2011年02月13日(日)
那智~大狗子峠~小狗子峠~佐野王子~浜王子~熊野速玉大社
晴れ
7時20分に宿を出発し、振分石から右へ進む。道なりに進んでいくとその先で42号線に合流する。大狗子トンネルの入口右横から峠を登る階段があるので、これを上って行く。
今日もパーンという銃声が聞こえていたが、この峠を越えているとき、いきなり「パーン」という大きな音が聞こえた。これはかなり近いぞと思って注意をしながら進んでいく。これまで3月15日までは狩猟期間なので、注意をするようにと何度も言われた経験があるが、現実に銃声を聞いたのも今回が初めてだったし、まして今日はえらく近距離で音がしたので、あまり気持のいいものではない。山歩きはこの時期をはずせばいいのかもしれないが、逆にこの時期は草は枯れているし、大嫌いなマムシもいないので、山道は歩きやすいのだ。世の中なかなかうまくいかない典型的な例だろう。そんな中を歩いているとフッと「災難にあう時節には災難にあうがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」という良寛さんのことばが頭に浮かんだ。まぁ弾に当たったら、それはそのときのことだと思って先へ進む。大狗子峠もきれいな掘割になっている。ただ峠といっても高度も距離もさほどなく、すぐに42号線に合流する。
右手に海が広がっているが、この辺りの海を「白菊の浜」といい、「鎧かけの松」の伝説が残っている。源平の合戦に敗れ熊野に逃れた平維盛を恋い慕う白菊姫は維盛の行方を訪ね歩き、遂に宇久井までたどり着くが、里人から「この沖の山成島で入水され、最後に鎧を掛けたのがこの岬の松です」と聞かされたため、白菊姫はこの浜に草庵を作って維盛の冥福を祈ったという。岬にあった松は今はもう枯れてしまったという。
更に次のトンネルの手前から42号線から分岐して左へ伸びる旧道へ進む。ここが小狗子峠の入口だ。ここは大狗子峠より少し長くそして倒木がかなりあったりして道は荒れていた。
山中に「鍛冶屋口茶屋跡」の看板が立っている。後に猿を飼っていたので猿茶屋と呼ばれるようになったと記されているが遺構はなにも残っていなかった。 山を下ると四つ角に出たが、どちらにいけばいいのかわからない。案内板が立っているのだが、山へ向かう方向にしか矢印がついていない。どこかに案内板があるはずだと思って右へ進むと、少し行った右側に立っていた。この場所から左折して進み、その先の二股を案内板に従って右へ進む。案内板には本当に助けられることが多い。高津気踏切でJRの線路を横断、その先で42号線に合流して進むと、左手に「佐野王子跡」がある。
その横に大小6体の地蔵尊が祀られている。
左手に大きなショッピングセンター街があるが、その反対側に「佐野一里塚」が復元されている。
道路の右側に石仏を安置した小祠が並んでいるが、いずれも年不詳だ。
黒潮公園バス停の先で42号線が左へカーブするところから、道は二股に分岐しており、ここを42号線から分岐して直進する。その先の二股を左へ進むが、左手に三輪崎小学校があり、ここで左折しなければいけなかったのだが、間違って新宮市三輪崎支所の前まできてしまった。間違いに気がつき、後戻りしてその前の細い角を左折する。左手に三輪崎小学校のグランドがある横を進み、すぐ先を右折する。那智駅から熊野速玉大社の間の道は案内板が熊野速玉大社から那智駅へ向かう方向へ一方通行で作られているので、逆を歩いている私にはちょっとわかりにくい箇所がかなりあった。二体の地蔵尊を安置する祠があり、その先左手に宝蔵寺がある。その先を右折する。
細い道を案内板に従って左折、右折して進むと、左手に「庚申塔」がある。
その先の突き当たりを左折すると233号線に合流、二股を左へ進み、三輪崎踏切でJRの線路を横断、42号線に合流する手前で右へ下る道があるので、案内板に従って進むと、ここは畑の中のあぜ道だ。
その先で「熊野古道高野坂 これより二十三丁」と刻まれた石柱が立っており、そのすぐ先に「まむしに注意」の看板が立っていて、そこから左手へ坂を登る細道が分かれている。これから高野坂を登るのだから坂を登る細道がそれだろうと勝手に思ってそちらへ進んだが、これは間違いでその先で行き止まりになってしまった。
もう一度もとに戻って直進するときれいな石畳が残っている「高野坂」に差し掛かった。この坂は全長約1.5kmほどの山道だ。この峠は途中何箇所も「マムシに注意」の看板が立っていたので、マムシが多いのだろう。
展望台へ分岐する道があるので行って見た。約300mと書かれていたが、思ったより遠く、眺望が開けてはいたが、正直期待したほどではなかった。
街道に戻って進むと、社殿があり、その横に「首塚」があったが、説明がなかったので、なんの首塚なのか分からなかった。
その先に「金光稲荷」があるが、そこに猫がいた。こんな山の中にどうしているのだろう?食事はどうしているのかな?よく肥えているので神社に参拝にこられる人が与えているのかな?などど思いながら写真を撮った。ところが猫に気をとられすぎたのか神社の写真は大ぶれ。一方の猫の写真はちゃんと撮れていたので、両方掲載させていただきます。
更に山道を進んでいくと、左手に「孫八地蔵」がある。このお地蔵様は江戸時代に作られたようだという程度のことしかわかっていないということだ。
すぐ右手に「五輪塔」へ向かう道があるので行ってみた。地輪に寛永5年(1628)心鏡房海宝大徳と刻まれているが、心鏡房海宝大徳という方がどのような人で、またこの場所や熊野古道との関わりなど全く分かっていないと説明されている。
山を下っていくと、左手に「御手洗の念仏碑と石仏」が二体並んでおり、右手には「熊野灘」が広がっている。気持のいい眺めだが、その先でまさかこの浜を歩くようになるとは思っていなかった。
山を下ると案内板があり、ここから右へ進みかけたが、地図を確かめるとそちらは近世の熊野古道のようだ。左手を見ると、逆川が海岸へ流れ込んでいるところがあり、そこにJRのガード下を通って海へ出る道があるので、これを進んでみた。海岸は最初堤防に沿ってコンクリートの道があったので、それを進んでいったが、やがてそれがなくなって海岸の浜を歩いていく。小石が一杯あって歩き難いし、かなりの距離があった。ここは先ほど山を下るときにみたまさにその海岸なのだ。
大分歩いて堤防の上に上り、松林の中を通って、松林が途切れるところまで進んで231号線に出た。この近くに浜王子跡があるはずなのだが、良く分からない。近くに人がおられたので、道をお聞きすると、少し先へ行き過ぎていたようで、231号線を戻ると浜王子への案内板が立っていたので、それに従って右折して進む。松林の中へ入る道には案内板がちゃんと立っていた。ここも熊野速玉大社から来ると間違わずに歩くことが出来ただろうと思った。左手に「浜王子跡」の王子神社がある。ここは古来より海の神を祀る海浜の宮であったと思われるが、熊野信仰の発展と共に熊野神の御子神を祀る王子社として知られるようになったと説明されている。
この先で道は二股に分かれており、最初は左手へ進みかけたが、良く分からなかったため、丁度通りかかった方にお聞きすると親切に教えていただき、二股を右へ進む。その先で道路に「導き石」が記されている。これは紀伊路を歩いたときにもあって、紀伊路では曲がり角の両側に置かれていて、どちらから歩いても分かるように記されていたのでとても助かった目印だったのだが、ここに描かれているものは紀伊路のものより大きいが、熊野速玉大社から那智へ向かう方向にのみ記るされているので、逆を歩いている私にはちょっとわかりにくかった。
市田川に架かる第一王子橋を渡って進むと源平時代の武将新宮十郎行家(源義盛)の屋敷跡があったが、遺構は何も残っていなかった。その先十字路を直進すると「白い小祠」に安置された地蔵尊がある。
右手に「阿須賀神社」がある。ここは社伝によれば孝昭天皇の代の創建と伝えられており、平安時代後期から12世紀前半までの中世熊野参詣では、阿須賀神社に参詣することが常であったと見られているという。また境内には新宮第二代城主水野重良が寛永8年(1631)に寄贈したという手水鉢があるが、これは巨大な一枚岩を刻んで仕上げられている。
右手に新宮城(別名丹鶴城)の石垣が見える。ここは関が原合戦の後、和歌山城主になった浅野幸長の家臣、浅野忠吉が築城を開始したが一旦廃城となり、その後浅野氏に代わって徳川家康の十男頼宣が紀州に入国し、家老の水野重仲が新宮に入って、寛永10年(1633)に完成させたという。ただここには立ち寄らなかった。
「熊野速玉大社」に到着する。ここは熊野三山の一つで、創建年代は不詳であるが、熊野速玉大神は熊野速玉大社ではイザナギ神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男とされる。この速玉之男神の名から神社名がつけられたという。もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれており、神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。
13時丁度に熊野速玉大社に到着する。
今回は大辺路を歩き終えた後に、ここまで歩いてきたが、紀伊田辺から熊野那智大社は後日、歩くことにした。
本日の歩行時間 5時間40分。
本日の歩数&距離 26052歩、18.5km。
7時20分に宿を出発し、振分石から右へ進む。道なりに進んでいくとその先で42号線に合流する。大狗子トンネルの入口右横から峠を登る階段があるので、これを上って行く。
