明されている。
左手に「斎宮城跡」の標識が立っており、室町時代、斎宮の住人野呂三郎がここに城砦を築き、勝手に徳政を敷き、狼藉を働いたので、国司北畠材親はこれを討伐したと説明されている。
左手に「竹神社」がある。境内には嘉永7年(1854)の自然石灯籠が立っている。これは池村氏神の饗庭の森八王子の常夜燈として建立されたものと説明されている。また謡曲「絵馬」と竹神社のことが書かれた説明板が立っており、それによるとこの地に絵馬堂があったが、明治の終わりごろに廃され、現在残っている絵馬は神宝になっているということだ。
左手に「天満宮の道 四丁」という道標が立っている。これは北野天満宮への道しるべということだ。
その先左手に中町公民館があり、ここに永正10年(1513)の「六地蔵石幢」がある。ここにはかって明池山地蔵院があった。斎宮は神領のため、明治初年の神仏分離令によってこの地のほとんどの寺院は廃せられ、地蔵院もその際廃寺となったが、この六地蔵石幢だけが残っているという。 ここには他に庚申堂三棟と山神五基がある。
左に小道があり、そこに二本の道標が立っている。手前の道標には「斎宮旧蹟蛭沢之花園」と刻まれているが、これは地元でどんど花と呼ぶ、天然記念物の野花しょうぶ群落地への案内で、その後方の道標には「斎王隆子女王御墓従是拾五丁」と刻まれており、斎宮で亡くなった斎王隆子女王の墓への案内という。
勝見の信号の左横に「山神」が三基祀られている。
右手に「斎宮参詣古道」の標識が立っている。
その先、左手に永仁5年(1297)創建の「安養寺」がある。ここは寛文元年(1631)に現在地に移転、本堂、庫裡の再建を行ったが、明治3年に廃仏毀釈で廃寺になり、明治12年に再建されたという。ここは参詣往来の人々に対して門前に明星茶屋が造られ、湯茶の接待が行われたという。境内の奥には明星水といわれる井戸があり、日本三霊水の一つと説明されている。この横に小さなたけのこが顔を出していた。
「そうめん坂」の標識が立っている。この坂の付近で江戸時代から明治初年まで参宮される人を相手にしたそうめん屋があったという。
右手に「転輪寺」がある。ここの表門は江戸時代の田丸城内の門で銅鐘は延宝8年(1680)に造られており、庫裡はもとの本教寺の本堂で明暦年間(1655~1658)の物で明和町指定有形文化財になっている。ここは本山門主の伊勢参宮時の宿泊休憩場所だったという。
左手に嘉永6年(1853)の「従是外宮二里」の道標が立っている。もう少しだ!
この辺りも連子格子の歴史を感じさせる家が建っている。
左手に「弘法大師堂」がある。二体の弘法大師が祀られており、そのうちの一体に文政13年(1830)と刻まれていた。
すぐ先で伊勢市に入る。
右手に南無阿弥陀仏、三界万霊と刻まれた「徳淨上人千日祈願の塔」がある。天保の頃、村が大飢饉にみまわれたとき、徳淨光我上人という僧が村民の窮状を救おうと伊勢両神宮に千日間素足で日参されたという。その後明野村は平穏な日々を送ることができたので、明野や宇治山田の人々が千日祈願の徳を称えて建立したもので、裏面に天保7年(1836)満行と記されている。奥に庚申堂がある。
道なりに進んで行くと713号線に突き当たるのでこれを右折して進むと左手に「へんばや」がある。ここは安永4年(1775)に創業した老舗で大福餅を商っているようだ。時間はまだ9時過ぎでお腹も大きいので、そのまま先へ進む。
相合川に架かる相合橋を渡って進み、新出の信号から右斜めへ伸びる旧道に入る。
左手に「庚申堂」があり、安永8年(1779)の手水鉢があった。
道は一直線に伸びており、沿道には切妻妻入りや入母屋妻入りといった(こういう方面には疎い私ですが、伊勢街道の沿道に数多くこういう形の家が存在していたので少し分かるようになってきました)独特の造りの家々が立ち並んでいて、街道の雰囲気が色濃く残っている。
外城田川に架かる惣之橋を渡るが、この川は平時は水量が少なく、雨が降るとすぐに増水したことから「貧乏川」と呼ばれたそうだ。今日の水量は豊かだった。
左手に小俣小学校があり、その前に「小俣町道路元標」が立っている。
その先で道は二股に分かれており、その角に「紀州藩高札場跡」という石碑が立っている。ここを左折する。
左手に「奥山家」がある。ここは昔、丸吉屋といって煙草入れや薬草を商っていたという。
その先の突き当たりを右折すると左手に浄土寺があり、更にその先の突き当たりのところに消防団の車庫があり、ここから左折して進むと、右手に「坂田の橋跡」さらにその先に「鳥羽藩高札場跡」の石碑が立っている。
汁谷川に架かる宮古橋の左手袂に「参宮人見附」の石柱が立っている。
宮川に突き当たり堤防を右へ進むが、左手の河原に下の渡し(桜の渡し)が再現されている。宮川は神都伊勢に入る者は必ず渡らなければならない伊勢最大の河川だった。小俣と山田宮川町を結んだ「桜の渡し」を勅使も参宮者も必ず渡ったという。
JRのガード下を通り抜けて宮川橋を渡って進むと、左手に「茶屋町(常盤町)」の道標が立っている。これは文政5年(1822)に建立されたもので、「すぐ外宮江 十三丁半 内宮江 壱里三十三丁半」「左 二見浦 二里十五丁」「右 宮川渉場 六丁三十九間」と刻まれている。また、この茶屋町から大間の社(大間国生社)の方への道が分かれていたが、その分岐点は現在地より一本北側の道路にあって、この道標も以前はそこに立っていたと説明されている。
その先で道は二股に分かれているので、右へ直進、更にその先の二股を左へ進むと、37号線に合流するので、左へ進み、浦口の信号を右折、二つ目の十字路を左折、すぐ先の二股を右へ進むと五叉路の交差点に出るが、ここに「筋向橋」がある。ここから伊勢神宮までは熊野古道伊勢路を歩いた時に通った道で、あの時は外宮から筋向橋へ向かって歩き、この交差点から左折して進んだのだ。
ここから外宮はすぐそこだ。この間の詳細は熊野古道伊勢路で書いたので、ここでは省略させていただきます。
10時51分に伊勢神宮外宮に到着する。改めて無事に旅が終わったことの御礼を申し上げる。
今日も観光客が数多く参拝にきていた。
内宮も前回歩いたので、ここで伊勢街道は終わることにした。
本日の歩行時間 3時間19分。
本日の歩数&距離 19318歩、12.2km。
伊勢街道総合計
総歩行時間 21時間31分。
総歩数 122329歩。
総歩行距離 78.2km。
伊勢街道純距離 71.4km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
7時32分に斎宮駅に着き、歩き始める。今日もいい天気だ。
左手に観音寺跡の説明板が立っている。それによると天正4年(1576)斎宮の乾源休がその菩提寺として斎宮寮跡の西南、最勝寺に創建、その後乾覚右衛門によってこの地に移され、観音寺としたが明治元年に廃寺となり、本堂は現在佐田清光寺の本堂になっていると説明されている。
左手に「斎宮城跡」の標識が立っており、室町時代、斎宮の住人野呂三郎がここに城砦を築き、勝手に徳政を敷き、狼藉を働いたので、国司北畠材親はこれを討伐したと説明されている。
左手に「竹神社」がある。境内には嘉永7年(1854)の自然石灯籠が立っている。これは池村氏神の饗庭の森八王子の常夜燈として建立されたものと説明されている。また謡曲「絵馬」と竹神社のことが書かれた説明板が立っており、それによるとこの地に絵馬堂があったが、明治の終わりごろに廃され、現在残っている絵馬は神宝になっているということだ。
左手に「天満宮の道 四丁」という道標が立っている。これは北野天満宮への道しるべということだ。
その先左手に中町公民館があり、ここに永正10年(1513)の「六地蔵石幢」がある。ここにはかって明池山地蔵院があった。斎宮は神領のため、明治初年の神仏分離令によってこの地のほとんどの寺院は廃せられ、地蔵院もその際廃寺となったが、この六地蔵石幢だけが残っているという。 ここには他に庚申堂三棟と山神五基がある。
左に小道があり、そこに二本の道標が立っている。手前の道標には「斎宮旧蹟蛭沢之花園」と刻まれているが、これは地元でどんど花と呼ぶ、天然記念物の野花しょうぶ群落地への案内で、その後方の道標には「斎王隆子女王御墓従是拾五丁」と刻まれており、斎宮で亡くなった斎王隆子女王の墓への案内という。
勝見の信号の左横に「山神」が三基祀られている。
右手に「斎宮参詣古道」の標識が立っている。
その先、左手に永仁5年(1297)創建の「安養寺」がある。ここは寛文元年(1631)に現在地に移転、本堂、庫裡の再建を行ったが、明治3年に廃仏毀釈で廃寺になり、明治12年に再建されたという。ここは参詣往来の人々に対して門前に明星茶屋が造られ、湯茶の接待が行われたという。境内の奥には明星水といわれる井戸があり、日本三霊水の一つと説明されている。この横に小さなたけのこが顔を出していた。
「そうめん坂」の標識が立っている。この坂の付近で江戸時代から明治初年まで参宮される人を相手にしたそうめん屋があったという。
右手に「転輪寺」がある。ここの表門は江戸時代の田丸城内の門で銅鐘は延宝8年(1680)に造られており、庫裡はもとの本教寺の本堂で明暦年間(1655~1658)の物で明和町指定有形文化財になっている。ここは本山門主の伊勢参宮時の宿泊休憩場所だったという。
左手に嘉永6年(1853)の「従是外宮二里」の道標が立っている。もう少しだ!
この辺りも連子格子の歴史を感じさせる家が建っている。
左手に「弘法大師堂」がある。二体の弘法大師が祀られており、そのうちの一体に文政13年(1830)と刻まれていた。
すぐ先で伊勢市に入る。
右手に南無阿弥陀仏、三界万霊と刻まれた「徳淨上人千日祈願の塔」がある。天保の頃、村が大飢饉にみまわれたとき、徳淨光我上人という僧が村民の窮状を救おうと伊勢両神宮に千日間素足で日参されたという。その後明野村は平穏な日々を送ることができたので、明野や宇治山田の人々が千日祈願の徳を称えて建立したもので、裏面に天保7年(1836)満行と記されている。奥に庚申堂がある。
道なりに進んで行くと713号線に突き当たるのでこれを右折して進むと左手に「へんばや」がある。ここは安永4年(1775)に創業した老舗で大福餅を商っているようだ。時間はまだ9時過ぎでお腹も大きいので、そのまま先へ進む。
相合川に架かる相合橋を渡って進み、新出の信号から右斜めへ伸びる旧道に入る。
左手に「庚申堂」があり、安永8年(1779)の手水鉢があった。
道は一直線に伸びており、沿道には切妻妻入りや入母屋妻入りといった(こういう方面には疎い私ですが、伊勢街道の沿道に数多くこういう形の家が存在していたので少し分かるようになってきました)独特の造りの家々が立ち並んでいて、街道の雰囲気が色濃く残っている。
外城田川に架かる惣之橋を渡るが、この川は平時は水量が少なく、雨が降るとすぐに増水したことから「貧乏川」と呼ばれたそうだ。今日の水量は豊かだった。
左手に小俣小学校があり、その前に「小俣町道路元標」が立っている。
その先で道は二股に分かれており、その角に「紀州藩高札場跡」という石碑が立っている。ここを左折する。
左手に「奥山家」がある。ここは昔、丸吉屋といって煙草入れや薬草を商っていたという。
その先の突き当たりを右折すると左手に浄土寺があり、更にその先の突き当たりのところに消防団の車庫があり、ここから左折して進むと、右手に「坂田の橋跡」さらにその先に「鳥羽藩高札場跡」の石碑が立っている。
汁谷川に架かる宮古橋の左手袂に「参宮人見附」の石柱が立っている。
宮川に突き当たり堤防を右へ進むが、左手の河原に下の渡し(桜の渡し)が再現されている。宮川は神都伊勢に入る者は必ず渡らなければならない伊勢最大の河川だった。小俣と山田宮川町を結んだ「桜の渡し」を勅使も参宮者も必ず渡ったという。
JRのガード下を通り抜けて宮川橋を渡って進むと、左手に「茶屋町(常盤町)」の道標が立っている。これは文政5年(1822)に建立されたもので、「すぐ外宮江 十三丁半 内宮江 壱里三十三丁半」「左 二見浦 二里十五丁」「右 宮川渉場 六丁三十九間」と刻まれている。また、この茶屋町から大間の社(大間国生社)の方への道が分かれていたが、その分岐点は現在地より一本北側の道路にあって、この道標も以前はそこに立っていたと説明されている。
その先で道は二股に分かれているので、右へ直進、更にその先の二股を左へ進むと、37号線に合流するので、左へ進み、浦口の信号を右折、二つ目の十字路を左折、すぐ先の二股を右へ進むと五叉路の交差点に出るが、ここに「筋向橋」がある。ここから伊勢神宮までは熊野古道伊勢路を歩いた時に通った道で、あの時は外宮から筋向橋へ向かって歩き、この交差点から左折して進んだのだ。
ここから外宮はすぐそこだ。この間の詳細は熊野古道伊勢路で書いたので、ここでは省略させていただきます。
10時51分に伊勢神宮外宮に到着する。改めて無事に旅が終わったことの御礼を申し上げる。
今日も観光客が数多く参拝にきていた。
内宮も前回歩いたので、ここで伊勢街道は終わることにした。
本日の歩行時間 3時間19分。
本日の歩数&距離 19318歩、12.2km。
伊勢街道総合計
総歩行時間 21時間31分。
総歩数 122329歩。
総歩行距離 78.2km。
伊勢街道純距離 71.4km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
旅の地図
記録
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2011年05月17日(火)
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2011年05月18日(水)
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2011年05月19日(木)
プロフィール
歩人
かっちゃん