2010年11月29日(月)
湯浅~紀伊内原~御坊
晴れ
11時4分に湯浅駅に着き、歩き始める。街道に合流するところの角に「右 霊厳寺」と刻まれた道標が立っている。
左手に満願寺を見ながら進んで行くと、「すぐ勝楽寺」と刻まれた道標があり、標識も立っているのでそれに従って進む。
左手に「勝楽寺」があるが、入口が分からなかったため、一旦42号線に出て、迂回して境内に入っていった。その途中、街道に沿ったところに「紀伊国屋文左衛門之碑」が立っていた。元禄期の商人として有名だ。「勝楽寺」は白鳳年間に創建されたという説明が立っており、資料には湯浅氏の菩提寺となっていたが、丁度お寺の方がおられたのでお聞きすると、菩提寺ではないということだった。
その先、42号線に出たところの左手、坂を少し上った所に「久米崎王子跡」がある。承久3年(1221)に起こった承久の乱以降、上皇や女院の熊野御幸はほとんど行われなくなり、王子社の多くは衰退していったが、ここも例外ではなく、なくなってしまっていたという。江戸時代初頭、紀州藩主徳川頼宣が小社を再興、久米崎王子神社として祀られていたが、明治40年に顕国神社に合祀され、今では跡地だけになっている。
広川に架かる新広橋の手前で左折、川沿いに進んでいくと、左手に年不詳の三界万霊や五輪塔が置かれている。
その先で道は二股に分かれているので、右手の道へ進む。更にその先でも道は二股に分かれており、その左角に「左不動弘法大師」と刻まれた道標が立っている。横に小さく「出征軍人」という文字が見えるので、それほど古いものではないようだ。ここを右へ進む。
広川に架かる新柳瀬橋を渡って42号線に合流、その先で42号線から分岐して進むが、このあたりも標識が数多く立っており、それに従って進めば迷うことはない。広川に突き当たって左折、殿井橋を渡り、広川IC入口の信号から左折して湯浅御坊道路のガード下を通って進み、更にその先にあるもう一つのガード下を通って右折、グルッと一回転するようにして湯浅御坊道路の向こう側に出て、道路に沿って進むと左手に「津兼王子跡」がある。ここも道路建設によって消滅したため、遺構は何も残っておらず、石碑だけが立っている。
再びガード下を通って42号線に合流する。点滅信号がある先を左折して42号線から分岐して進むがここにも標識が立っているのでこれに従って進む。このあたり昔の旅籠跡が続いており、夫々旅籠の名前を書いた看板が懸けられている。
左手に「丹賀大権現」があり、ここに「白井原王子」「井関王子」「津兼王子」が合祀されていると記されている。
広川に架かる河瀬橋を渡ったところの左手に「徳本上人名号碑」が立っている。これは天保8年(1837)の天保大飢饉による多数の犠牲者の七回忌供養のため、天保14年(1843)に建立されたもので、お名号は徳本上人の字体によると説明されている。
すぐ先の小橋を渡ったところに「河瀬王子跡」がある。ここも明治41年に津木八幡神社に合祀され、遺構は残っていない。
川の向こう側に「延命地蔵寺」がある。ここには木造の地蔵菩薩立像があるが、この像の顔面には漆が流れたようになっているので「汗かき地蔵」と呼ばれているということだ。
道は少しずつ上り坂になっており、次第に山の中へ入って行く。右手に「馬留王子跡」の看板だけが立っている。ここも明治時代に津木八幡神社に合祀されているという。
右手に「鹿ケ瀬峠まで2340m」という標柱が立っており、左手には「徳本上人の名号碑」が立っている。道はここで二股に分かれているので、右へ直進する。すぐ先左手に「立場跡」の案内板が立っている。駕籠はここまでで、ここから先は牛馬の背に頼ることとなると記されている。いよいよ鹿ケ瀬峠に差し掛かるのだ。
その先で道は二股に分かれており、その角正面に「鹿ケ瀬峠まで2030m」と書かれた標柱が立っていたが、草に覆われて分かりにくかった。ここを左へ進むと柵がしてあり、「歩行者の方へ 開けた人以外は閉めないでください」と書かれた案内板が掛けられていた。柵は開いているのでそのまま坂道を登って行く。
道は急坂になってくる。右手に古道の案内板が立っているが、通行止めと書き添えられているので、舗装された迂回路を登って行く。「鹿ケ瀬峠まで1230m」と書かれたところで道は二股に分かれており、ここは左へ進む。更にその先「1200m」と書かれたところも二股に分かれており、ここは右へ進む。このように分岐する場所には必ず峠までの距離と進む方向が書かれているので迷うことはない。「峠まで710m」のところに柵があり、ここには「まむしに注意」「ハチに注意」と書かれた看板が掛かっており、柵は閉まっていたが、簡単に開けることが出来たので先へ進む。まむしもハチもいやだが、もう時期的には大丈夫だろうと思いながらも、一方では昨年の同じ時期に鹿児島でまむしに出会ったことを思い出して注意をしながら登っていく。
「鹿ケ瀬峠まで152m」という標柱がある左手すぐ上に享保6年(1721)と刻まれた「地蔵尊」が立っている。
そのすぐ先、やはり左手を少し登ったところに「法華壇」がある。
「大峠」に来る。ようやく鹿ケ瀬峠を登りつめたのだ。海抜354mとなっており、「峠まで2340m」という標識があったところからここまでに43分かかったことになる。13時半近くになっており、ベンチもあったので、ここで昼食にする。今日も小倉で買ったおにぎり4個が昼食だ。じっとしていると汗で濡れたシャツが冷たい。
土道を下り始めると、500mほど下ったところに「小峠」の標柱が立っており、ここから石畳が始まる。これは約500mほど続いている熊野古道最長の石畳だ。上りは舗装されているのに、何故下りは舗装されていないのかなと思っていたが、この石畳を活かす為に敢て土道としていたのだろう。
道を下っていくと右手に「板碑」がある。前にある梅畑は八代将軍徳川吉宗やその母淨円院が帰依した広川町養源院の源流とも言われている法華堂跡で、この跡地にあった板碑を集めたもので、嘉吉2年(1442)や永享8年(1436)、寛正2年(1461)といった室町時代の年号が入っており、郡内で最も古い板碑の一つとされているそうだ。
金魚茶屋の説明板が立っている。ここは江戸時代の宿場で鹿瀬山から流れ出る清流で金魚を飼って旅人の旅情を慰めていたところから、この名前がついたという。このあたりからようやく人家があった。その先でご夫婦と思われる二人連れと一緒になる。やはり熊野古道を歩かれているそうで、今日は私と同じ湯浅から出発し紀伊内原まで歩かれるということだった。熊野古道を歩かれている方とはこのとき始めてお会いした。
その先左手に「沓掛王子跡」がある。沓掛と呼ばれたのは険阻な鹿瀬峠を越えてきた旅人は痛んだ藁沓を履き替えたり、牛馬にも沓を履き替えたりしたことによると思われているということだ。
左手に「法華経塚遺跡」がある。「八百二十四年前 鹿背峠ニアリ 是ヨリ二十五丁」と刻まれている。
左手に「爪かき地蔵」がある。弘法大師がこの地へおいでになられたとき、土地の人の無病息災を祈願して、岩に爪で地蔵尊を刻んだと伝えられている。拝ノ坂峠にあった爪かき地蔵と同じ趣旨だ。現在は地蔵尊の姿は見えないが、水をかけると浮かび出てくることから水かけ地蔵とも言われているという。ただ、信仰心のない人はいくら水をかけても地蔵尊のお姿を拝むことは出来ないとも説明されているので、私がかけてもたぶん駄目だろうなと思った。
このあたりは黒竹の産地ということで、民家の庭には黒竹が束ねられて置かれていた。
左手に原谷皇太神社があり、その先の二股を左へ上ると、左手に「馬留王子跡」がある。先ほども馬留王子跡があったので、資料には先ほどの王子を「東の馬留王子」、今回の王子を「西の馬留王子」と記されている。どちらも厳しい鹿ケ瀬峠を越えるためにこの地で馬を留めたということからきた名前だという。
すぐ先で道は二股に分かれているので、これを左へ進むと、光明寺があり、ここに六地蔵が並んでいる。
その先で一旦21号線に合流するが、標識に従ってすぐに左の細道へ進む。更にその先で176号線に合流後、左へ進む。ここにも標識が立っている。その先で右折して西川に架かる滑橋を渡って進むと、右手に「内野王子跡」がある。ここは祀られている「ツチ金剛童子」にちなんで槌を造り、それを弱く貧しい人々に与える風習があったそうで、そのことから「槌の王子」とも呼ばれていたという。
四つ角があり、左角に標識があるので、ここを左折して進む。前方にJRの線路が見えるところを標識に従って左折して進み、西川に架かる王子橋の手前から街道から離れて右折すると「内原王子神社」があり、ここに「高家王子跡」がある。またこの横に「愛子の渕」がある。江戸時代、この地の豪族だった秦政助の一子亀千代は生まれつき目が見えなかったことを悲しんで渕に身投げした。ところが亀千代の意識が戻り、「今、地獄へ落ちるところを観音様に助けられた」といったという。このことがあってからこの渕を「愛子の渕」と呼ぶようになったという。
街道に戻って王子橋を渡り、すぐ先で道は二股に分かれているので、左へ進む。
27号線を進んでいくと左手に「一里塚跡」の石碑が立っている。
左手に3体の地蔵尊がある。一つは道標地蔵になっている。
右手に「善童子王子跡」があるが、ここには和歌山県で統一されたスチール製の説明板がない。
その先で道は二股に分かれており、右手に年不詳の名号石が立っている。
街道はここから左へ進むがその右角のガードレールの横に「左 道成寺」と刻まれた小さい道標が立っている。
富安橋で27号線を横断し、その先で道は二股に分かれており、標識が立っているのでそれに従って進むと、道が右へカーブするところの右手に愛徳山王子への案内板があるので、それに従って細い山道を進んでいく。
やがて道は竹林の中へ入っていくが、16時半近くになっており、道はもう薄暗くなっている。
その先竹林の中の少し開けたところに「愛徳山王子跡」がある。
街道に戻って進むと、北吉田川に八幡橋が架かっており、街道はここから橋を渡らずに進むのだが、橋を渡った先にある「道成寺」へ行くことにする。ここは大宝元年(701)に文武天皇の勅願によって建立されたといわれており、本堂の壁板には正平12年(1357)の墨書が残っていることから、本堂はその頃の建立と考えられており、国の重要文化財に指定されている。またここには安珍、清姫の有名な物語が残っている。延長6年(929)、奥州から熊野詣に来た修行僧・安珍は、真砂庄司の娘・清姫に一目惚れされたが、安珍がこれを断ったことから清姫は大蛇となって安珍を追い、最後には道成寺の鐘の中に逃げた安珍を焼き殺すという「安珍清姫の物語」の悲恋は「法華験記」(11世紀)に記され、「道成寺もの」として能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎でもよく知られている。
街道に戻って薄暗くなってきた中を急いで海士王子跡へ向かっていると、散歩をしている方が話しかけてきて、文武天皇の夫人で聖武天皇の母にあたる藤原宮子はこの地域の海女だったことから、道成寺のような立派なお寺がこの地に建立されたという説があるというようなことを教えていただいた。
右手に「海士王子跡」がある。何とか暗くなる直前でここまで来ることができた。
北吉田川に沿って進み、橋を渡って重力踏切でJRの線路を越え、御坊駅に到着する。
17時15分に到着する。今日の宿はここからもう少し離れたところにあった。
本日の歩行時間 6時間11分。
本日の歩数&距離 37155歩、24.7km。
11時4分に湯浅駅に着き、歩き始める。街道に合流するところの角に「右 霊厳寺」と刻まれた道標が立っている。
左手に満願寺を見ながら進んで行くと、「すぐ勝楽寺」と刻まれた道標があり、標識も立っているのでそれに従って進む。
左手に「勝楽寺」があるが、入口が分からなかったため、一旦42号線に出て、迂回して境内に入っていった。その途中、街道に沿ったところに「紀伊国屋文左衛門之碑」が立っていた。元禄期の商人として有名だ。「勝楽寺」は白鳳年間に創建されたという説明が立っており、資料には湯浅氏の菩提寺となっていたが、丁度お寺の方がおられたのでお聞きすると、菩提寺ではないということだった。
その先、42号線に出たところの左手、坂を少し上った所に「久米崎王子跡」がある。承久3年(1221)に起こった承久の乱以降、上皇や女院の熊野御幸はほとんど行われなくなり、王子社の多くは衰退していったが、ここも例外ではなく、なくなってしまっていたという。江戸時代初頭、紀州藩主徳川頼宣が小社を再興、久米崎王子神社として祀られていたが、明治40年に顕国神社に合祀され、今では跡地だけになっている。
広川に架かる新広橋の手前で左折、川沿いに進んでいくと、左手に年不詳の三界万霊や五輪塔が置かれている。
その先で道は二股に分かれているので、右手の道へ進む。更にその先でも道は二股に分かれており、その左角に「左不動弘法大師」と刻まれた道標が立っている。横に小さく「出征軍人」という文字が見えるので、それほど古いものではないようだ。ここを右へ進む。
広川に架かる新柳瀬橋を渡って42号線に合流、その先で42号線から分岐して進むが、このあたりも標識が数多く立っており、それに従って進めば迷うことはない。広川に突き当たって左折、殿井橋を渡り、広川IC入口の信号から左折して湯浅御坊道路のガード下を通って進み、更にその先にあるもう一つのガード下を通って右折、グルッと一回転するようにして湯浅御坊道路の向こう側に出て、道路に沿って進むと左手に「津兼王子跡」がある。ここも道路建設によって消滅したため、遺構は何も残っておらず、石碑だけが立っている。
再びガード下を通って42号線に合流する。点滅信号がある先を左折して42号線から分岐して進むがここにも標識が立っているのでこれに従って進む。このあたり昔の旅籠跡が続いており、夫々旅籠の名前を書いた看板が懸けられている。
左手に「丹賀大権現」があり、ここに「白井原王子」「井関王子」「津兼王子」が合祀されていると記されている。
広川に架かる河瀬橋を渡ったところの左手に「徳本上人名号碑」が立っている。これは天保8年(1837)の天保大飢饉による多数の犠牲者の七回忌供養のため、天保14年(1843)に建立されたもので、お名号は徳本上人の字体によると説明されている。
すぐ先の小橋を渡ったところに「河瀬王子跡」がある。ここも明治41年に津木八幡神社に合祀され、遺構は残っていない。
川の向こう側に「延命地蔵寺」がある。ここには木造の地蔵菩薩立像があるが、この像の顔面には漆が流れたようになっているので「汗かき地蔵」と呼ばれているということだ。
道は少しずつ上り坂になっており、次第に山の中へ入って行く。右手に「馬留王子跡」の看板だけが立っている。ここも明治時代に津木八幡神社に合祀されているという。
右手に「鹿ケ瀬峠まで2340m」という標柱が立っており、左手には「徳本上人の名号碑」が立っている。道はここで二股に分かれているので、右へ直進する。すぐ先左手に「立場跡」の案内板が立っている。駕籠はここまでで、ここから先は牛馬の背に頼ることとなると記されている。いよいよ鹿ケ瀬峠に差し掛かるのだ。
その先で道は二股に分かれており、その角正面に「鹿ケ瀬峠まで2030m」と書かれた標柱が立っていたが、草に覆われて分かりにくかった。ここを左へ進むと柵がしてあり、「歩行者の方へ 開けた人以外は閉めないでください」と書かれた案内板が掛けられていた。柵は開いているのでそのまま坂道を登って行く。
道は急坂になってくる。右手に古道の案内板が立っているが、通行止めと書き添えられているので、舗装された迂回路を登って行く。「鹿ケ瀬峠まで1230m」と書かれたところで道は二股に分かれており、ここは左へ進む。更にその先「1200m」と書かれたところも二股に分かれており、ここは右へ進む。このように分岐する場所には必ず峠までの距離と進む方向が書かれているので迷うことはない。「峠まで710m」のところに柵があり、ここには「まむしに注意」「ハチに注意」と書かれた看板が掛かっており、柵は閉まっていたが、簡単に開けることが出来たので先へ進む。まむしもハチもいやだが、もう時期的には大丈夫だろうと思いながらも、一方では昨年の同じ時期に鹿児島でまむしに出会ったことを思い出して注意をしながら登っていく。
「鹿ケ瀬峠まで152m」という標柱がある左手すぐ上に享保6年(1721)と刻まれた「地蔵尊」が立っている。
そのすぐ先、やはり左手を少し登ったところに「法華壇」がある。
「大峠」に来る。ようやく鹿ケ瀬峠を登りつめたのだ。海抜354mとなっており、「峠まで2340m」という標識があったところからここまでに43分かかったことになる。13時半近くになっており、ベンチもあったので、ここで昼食にする。今日も小倉で買ったおにぎり4個が昼食だ。じっとしていると汗で濡れたシャツが冷たい。
土道を下り始めると、500mほど下ったところに「小峠」の標柱が立っており、ここから石畳が始まる。これは約500mほど続いている熊野古道最長の石畳だ。上りは舗装されているのに、何故下りは舗装されていないのかなと思っていたが、この石畳を活かす為に敢て土道としていたのだろう。
道を下っていくと右手に「板碑」がある。前にある梅畑は八代将軍徳川吉宗やその母淨円院が帰依した広川町養源院の源流とも言われている法華堂跡で、この跡地にあった板碑を集めたもので、嘉吉2年(1442)や永享8年(1436)、寛正2年(1461)といった室町時代の年号が入っており、郡内で最も古い板碑の一つとされているそうだ。
金魚茶屋の説明板が立っている。ここは江戸時代の宿場で鹿瀬山から流れ出る清流で金魚を飼って旅人の旅情を慰めていたところから、この名前がついたという。このあたりからようやく人家があった。その先でご夫婦と思われる二人連れと一緒になる。やはり熊野古道を歩かれているそうで、今日は私と同じ湯浅から出発し紀伊内原まで歩かれるということだった。熊野古道を歩かれている方とはこのとき始めてお会いした。
その先左手に「沓掛王子跡」がある。沓掛と呼ばれたのは険阻な鹿瀬峠を越えてきた旅人は痛んだ藁沓を履き替えたり、牛馬にも沓を履き替えたりしたことによると思われているということだ。
左手に「法華経塚遺跡」がある。「八百二十四年前 鹿背峠ニアリ 是ヨリ二十五丁」と刻まれている。
左手に「爪かき地蔵」がある。弘法大師がこの地へおいでになられたとき、土地の人の無病息災を祈願して、岩に爪で地蔵尊を刻んだと伝えられている。拝ノ坂峠にあった爪かき地蔵と同じ趣旨だ。現在は地蔵尊の姿は見えないが、水をかけると浮かび出てくることから水かけ地蔵とも言われているという。ただ、信仰心のない人はいくら水をかけても地蔵尊のお姿を拝むことは出来ないとも説明されているので、私がかけてもたぶん駄目だろうなと思った。
このあたりは黒竹の産地ということで、民家の庭には黒竹が束ねられて置かれていた。
左手に原谷皇太神社があり、その先の二股を左へ上ると、左手に「馬留王子跡」がある。先ほども馬留王子跡があったので、資料には先ほどの王子を「東の馬留王子」、今回の王子を「西の馬留王子」と記されている。どちらも厳しい鹿ケ瀬峠を越えるためにこの地で馬を留めたということからきた名前だという。
すぐ先で道は二股に分かれているので、これを左へ進むと、光明寺があり、ここに六地蔵が並んでいる。
その先で一旦21号線に合流するが、標識に従ってすぐに左の細道へ進む。更にその先で176号線に合流後、左へ進む。ここにも標識が立っている。その先で右折して西川に架かる滑橋を渡って進むと、右手に「内野王子跡」がある。ここは祀られている「ツチ金剛童子」にちなんで槌を造り、それを弱く貧しい人々に与える風習があったそうで、そのことから「槌の王子」とも呼ばれていたという。
四つ角があり、左角に標識があるので、ここを左折して進む。前方にJRの線路が見えるところを標識に従って左折して進み、西川に架かる王子橋の手前から街道から離れて右折すると「内原王子神社」があり、ここに「高家王子跡」がある。またこの横に「愛子の渕」がある。江戸時代、この地の豪族だった秦政助の一子亀千代は生まれつき目が見えなかったことを悲しんで渕に身投げした。ところが亀千代の意識が戻り、「今、地獄へ落ちるところを観音様に助けられた」といったという。このことがあってからこの渕を「愛子の渕」と呼ぶようになったという。
街道に戻って王子橋を渡り、すぐ先で道は二股に分かれているので、左へ進む。
27号線を進んでいくと左手に「一里塚跡」の石碑が立っている。
左手に3体の地蔵尊がある。一つは道標地蔵になっている。
右手に「善童子王子跡」があるが、ここには和歌山県で統一されたスチール製の説明板がない。
その先で道は二股に分かれており、右手に年不詳の名号石が立っている。
街道はここから左へ進むがその右角のガードレールの横に「左 道成寺」と刻まれた小さい道標が立っている。
富安橋で27号線を横断し、その先で道は二股に分かれており、標識が立っているのでそれに従って進むと、道が右へカーブするところの右手に愛徳山王子への案内板があるので、それに従って細い山道を進んでいく。
やがて道は竹林の中へ入っていくが、16時半近くになっており、道はもう薄暗くなっている。
その先竹林の中の少し開けたところに「愛徳山王子跡」がある。
街道に戻って進むと、北吉田川に八幡橋が架かっており、街道はここから橋を渡らずに進むのだが、橋を渡った先にある「道成寺」へ行くことにする。ここは大宝元年(701)に文武天皇の勅願によって建立されたといわれており、本堂の壁板には正平12年(1357)の墨書が残っていることから、本堂はその頃の建立と考えられており、国の重要文化財に指定されている。またここには安珍、清姫の有名な物語が残っている。延長6年(929)、奥州から熊野詣に来た修行僧・安珍は、真砂庄司の娘・清姫に一目惚れされたが、安珍がこれを断ったことから清姫は大蛇となって安珍を追い、最後には道成寺の鐘の中に逃げた安珍を焼き殺すという「安珍清姫の物語」の悲恋は「法華験記」(11世紀)に記され、「道成寺もの」として能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎でもよく知られている。
街道に戻って薄暗くなってきた中を急いで海士王子跡へ向かっていると、散歩をしている方が話しかけてきて、文武天皇の夫人で聖武天皇の母にあたる藤原宮子はこの地域の海女だったことから、道成寺のような立派なお寺がこの地に建立されたという説があるというようなことを教えていただいた。
右手に「海士王子跡」がある。何とか暗くなる直前でここまで来ることができた。
北吉田川に沿って進み、橋を渡って重力踏切でJRの線路を越え、御坊駅に到着する。
17時15分に到着する。今日の宿はここからもう少し離れたところにあった。
本日の歩行時間 6時間11分。
本日の歩数&距離 37155歩、24.7km。
旅の地図
記録
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2010年11月15日(月)
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2010年11月16日(火)
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2010年11月17日(水)
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2010年11月18日(木)
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2010年11月29日(月)
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2010年11月30日(火)
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2010年12月01日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん