2010年11月17日(水)
山中渓~雄ノ山峠~矢田峠~汐見峠~海南
曇
7時34分に山中渓駅に着き出発する。
左手に「山中関所跡」がある。応永2年(1395)長慶天皇が河内の観心寺に法華堂を造営するため、この場所に関所を設置し、ここから上がる関銭を造営資金にされたと推測されている。

確かにここは左右から山が迫り、間を川が流れているという関所を作るにはいい場所だ。朝の通勤時間帯ということもあってか、道幅は狭いのに車が多い。

64号線を進んでいくと、左手少し入ったところに「櫻地蔵」がある。

街道に戻るとすぐ先に、「境橋」がある。ここは日本最後の仇討ちの場ということだ。安政4年(1857)土佐藩士広井大六は同藩士棚橋三郎に口論の末切り捨てられたので、大六の一子岩之助は江戸に申し出て「あだうち免許状」を与えられた。岩之助は加太に潜んでいた棚橋三郎を発見し、紀州藩に改めて仇討ちを申し出たところ、紀州藩としては「三郎を国払いとし、境橋より追放するので、仇討ちをしたければ、境橋付近、和泉側にてすべし」と伝えた。文久3年(1863)岩之助は境橋の北側で無事三郎を討ち取ったという。これは日本で許された最後の仇討ちということだ。

その先で右折する道があり、ここを右折して第一滝畑踏切を渡ると、そこに「中山王子跡」がある。和歌山県で統一されたスチール製の王子案内板が立っている。

その先で第二滝畑踏切を渡って、再び64号線に合流する。ここに温度表示板があって9℃を表示していた。これぐらいの気温が歩きやすい。緩やかな上り坂を進み、雄ノ山峠を下り始めたところの左側に「峠の不動明王」がある。「路傍に立ち、風雪に耐えて幾百年、旅人の安全を守ってくださいました。」と書かれた案内板が立っている。

その先から急な下り坂になる。JRのガード下を通って進むと、道は二股に分かれているので、64号線から分岐して左へ下っていく。右手に「山口王子跡」があり、その横にこの付近にあった紀伊の関(白鳥の関)にまつわる万葉歌碑が立っている。

この先に「山口神社→」と書かれた案内板があったので、何も考えずにそれに従って右折して進んだ。

後で分かったことだが、これは熊野古道の標識ではなくて、単なる山口神社への案内板だったようだ。その先にも案内板が続いていたのでそれに従って進んでいくと、「山口神社」に出た。本来の熊野古道はもう少し先まで行って右折するようだった。山口王子社は明治時代の神社合祀でこの山口神社に合祀されたということだ。
山口神社から出て直進すると大きな鳥居があるが、そこに左手から合流する道があり、それが熊野古道のようだった。

7号線に合流、これを右折して進むとその先で道は二股に分かれており、その右手に「川辺王子跡約300m」という標識が立っているので、ここを左折して進む。熊野古道はこのように標識が数多く立っているので、歩きやすい。

細い道を進んで行き、突き当りを左折、左手に西蓮寺があるところから右折、すぐ先を左折して進むと「川辺王子跡」がある。「紀伊続風土記」によると、ここは八王子社と呼ばれるようになり、江戸時代には力侍神社境内に遷座したとなっているそうだ。当地に残った旧八王子社を川辺王子社と考証したのは「和歌山県聖蹟」ということが説明されている。古いことなので諸説あるようだ。

次の四つ角を左折するが、ここにも標識が立っているので、それに従って進む。右手に神波自治会館があるところから右折、その先の突き当たりを左折して進むが、道に「導き石」が埋められている。この「導き石」はうまく配置されていて、分岐する前と後の道に置かれているので、どちらから歩いてきても分かるようになっている。歩く者にとっては分岐する場所に標識が欲しいので、この「導き石」は実に的を得ていると思う。

左手に「中村王子跡」の看板が立っているが、ここには統一されたスチール製の看板ではなかった。

その先、左手少し入ったところに「力侍神社」がある。ここには力侍神社と八王子神社の二つの社殿が並んでいる。両社とも寛永3年(1626)にこの地に移されたと説明されている。ここには「川辺王子」と「中村王子」が合祀されており、参道入口には川辺王子跡の石碑が立っている。

24号線を横断して進むと、右手に天保12年(1841)の石灯籠が立っている地蔵堂とその前に同じく地蔵尊を安置した小祠がある。

左手に旧家があり、その角に「左 北大坂みち」、裏面に「右 北大坂みち」と刻まれた道標が立っている。ここから右折して進むが、ここにも「導き石」がある。

すぐ先を左折して進むが、このあたりは細い道が続いている。 紀ノ川の土手を進み、川辺橋の手前で一旦土手から右下へ降りる道があるので、これを下っていくと、左手に11体の年不詳の地蔵尊がある。

川辺橋を渡るが、紀ノ川は大きな川で渡り終わるのにかなりの時間を要する。渡り終わって左折、布施屋のバス停の先から右へ下って進み、吐前踏切でJRの線路を横断すると右手に「吐前王子跡」がある。説明文によると吐前では紀ノ川の水で心身を清める水垢離を行い、祓いをして王子社に参拝することが通例になっていたという。

集落の中の細い道を進み、突き当りを右折する。このあたりも「導き石」に従って進む。右手少し入ったところに「布施屋観音」があり、正保4年(1647)に建立されたと説明されている。

吐前自治会館があるところから左折して進むのだが、11時55分になっており、その先の布施屋駅まで行って昼食にする。今日は地図を見てみると店がないようだったので、出発前にコンビニでパンを買ってきており、駅のベンチに腰掛けて食べる。実際に歩いてみて店が全くなかったので、パンを買ってきて正解だった。
街道に戻り、すぐ先で左折して進むと「川端王子跡」がある。丁度前に車が止まっていたので写真が撮りにくかった。川端王子は中世にはなかったと考えられているが、江戸時代初期には二社の和佐王子社があったそうで、一社は坂本(和佐王子)でもう一社が熊野古道沿いの川端にあったのが、現在地に移されて川端王子と呼ばれるようになったと説明されている。

この先は細い入り組んだ道を進んでいくが、「和佐歴史研究会」の標識と「導き石」に従っていくと間違うことなく歩くことが出来る。ただ、一箇所だけ間違ってしまったところがある。9号線を横断し、突き当りを右折して進むと、右手のプレハブ小屋のところに「熊野古道→ 西へ直進 30m先で左折」と書かれた和佐歴史研究会の標識がある。

この矢印がこれまで歩いてきた道と全く逆の方向を指していたので、逆に歩く人に対する標識と勘違いをしてしまってそのまま直進してしまったのだ。途中で地元の方がおられたので、道をお聞きして間違いに気がついて元に戻る。先ほどの標識のところから右折、30m先で左折して進むのが本来の街道だった。こうして時々道が分からなくなって地元の方にお聞きするのだが、皆さん熊野古道のことをよくご存知だ。これまで色々な街道を歩いてきて、街道のことをご存じない方が多いのだが、熊野古道に関しては世界遺産に登録されたこともあってか、皆さん道を良く知っていた。この先も標識に従って進むと、右手に和佐小学校があり、ちょうど下校時間だったらしく、子供達が学校から出てきていた。その中の3人連れの子供がこちらを見てなんとなくモジモジしている。どうしたのかなと思っていると、その中の一人が「熊野古道を歩いているの?」と聞いてきたので、「そうだよ」と答えると「ホラね」と残りの二人に言っていた。こんな小さな子供達も熊野古道を知っているのだ。四国遍路をした時も子供達が四国遍路のことをよく知っていて、「ご苦労様で~す」などと声をかけてくれたことを思い出す。こうした子供達への文化の継承ということはとても大切なことだと思う。
右手に「旧中筋家住宅」がある。江戸時代の大庄屋だった家で嘉永5年(1851)に建設されたもので国指定重要文化財になっている。現在でも広大な敷地に大きな屋敷が建っている。

その先で9号線を横断するのだが、9号線を左手へいったところに「和佐王子跡」がある。

更にその先に貞享2年(1685)京都三十三間堂の「通し矢」大会で13053本中8133本を射止めたという弓の名人「和佐大八郎」の墓がある。
このあたりも標識が頻繁に立っていてそれに従って歩けば間違うことはない。9号線を横断し、トンネルの手前の階段から矢田峠を上る。
峠を登ったところの左手に年不詳の名号石があり、その先を右折して急坂を下る。

下ったところにも名号石があり、ここを左へ進み、その先の二股を右へ進んでいく。後で思うとこのあたりで道を間違ったかもしれないが良く分からなかった。
下ったところで9号線に合流したが「導き石」は9号線を進むようになっている。しかし地図では左手をグルッと迂回するようになっている。どうもよくわからない。仕方がないので9号線を進んでいくと、その先で9号線から分岐して右へ進む道があり、ここに「熊野古道→」の標識が立っているので、それに従って進んでいった。

その先で左手から合流する道があり、地図を見るとこの道が熊野古道だったようだ。

ここから逆に歩いてどこで間違ったか確かめようかと思ったが、時間は既に14時を過ぎており、日没までに海南駅まで着きたいと思ってそのまま先を急ぐ。
一旦9号線に接して、すぐに右斜めへ進む。右手に平尾自治会館があり、その前に「平緒王子跡」がある。この王子社は天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めで衰退したといわれており、その後再興して「平緒王子社」と呼ばれていたが、明治時代に都麻津比売神社に合祀されたと説明されている。

和歌山電鉄の吉礼6踏切を渡り、小川に沿って進んで右折、すぐ先を左折、街道はその先の突き当たりを右折するのだが、街道からはずれて左折すると「伊太祁曽神社」がある。ここは五十猛命を祀っており、全国の五十猛命を祀る神社の総社でもある。ここに平緒王子が合祀されている。

街道に戻ると、すぐ右手に「六地蔵」を祀る地蔵堂がある。

「奈久智王子社跡」の看板が立っており、この奥に小祠があるとなっているのだが、なぜか写真が残っていない。看板のみを見て先へ進んだのだろうか?それとも小祠がなかったのだろうか?今となってはよく覚えていません。記憶力の減退は顕著です。
160号線を横断し、その先の突き当たりを右折、阪和自動車道のガード下を通ってすぐ左折するのだが、ここを直進すると「武内神社」があり、武内宿禰産湯の井戸がある。

この先、右手に新池、大池という二つの池があり、その横から道は二股に分かれている。ここで道を間違った。
左へ行かなければならなかったのだが、右へ9号線を進んでしまった。暫く歩いてどうもおかしいと思い、丁度地元の方がおられたので、道をお聞きすると、間違っていることが分かった。この方も熊野古道というとすぐに教えてくれた。先ほどの二股のところに戻って左へ進むが、すぐ先でまた二股に分かれているので、ここは右へ進む。最初の二股のところに案内図があるのだが、この二股の道が見えていたので、うっかり間違ってしまったのだ。
その先で二股に分かれているところを左へ進むが、ここに年不詳の「地蔵尊」が祀られている。

右手に「四つ石地蔵」がある。かって多田にあった三上院千光寺の礎石を集めて地蔵尊を祀ったと説明されている。

その先で民家に突き当たるので、これを右折、すぐ先を左折、更にその先の突き当たりを右折すると「松坂王子跡」がある。現在松坂王子跡は且来八幡神社に合祀されていると説明されている。

王子跡から136号線を左へ進むと、その先で左へ下る道があるのでこれを進む。ここは珍しく標識が何もなかったので分かりにくかったが、丁度地元の方がおられたのでお聞きすると、この道が熊野古道だと教えてくれた。その先の急坂は石畳道となっていて、この坂を登って再び136号線に合流する。

汐見峠を越えるが、左手に「呼び上げ地蔵」がある。昔、熊野への道の途中、この地から初めて海が見えたので、ここを汐見峠と呼んだという。また安政2年(1855)の大地震の時、大津波に逃げ場を失った人々が汐見峠のお地蔵様の不思議な力に呼び上げられて救われたと伝えられており、このことから「呼び上げ地蔵」と呼ばれるようになったという。地蔵様の台座には「志おみとうげ 大くに道」と刻まれているが、大くに道とは小栗街道のことだと説明されている。

左手に山を上って行く道があり、これを行くと「松代王子跡」がある。ここは春日神社の境内になるようだ。春日神社の境内は4800坪もある大きな神社で、松代王子跡は山の中の道を上っていったところにあった。祠の中に「松代王子」と刻まれた緑泥岩の石碑があるというが、この石は元々ここにあったのではなく、春日山の西の麓、古道沿いにあった民家の屋敷内にあったものが、ここへ移されたと説明されている。春日神社にもいってみたかったが、日暮れが迫っており先を急ぐ。

その先、右手に「菩提房王子跡」がある。もう17時になっており、周囲は薄暗くなってきた。その先の熊野一の鳥居のところまで来て、街道から離れて今日の宿がある海南駅のほうへ向かう。

17時23分 一の鳥居で今日の街道歩きは終わり、駅の近くのホテルへ向かう。
本日の歩行時間 9時間49分。
本日の歩数&距離 53189歩、36.5km。
7時34分に山中渓駅に着き出発する。
左手に「山中関所跡」がある。応永2年(1395)長慶天皇が河内の観心寺に法華堂を造営するため、この場所に関所を設置し、ここから上がる関銭を造営資金にされたと推測されている。

確かにここは左右から山が迫り、間を川が流れているという関所を作るにはいい場所だ。朝の通勤時間帯ということもあってか、道幅は狭いのに車が多い。

64号線を進んでいくと、左手少し入ったところに「櫻地蔵」がある。

街道に戻るとすぐ先に、「境橋」がある。ここは日本最後の仇討ちの場ということだ。安政4年(1857)土佐藩士広井大六は同藩士棚橋三郎に口論の末切り捨てられたので、大六の一子岩之助は江戸に申し出て「あだうち免許状」を与えられた。岩之助は加太に潜んでいた棚橋三郎を発見し、紀州藩に改めて仇討ちを申し出たところ、紀州藩としては「三郎を国払いとし、境橋より追放するので、仇討ちをしたければ、境橋付近、和泉側にてすべし」と伝えた。文久3年(1863)岩之助は境橋の北側で無事三郎を討ち取ったという。これは日本で許された最後の仇討ちということだ。

その先で右折する道があり、ここを右折して第一滝畑踏切を渡ると、そこに「中山王子跡」がある。和歌山県で統一されたスチール製の王子案内板が立っている。

その先で第二滝畑踏切を渡って、再び64号線に合流する。ここに温度表示板があって9℃を表示していた。これぐらいの気温が歩きやすい。緩やかな上り坂を進み、雄ノ山峠を下り始めたところの左側に「峠の不動明王」がある。「路傍に立ち、風雪に耐えて幾百年、旅人の安全を守ってくださいました。」と書かれた案内板が立っている。

その先から急な下り坂になる。JRのガード下を通って進むと、道は二股に分かれているので、64号線から分岐して左へ下っていく。右手に「山口王子跡」があり、その横にこの付近にあった紀伊の関(白鳥の関)にまつわる万葉歌碑が立っている。

この先に「山口神社→」と書かれた案内板があったので、何も考えずにそれに従って右折して進んだ。

後で分かったことだが、これは熊野古道の標識ではなくて、単なる山口神社への案内板だったようだ。その先にも案内板が続いていたのでそれに従って進んでいくと、「山口神社」に出た。本来の熊野古道はもう少し先まで行って右折するようだった。山口王子社は明治時代の神社合祀でこの山口神社に合祀されたということだ。

山口神社から出て直進すると大きな鳥居があるが、そこに左手から合流する道があり、それが熊野古道のようだった。

7号線に合流、これを右折して進むとその先で道は二股に分かれており、その右手に「川辺王子跡約300m」という標識が立っているので、ここを左折して進む。熊野古道はこのように標識が数多く立っているので、歩きやすい。

細い道を進んで行き、突き当りを左折、左手に西蓮寺があるところから右折、すぐ先を左折して進むと「川辺王子跡」がある。「紀伊続風土記」によると、ここは八王子社と呼ばれるようになり、江戸時代には力侍神社境内に遷座したとなっているそうだ。当地に残った旧八王子社を川辺王子社と考証したのは「和歌山県聖蹟」ということが説明されている。古いことなので諸説あるようだ。

次の四つ角を左折するが、ここにも標識が立っているので、それに従って進む。右手に神波自治会館があるところから右折、その先の突き当たりを左折して進むが、道に「導き石」が埋められている。この「導き石」はうまく配置されていて、分岐する前と後の道に置かれているので、どちらから歩いてきても分かるようになっている。歩く者にとっては分岐する場所に標識が欲しいので、この「導き石」は実に的を得ていると思う。

左手に「中村王子跡」の看板が立っているが、ここには統一されたスチール製の看板ではなかった。

その先、左手少し入ったところに「力侍神社」がある。ここには力侍神社と八王子神社の二つの社殿が並んでいる。両社とも寛永3年(1626)にこの地に移されたと説明されている。ここには「川辺王子」と「中村王子」が合祀されており、参道入口には川辺王子跡の石碑が立っている。

24号線を横断して進むと、右手に天保12年(1841)の石灯籠が立っている地蔵堂とその前に同じく地蔵尊を安置した小祠がある。

左手に旧家があり、その角に「左 北大坂みち」、裏面に「右 北大坂みち」と刻まれた道標が立っている。ここから右折して進むが、ここにも「導き石」がある。

すぐ先を左折して進むが、このあたりは細い道が続いている。 紀ノ川の土手を進み、川辺橋の手前で一旦土手から右下へ降りる道があるので、これを下っていくと、左手に11体の年不詳の地蔵尊がある。

川辺橋を渡るが、紀ノ川は大きな川で渡り終わるのにかなりの時間を要する。渡り終わって左折、布施屋のバス停の先から右へ下って進み、吐前踏切でJRの線路を横断すると右手に「吐前王子跡」がある。説明文によると吐前では紀ノ川の水で心身を清める水垢離を行い、祓いをして王子社に参拝することが通例になっていたという。

集落の中の細い道を進み、突き当りを右折する。このあたりも「導き石」に従って進む。右手少し入ったところに「布施屋観音」があり、正保4年(1647)に建立されたと説明されている。

吐前自治会館があるところから左折して進むのだが、11時55分になっており、その先の布施屋駅まで行って昼食にする。今日は地図を見てみると店がないようだったので、出発前にコンビニでパンを買ってきており、駅のベンチに腰掛けて食べる。実際に歩いてみて店が全くなかったので、パンを買ってきて正解だった。
街道に戻り、すぐ先で左折して進むと「川端王子跡」がある。丁度前に車が止まっていたので写真が撮りにくかった。川端王子は中世にはなかったと考えられているが、江戸時代初期には二社の和佐王子社があったそうで、一社は坂本(和佐王子)でもう一社が熊野古道沿いの川端にあったのが、現在地に移されて川端王子と呼ばれるようになったと説明されている。

この先は細い入り組んだ道を進んでいくが、「和佐歴史研究会」の標識と「導き石」に従っていくと間違うことなく歩くことが出来る。ただ、一箇所だけ間違ってしまったところがある。9号線を横断し、突き当りを右折して進むと、右手のプレハブ小屋のところに「熊野古道→ 西へ直進 30m先で左折」と書かれた和佐歴史研究会の標識がある。

この矢印がこれまで歩いてきた道と全く逆の方向を指していたので、逆に歩く人に対する標識と勘違いをしてしまってそのまま直進してしまったのだ。途中で地元の方がおられたので、道をお聞きして間違いに気がついて元に戻る。先ほどの標識のところから右折、30m先で左折して進むのが本来の街道だった。こうして時々道が分からなくなって地元の方にお聞きするのだが、皆さん熊野古道のことをよくご存知だ。これまで色々な街道を歩いてきて、街道のことをご存じない方が多いのだが、熊野古道に関しては世界遺産に登録されたこともあってか、皆さん道を良く知っていた。この先も標識に従って進むと、右手に和佐小学校があり、ちょうど下校時間だったらしく、子供達が学校から出てきていた。その中の3人連れの子供がこちらを見てなんとなくモジモジしている。どうしたのかなと思っていると、その中の一人が「熊野古道を歩いているの?」と聞いてきたので、「そうだよ」と答えると「ホラね」と残りの二人に言っていた。こんな小さな子供達も熊野古道を知っているのだ。四国遍路をした時も子供達が四国遍路のことをよく知っていて、「ご苦労様で~す」などと声をかけてくれたことを思い出す。こうした子供達への文化の継承ということはとても大切なことだと思う。
右手に「旧中筋家住宅」がある。江戸時代の大庄屋だった家で嘉永5年(1851)に建設されたもので国指定重要文化財になっている。現在でも広大な敷地に大きな屋敷が建っている。

その先で9号線を横断するのだが、9号線を左手へいったところに「和佐王子跡」がある。

更にその先に貞享2年(1685)京都三十三間堂の「通し矢」大会で13053本中8133本を射止めたという弓の名人「和佐大八郎」の墓がある。

このあたりも標識が頻繁に立っていてそれに従って歩けば間違うことはない。9号線を横断し、トンネルの手前の階段から矢田峠を上る。
峠を登ったところの左手に年不詳の名号石があり、その先を右折して急坂を下る。

下ったところにも名号石があり、ここを左へ進み、その先の二股を右へ進んでいく。後で思うとこのあたりで道を間違ったかもしれないが良く分からなかった。
下ったところで9号線に合流したが「導き石」は9号線を進むようになっている。しかし地図では左手をグルッと迂回するようになっている。どうもよくわからない。仕方がないので9号線を進んでいくと、その先で9号線から分岐して右へ進む道があり、ここに「熊野古道→」の標識が立っているので、それに従って進んでいった。

その先で左手から合流する道があり、地図を見るとこの道が熊野古道だったようだ。

ここから逆に歩いてどこで間違ったか確かめようかと思ったが、時間は既に14時を過ぎており、日没までに海南駅まで着きたいと思ってそのまま先を急ぐ。
一旦9号線に接して、すぐに右斜めへ進む。右手に平尾自治会館があり、その前に「平緒王子跡」がある。この王子社は天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めで衰退したといわれており、その後再興して「平緒王子社」と呼ばれていたが、明治時代に都麻津比売神社に合祀されたと説明されている。

和歌山電鉄の吉礼6踏切を渡り、小川に沿って進んで右折、すぐ先を左折、街道はその先の突き当たりを右折するのだが、街道からはずれて左折すると「伊太祁曽神社」がある。ここは五十猛命を祀っており、全国の五十猛命を祀る神社の総社でもある。ここに平緒王子が合祀されている。

街道に戻ると、すぐ右手に「六地蔵」を祀る地蔵堂がある。

「奈久智王子社跡」の看板が立っており、この奥に小祠があるとなっているのだが、なぜか写真が残っていない。看板のみを見て先へ進んだのだろうか?それとも小祠がなかったのだろうか?今となってはよく覚えていません。記憶力の減退は顕著です。
160号線を横断し、その先の突き当たりを右折、阪和自動車道のガード下を通ってすぐ左折するのだが、ここを直進すると「武内神社」があり、武内宿禰産湯の井戸がある。

この先、右手に新池、大池という二つの池があり、その横から道は二股に分かれている。ここで道を間違った。
左へ行かなければならなかったのだが、右へ9号線を進んでしまった。暫く歩いてどうもおかしいと思い、丁度地元の方がおられたので、道をお聞きすると、間違っていることが分かった。この方も熊野古道というとすぐに教えてくれた。先ほどの二股のところに戻って左へ進むが、すぐ先でまた二股に分かれているので、ここは右へ進む。最初の二股のところに案内図があるのだが、この二股の道が見えていたので、うっかり間違ってしまったのだ。
その先で二股に分かれているところを左へ進むが、ここに年不詳の「地蔵尊」が祀られている。

右手に「四つ石地蔵」がある。かって多田にあった三上院千光寺の礎石を集めて地蔵尊を祀ったと説明されている。

その先で民家に突き当たるので、これを右折、すぐ先を左折、更にその先の突き当たりを右折すると「松坂王子跡」がある。現在松坂王子跡は且来八幡神社に合祀されていると説明されている。

王子跡から136号線を左へ進むと、その先で左へ下る道があるのでこれを進む。ここは珍しく標識が何もなかったので分かりにくかったが、丁度地元の方がおられたのでお聞きすると、この道が熊野古道だと教えてくれた。その先の急坂は石畳道となっていて、この坂を登って再び136号線に合流する。

汐見峠を越えるが、左手に「呼び上げ地蔵」がある。昔、熊野への道の途中、この地から初めて海が見えたので、ここを汐見峠と呼んだという。また安政2年(1855)の大地震の時、大津波に逃げ場を失った人々が汐見峠のお地蔵様の不思議な力に呼び上げられて救われたと伝えられており、このことから「呼び上げ地蔵」と呼ばれるようになったという。地蔵様の台座には「志おみとうげ 大くに道」と刻まれているが、大くに道とは小栗街道のことだと説明されている。

左手に山を上って行く道があり、これを行くと「松代王子跡」がある。ここは春日神社の境内になるようだ。春日神社の境内は4800坪もある大きな神社で、松代王子跡は山の中の道を上っていったところにあった。祠の中に「松代王子」と刻まれた緑泥岩の石碑があるというが、この石は元々ここにあったのではなく、春日山の西の麓、古道沿いにあった民家の屋敷内にあったものが、ここへ移されたと説明されている。春日神社にもいってみたかったが、日暮れが迫っており先を急ぐ。

その先、右手に「菩提房王子跡」がある。もう17時になっており、周囲は薄暗くなってきた。その先の熊野一の鳥居のところまで来て、街道から離れて今日の宿がある海南駅のほうへ向かう。

17時23分 一の鳥居で今日の街道歩きは終わり、駅の近くのホテルへ向かう。
本日の歩行時間 9時間49分。
本日の歩数&距離 53189歩、36.5km。
旅の地図
記録
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2010年11月15日(月)
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2010年11月16日(火)
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2010年11月17日(水)
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2010年11月18日(木)
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2010年11月29日(月)
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2010年11月30日(火)
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2010年12月01日(水)
プロフィール

歩人
かっちゃん