今日もパーンという銃声が聞こえていたが、この峠を越えているとき、いきなり「パーン」という大きな音が聞こえた。これはかなり近いぞと思って注意をしながら進んでいく。これまで3月15日までは狩猟期間なので、注意をするようにと何度も言われた経験があるが、現実に銃声を聞いたのも今回が初めてだったし、まして今日はえらく近距離で音がしたので、あまり気持のいいものではない。山歩きはこの時期をはずせばいいのかもしれないが、逆にこの時期は草は枯れているし、大嫌いなマムシもいないので、山道は歩きやすいのだ。世の中なかなかうまくいかない典型的な例だろう。そんな中を歩いているとフッと「災難にあう時節には災難にあうがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」という良寛さんのことばが頭に浮かんだ。まぁ弾に当たったら、それはそのときのことだと思って先へ進む。大狗子峠もきれいな掘割になっている。ただ峠といっても高度も距離もさほどなく、すぐに42号線に合流する。
右手に海が広がっているが、この辺りの海を「白菊の浜」といい、「鎧かけの松」の伝説が残っている。源平の合戦に敗れ熊野に逃れた平維盛を恋い慕う白菊姫は維盛の行方を訪ね歩き、遂に宇久井までたどり着くが、里人から「この沖の山成島で入水され、最後に鎧を掛けたのがこの岬の松です」と聞かされたため、白菊姫はこの浜に草庵を作って維盛の冥福を祈ったという。岬にあった松は今はもう枯れてしまったという。
更に次のトンネルの手前から42号線から分岐して左へ伸びる旧道へ進む。ここが小狗子峠の入口だ。ここは大狗子峠より少し長くそして倒木がかなりあったりして道は荒れていた。
山中に「鍛冶屋口茶屋跡」の看板が立っている。後に猿を飼っていたので猿茶屋と呼ばれるようになったと記されているが遺構はなにも残っていなかった。 山を下ると四つ角に出たが、どちらにいけばいいのかわからない。案内板が立っているのだが、山へ向かう方向にしか矢印がついていない。どこかに案内板があるはずだと思って右へ進むと、少し行った右側に立っていた。この場所から左折して進み、その先の二股を案内板に従って右へ進む。案内板には本当に助けられることが多い。高津気踏切でJRの線路を横断、その先で42号線に合流して進むと、左手に「佐野王子跡」がある。
その横に大小6体の地蔵尊が祀られている。
左手に大きなショッピングセンター街があるが、その反対側に「佐野一里塚」が復元されている。
道路の右側に石仏を安置した小祠が並んでいるが、いずれも年不詳だ。
黒潮公園バス停の先で42号線が左へカーブするところから、道は二股に分岐しており、ここを42号線から分岐して直進する。その先の二股を左へ進むが、左手に三輪崎小学校があり、ここで左折しなければいけなかったのだが、間違って新宮市三輪崎支所の前まできてしまった。間違いに気がつき、後戻りしてその前の細い角を左折する。左手に三輪崎小学校のグランドがある横を進み、すぐ先を右折する。那智駅から熊野速玉大社の間の道は案内板が熊野速玉大社から那智駅へ向かう方向へ一方通行で作られているので、逆を歩いている私にはちょっとわかりにくい箇所がかなりあった。二体の地蔵尊を安置する祠があり、その先左手に宝蔵寺がある。その先を右折する。
細い道を案内板に従って左折、右折して進むと、左手に「庚申塔」がある。
その先の突き当たりを左折すると233号線に合流、二股を左へ進み、三輪崎踏切でJRの線路を横断、42号線に合流する手前で右へ下る道があるので、案内板に従って進むと、ここは畑の中のあぜ道だ。
その先で「熊野古道高野坂 これより二十三丁」と刻まれた石柱が立っており、そのすぐ先に「まむしに注意」の看板が立っていて、そこから左手へ坂を登る細道が分かれている。これから高野坂を登るのだから坂を登る細道がそれだろうと勝手に思ってそちらへ進んだが、これは間違いでその先で行き止まりになってしまった。
もう一度もとに戻って直進するときれいな石畳が残っている「高野坂」に差し掛かった。この坂は全長約1.5kmほどの山道だ。この峠は途中何箇所も「マムシに注意」の看板が立っていたので、マムシが多いのだろう。
展望台へ分岐する道があるので行って見た。約300mと書かれていたが、思ったより遠く、眺望が開けてはいたが、正直期待したほどではなかった。
街道に戻って進むと、社殿があり、その横に「首塚」があったが、説明がなかったので、なんの首塚なのか分からなかった。
その先に「金光稲荷」があるが、そこに猫がいた。こんな山の中にどうしているのだろう?食事はどうしているのかな?よく肥えているので神社に参拝にこられる人が与えているのかな?などど思いながら写真を撮った。ところが猫に気をとられすぎたのか神社の写真は大ぶれ。一方の猫の写真はちゃんと撮れていたので、両方掲載させていただきます。
更に山道を進んでいくと、左手に「孫八地蔵」がある。このお地蔵様は江戸時代に作られたようだという程度のことしかわかっていないということだ。
すぐ右手に「五輪塔」へ向かう道があるので行ってみた。地輪に寛永5年(1628)心鏡房海宝大徳と刻まれているが、心鏡房海宝大徳という方がどのような人で、またこの場所や熊野古道との関わりなど全く分かっていないと説明されている。
山を下っていくと、左手に「御手洗の念仏碑と石仏」が二体並んでおり、右手には「熊野灘」が広がっている。気持のいい眺めだが、その先でまさかこの浜を歩くようになるとは思っていなかった。
山を下ると案内板があり、ここから右へ進みかけたが、地図を確かめるとそちらは近世の熊野古道のようだ。左手を見ると、逆川が海岸へ流れ込んでいるところがあり、そこにJRのガード下を通って海へ出る道があるので、これを進んでみた。海岸は最初堤防に沿ってコンクリートの道があったので、それを進んでいったが、やがてそれがなくなって海岸の浜を歩いていく。小石が一杯あって歩き難いし、かなりの距離があった。ここは先ほど山を下るときにみたまさにその海岸なのだ。
大分歩いて堤防の上に上り、松林の中を通って、松林が途切れるところまで進んで231号線に出た。この近くに浜王子跡があるはずなのだが、良く分からない。近くに人がおられたので、道をお聞きすると、少し先へ行き過ぎていたようで、231号線を戻ると浜王子への案内板が立っていたので、それに従って右折して進む。松林の中へ入る道には案内板がちゃんと立っていた。ここも熊野速玉大社から来ると間違わずに歩くことが出来ただろうと思った。左手に「浜王子跡」の王子神社がある。ここは古来より海の神を祀る海浜の宮であったと思われるが、熊野信仰の発展と共に熊野神の御子神を祀る王子社として知られるようになったと説明されている。
この先で道は二股に分かれており、最初は左手へ進みかけたが、良く分からなかったため、丁度通りかかった方にお聞きすると親切に教えていただき、二股を右へ進む。その先で道路に「導き石」が記されている。これは紀伊路を歩いたときにもあって、紀伊路では曲がり角の両側に置かれていて、どちらから歩いても分かるように記されていたのでとても助かった目印だったのだが、ここに描かれているものは紀伊路のものより大きいが、熊野速玉大社から那智へ向かう方向にのみ記るされているので、逆を歩いている私にはちょっとわかりにくかった。
市田川に架かる第一王子橋を渡って進むと源平時代の武将新宮十郎行家(源義盛)の屋敷跡があったが、遺構は何も残っていなかった。その先十字路を直進すると「白い小祠」に安置された地蔵尊がある。
右手に「阿須賀神社」がある。ここは社伝によれば孝昭天皇の代の創建と伝えられており、平安時代後期から12世紀前半までの中世熊野参詣では、阿須賀神社に参詣することが常であったと見られているという。また境内には新宮第二代城主水野重良が寛永8年(1631)に寄贈したという手水鉢があるが、これは巨大な一枚岩を刻んで仕上げられている。
右手に新宮城(別名丹鶴城)の石垣が見える。ここは関が原合戦の後、和歌山城主になった浅野幸長の家臣、浅野忠吉が築城を開始したが一旦廃城となり、その後浅野氏に代わって徳川家康の十男頼宣が紀州に入国し、家老の水野重仲が新宮に入って、寛永10年(1633)に完成させたという。ただここには立ち寄らなかった。
「熊野速玉大社」に到着する。ここは熊野三山の一つで、創建年代は不詳であるが、熊野速玉大神は熊野速玉大社ではイザナギ神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男とされる。この速玉之男神の名から神社名がつけられたという。もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれており、神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。
13時丁度に熊野速玉大社に到着する。
今回は大辺路を歩き終えた後に、ここまで歩いてきたが、紀伊田辺から熊野那智大社は後日、歩くことにした。
本日の歩行時間 5時間40分。
本日の歩数&距離 26052歩、18.5km。
旅の地図
記録
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2011年02月12日(土)
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2011年02月13日(日)
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2011年03月15日(火)
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2011年03月16日(水)
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2011年03月17日(木)
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2011年03月18日(金)
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2011年03月19日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん