2011年03月19日(土)
小口~熊野那智大社 (大雲取越)
曇
当初の予定では中辺路を歩き終えたところで一旦九州へ帰り、26日、27日に京都である恒例のクラブのOB会に出席後、そのまま伊勢へ出て伊勢路を歩こうと思っていた。しかし南紀はアクセスが悪くて往復するのが大変だし、これまで順調に歩いてきたので、このまま伊勢路まで歩いてしまおうと思うようになっていた。幸いもしものことを考えて資料は持ってきていたのだ。伊勢路は伊勢から新宮へ向けて歩くようにしたいので、今日那智大社まで歩いた後、伊勢まで行かなければならない。時間を調べるとJRの本数が少なくて、那智勝浦を14時44分(今回のダイヤ改正の前の時刻です)に出る電車に乗り遅れると、次は17時まで待たなければいけない。そのため那智大社に14時までについて、14時15分のバスに乗って那智勝浦駅まで行きたいというスケジュールを立てた。
小口から那智大社までの所要時間は宿の方や前日ここまで歩いてこられた方にお聞きすると7時間はかかるといわれる。そのため逆算すると6時半には出発したほうがいいということになって、それにあわせた朝食の時間にしていただいた。後は道を間違わないように気をつけるだけだ。
ということで6時25分に大雲取登り口まで車で送っていただき、歩き始める。ここも登り口は階段になっている。
「円座石」がある。石に刻まれた梵字は、右が阿弥陀仏(本宮)、中央が薬師仏(新宮)、左が観音仏(那智)を表し、熊野三山の本地仏の表現であるが、製作の年代や背景は分かっていないという。円座(わろうだ)とはわらやいぐさ等を丸く編んだ敷物のことで、石の上面の模様がそれに似ていることからこの名前が付けられたという。
山の中の道を黙々と歩いていくと、今日も鶯の鳴き声が聞こえる。鶯も早起きだ。「おはよう」と声をかけるかわりに口笛で鶯の鳴き声のまねをしながら進んでいく。
石畳の急な上り坂を上って行くと「楠ノ久保旅籠跡」がある。ここは江戸時代には十数軒の旅籠があり、大変賑わったという。18世紀の参詣者の日記には野菜を植えても猿や鹿に食べられてしまうので、干しワラビ以外には菜や大根の類はないなどと記されているということだ。
その先道端に三体の地蔵尊が続けて立っている。最後の一体には苔がついていて年代を感じさせるが建立年月はわからなかった。
熊野古道を歩いてみて、このような地蔵尊が街道沿いに少ないように感じる。他の街道では危険なところには必ず馬頭観音などが祀られているが、この街道ではそういったものが非常に少ない。また街道にはゴミが全く落ちておらず、とてもきれいに整備されている。かなりの人がこの街道を歩いているようなので、山の中に空き缶やペットボトルが捨てられていてもおかしくないのだがこれが全くない。これはとても素晴らしいことだと思った。
上り坂は更に厳しさを増してくる。息が上がる。一歩一歩踏みしめながら坂を上って行くと、「胴切坂」がある。ここは熊野本宮大社から来てこの坂を上ると横腹が痛くなり、切れそうだという意味から付けられたということだが、確かに厳しい上り坂だ。
更に坂を上って行く。苔むした石畳の上り坂が続いている。なかなか風情のある景色なのだが、14時までに那智に着きたいという思いが強いので、ひたすら急いでいるためそれらを楽しむ余裕はない。それでも写真は撮っておいた。
8時30分に「越前峠」に到着する。ここは標高870mで中辺路の最高地点だ。今朝出発した小口は標高65mなので約800mを一気に登ったことになる。ここには昔茶屋があったそうだが、今では遺構は何も残っていない。
現在は植林で眺望はきかないが、昔は遠く越前まで見通すことができたという。
ここには土屋文明の歌碑「輿の中海の如しと嘆きたり石を踏む丁のことは伝えず」が立っている。雨の為に輿の中は海のように水浸しだ、と嘆いている公家たちであるが、その輿を担いでいる丁のことは少しも想いやってくれないと皮肉った歌だという。
熊野川小学校の卒業記念や自然体験活動と書かれた板切れが置かれている。小学生がここまで登ってきたのだろうが、彼らにとってもいい思い出になっているだろう。
ここから急な下りになる。大雲取越には斉藤茂吉や長塚節らの歌碑が数多く立っているが、そういった方面には疎い私はひたすら先を急ぐ。一旦下った道はその先で再び上り坂になり、やがて「石倉峠」に着く。
ここには「是ヨリ北小口村、是ヨリ南色川村」と刻まれた石仏がある。ここが那智勝浦町と新宮市熊野川町の境界になっている。
ここから再び石畳の急坂を下っていく。やがて「大雲取地蔵尊」を安置する地蔵堂があり、地蔵茶屋跡に着く。地蔵堂の中には三十三体の地蔵尊が安置されており、その横には元禄3年(1690)の三界万霊が立っている。時計を見ると9時20分だ。出発から約3時間が経過しているが、この辺りでほぼ半分の距離と思うと、いいペースできている。このまま行けばなんとか14時には間に合いそうだ。ここに休憩所があるので小休止する。日ごろは途中で休憩はしないのだが、急坂を急ぎ足で登ってきたのでさすがに一休みしたくなった。
その先で川の向こう側に旧道が通っているようだが、通行止めの標識が出ているので舗装道を進む。対岸を見ていると川を挟んで舗装道に併行して山道が通っているようだ。その先でこの山道は舗装道と合流していた。この辺りでご夫婦らしい二人連れをすれ違う。那智大社からこられたということだった。
山道と合流したすぐ先で道は二股に分かれているので、標識に従って右へ進み、坂を下る。
すぐに坂は登り道になり、その先で林道を横断して進む。左手にまだ新しい地蔵尊があり、その向こうに赤い鳥居が立っている。この辺り若干のアップダウンはあるものの、比較的平坦で歩きやすい。
時計を見ると10時10分だ。この調子だと意外に早く着きそうだ。このときある案が頭に浮かんだ。14時の前に紀伊勝浦駅を12時23分のJRがあること思い出したのだ。計画段階ではこの時間にはまず無理だろうと思いながら一応JRの出発時間だけを書き留めていたのだが、これで行くと伊勢には15時8分に到着する。そうすると今日のうちに伊勢神宮を参拝できる。26日には京都に行かなければいけないので、少しでも先へ進んでいたいのだ。そう思うとなんとかこの時間に間に合わないかと思い出した。ところが那智大社発のバスの時間までは調べていなかったので何時につけばいいのか分からない。ただ14時15分のバスで14時44分のJRに間に合うのであれば、バスはJRの接続を意識しているはずなので、(JRの本数が少ないので当然意識していると思った)計算すると11時50分ごろまでに那智大社に着けばぎりぎりバスに間に合うかもしれないと歩きながら計算をした。よし!頑張ってみよう!
これから更に急ぎ足になる。このあたり、500mおきに道標が立っているので、それを見ながら時間計算をしてとにかく急ぐ。
色川辻で一旦舗装道に入るが、すぐに標識に従って山道に入る。この辺りでまた逆方向へ歩いておられる方にお会いする。更にその先でこの道を走っている若者に出会う。クロスカントリーでもやられているのだろうか、それにしてもこんなにアップダウンの激しい道を良く走るものだと感心する。その若者が走る姿を見ながら、私も半ば小走りに山道を進む。息が切れ、汗がでる。でも、折角ここまできたのだから12時のJRに間に合わせたい。
「舟見峠」がある。ここにも茶店があったようで、現在は道から少しはずれたところに展望台があるので行ってみる。急いではいるものの、一応みるものはみておかなければという気持だ。ここには3人の方がおられた。皆さん私とは逆方向から上ってこられている方達だ。これまで全くといっていいほど人に出会わなかったのに、今日はやけに人が多いなと思ったが、世間では今日から3連休なのだ。歩き続けていると曜日の感覚が失われてしまっている。
「舟見峠茶屋跡」は標高868m。ここからは眼下に那智勝浦町を望むことができる。若干霞んでいるがいい眺めだ。もっともゆっくり眺望を楽しんでいる余裕はない。すぐに街道に戻って先を急ぐ。
それから先も急ぎ足で下っていくが、下りの石畳は歩き難い。現在のようにきれいに揃った石が置かれているわけではなく、大石、小石がゴロゴロしており、それに苔が着いていたりして滑りそうだ。ここまできてひっくりこけて怪我をしてはたまらないので、注意しながらそれでも急いで坂道を下っていく。それにしても下りは膝に負担がくる。
「登立茶屋跡」がある。地元色川地区の人々から「馬つなぎ」と呼ばれていたこの茶屋は田辺からの日用雑貨、勝浦からの海産物を商う商店でもあったという。
那智高原休憩所がある。時計を見ると11時24分だ。まさにギリギリの時間だ。ここから那智大社へ向けて降りていく。そして「青岸渡寺」横にでたのが11時41分。ここからバス停まで400段以上の階段を下っていかなければならない。それでもバスが50分だったら何とかなりそうだと思って、階段を駆け下りる。途中でオバさんが「まぁ元気がいいねぇ」と言っている声が耳に入ったが、そのまま一気に駆け下りた。バス停に着いたのが11時47分。ところがバスの姿はない。時刻表を見てみると11時40分に出た後だった。毎時40分にここを出発しており、14時だけが例外的に15分があったのだ。僅か7分の差で間に合わなかった!と思うとこれまで急ぎに急いできた疲れがドッと出てしまって、動く気がしなくなってしまった。疲れた。後で乗ったバスの運転手さんにお聞きするとJRとの接続は意識していないということだった。
結局7時間で歩く予定を5時間22分で歩いたことになるが、バスに間に合わなかったのでどうすることもできない。バス停のベンチに腰掛けて、宿で作っていただいたおにぎりを食べる。
その後12時40分のバスで紀伊勝浦駅まで行き、ここでも接続がなくて暫く待って14時25分の電車で伊勢市へ向かい、17時59分に到着した。それにしても疲れた一日だった。こんなことならもう少しゆっくり歩くべきだったと思ったが、もう遅かった。
本日の歩行時間 5時間22分。
本日の歩数&距離 17140歩、15.4km。
熊野那智大社から熊野速玉大社までは大辺路を歩いた時にすでに歩き終えているので、これで中辺路は全て歩き終えたことになる。
熊野古道・中辺路総合計
総歩行時間 41時間38分。
総歩数 162714歩。
総歩行距離 127.5km。
熊野古道は山の中の道が多く、木々に遮られてGPSがうまく作動していない箇所がかなりありました。出来る限り地図は修正しましたが、正確ではないと思われます。もし歩かれる場合は自治体が色々な資料を準備されていて、地図も良く出来ていますので、そちらのほうを利用されたほうが歩きやすいと思います。
中辺路は(も?)アップダウンが激しい道でしたが、道は整備されており、標識も随所にあって間違うことがない道でした。自治体にはいい資料が準備されており、沿道の方も熊野古道のことに関してよくご存知で、声を掛けていただいたり、迷っていると教えていただいたりととても歩きやすい道でした。こうしたことが塵一つ落ちていないと言っても過言ではない環境整備に繋がっているように思いました。
当初の予定では中辺路を歩き終えたところで一旦九州へ帰り、26日、27日に京都である恒例のクラブのOB会に出席後、そのまま伊勢へ出て伊勢路を歩こうと思っていた。しかし南紀はアクセスが悪くて往復するのが大変だし、これまで順調に歩いてきたので、このまま伊勢路まで歩いてしまおうと思うようになっていた。幸いもしものことを考えて資料は持ってきていたのだ。伊勢路は伊勢から新宮へ向けて歩くようにしたいので、今日那智大社まで歩いた後、伊勢まで行かなければならない。時間を調べるとJRの本数が少なくて、那智勝浦を14時44分(今回のダイヤ改正の前の時刻です)に出る電車に乗り遅れると、次は17時まで待たなければいけない。そのため那智大社に14時までについて、14時15分のバスに乗って那智勝浦駅まで行きたいというスケジュールを立てた。
小口から那智大社までの所要時間は宿の方や前日ここまで歩いてこられた方にお聞きすると7時間はかかるといわれる。そのため逆算すると6時半には出発したほうがいいということになって、それにあわせた朝食の時間にしていただいた。後は道を間違わないように気をつけるだけだ。
ということで6時25分に大雲取登り口まで車で送っていただき、歩き始める。ここも登り口は階段になっている。
「円座石」がある。石に刻まれた梵字は、右が阿弥陀仏(本宮)、中央が薬師仏(新宮)、左が観音仏(那智)を表し、熊野三山の本地仏の表現であるが、製作の年代や背景は分かっていないという。円座(わろうだ)とはわらやいぐさ等を丸く編んだ敷物のことで、石の上面の模様がそれに似ていることからこの名前が付けられたという。
山の中の道を黙々と歩いていくと、今日も鶯の鳴き声が聞こえる。鶯も早起きだ。「おはよう」と声をかけるかわりに口笛で鶯の鳴き声のまねをしながら進んでいく。
石畳の急な上り坂を上って行くと「楠ノ久保旅籠跡」がある。ここは江戸時代には十数軒の旅籠があり、大変賑わったという。18世紀の参詣者の日記には野菜を植えても猿や鹿に食べられてしまうので、干しワラビ以外には菜や大根の類はないなどと記されているということだ。
その先道端に三体の地蔵尊が続けて立っている。最後の一体には苔がついていて年代を感じさせるが建立年月はわからなかった。
熊野古道を歩いてみて、このような地蔵尊が街道沿いに少ないように感じる。他の街道では危険なところには必ず馬頭観音などが祀られているが、この街道ではそういったものが非常に少ない。また街道にはゴミが全く落ちておらず、とてもきれいに整備されている。かなりの人がこの街道を歩いているようなので、山の中に空き缶やペットボトルが捨てられていてもおかしくないのだがこれが全くない。これはとても素晴らしいことだと思った。
上り坂は更に厳しさを増してくる。息が上がる。一歩一歩踏みしめながら坂を上って行くと、「胴切坂」がある。ここは熊野本宮大社から来てこの坂を上ると横腹が痛くなり、切れそうだという意味から付けられたということだが、確かに厳しい上り坂だ。
更に坂を上って行く。苔むした石畳の上り坂が続いている。なかなか風情のある景色なのだが、14時までに那智に着きたいという思いが強いので、ひたすら急いでいるためそれらを楽しむ余裕はない。それでも写真は撮っておいた。
8時30分に「越前峠」に到着する。ここは標高870mで中辺路の最高地点だ。今朝出発した小口は標高65mなので約800mを一気に登ったことになる。ここには昔茶屋があったそうだが、今では遺構は何も残っていない。
現在は植林で眺望はきかないが、昔は遠く越前まで見通すことができたという。
ここには土屋文明の歌碑「輿の中海の如しと嘆きたり石を踏む丁のことは伝えず」が立っている。雨の為に輿の中は海のように水浸しだ、と嘆いている公家たちであるが、その輿を担いでいる丁のことは少しも想いやってくれないと皮肉った歌だという。
熊野川小学校の卒業記念や自然体験活動と書かれた板切れが置かれている。小学生がここまで登ってきたのだろうが、彼らにとってもいい思い出になっているだろう。
ここから急な下りになる。大雲取越には斉藤茂吉や長塚節らの歌碑が数多く立っているが、そういった方面には疎い私はひたすら先を急ぐ。一旦下った道はその先で再び上り坂になり、やがて「石倉峠」に着く。
ここには「是ヨリ北小口村、是ヨリ南色川村」と刻まれた石仏がある。ここが那智勝浦町と新宮市熊野川町の境界になっている。
ここから再び石畳の急坂を下っていく。やがて「大雲取地蔵尊」を安置する地蔵堂があり、地蔵茶屋跡に着く。地蔵堂の中には三十三体の地蔵尊が安置されており、その横には元禄3年(1690)の三界万霊が立っている。時計を見ると9時20分だ。出発から約3時間が経過しているが、この辺りでほぼ半分の距離と思うと、いいペースできている。このまま行けばなんとか14時には間に合いそうだ。ここに休憩所があるので小休止する。日ごろは途中で休憩はしないのだが、急坂を急ぎ足で登ってきたのでさすがに一休みしたくなった。
その先で川の向こう側に旧道が通っているようだが、通行止めの標識が出ているので舗装道を進む。対岸を見ていると川を挟んで舗装道に併行して山道が通っているようだ。その先でこの山道は舗装道と合流していた。この辺りでご夫婦らしい二人連れをすれ違う。那智大社からこられたということだった。
山道と合流したすぐ先で道は二股に分かれているので、標識に従って右へ進み、坂を下る。
すぐに坂は登り道になり、その先で林道を横断して進む。左手にまだ新しい地蔵尊があり、その向こうに赤い鳥居が立っている。この辺り若干のアップダウンはあるものの、比較的平坦で歩きやすい。
時計を見ると10時10分だ。この調子だと意外に早く着きそうだ。このときある案が頭に浮かんだ。14時の前に紀伊勝浦駅を12時23分のJRがあること思い出したのだ。計画段階ではこの時間にはまず無理だろうと思いながら一応JRの出発時間だけを書き留めていたのだが、これで行くと伊勢には15時8分に到着する。そうすると今日のうちに伊勢神宮を参拝できる。26日には京都に行かなければいけないので、少しでも先へ進んでいたいのだ。そう思うとなんとかこの時間に間に合わないかと思い出した。ところが那智大社発のバスの時間までは調べていなかったので何時につけばいいのか分からない。ただ14時15分のバスで14時44分のJRに間に合うのであれば、バスはJRの接続を意識しているはずなので、(JRの本数が少ないので当然意識していると思った)計算すると11時50分ごろまでに那智大社に着けばぎりぎりバスに間に合うかもしれないと歩きながら計算をした。よし!頑張ってみよう!
これから更に急ぎ足になる。このあたり、500mおきに道標が立っているので、それを見ながら時間計算をしてとにかく急ぐ。
色川辻で一旦舗装道に入るが、すぐに標識に従って山道に入る。この辺りでまた逆方向へ歩いておられる方にお会いする。更にその先でこの道を走っている若者に出会う。クロスカントリーでもやられているのだろうか、それにしてもこんなにアップダウンの激しい道を良く走るものだと感心する。その若者が走る姿を見ながら、私も半ば小走りに山道を進む。息が切れ、汗がでる。でも、折角ここまできたのだから12時のJRに間に合わせたい。
「舟見峠」がある。ここにも茶店があったようで、現在は道から少しはずれたところに展望台があるので行ってみる。急いではいるものの、一応みるものはみておかなければという気持だ。ここには3人の方がおられた。皆さん私とは逆方向から上ってこられている方達だ。これまで全くといっていいほど人に出会わなかったのに、今日はやけに人が多いなと思ったが、世間では今日から3連休なのだ。歩き続けていると曜日の感覚が失われてしまっている。
「舟見峠茶屋跡」は標高868m。ここからは眼下に那智勝浦町を望むことができる。若干霞んでいるがいい眺めだ。もっともゆっくり眺望を楽しんでいる余裕はない。すぐに街道に戻って先を急ぐ。
それから先も急ぎ足で下っていくが、下りの石畳は歩き難い。現在のようにきれいに揃った石が置かれているわけではなく、大石、小石がゴロゴロしており、それに苔が着いていたりして滑りそうだ。ここまできてひっくりこけて怪我をしてはたまらないので、注意しながらそれでも急いで坂道を下っていく。それにしても下りは膝に負担がくる。
「登立茶屋跡」がある。地元色川地区の人々から「馬つなぎ」と呼ばれていたこの茶屋は田辺からの日用雑貨、勝浦からの海産物を商う商店でもあったという。
那智高原休憩所がある。時計を見ると11時24分だ。まさにギリギリの時間だ。ここから那智大社へ向けて降りていく。そして「青岸渡寺」横にでたのが11時41分。ここからバス停まで400段以上の階段を下っていかなければならない。それでもバスが50分だったら何とかなりそうだと思って、階段を駆け下りる。途中でオバさんが「まぁ元気がいいねぇ」と言っている声が耳に入ったが、そのまま一気に駆け下りた。バス停に着いたのが11時47分。ところがバスの姿はない。時刻表を見てみると11時40分に出た後だった。毎時40分にここを出発しており、14時だけが例外的に15分があったのだ。僅か7分の差で間に合わなかった!と思うとこれまで急ぎに急いできた疲れがドッと出てしまって、動く気がしなくなってしまった。疲れた。後で乗ったバスの運転手さんにお聞きするとJRとの接続は意識していないということだった。
結局7時間で歩く予定を5時間22分で歩いたことになるが、バスに間に合わなかったのでどうすることもできない。バス停のベンチに腰掛けて、宿で作っていただいたおにぎりを食べる。
その後12時40分のバスで紀伊勝浦駅まで行き、ここでも接続がなくて暫く待って14時25分の電車で伊勢市へ向かい、17時59分に到着した。それにしても疲れた一日だった。こんなことならもう少しゆっくり歩くべきだったと思ったが、もう遅かった。
本日の歩行時間 5時間22分。
本日の歩数&距離 17140歩、15.4km。
熊野那智大社から熊野速玉大社までは大辺路を歩いた時にすでに歩き終えているので、これで中辺路は全て歩き終えたことになる。
熊野古道・中辺路総合計
総歩行時間 41時間38分。
総歩数 162714歩。
総歩行距離 127.5km。
熊野古道は山の中の道が多く、木々に遮られてGPSがうまく作動していない箇所がかなりありました。出来る限り地図は修正しましたが、正確ではないと思われます。もし歩かれる場合は自治体が色々な資料を準備されていて、地図も良く出来ていますので、そちらのほうを利用されたほうが歩きやすいと思います。
中辺路は(も?)アップダウンが激しい道でしたが、道は整備されており、標識も随所にあって間違うことがない道でした。自治体にはいい資料が準備されており、沿道の方も熊野古道のことに関してよくご存知で、声を掛けていただいたり、迷っていると教えていただいたりととても歩きやすい道でした。こうしたことが塵一つ落ちていないと言っても過言ではない環境整備に繋がっているように思いました。
旅の地図
記録
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2011年02月12日(土)
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2011年02月13日(日)
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2011年03月15日(火)
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2011年03月16日(水)
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2011年03月17日(木)
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2011年03月18日(金)
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2011年03月19日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん