2010年11月18日(木)
海南~藤白坂~拝ノ峠~糸我峠~湯浅
晴れ
7時30分にホテルを出発し、昨日歩いた熊野一の鳥居のところから街道に合流する。ここにも標識が立っているので、それに従って進む。このあたり提灯が民家の軒下や標識のところに下げられている。
「熊野一の鳥居跡」には、この場所は熊野古道(小栗街道)と近世の熊野街道との合流点にあたり、すぐそばに祓戸王子があって、そこで垢離をとり心身を清め、熊野聖域へ入っていった。この鳥居は天文18年(1549)に損失されたと説明されている。
その先で案内板に従って街道からはずれて左折し、山の中へ入って行く。道の横には数多くの地蔵尊が置かれている。
暫く歩いた先に「祓戸王子跡」があるが、祓戸王子は明治42年に藤白神社に合祀されたという。
街道に戻って進むと、右手に「鈴木屋敷跡」がある。ここは鈴木姓の元祖といわれる藤白の鈴木氏が住んでいたところで、平安末期頃、天皇や上皇の熊野詣が盛んになり、熊野に住んでいた鈴木氏がこの地へ移り住んで、熊野三山への案内役を務めたり、熊野信仰の普及に努めたという。中でも鈴木三郎重家や亀井六郎重清は有名で源義経の家来として衣川館で戦死したと伝えられている。牛若丸(義経)が熊野往還をした際は必ずこの屋敷に滞在したという。今は広場になっていて、遺構は残っていない。
「藤白神社」がある。ここが「藤白王子跡」で熊野九十九王子のうち五体王子の一つとして特に格式の高かった神社と説明されている。神社の本殿や藤代王子の本地仏等が和歌山県指定文化財になっている。
境内に「有間皇子神社」がある。幸徳天皇(645~654)の皇子であった有間皇子は皇位継承を巡る争いの中で利用され、罠にかかってしまった。その釈明のため白浜の温泉にいた斉明天皇のところへ行き、その帰途、藤白坂で絞殺されてしまったという。
紫川という小さい川を渡り、阪和自動車道の下を通って進むと、右手に「有間皇子史跡」があり、そこに佐々木信綱博士の筆による歌碑が立っている。
空は晴れているのに小雨がぱらつきだした。これから山を越えるのにイヤだなと思ったが、幸いひどい降りにはならなかったので助かった。
藤白坂を登っていくが、ここには一丁(約109m)ごとに丁石地蔵が置かれており、全部で17体ある。海南の全長上人が距離を示すと共に往来の安全を祈って安置した地蔵ということだが、昭和56年には僅か4体が残るだけとなっていたため、新しい地蔵を加えて17体にしたという。
山の中の急な坂道を登っていくと、展望が開けて前方に淡路島を望むことが出来た。昔の人もここで一息ついたのだろうか。
その先に「筆捨松」がある。平安時代の初め、宮廷の絵師・巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野権現の化身である童子との絵の書きくらべをして負け、くやしさのあまり持っていた筆を松の根本に捨てた。おもいあがった巨勢金岡を、熊野の神様がいましめたのだという。松の木はまだ細かったので、植え替えたのだろう。
「硯石」がある。「筆捨松」の伝承にちなんで、紀州徳川家初代藩主頼宣公の命によって自然石に硯の形が彫られたという。
17丁地蔵があり、その先、急坂を登りきったところに三体の地蔵尊が安置されている。
「石造宝篋印塔」がある。このあたりはもともと地蔵峰寺の境内だったところで、同寺の施設の一つとして作られたと思われている。築造年代は不明だが、地蔵峰寺の石造地蔵菩薩像と同年代の15世紀前半と推定されているということだ。和歌山県下四大宝篋印塔の一つで、県の指定文化財になっている。
「地蔵峰寺」がある。ここは標高291mのところにあって室町時代中期の建立と考えられている。
本尊の「石造地蔵菩薩坐像」は総高3.1mの大きな坐像で光背の銘に元亨3年(1323)と刻まれており、本殿、地蔵尊ともに国の重要文化財に指定されている。
境内に「塔下王子跡」がある。この王子社は橘本王子とともに橘本王子神社(現橘本神社)に合祀されている。
この裏手に「御所の芝」という眺望のいいところがあるそうで、行くつもりにしていながら、ついうっかり失念してしまってそのまま先へ進んでしまった。ちょっと残念。
その先、左手に鯉を養殖している池があり、その先から左へ下る道があって、標識が立っているのでこれに従って進み、一面のみかん畑の中の急坂を下っていく。
このあたり、しばらくなかった「導き石」があるので、これに従っていく。それにしてもかなり急な下り坂だ。
県道の一つ手前の右角に地蔵尊があり、そこに「阿弥陀寺(橘本王子)→」と書かれた案内板があるので、それに従って直進していったが、阿弥陀寺がない。
おかしいなと思ってちょうどご近所の方がおられたのでお聞きすると、「橘本王子はもっと先の橘本神社だ、間違える人が多い」といわれたので、その言葉に従って橘本土橋を渡って進みかけたが、ここにも「橘本王子」の案内板の矢印がこれまで歩いてきた方向に向いてついている。やはり阿弥陀寺(橘本王子)は当初あった案内板のほうにあるようだと思って、もう一度戻ってみた。今度は先ほど聞いた方とは違う方がおられたので、この方に「橘本王子はどこですか」とお聞きすると、やはり土橋の向こうだといわれる。それではと思って「阿弥陀寺はどこですか」とお聞きすると、先ほどの地蔵尊から最初の角を右折したところにあるといわれたので、そちらへ行ってみると阿弥陀寺があり、境内に「橘本王子跡」碑があった。後で橘本神社へいってみると「塔下王子」と「橘本王子」を合祀したと書かれていたので、地元の方はそのことを言われたのかもしれない。
街道に戻り、加茂川に架かる橘本土橋を渡るが、その横に寛政5年(1793)の「三界万霊」が立っている。
その先、右手に「橘本神社」があり、その境内に「所坂王子跡」がある。ここは明治40年に「塔下王子」「橘本王子」「所坂王子」を合祀して橘本神社としたと説明されている。
市坪川に沿って進むと、右手に「山路王子神社」があり、ここには「一坪王子」とも「沓掛王子」とも言われている「一壷王子跡」がある。
ここは、幼児が赤いふんどしを締めて行う「泣き相撲」が有名で、境内には土俵があった。
この先、標識に従って拝ノ坂峠の坂を上って行くがかなりの急坂だ。
柵があり、そこから下る道がある。そこに「ここは熊野古道です。いのししの防護柵を設置していますが、ご自由に扉を開けてお通りください」と書かれていたので、てっきり熊野古道はこちらの道を下るのだろうと思って柵を開けようとしたが、針金でしっかり固定されており、なかなか開かない。そのうちなんとなくおかしいと思って横を見ると、古道はそのまま直進する道を進むようだと気がついた。
「万葉の歌碑」が立っており、二股に分かれているところを直進する。このあたり眺望が開けて眺めがいい場所がある。
「蕪坂塔下王子跡」がある。ここは明治時代、「山口王子」とともに宮原神社に合祀されたという。
「太刀の宮」がある。ここは有田市を拠点として支配していた宮崎氏の三男定直が元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣方へついたものの、内紛で城を脱出し、蕪坂を越えてきた。この太刀の宮の前でうたた寝をしていると、夢の中で追っ手が何人も来襲し、切りかかってきた。突然のことで身動きがとれなかった定直だが、この時、腰にさしていた刀がするりと抜け、敵を次々と切り倒していった。夢からさめると、周囲には二つに折れた定直の刀と、無数の死人が横たわっており、しかも定直が拾い上げてみると不思議なことに刀は再びもとどおりにつながったという。定直は生命の危機を救ってくれたこの刀を折継丸(おれつぐまる)と名付け、神社に奉納したが、それが現在の太刀の宮と説明されている。
その先で道は直進する道と直角に右折する道に分岐しており、そこに標識が立っている。ところがこの標識、道の状況と異なっていて、直進する道が描かれてなくて左右に道が描かれている。
後で冷静な頭でみると右折すればいいとわかるのだが、どっちだろう?と一旦悩みだすと頭がこんがらがってきて良く分からない。「道は直進しているのに何故左右なのだ?」と思ってしまうのだ。仕方がないので直進してみたが、どうもおかしい。いくつか分岐する道があるのだが、どこにも標識がないのだ。これまでの例では、標識が頻繁に立っているので、これはおかしいと思って元に戻って右折して急坂を下っていく。まだこの時点では疑心暗鬼だったが、下っていくと「爪かき地蔵」があったのでホッとする。お堂の中を見ると四m余という大きな自然石の左右に阿弥陀仏と地蔵とを線刻しており、室町時代の作と思われているが、弘法大師が爪で描いたという説話が伝わっているという。
道が分かって一安心したところで昼食のパンを食べる。今日も店がないところばかりだったのでパンを買ってきていて正解だった。
山を下ったところに「山口王子跡」がある。ここも蕪坂塔下王子とともに宮原神社に合祀されている。ここまできてようやく平坦な道になった。
その先、道は二股に分かれており、標識があるのでそれに従って右へ進むと、右手に「伏原の墓」がある。ここは熊野参詣の途中、不幸にして亡くなった人々を弔うために建立されたもので、道中のあちこちに置かれていた墓石や板碑をここに集めて祀り、供養したものという。昔の旅人は長旅に出る時、水杯を交わして家を出たもので、旅費のほかに万一道中で亡くなったときのための費用を着物の襟に縫いこんでいたという。まさに長旅は命がけだったのだ。
夕暮橋を渡り、熊野古道ふれあい広場の先の二股を左へ進んで橘踏切でJRの線路を横断すると、右手に地蔵堂がある。
有田川に架かる宮原橋を渡ってすぐ左折、川沿いを進み、道標があるので、そこから右折して進むと、右手に「得生寺」がある。ここは天平宝字3年(759)時の右大臣藤原豊成の女(ムスメ)中将姫遭難の旧跡で、当初は安養庵と呼ばれた。現在の建物は寛永5年(1752)に建立されたものだ。寺内西正面に開山堂があり、堂内に中将姫を中心に中将姫の家士で安養庵を建立した伊藤春時(得生)夫妻が安置されている。
すぐ横に「糸我村一里塚」がある。これは江戸時代初めに紀州藩が築いたもので、城下から5里の場所にある。当初は東西に塚があったが、現在は西塚の一部のみが残っている。和歌山県指定文化財になっている。
「糸我稲荷神社」がある。ここは安閑天皇2年(535)に仮殿が造営され、孝徳天皇白雉3年(652)に社を現在地に移転したという。日本最初のお稲荷さんとして「本朝最初」の称号が与えられているという。樹齢500年を越えている楠の巨木が3本立っているが、以前は4本あったといい、境内の四隅に植えられていたという。この先にある「糸我王子」はここに合祀されている。
その先、道は二股に分かれているので、左へ進むと左手に年不詳の名号石が立っている。
「糸我王子跡」がある。江戸時代にはこの付近には「水王子社」と「上王子社」があったということだが、地元では「上王子社」を糸我王子と比定しているという。両王子社は明治時代に糸我稲荷神社に合祀されたという。
みかん畑の中の道を進み、二股に分かれているところを左へ進むが、ここに「糸我王子社跡」の石柱が立っている。
再び急な登り道になって糸我峠を登るが、今日三回目の登り坂でいい加減うんざりする。振り返ると先ほど越えてきた拝ノ峠が向こうに見えている。
それにしても峠が多いし、そのいずれもが急坂だ。やがて舗装された道から土道に変わるが道はしっかりついているので迷うことはないし歩き難いこともない。ただ、きついだけだ。
「峠の茶屋跡」の石碑が立っている。確かにここらで一服したくなる。
ここから今度は急な下り坂になる。道は舗装されていて、道幅は軽トラックが一台通ることが出来る幅で、ところどころにみかんを収穫するための車が止まっている。こんな急坂をよく登ってくるものだと思う。紀州はみかんの産地で山の上まで一面のみかん畑が広がっている中を下っていくが、三度目の急な下り坂なのでさすがに足の筋肉がこわばっているのがわかる。
下っていく途中、ご夫婦でみかんの収穫をされておられたので、みかんを100円で7個分けていただいた。これまでも無人の販売所で一袋100円で売っていたが、荷物になるので買わなかったのだが、いよいよ今回の旅の終わりも近づいてきたので、ここで買って、早速3個食べてみたが新鮮でおいしかった。
「夜泣き松」の説明板が立っている。このあたりに後鳥羽上皇手植え松があったという。平治元年(1159)平清盛の熊野詣の途中、子供連れの女人がいて、子供が夜泣きをして困っているというと、この松の皮を削って燃やし、その煙を吸うと夜泣きが治るといわれたので、そうすると本当に夜泣きが治ったという伝説があったと説明されている。今は松はなくなっている。
「行者石」がある。熊野詣の際、旅人はこの石の上に乗って井戸水を汲み、身体を清めて道中の安全を祈願したということだ。
すぐ先の四つ角を右折すると「逆川神社」があり、そこに「逆川王子跡」がある。
逆川という名前の由来は藤原定家がその日記に「この川は水が逆流しているので、この名がある」と書いているように、王子の近くを流れるこの川が付近の川が西の海へ流れているのに対して、反対の東へ流れていることから逆川といわれている。神社には享保19年(1734)、明和元年(1764)の石灯籠が立っていた。
逆川に架かる巡礼橋を渡る。熊野古道の途中、この橋の欄干で巡礼者が休んだことからこの名前がついたという。
後白河法皇が熊野詣の際、腰掛けたという石がこのあたりにあったという案内板が立っているが、今はその石はなくなっている。
右手に「弘法の井戸」がある。弘法大師が杖で突くと水が湧き出したという伝承があるという。各地でよく耳にする話だ。熊野詣の旅人がこの井戸で喉を潤したといわれている。
方津戸峠を越えるが、この峠はこれまでの峠と違ってたいしたことはなかった。車道から離れて右へ土道を進むが、ここにも案内板が立っているので、それに従って進む。
湯浅の一里松の説明板が立っているが、今は松はなくなっている。税務署の前から右折して進み、山田川に沿って進んでその先の北栄橋を渡る。右手に「立石の道町道標」が立っている。これは熊野古道で一番大きな道標で(2.38m)「すぐくまの道」と刻まれており、この道標の元で道中の無事を祈って護摩を焚いたという。
15時8分に湯浅駅に到着する。今日は三つの急な峠を越えたので、さすがに足にきた一日だった。
今回の旅はとりあえずここまでとした。
本日の歩行時間 7時間38分。
本日の歩数&距離 32962歩、21.6km。
7時30分にホテルを出発し、昨日歩いた熊野一の鳥居のところから街道に合流する。ここにも標識が立っているので、それに従って進む。このあたり提灯が民家の軒下や標識のところに下げられている。
「熊野一の鳥居跡」には、この場所は熊野古道(小栗街道)と近世の熊野街道との合流点にあたり、すぐそばに祓戸王子があって、そこで垢離をとり心身を清め、熊野聖域へ入っていった。この鳥居は天文18年(1549)に損失されたと説明されている。
その先で案内板に従って街道からはずれて左折し、山の中へ入って行く。道の横には数多くの地蔵尊が置かれている。
暫く歩いた先に「祓戸王子跡」があるが、祓戸王子は明治42年に藤白神社に合祀されたという。
街道に戻って進むと、右手に「鈴木屋敷跡」がある。ここは鈴木姓の元祖といわれる藤白の鈴木氏が住んでいたところで、平安末期頃、天皇や上皇の熊野詣が盛んになり、熊野に住んでいた鈴木氏がこの地へ移り住んで、熊野三山への案内役を務めたり、熊野信仰の普及に努めたという。中でも鈴木三郎重家や亀井六郎重清は有名で源義経の家来として衣川館で戦死したと伝えられている。牛若丸(義経)が熊野往還をした際は必ずこの屋敷に滞在したという。今は広場になっていて、遺構は残っていない。
「藤白神社」がある。ここが「藤白王子跡」で熊野九十九王子のうち五体王子の一つとして特に格式の高かった神社と説明されている。神社の本殿や藤代王子の本地仏等が和歌山県指定文化財になっている。
境内に「有間皇子神社」がある。幸徳天皇(645~654)の皇子であった有間皇子は皇位継承を巡る争いの中で利用され、罠にかかってしまった。その釈明のため白浜の温泉にいた斉明天皇のところへ行き、その帰途、藤白坂で絞殺されてしまったという。
紫川という小さい川を渡り、阪和自動車道の下を通って進むと、右手に「有間皇子史跡」があり、そこに佐々木信綱博士の筆による歌碑が立っている。
空は晴れているのに小雨がぱらつきだした。これから山を越えるのにイヤだなと思ったが、幸いひどい降りにはならなかったので助かった。
藤白坂を登っていくが、ここには一丁(約109m)ごとに丁石地蔵が置かれており、全部で17体ある。海南の全長上人が距離を示すと共に往来の安全を祈って安置した地蔵ということだが、昭和56年には僅か4体が残るだけとなっていたため、新しい地蔵を加えて17体にしたという。
山の中の急な坂道を登っていくと、展望が開けて前方に淡路島を望むことが出来た。昔の人もここで一息ついたのだろうか。
その先に「筆捨松」がある。平安時代の初め、宮廷の絵師・巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野権現の化身である童子との絵の書きくらべをして負け、くやしさのあまり持っていた筆を松の根本に捨てた。おもいあがった巨勢金岡を、熊野の神様がいましめたのだという。松の木はまだ細かったので、植え替えたのだろう。
「硯石」がある。「筆捨松」の伝承にちなんで、紀州徳川家初代藩主頼宣公の命によって自然石に硯の形が彫られたという。
17丁地蔵があり、その先、急坂を登りきったところに三体の地蔵尊が安置されている。
「石造宝篋印塔」がある。このあたりはもともと地蔵峰寺の境内だったところで、同寺の施設の一つとして作られたと思われている。築造年代は不明だが、地蔵峰寺の石造地蔵菩薩像と同年代の15世紀前半と推定されているということだ。和歌山県下四大宝篋印塔の一つで、県の指定文化財になっている。
「地蔵峰寺」がある。ここは標高291mのところにあって室町時代中期の建立と考えられている。
本尊の「石造地蔵菩薩坐像」は総高3.1mの大きな坐像で光背の銘に元亨3年(1323)と刻まれており、本殿、地蔵尊ともに国の重要文化財に指定されている。
境内に「塔下王子跡」がある。この王子社は橘本王子とともに橘本王子神社(現橘本神社)に合祀されている。
この裏手に「御所の芝」という眺望のいいところがあるそうで、行くつもりにしていながら、ついうっかり失念してしまってそのまま先へ進んでしまった。ちょっと残念。
その先、左手に鯉を養殖している池があり、その先から左へ下る道があって、標識が立っているのでこれに従って進み、一面のみかん畑の中の急坂を下っていく。
このあたり、しばらくなかった「導き石」があるので、これに従っていく。それにしてもかなり急な下り坂だ。
県道の一つ手前の右角に地蔵尊があり、そこに「阿弥陀寺(橘本王子)→」と書かれた案内板があるので、それに従って直進していったが、阿弥陀寺がない。
おかしいなと思ってちょうどご近所の方がおられたのでお聞きすると、「橘本王子はもっと先の橘本神社だ、間違える人が多い」といわれたので、その言葉に従って橘本土橋を渡って進みかけたが、ここにも「橘本王子」の案内板の矢印がこれまで歩いてきた方向に向いてついている。やはり阿弥陀寺(橘本王子)は当初あった案内板のほうにあるようだと思って、もう一度戻ってみた。今度は先ほど聞いた方とは違う方がおられたので、この方に「橘本王子はどこですか」とお聞きすると、やはり土橋の向こうだといわれる。それではと思って「阿弥陀寺はどこですか」とお聞きすると、先ほどの地蔵尊から最初の角を右折したところにあるといわれたので、そちらへ行ってみると阿弥陀寺があり、境内に「橘本王子跡」碑があった。後で橘本神社へいってみると「塔下王子」と「橘本王子」を合祀したと書かれていたので、地元の方はそのことを言われたのかもしれない。
街道に戻り、加茂川に架かる橘本土橋を渡るが、その横に寛政5年(1793)の「三界万霊」が立っている。
その先、右手に「橘本神社」があり、その境内に「所坂王子跡」がある。ここは明治40年に「塔下王子」「橘本王子」「所坂王子」を合祀して橘本神社としたと説明されている。
市坪川に沿って進むと、右手に「山路王子神社」があり、ここには「一坪王子」とも「沓掛王子」とも言われている「一壷王子跡」がある。
ここは、幼児が赤いふんどしを締めて行う「泣き相撲」が有名で、境内には土俵があった。
この先、標識に従って拝ノ坂峠の坂を上って行くがかなりの急坂だ。
柵があり、そこから下る道がある。そこに「ここは熊野古道です。いのししの防護柵を設置していますが、ご自由に扉を開けてお通りください」と書かれていたので、てっきり熊野古道はこちらの道を下るのだろうと思って柵を開けようとしたが、針金でしっかり固定されており、なかなか開かない。そのうちなんとなくおかしいと思って横を見ると、古道はそのまま直進する道を進むようだと気がついた。
「万葉の歌碑」が立っており、二股に分かれているところを直進する。このあたり眺望が開けて眺めがいい場所がある。
「蕪坂塔下王子跡」がある。ここは明治時代、「山口王子」とともに宮原神社に合祀されたという。
「太刀の宮」がある。ここは有田市を拠点として支配していた宮崎氏の三男定直が元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣方へついたものの、内紛で城を脱出し、蕪坂を越えてきた。この太刀の宮の前でうたた寝をしていると、夢の中で追っ手が何人も来襲し、切りかかってきた。突然のことで身動きがとれなかった定直だが、この時、腰にさしていた刀がするりと抜け、敵を次々と切り倒していった。夢からさめると、周囲には二つに折れた定直の刀と、無数の死人が横たわっており、しかも定直が拾い上げてみると不思議なことに刀は再びもとどおりにつながったという。定直は生命の危機を救ってくれたこの刀を折継丸(おれつぐまる)と名付け、神社に奉納したが、それが現在の太刀の宮と説明されている。
その先で道は直進する道と直角に右折する道に分岐しており、そこに標識が立っている。ところがこの標識、道の状況と異なっていて、直進する道が描かれてなくて左右に道が描かれている。
後で冷静な頭でみると右折すればいいとわかるのだが、どっちだろう?と一旦悩みだすと頭がこんがらがってきて良く分からない。「道は直進しているのに何故左右なのだ?」と思ってしまうのだ。仕方がないので直進してみたが、どうもおかしい。いくつか分岐する道があるのだが、どこにも標識がないのだ。これまでの例では、標識が頻繁に立っているので、これはおかしいと思って元に戻って右折して急坂を下っていく。まだこの時点では疑心暗鬼だったが、下っていくと「爪かき地蔵」があったのでホッとする。お堂の中を見ると四m余という大きな自然石の左右に阿弥陀仏と地蔵とを線刻しており、室町時代の作と思われているが、弘法大師が爪で描いたという説話が伝わっているという。
道が分かって一安心したところで昼食のパンを食べる。今日も店がないところばかりだったのでパンを買ってきていて正解だった。
山を下ったところに「山口王子跡」がある。ここも蕪坂塔下王子とともに宮原神社に合祀されている。ここまできてようやく平坦な道になった。
その先、道は二股に分かれており、標識があるのでそれに従って右へ進むと、右手に「伏原の墓」がある。ここは熊野参詣の途中、不幸にして亡くなった人々を弔うために建立されたもので、道中のあちこちに置かれていた墓石や板碑をここに集めて祀り、供養したものという。昔の旅人は長旅に出る時、水杯を交わして家を出たもので、旅費のほかに万一道中で亡くなったときのための費用を着物の襟に縫いこんでいたという。まさに長旅は命がけだったのだ。
夕暮橋を渡り、熊野古道ふれあい広場の先の二股を左へ進んで橘踏切でJRの線路を横断すると、右手に地蔵堂がある。
有田川に架かる宮原橋を渡ってすぐ左折、川沿いを進み、道標があるので、そこから右折して進むと、右手に「得生寺」がある。ここは天平宝字3年(759)時の右大臣藤原豊成の女(ムスメ)中将姫遭難の旧跡で、当初は安養庵と呼ばれた。現在の建物は寛永5年(1752)に建立されたものだ。寺内西正面に開山堂があり、堂内に中将姫を中心に中将姫の家士で安養庵を建立した伊藤春時(得生)夫妻が安置されている。
すぐ横に「糸我村一里塚」がある。これは江戸時代初めに紀州藩が築いたもので、城下から5里の場所にある。当初は東西に塚があったが、現在は西塚の一部のみが残っている。和歌山県指定文化財になっている。
「糸我稲荷神社」がある。ここは安閑天皇2年(535)に仮殿が造営され、孝徳天皇白雉3年(652)に社を現在地に移転したという。日本最初のお稲荷さんとして「本朝最初」の称号が与えられているという。樹齢500年を越えている楠の巨木が3本立っているが、以前は4本あったといい、境内の四隅に植えられていたという。この先にある「糸我王子」はここに合祀されている。
その先、道は二股に分かれているので、左へ進むと左手に年不詳の名号石が立っている。
「糸我王子跡」がある。江戸時代にはこの付近には「水王子社」と「上王子社」があったということだが、地元では「上王子社」を糸我王子と比定しているという。両王子社は明治時代に糸我稲荷神社に合祀されたという。
みかん畑の中の道を進み、二股に分かれているところを左へ進むが、ここに「糸我王子社跡」の石柱が立っている。
再び急な登り道になって糸我峠を登るが、今日三回目の登り坂でいい加減うんざりする。振り返ると先ほど越えてきた拝ノ峠が向こうに見えている。
それにしても峠が多いし、そのいずれもが急坂だ。やがて舗装された道から土道に変わるが道はしっかりついているので迷うことはないし歩き難いこともない。ただ、きついだけだ。
「峠の茶屋跡」の石碑が立っている。確かにここらで一服したくなる。
ここから今度は急な下り坂になる。道は舗装されていて、道幅は軽トラックが一台通ることが出来る幅で、ところどころにみかんを収穫するための車が止まっている。こんな急坂をよく登ってくるものだと思う。紀州はみかんの産地で山の上まで一面のみかん畑が広がっている中を下っていくが、三度目の急な下り坂なのでさすがに足の筋肉がこわばっているのがわかる。
下っていく途中、ご夫婦でみかんの収穫をされておられたので、みかんを100円で7個分けていただいた。これまでも無人の販売所で一袋100円で売っていたが、荷物になるので買わなかったのだが、いよいよ今回の旅の終わりも近づいてきたので、ここで買って、早速3個食べてみたが新鮮でおいしかった。
「夜泣き松」の説明板が立っている。このあたりに後鳥羽上皇手植え松があったという。平治元年(1159)平清盛の熊野詣の途中、子供連れの女人がいて、子供が夜泣きをして困っているというと、この松の皮を削って燃やし、その煙を吸うと夜泣きが治るといわれたので、そうすると本当に夜泣きが治ったという伝説があったと説明されている。今は松はなくなっている。
「行者石」がある。熊野詣の際、旅人はこの石の上に乗って井戸水を汲み、身体を清めて道中の安全を祈願したということだ。
すぐ先の四つ角を右折すると「逆川神社」があり、そこに「逆川王子跡」がある。
逆川という名前の由来は藤原定家がその日記に「この川は水が逆流しているので、この名がある」と書いているように、王子の近くを流れるこの川が付近の川が西の海へ流れているのに対して、反対の東へ流れていることから逆川といわれている。神社には享保19年(1734)、明和元年(1764)の石灯籠が立っていた。
逆川に架かる巡礼橋を渡る。熊野古道の途中、この橋の欄干で巡礼者が休んだことからこの名前がついたという。
後白河法皇が熊野詣の際、腰掛けたという石がこのあたりにあったという案内板が立っているが、今はその石はなくなっている。
右手に「弘法の井戸」がある。弘法大師が杖で突くと水が湧き出したという伝承があるという。各地でよく耳にする話だ。熊野詣の旅人がこの井戸で喉を潤したといわれている。
方津戸峠を越えるが、この峠はこれまでの峠と違ってたいしたことはなかった。車道から離れて右へ土道を進むが、ここにも案内板が立っているので、それに従って進む。
湯浅の一里松の説明板が立っているが、今は松はなくなっている。税務署の前から右折して進み、山田川に沿って進んでその先の北栄橋を渡る。右手に「立石の道町道標」が立っている。これは熊野古道で一番大きな道標で(2.38m)「すぐくまの道」と刻まれており、この道標の元で道中の無事を祈って護摩を焚いたという。
15時8分に湯浅駅に到着する。今日は三つの急な峠を越えたので、さすがに足にきた一日だった。
今回の旅はとりあえずここまでとした。
本日の歩行時間 7時間38分。
本日の歩数&距離 32962歩、21.6km。
旅の地図
記録
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2010年11月15日(月)
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2010年11月16日(火)
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2010年11月17日(水)
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2010年11月18日(木)
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2010年11月29日(月)
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2010年11月30日(火)
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2010年12月01日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん