熊野古道・紀伊路を歩く

2010年11月15日(月) ~2010年12月01日(水)
総歩数:294766歩 総距離:197.9km

2010年11月15日(月)

天満橋~四天王寺~仁徳陵~和泉府中

                   曇のち晴れ

 
先日、PCのソフトをIE6からIE8へ変えたところ、これまで作成したHPの写真と文章の整合性が取れなくなっていることに気がつきました。IE6で作成しているときは写真と文章は一対になるようにしていたのですが、IE8でみると写真と文章がずれて表示されていました。そのため、写真があって、その後に文章がくるように急遽訂正したのですが、やはり先に文章がきて、その関連写真が後に表示されるほうが一般的だと思いますので、今回以降、そのように作成いたしております。ただこれまでのものに関しては修正が大変なので、写真があって、その後に文章がくるという形で掲載しておりますので、ご了承ください。

 熊野古道は「紀伊路」「小辺路」「中辺路」「大辺路」「伊勢路」の五つの路に分かれており、今回はまず「紀伊路」を歩くことにする。熊野古道は「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として2004年にユネスコの世界遺産に登録されたが、今回歩く「紀伊路」は含まれていない。
 熊野周辺は古来自然崇拝の地であり、延喜7年(907)に行われた宇多上皇の熊野行幸が最初といわれており、その後、寛治4年(1090)に行われた白河上皇の熊野行幸から熊野三山の参詣が盛んに行われるようになったという。
 9時15分に天満橋から出発する。ここへ来るまでに久しぶりに梅田の地下街を歩いたが、分かりにくくて大分マゴマゴしてしまった。左手「永田屋」という昆布店の前に「八軒家船着場跡の碑」が立っている。
八軒家船着場跡の碑
 平安時代、京の都から船で熊野御幸に出た上皇らはこのあたりで上陸したといい、近世は八軒家浜と呼ばれて三十石船の発着所として賑わった場所という。最初の信号の左手に「熊野かいどう」の案内板が立っている。
熊野かいどう 
 その先にある日本郵便のビルがある手前から左折しなければいけなかったのに、うっかり通り過ぎて松屋町筋まで行ってしまった。間違いに気がつき、一筋戻って日本郵便のビルの手前から左折する。歩き始めて早々、やってしまった。

 左手に「坐摩神社」がある。
坐摩神社
 ここは第一王子の「窪津王子」を祀っているところだが、門扉が閉まっていて中へ入れないので、その隙間から写真を撮る。王子社とは大坂から熊野三山へいたる、熊野街道沿いに設けられた熊野権現の末社で、九十九王子社あり、熊野詣の人々はここで旅の疲れを取り、身を清めて遠く熊野を遥拝したという。江戸時代中期以降、熊野詣の衰退に伴なって王子社はさびれていき、社殿も失われてしまったところが多いという。
 ここから直進し、阪神高速13号東大坂線に突き当たるので、これを迂回して進むと、左手に南大江公園がある。狸坂大明神があるが、ここが「朝日神明社跡」で天慶年間(938~947)に平貞盛が創建したと言われており、「坂口王子」の伝承地でもある。
朝日神明社
次の四つ角を左折するが、「熊野古道」「大坂天満八軒家から1.7KM」と刻まれた道標が立っている。
 谷町6の信号がある交差点を渡った一つ先の角を右折、長堀通を横断するが、ここにも道標が立っている。その先突き当たりを左折、すぐ先を右折して進むが、このあたりにも先ほどと同じ道標が100mおきに立っている。左手に上町中学があるところから街道を外れて右折、谷町筋に出て左折して、左手少し入ったところに「近松門左衛門」の墓がある。この地には昔、法妙寺があってその境内に墓があったのだが、お寺が市外に移転したため、この地に墓を移転、改修したと説明されている。
近松門左衛門
 街道に戻って進むが、このあたりにも先ほどの道標が100mおきに設置されている。立派な道標だし、これがあると歩くうえで助かるのだが、100mおきだと、道が二股に分かれているところなど判断に迷う肝心なところに道標がないという状態だった。
100mおきだと
 右手に天王寺署があるところから右折、谷町筋に接したところから左斜めへ伸びる旧道を進む。
 左手に「四天王寺」がある。ここは聖徳太子によって推古天皇元年(593)に創建された日本最初の官寺で、中心伽藍は四天王寺様式と呼ばれる。創建以来何度も戦火にあっており、永仁2年(1294)にはそれまでの木造のものが石造に改められたという。現在のものは第二次大戦後に再建されたもので、お寺なのに鳥居があるが、この鳥居は重要文化財に指定されている。奥に見えるのが極楽門だ。
極楽門
 境内に入ると「聖徳太子影向引導石」がある。これは四天王寺四石(転法石、伊勢神宮遥拝石、熊野権現礼拝石、引導石)の一つで、葬送等の際にこの引導石に詣でることで、太子の引導を受けることができると説明されている。
聖徳太子影向引導石
 「仁王門」があるが、その後ろに五重塔が聳えており、その二つが一体となっていて見ごたえのある風景になっている。
仁王門
 「熊野権現礼拝石」がある。住吉から熊野詣をする時には、まずこの場所から遥かの熊野権現を礼拝し道中の安全を祈ってから熊野古道を旅したという。
熊野権現礼拝石
 「南大門」がある。ここは中心伽藍の前方にある門で、ここから中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並んでいる。
南大門
 四天王寺を出て25号線を横断して進むと、右手に「超願寺」がある。ここには江戸時代の浄瑠璃太夫「竹本義太夫」の墓がある。
竹本義太夫
 その先右手に「庚申堂」がある。ここは以前は四天王寺の末寺だったが、今は独立して『総本山四天王寺庚申堂』と称しており、日本最初の庚申尊出現の地と説明されている。
庚申堂
 その先右手に「清水の井戸」と「清水地蔵尊」がある。この井戸は天明9年(1789)の「摂津大坂地図」に記載されており、また地蔵尊の建立年は不明だが、明治32年と明治43年の地蔵尊改築記念碑が立っている。
清水の井戸
 ここから左折し、三股に分かれている道を右へ進む。角に道標が立っている。
角に道標
 「おはぐろ地蔵尊」があり、その横を通って進む。
おはぐろ地蔵尊
 その先、左手に安政4年(1857)の「法界」と刻まれた石仏が立っている。
法界
 その先で道は天王寺駅に阻まれて進むことが出来ないため右折してあべの筋に出てこれを進み、松虫の信号からあべの筋から分岐して右斜めへ進む。
 左手に「安倍晴明生神社」がある。ここは天文博士安倍晴明を祀る神社で、晴明没後2年の寛弘4年(1004)に創建されたという。境内には晴明公産湯井の跡や鎮石(孕み石)などがある。
安倍晴明生神社
 その先左手に「阿倍王子神社」がある。ここは仁徳天皇の創建と伝えられ、また一説では往古この地を本拠とした阿倍氏の創建とも伝えられているということだ。九十九王子の第二王子社として熊野詣の際の礼拝、休息などの用に充てられたという。
阿倍王子神社
 ここには熊野本営大社、速玉大社、那智大社という三熊野権現のお使いという「願掛け御烏尊像」がある。
願掛け御烏尊像
 阪堺電軌上町線に沿って進むが、喫茶店があったのでそこに入って昼食のカレーを食べる。このあたりには店がなかったので、とりあえずカレーを食べたのだが満腹には程遠い。その先に食堂が何軒かあったので、もう少しガマンすればよかったと思った。飢餓状態に弱い私にとって昼食は重要な要素なのだ。
 姫松の信号の先から左斜めへ進み、その先の道が二股に分かれているところから右折して再び電車道にでる。帝塚山5の踏切で南海電鉄の線路を横断、その先の二股に分かれているところを右へ進む。
 右手に「宝泉寺」がある。ここは天元5年(982)に恵心僧都によって開基されたお寺で、本尊一光十三佛は恵心僧都42歳の厄除けのため自ら刻まれた仏像ということだ。往時は念仏坊と称していたが元亀2年(1571)宝泉上人が再興して宝泉寺と改称されたという。
宝泉寺
 その先の二股に分かれているところを左へ直進するが、ここにも案内板が立っている。熊野古道は案内板が随所に立っていて歩きやすい。左手に池田屋という旧い味噌屋があり、ここから右折して進むと、「住吉大社」がある。ここは仲哀天皇9年(200年)、神功皇后が三韓征伐から七道の浜に帰還した時、摂津国住吉郡の豪族田裳見宿禰が住吉三神を祀ったのに始まる式内社で旧官幣大社である。
住吉大社
 ここには石大鳥居があるが、これは豊臣秀頼が建立した東大鳥居で、解体されていたが再建されたという。
東大鳥居
 右手に大きな常夜燈が立っており、その先の四つ角を右折する。左手に墨江小学校があるが、ここは延喜元年(901)に創建されたという津守寺があったところという。
 右手に「極楽寺 毘沙門天王」がある。ここに安置されている毘沙門天王は聖徳太子の作と説明されている。
極楽寺 毘沙門天王
 「右 八尾街道」「左 阿倍野街道」と刻まれている道標が立っているところを進み、大和川に架かる遠里小野橋を渡って進むが、このあたり阪神高速の工事が行われていて旧道を歩くことが出来ないのでグルッと廻りこむように迂回して進み、その先で旧道に合流する。 左手に浅香山駅があるところから左折、南海電鉄の浅香山1踏切を渡り、その先で右折して進む。
 いい匂いがしてきた。たこ焼きだ。満腹には程遠い状態だったので、ここでたこ焼きを買って食べたが熱くておいしかった。大分腹も満たされたので先を急ぐ。
 左手に大坂少年鑑別所の高い壁があるところの横の信号から右折して進むと、突き当たりに「境王子跡」があり、ここを左折する。
境王子跡
 12号線を横断したところに「方違神社」がある。ここは10代崇神天皇8年(紀元前90年)の勅願により創建されたという古い神社で、このあたりは摂津、河内、和泉の三国の境にあたるので、中立で方角のない聖地と考えられ、古来より方災除けの神とされている。奈良時代には行基が布施屋を設け、旅人の休憩所になるなど人馬往来の中心となり、平安時代には熊野詣の通過地点となっていたため、人々の旅の安全を祈ったといわれている。
方違神社
方違神社の前を左折、すぐ横を右折して進むと、右手に「反正天皇陵」がある。
反正天皇陵
 陵に沿って進み、陵の終わりから右折、紅谷庵の手前から左折して進むと、三国丘高校に突き当たるので、ここを左折、すぐ先を右折して進む。このあたり「竹内街道」の道標が立っている。いずれ歩いてみたい街道だ。向陵西町の信号を渡って右折して進むと、左手に「仁徳天皇陵」があるので、これに沿って進んでいく。左手に「たいせん聴覚高等支援学校」があり、その校庭に沿って左折して道なりに進んでいくと、天皇陵の端にある197号線に出る。街道はここから右折して進むのだが、左折して天皇陵の正面まで行ってみることにした。ここの墳丘の全長は480mもある広大な敷地で、5世紀頃の築造とされるわが国最大の前方後円墳だ。
仁徳天皇陵
 街道に戻って197号線を進んでいき、山之口橋の信号から左折、26号線を歩道橋で渡って下りたところに「一里山地蔵」があり、道が二股に分かれているので左斜へ進む。
一里山地蔵
 26号線のガード下まで来たところ左手に「石津神社」がある。ここは孝昭天皇7年(紀元前469)に創建された延喜式に記載されている古い神社で、日本最古の戎神社とされている。
石津神社
 戎橋を渡り、神石市之町の信号から右斜へ進むと、左手に「大鳥大社」がある。ここは日本武尊が伊勢国で死亡したので、遺体をその地に埋葬したが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、この地に舞い降りたので社を建てた。これが大鳥大社の始まりとされているという。和泉国一の宮であり、境内には平清盛が熊野詣の途中、都で兵乱があるとの急報を聞いて都へ帰るとき、大鳥大社を参拝して戦勝を祈願した際に詠んだという「かひこぞよかへりはてなび飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神」という歌碑が境内に立っている。
大鳥大社
 鳳北一の踏切でJRの線路を横断、鳳大通り商店街のアーケードの中を進む。上の信号で道は二股に分かれているので、右へ進み、富木の信号の一つ先の信号から左斜めへ進む。その先、グリーンセンター前の信号の一つ先の信号で道は二股に分かれているので、ここは右へ進む。この頃になると日が沈んで周囲は暗くなる。今日はスタート時間と距離から考えて、おそらく日没前には歩き終わらないだろうと予想していたのだが、まさにそのとおりになってしまった。
 聖神社の一の鳥居がある。聖神社本殿は慶長9年(1604)に建立された国指定重要文化財ということだが、もう真っ暗になっているので立ち寄らずに先を急ぐ。このあたりに「篠田王子跡」があるはずだが、分からない。犬を連れて散歩をしている方がおられたのでお聞きしたが、わからないということだったので、やむを得ず先を急ぐ。
 右手に八坂神社があり、その先やはり右手に「小池之地蔵尊」がある。
小池之地蔵尊
 更にその先に「平松王子跡」の石碑が立っていた。もう分からないだろうと思っていたので、これを見た時は嬉しかった。
平松王子跡
 周囲は真っ暗になっているが、幸い道は直進しているので、間違うことなく歩くことが出来た。これが山の中だったり、入り組んだ道だったらかなり大変だっただろうと思う。
今夜の宿は夕食は出来ないということだったので、18時20分、途中で店を見つけて夕食を食べて宿に入る。

 本日の歩行時間   9時間5分。
 本日の歩数&距離 56199歩、36.3km。


 

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