2010年11月30日(火)
御坊~切目~南部~紀伊田辺
晴れ後曇
7時30分にホテルを出発し、街道に合流する。
湯川中学校を右手に見ながら進み、道が二股に分かれるところから街道は左へ進むのだが、右手に「湯川子安神社」がある。ここは湯川氏が統治していた天正年間に静岡県の浅間神社から御分霊を勧請したが、天正13年(1585)に兵火で焼失、その後再興されたが、明治になって再度焼失、明治15年に再建されたという。ここには樹齢1000年を越えるという樟の巨木が立っている。
街道に戻って進み、その先の突き当たりを右折、すぐ先を左折して進むが、ここにも標識が立っているのでそれに従って進むと、右手に「法林寺」がある。ここは亀山城主湯川氏一族の菩提寺として永禄5年(1562)に建立されたもので、永禄5年(1562)に建立された亀山城第11代城主湯川直光公と慶長4年(1599)に建立された初代住職の二つの宝篋印塔が並んで立っている。
右手に九品寺があるところから左折、その先小川のところから26号線に合流するが、このあたりには珍しく標識がない。日高川に架かる野口新橋を渡って右折し、川土手を進むが、ここには標識が立っている。川土手の突き当たりを道なりに左折して進むが、このあたりには標識が立っているので、それに従って進んでいくと、左手に岩内コミュニティ館があり、その横に「岩内王子跡」がある。元和元年(1615)の大洪水で王子は水没してしまったが、付近には王子の地名が残り、大正年間には近くから楠の大木が掘り出されたことから、このあたりに王子があったと推測されているという。
熊野川に架かる琴野橋を渡って左折、すぐに右折して、その先で道は二本に分かれているので、その左側の道の坂を上る。このあたりにも標識が立っているのでそれに従って進む。右手に極楽寺があり、境内に黄色く色づいた見事なイチョウが立っていた。
左手に河南中学校があり、ちょっとした峠を越える。下ったところの四叉路を右折、新しく造成されたような団地の中を進み、標識が立っているところから左折、更に突き当たりを右折して細道を進むが、このあたりも標識が立っているので、それに従って進むと、左手に「塩屋王子神社」があり、そこに「塩屋王子跡」がある。ここには天照大神他11柱が祭られているが、天照大神の神像が美しいことから別名「美人王子」と呼ばれているという。境内には「御所ノ芝」という後鳥羽院行在所の跡があり、また社叢は二百年を越えるものが多く、市指定文化財になっている。
王子川に架かる王子橋を渡って進むと、左手少し入ったところに「光尊寺」がある。ここには樹齢600年以上と推定される「ビャクシン」が立っており、県指定天然記念物になっている。
その先も標識に従って坂を上って行くと、一気に視界が開け、前方に太平洋が広がっている。
左手に「祓井戸観音寺」がある。ここは元、西向寺といい、千手観音を御本尊にしているという。裏山には江戸時代末に祀られた八十八仏が並んでいる。また境内には徳本上人の名号石が立っている。
一旦42号線に合流するが、すぐ先から右へ分岐する。ここにも標識が立っている。
右手に「一里塚跡」の石碑が立っている。
その先で道は二股に分かれており、左側の道を直進すると、左手に「清姫の草履塚」がある。清姫が安珍を追って来た時、そこにあった松の大木に登って安珍の行方を見ると、もう日高川を渡っていた。そこで清姫は草履を脱ぎ捨ててはだしで安珍を追ったという。
ここから街道を外れて一旦42号線に出て、左手へ少し戻ると「十三塚」がある。宝篋印塔を中心に十三の小塚が並んでいるが、これは昔、出羽の国羽黒山の山伏一行が熊野参詣の途中、海賊に殺害されたことを里人が憐れんでこれを葬り、供養したのがこの碑と言われている。国道工事のため、この地へ移設されたという。
街道に戻って進むと、右手に入り江が広がっており、海の水がきれいだ。その先で道は二股に分かれているので、42号線と分岐して右へ進む。
左手に「御首地蔵尊」「是より東へ一丁」と刻まれた石碑が立っているところから街道を離れて左折して進むと、「観音寺」がある。天保11年(1840)にこの地を開墾中に首が入った石棺を発掘、その石室には数多くの武器、什器が入っていて、位の高い人だったことが窺われたことから観音寺の延命地蔵尊と合祀して御首地蔵尊として尊称されるようになったという。
街道に戻って進み、野島川に架かる秋近橋を渡って42号線に合流、その先で42号線から分岐して右へ進む。和歌山高専の横を通って進み、ちょっとわかりにくくて一旦気づかずに通り過ぎてしまったが、右手に電柱が立っており、その横に熊野街道の標識と二つのミラーが立っているところから左折して42号線に出ると、
そこに「仏井戸」がある。
上野王子の旧地にある底の井壁に室町時代末期の阿弥陀如来と勢至菩薩、観世音菩薩の一石三尊が彫られており、全国的に類例の少ない井戸仏と説明されている。
街道に戻って進むと、左手に名田漁民センターがあり、その前に「上野王子跡」がある。この王子の旧地は仏井戸のところだが、江戸時代に火災に遭い、現在地に移されたという。
津梅橋を渡って進むと、右手駐車場の中に「清姫の腰掛石」がある。
42号線に合流したところで道は3本に分かれているので、真ん中の道を進むと左手に元文5年(1740)と刻まれた「庚申堂」がある。
浜側橋を渡って進み42号線に合流する。その先道は二股に分かれており、その分岐点に大きなフェニックスの木が立っているところから、42号線から分岐して左へ進む。ここで昼食にする。今日もおにぎり4個だ。
その先で再び42号線に合流する。しばらく42号線を歩き、右手にJA直売所フレッシュマートがあるところから、42号線と分岐して左へ坂を上る。この曲がり角に標識が立っているが、朽ちていて分かり難いので注意が必要だ。坂を上ったところに「叶王子社 →」と書かれた案内板があるのでそれに従って坂を下っていくと、左手森の中に「叶王子跡」がある。ここは願いが叶うという意味から地元では「おかのさん」と呼ばれている。
印南の信号から右折、すぐ先を左折して漁港の中を進んでいくが、このあたりには標識がない。
その先の階段を上って42号線に合流、平和橋を渡ってすぐに左折、最初の小さな四つ角を右折、すぐに道は二股に分かれるが、右へ坂を上ると右手に地蔵尊を安置する小祠が三つ並んでいる。
光川宝来橋を渡って42号線に合流するが、すぐ先で道は二股に分かれているので、ここで42号線から分岐して、左へ坂を上る。ここには標識はない。左手に「斑鳩王子跡」がある。ここは富王子と称され、九十九王子社の中では最も古い王子社と説明されている。
ここから階段を下って42号線に合流、その先右手にコンビニのあるところから、左手、42号線に併行している道を進み、左手に切目神社の案内板があるところから右へ進むと左手に「切目王子社」がある。ここは九十九王子社の中でも主な五体王子の一つといわれている。ここは平清盛、重盛が熊野詣の途中、都の反乱(平治の乱)を早馬で知らされ、この社前で評議を行い、直ちに引き返して大勝したという場所だ。
切目川に架かる切目橋を渡り、JRのガード下を通って進むと右手に「光明寺」があり、ここの境内に「徳本上人立像」がある。
その先で道は二股に分かれており、ここに「中山王子 足の宮さん」と書かれた案内板があるのでそれに従って右へ坂道を上って行く。右手に「若宮社遺跡」がある。若宮社はこの先にある中山王子社がこの地に遷宮される以前から存在していたと推測されているが、明治41年に中山王子社に合祀されたと説明されている。
山の中の坂道を上って行くと、右手に「宝篋印塔」と「地蔵尊」が並んでいる。これは室町時代のもので町指定石造建造物になっている。
左手に「中山王子社」がある。現在のこの地は中山ではなくて榎木峠なので、本来の場所はここから1kmほど離れた中山谷に「王子谷」という地名があり、そこに小祠の跡が残っていることから、その場所ではないかと推測されているということだ。また、昔、熊野参詣をした山伏が足を痛めてこの地で亡くなってしまったので、里人によって埋葬されたが、不思議なことに埋葬した頭の上から大きな石が出てきた。人々はその石に霊力を感じて祭神として祀り、足痛を治してくれると信仰するようになったので、ここを足の宮と呼ばれるようになったという。
すぐ先で道は二股に分かれており、標識に従って右へ進み、山道を緩やかに下っていく。
右手に「岩代王子←2.7km」という標柱が立っているところから左折するが、その左手に「徳本上人名号碑」が立っている。これまでも数多く見てきた徳本上人(宝暦8年(1758)~文政元年(1818))は紀州で生まれた高僧で、「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号碑は全国に千基あるいは二千基あるといわれており、上人の人気が偲ばれると記されている。
右手に「岩代の結松」がある。斉明天皇4年(658)有馬皇子は蘇我赤兄の口車に乗せられ、謀反のかどで捕らえられて天皇の下へ護送されたが、その途中、この地で松の枝を結び、自分の命の無事を祈って歌を詠まれたという。結局皇子は藤白坂で絞殺されたが、当時19歳という若さだったという。
右手に民宿岩代荘がある先から左へ下る道があるので、これを進んで下ったところから右折して42号線のガード下を通っていくと、案内板が立っており、ここから街道を離れて右折、岩代踏切でJRの線路を越えて進むと「岩代王子跡」がある。
街道に戻り、東岩代川に架かる汐入橋を渡り、小さな地蔵尊があるところから右折する。
その先で道は二股に分かれているので、左の坂道を上って行く。このあたりには標識がないので要注意だ。
突き当たりを左折して進むが、このあたりは梅林になっている。少し前までは一面のみかん畑だったが、このあたりになるとみかん畑はなくなって梅林ばかり、紀州は南高梅でも有名だ。坂を下っていくと42号線に合流する直前で右へ下る。その先で道は二股に分かれているので、これを左へ進み、その先の二股をもう一度左へ進むが、このあたりには標識があるので、それに従って進む。ここから山道を上り、その先で下ってJRのガード下を抜けると「千里の浜」にでる。千里の浜は枕草子や伊勢物語にも出てくる有名な景勝地だ。ここから暫くは砂浜を歩くが、歩き疲れた足に砂浜は歩き難い。幸い距離的には短かったのでよかったが。
砂浜の先の左手に「千里王子跡」がある。
ここから舗装された坂を上って行くと、沿道に数多くの地蔵尊が祀られており、その先に「千里観世音」の縁起が書かれている。それによると千里王子社は花山法皇や歴代の上皇、貴族に尊崇され、小栗判官も観世音菩薩の霊験で一命を救助されたことに感謝して自ら馬頭観音を彫って奉納したという。
その先で二股に分かれているところを右へ進むが、その先はあぜ道になっている。現在は草が刈られていて歩きやすいが、夏場は藪になるような感じで歩くのは大変だろうなと思わせるような道だった。しかも標識がないので、本当にこの道で大丈夫かなと思いながら進んでいくと、一軒の家があり、その先からは舗装された道になったので、それを進んでいく。JRの線路が二本あり、最初の線路のガード下を通って右折して進む。最初に左手にJRのトンネルが見え、その先で今度は右手にトンネルが見える。ここも梅林があり、その中を進んでいって車道に合流する。その先で右手に運送会社があり、車道が左へカーブするところから細道を直進すると突き当たりに「南部峠の石造地蔵菩薩像」がある。この峠は交通の要所だったので、昔から地蔵堂や茶屋が立てられていたと推測されているという。この地蔵菩薩像は室町時代の作と推定されており、骨折に霊験あらたかなため、「骨つぎ地蔵」と称されているということだ。
その先は山の中の道になる。幸い舗装されてはいるが、時刻は16時半になっており、道は薄暗くなっているので、早く山の中を抜けたいと思って先を急ぐ。
山を下ったところで道は二股に分かれており、これを左へ進むが、ここには標識はなかった。突き当りを右へ進み、JRのガード下を抜けて桜川に架かる桜川橋を渡る。42号線をガード下を通って抜け、すぐに右折、その先で42号線に合流、南部川に架かる南部大橋を渡ってすぐに左折、古川に架かる古川橋を渡る。最初の三叉路を右折、再び橋を渡ってその先で二股に分かれているところを左へ進む。南道の信号を左へ進み、その先で道は二股に分かれているのでここは右へ進む。このあたりは標識がないので、資料を注意深く見ながら進む。
「丹川地蔵尊」がある。ここは子安地蔵、延命地蔵として有名であったと享保10年(1725)の田辺領記にも記されている。
突き当たりに「三鍋王子跡」がある。もう周囲は暗くなっているので先を急ぐ。
ここから右折して進み、右手に南部高校がある先の四つ角で右折、すぐ先の四つ角を左折して進むと、左手に「鹿島神社」があるが、真っ暗で写真を撮ってもうまく撮れていなかった。
17時46分に今日の宿に着く。
本日の歩行時間 10時間16分。
本日の歩数&距離 54542歩、37.8km。
7時30分にホテルを出発し、街道に合流する。
湯川中学校を右手に見ながら進み、道が二股に分かれるところから街道は左へ進むのだが、右手に「湯川子安神社」がある。ここは湯川氏が統治していた天正年間に静岡県の浅間神社から御分霊を勧請したが、天正13年(1585)に兵火で焼失、その後再興されたが、明治になって再度焼失、明治15年に再建されたという。ここには樹齢1000年を越えるという樟の巨木が立っている。
街道に戻って進み、その先の突き当たりを右折、すぐ先を左折して進むが、ここにも標識が立っているのでそれに従って進むと、右手に「法林寺」がある。ここは亀山城主湯川氏一族の菩提寺として永禄5年(1562)に建立されたもので、永禄5年(1562)に建立された亀山城第11代城主湯川直光公と慶長4年(1599)に建立された初代住職の二つの宝篋印塔が並んで立っている。
右手に九品寺があるところから左折、その先小川のところから26号線に合流するが、このあたりには珍しく標識がない。日高川に架かる野口新橋を渡って右折し、川土手を進むが、ここには標識が立っている。川土手の突き当たりを道なりに左折して進むが、このあたりには標識が立っているので、それに従って進んでいくと、左手に岩内コミュニティ館があり、その横に「岩内王子跡」がある。元和元年(1615)の大洪水で王子は水没してしまったが、付近には王子の地名が残り、大正年間には近くから楠の大木が掘り出されたことから、このあたりに王子があったと推測されているという。
熊野川に架かる琴野橋を渡って左折、すぐに右折して、その先で道は二本に分かれているので、その左側の道の坂を上る。このあたりにも標識が立っているのでそれに従って進む。右手に極楽寺があり、境内に黄色く色づいた見事なイチョウが立っていた。
左手に河南中学校があり、ちょっとした峠を越える。下ったところの四叉路を右折、新しく造成されたような団地の中を進み、標識が立っているところから左折、更に突き当たりを右折して細道を進むが、このあたりも標識が立っているので、それに従って進むと、左手に「塩屋王子神社」があり、そこに「塩屋王子跡」がある。ここには天照大神他11柱が祭られているが、天照大神の神像が美しいことから別名「美人王子」と呼ばれているという。境内には「御所ノ芝」という後鳥羽院行在所の跡があり、また社叢は二百年を越えるものが多く、市指定文化財になっている。
王子川に架かる王子橋を渡って進むと、左手少し入ったところに「光尊寺」がある。ここには樹齢600年以上と推定される「ビャクシン」が立っており、県指定天然記念物になっている。
その先も標識に従って坂を上って行くと、一気に視界が開け、前方に太平洋が広がっている。
左手に「祓井戸観音寺」がある。ここは元、西向寺といい、千手観音を御本尊にしているという。裏山には江戸時代末に祀られた八十八仏が並んでいる。また境内には徳本上人の名号石が立っている。
一旦42号線に合流するが、すぐ先から右へ分岐する。ここにも標識が立っている。
右手に「一里塚跡」の石碑が立っている。
その先で道は二股に分かれており、左側の道を直進すると、左手に「清姫の草履塚」がある。清姫が安珍を追って来た時、そこにあった松の大木に登って安珍の行方を見ると、もう日高川を渡っていた。そこで清姫は草履を脱ぎ捨ててはだしで安珍を追ったという。
ここから街道を外れて一旦42号線に出て、左手へ少し戻ると「十三塚」がある。宝篋印塔を中心に十三の小塚が並んでいるが、これは昔、出羽の国羽黒山の山伏一行が熊野参詣の途中、海賊に殺害されたことを里人が憐れんでこれを葬り、供養したのがこの碑と言われている。国道工事のため、この地へ移設されたという。
街道に戻って進むと、右手に入り江が広がっており、海の水がきれいだ。その先で道は二股に分かれているので、42号線と分岐して右へ進む。
左手に「御首地蔵尊」「是より東へ一丁」と刻まれた石碑が立っているところから街道を離れて左折して進むと、「観音寺」がある。天保11年(1840)にこの地を開墾中に首が入った石棺を発掘、その石室には数多くの武器、什器が入っていて、位の高い人だったことが窺われたことから観音寺の延命地蔵尊と合祀して御首地蔵尊として尊称されるようになったという。
街道に戻って進み、野島川に架かる秋近橋を渡って42号線に合流、その先で42号線から分岐して右へ進む。和歌山高専の横を通って進み、ちょっとわかりにくくて一旦気づかずに通り過ぎてしまったが、右手に電柱が立っており、その横に熊野街道の標識と二つのミラーが立っているところから左折して42号線に出ると、
そこに「仏井戸」がある。
上野王子の旧地にある底の井壁に室町時代末期の阿弥陀如来と勢至菩薩、観世音菩薩の一石三尊が彫られており、全国的に類例の少ない井戸仏と説明されている。
街道に戻って進むと、左手に名田漁民センターがあり、その前に「上野王子跡」がある。この王子の旧地は仏井戸のところだが、江戸時代に火災に遭い、現在地に移されたという。
津梅橋を渡って進むと、右手駐車場の中に「清姫の腰掛石」がある。
42号線に合流したところで道は3本に分かれているので、真ん中の道を進むと左手に元文5年(1740)と刻まれた「庚申堂」がある。
浜側橋を渡って進み42号線に合流する。その先道は二股に分かれており、その分岐点に大きなフェニックスの木が立っているところから、42号線から分岐して左へ進む。ここで昼食にする。今日もおにぎり4個だ。
その先で再び42号線に合流する。しばらく42号線を歩き、右手にJA直売所フレッシュマートがあるところから、42号線と分岐して左へ坂を上る。この曲がり角に標識が立っているが、朽ちていて分かり難いので注意が必要だ。坂を上ったところに「叶王子社 →」と書かれた案内板があるのでそれに従って坂を下っていくと、左手森の中に「叶王子跡」がある。ここは願いが叶うという意味から地元では「おかのさん」と呼ばれている。
印南の信号から右折、すぐ先を左折して漁港の中を進んでいくが、このあたりには標識がない。
その先の階段を上って42号線に合流、平和橋を渡ってすぐに左折、最初の小さな四つ角を右折、すぐに道は二股に分かれるが、右へ坂を上ると右手に地蔵尊を安置する小祠が三つ並んでいる。
光川宝来橋を渡って42号線に合流するが、すぐ先で道は二股に分かれているので、ここで42号線から分岐して、左へ坂を上る。ここには標識はない。左手に「斑鳩王子跡」がある。ここは富王子と称され、九十九王子社の中では最も古い王子社と説明されている。
ここから階段を下って42号線に合流、その先右手にコンビニのあるところから、左手、42号線に併行している道を進み、左手に切目神社の案内板があるところから右へ進むと左手に「切目王子社」がある。ここは九十九王子社の中でも主な五体王子の一つといわれている。ここは平清盛、重盛が熊野詣の途中、都の反乱(平治の乱)を早馬で知らされ、この社前で評議を行い、直ちに引き返して大勝したという場所だ。
切目川に架かる切目橋を渡り、JRのガード下を通って進むと右手に「光明寺」があり、ここの境内に「徳本上人立像」がある。
その先で道は二股に分かれており、ここに「中山王子 足の宮さん」と書かれた案内板があるのでそれに従って右へ坂道を上って行く。右手に「若宮社遺跡」がある。若宮社はこの先にある中山王子社がこの地に遷宮される以前から存在していたと推測されているが、明治41年に中山王子社に合祀されたと説明されている。
山の中の坂道を上って行くと、右手に「宝篋印塔」と「地蔵尊」が並んでいる。これは室町時代のもので町指定石造建造物になっている。
左手に「中山王子社」がある。現在のこの地は中山ではなくて榎木峠なので、本来の場所はここから1kmほど離れた中山谷に「王子谷」という地名があり、そこに小祠の跡が残っていることから、その場所ではないかと推測されているということだ。また、昔、熊野参詣をした山伏が足を痛めてこの地で亡くなってしまったので、里人によって埋葬されたが、不思議なことに埋葬した頭の上から大きな石が出てきた。人々はその石に霊力を感じて祭神として祀り、足痛を治してくれると信仰するようになったので、ここを足の宮と呼ばれるようになったという。
すぐ先で道は二股に分かれており、標識に従って右へ進み、山道を緩やかに下っていく。
右手に「岩代王子←2.7km」という標柱が立っているところから左折するが、その左手に「徳本上人名号碑」が立っている。これまでも数多く見てきた徳本上人(宝暦8年(1758)~文政元年(1818))は紀州で生まれた高僧で、「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号碑は全国に千基あるいは二千基あるといわれており、上人の人気が偲ばれると記されている。
右手に「岩代の結松」がある。斉明天皇4年(658)有馬皇子は蘇我赤兄の口車に乗せられ、謀反のかどで捕らえられて天皇の下へ護送されたが、その途中、この地で松の枝を結び、自分の命の無事を祈って歌を詠まれたという。結局皇子は藤白坂で絞殺されたが、当時19歳という若さだったという。
右手に民宿岩代荘がある先から左へ下る道があるので、これを進んで下ったところから右折して42号線のガード下を通っていくと、案内板が立っており、ここから街道を離れて右折、岩代踏切でJRの線路を越えて進むと「岩代王子跡」がある。
街道に戻り、東岩代川に架かる汐入橋を渡り、小さな地蔵尊があるところから右折する。
その先で道は二股に分かれているので、左の坂道を上って行く。このあたりには標識がないので要注意だ。
突き当たりを左折して進むが、このあたりは梅林になっている。少し前までは一面のみかん畑だったが、このあたりになるとみかん畑はなくなって梅林ばかり、紀州は南高梅でも有名だ。坂を下っていくと42号線に合流する直前で右へ下る。その先で道は二股に分かれているので、これを左へ進み、その先の二股をもう一度左へ進むが、このあたりには標識があるので、それに従って進む。ここから山道を上り、その先で下ってJRのガード下を抜けると「千里の浜」にでる。千里の浜は枕草子や伊勢物語にも出てくる有名な景勝地だ。ここから暫くは砂浜を歩くが、歩き疲れた足に砂浜は歩き難い。幸い距離的には短かったのでよかったが。
砂浜の先の左手に「千里王子跡」がある。
ここから舗装された坂を上って行くと、沿道に数多くの地蔵尊が祀られており、その先に「千里観世音」の縁起が書かれている。それによると千里王子社は花山法皇や歴代の上皇、貴族に尊崇され、小栗判官も観世音菩薩の霊験で一命を救助されたことに感謝して自ら馬頭観音を彫って奉納したという。
その先で二股に分かれているところを右へ進むが、その先はあぜ道になっている。現在は草が刈られていて歩きやすいが、夏場は藪になるような感じで歩くのは大変だろうなと思わせるような道だった。しかも標識がないので、本当にこの道で大丈夫かなと思いながら進んでいくと、一軒の家があり、その先からは舗装された道になったので、それを進んでいく。JRの線路が二本あり、最初の線路のガード下を通って右折して進む。最初に左手にJRのトンネルが見え、その先で今度は右手にトンネルが見える。ここも梅林があり、その中を進んでいって車道に合流する。その先で右手に運送会社があり、車道が左へカーブするところから細道を直進すると突き当たりに「南部峠の石造地蔵菩薩像」がある。この峠は交通の要所だったので、昔から地蔵堂や茶屋が立てられていたと推測されているという。この地蔵菩薩像は室町時代の作と推定されており、骨折に霊験あらたかなため、「骨つぎ地蔵」と称されているということだ。
その先は山の中の道になる。幸い舗装されてはいるが、時刻は16時半になっており、道は薄暗くなっているので、早く山の中を抜けたいと思って先を急ぐ。
山を下ったところで道は二股に分かれており、これを左へ進むが、ここには標識はなかった。突き当りを右へ進み、JRのガード下を抜けて桜川に架かる桜川橋を渡る。42号線をガード下を通って抜け、すぐに右折、その先で42号線に合流、南部川に架かる南部大橋を渡ってすぐに左折、古川に架かる古川橋を渡る。最初の三叉路を右折、再び橋を渡ってその先で二股に分かれているところを左へ進む。南道の信号を左へ進み、その先で道は二股に分かれているのでここは右へ進む。このあたりは標識がないので、資料を注意深く見ながら進む。
「丹川地蔵尊」がある。ここは子安地蔵、延命地蔵として有名であったと享保10年(1725)の田辺領記にも記されている。
突き当たりに「三鍋王子跡」がある。もう周囲は暗くなっているので先を急ぐ。
ここから右折して進み、右手に南部高校がある先の四つ角で右折、すぐ先の四つ角を左折して進むと、左手に「鹿島神社」があるが、真っ暗で写真を撮ってもうまく撮れていなかった。
17時46分に今日の宿に着く。
本日の歩行時間 10時間16分。
本日の歩数&距離 54542歩、37.8km。
旅の地図
記録
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2010年11月15日(月)
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2010年11月16日(火)
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2010年11月17日(水)
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2010年11月18日(木)
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2010年11月29日(月)
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2010年11月30日(火)
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2010年12月01日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん