2010年10月23日(土)
亀岡~老ノ坂峠~樫原~京都丹波口
晴れ
7時30分にホテルを出発し、山陰道に合流する。昨日歩いてきた道からいうと、左折して進む。
左手に「本町辻子」の説明板が立っている。それによると本町通りの裏に「ブレ」という道があり、その道に沿って法華寺、寿仙院、本門寺と五つの祠堂が立ち並んでいると書かれている。
この説明板の奥に「本門寺」がある。ここは正和年間(1312~1317)に京都二条柳馬場に創建されたが、応仁の乱で焼失したため、明応2年(1493)に丹波国桑田郡山内郷に移転再建された。更に慶長5年(1600)に亀山城下の現在地に移転されたという。門前に享保3年(1718)の題目石が立っている。
その横に「壽仙院」がある。ここは元亀3年(1572)に創建されたということだが、詳細は不明とのこと。天正20年(1592)小早川秀秋が息子の一存の菩提を弔うため米二石を寄進した五ヶ寺の一つとして、寺名を壽仙院と改称され、更に福知山城主前田玄以の時に現在地に移されたということだ。境内には元福知山城主小野木公知の墓がある。
更にその横に「法華寺」がある。ここは寛政5年(1464)に創建されたもので、亀山城主小早川秀秋の保護を受けて現在地に移転したという。本堂は宝永6年(1709)に建造されたもので、城下の寺院本堂の中では最も古いということだ。境内には元禄10年(1697)の題目石が立っている。
街道に戻って突き当たりを右折、新町の説明板が立っている。新町は亀山城の大手門に通じる道に沿って形成されたため、高札場が設けられていたという。
次の角を左折して進むが、このあたりは枡形になっている。左手に亀岡病院があるが、ここが本陣があったところのようだ。
丹波亀山城古世門跡の説明板が立っている。それによると城下の南方面への出入り口として古世門があったという。
「古世地蔵堂」がある。平安末期の武将源頼政の守り本尊と伝えられる「矢の根地蔵」が安置されている。
その先で左折して進む。
右手に「祇園社」がある。京都の八坂神社の御分霊を勧請したものだが、由来は不詳とのことだ。
今日から始まる祭りの鉾を組み立てていて、かなりの方が集まっていたので、これから越える老ノ坂峠のことをお聞きした。
京都府の山陰道には用野峠と観音峠、そしてこれから越えようと思っている老ノ坂峠の三つの峠があり、そのうちの二つは越えることが出来なかったので、最後の老ノ坂峠は越えることが出来るかどうかの情報が欲しかったのだ。しかし残念ながら知っている人は誰もおらず、最近では越える人はいないということだった。右手に文久3年(1863)の愛宕山常夜燈が立っている。
年谷川に架かる年谷橋を渡って進むと、右手に「念仏寺」がある。天正14年(1586)に創建され、寺内の釈迦堂に安置される仏像は室町時代の作という。
西川に架かる西川橋を渡ると、左手に「道路元標」が立っている。正面には海抜106mと刻まれ、側面に「北緯」と「東経」が刻まれているが、このような数字が刻まれている道路元標は珍しい。
右手に宝暦の文字が読める愛宕山常夜燈が立っており、左手に「篠村八幡宮」がある。ここは延久3年(1071)源頼義によって創建されたもので、頼義から10代末裔の足利尊氏が元弘3年(1333)にこの地で挙兵し、六波羅探題を滅ぼして建武中興のきっかけをつかんだ。その後、建武3年(1336)に一旦占拠した京都攻防戦に敗れ、この地で敗残の兵を集めて九州へ逃れたが、その後僅か一ヶ月で九州を平定し、湊川の合戦で決定的な勝利を得て、室町幕府開幕のきっかけをつかんだのだ。なぜかスーツ姿の人が大勢集まっており、どうしたのかと思って聞いてみると、今日は足利尊氏のお祭りをする日で、尊氏の子孫もこられており、尊氏ゆかりの寺社関係者や自治体、観光協会の方々が集まっているということだった。
右手に「王子神社」があるところから、左へ下る道があり、これを進む。王子神社には寛延3年(1750)後水尾院勅願の天神様を祀る境内社天満宮がある。
分岐した先に「船着場跡」等の案内板が立っており、それにしたがって進んでいく。 左手に「三軒屋」と書かれた案内板が立っており、
その先左手に「占い石」がある。往時山陰道を行き交う旅人は、この石に座る辻占い師に旅の吉凶を問うたと説明されている。
道は山の中へ入って行き、その先で9号線に合流する。
9号線を進み、その先で右へ分岐して京都縦貫自動車道のガード下を通って進んで、坂を上って行く。静かな竹林の中を歩いていくと右手に「京都の自然二百選 老ノ坂峠(山陰道)」と書かれた標識と愛宕山常夜燈が立っていた。
更にその先右手に「従是東山城国」と刻まれた国境石が立っている。いよいよ京都に入るのだ。
そのすぐ先に「首塚大明神」と刻まれた石柱が立っており、その上に首塚があった。平安初期、酒呑童子が悪行の限りを尽くしたので、天子は源頼光ら四天王に命じてこれを征伐させた。四天王はここまでその首をもって帰ってきて、この地で休憩をした。
そのとき、道端の子安地蔵尊が、鬼の首のような不浄なものを天子様がおられる都へ持っていくことはまかりならんといったという。それにかまわず坂田の金時が首を持ち上げようとしたがどうしても持ち上げることが出来なかったので、この地に首を埋めて首塚を作ったという。
ここまでは舗装された道が続いていたので、問題なく来ることができたが、これからだ。果たして峠を越える道があるのか。首塚の横に道がついているので、これを登っていく。雨が降ったときにここは水の流れる道になっている感じだ。道を登って行くと、間もなく上に西部クリーンセンターの車両が通行する道路が横断してあり、道はその下をくぐる形で続いている。ガード下を通るとその先で道は下り坂になっている。峠を越えたのだ。意外にあっさりと越えたという感じだった。
「洛西散策の森」の表示板が立っており、道を下っていくと土嚢が一列に置かれているので、それを伝って下っていく。だれがこの土嚢を置いたのか分からなかったが、道がはっきり分かって助かった。しかしこれだけの数の土嚢を置く作業は大変だっただろうと思う。そのまま土嚢の道を伝って下っていくと、やがて舗装された道が見えた。峠を越えたのだ。思わず「やった!」と声に出してしまった。用野峠も観音峠も越えることが出来なかったため、最後の老ノ坂峠は何とか越えたいと思っていたので、無事越えることが出来てうれしかった!結局首塚から先、峠を越える所要時間はわずか13分ほどだった。
「
舗装された坂を下っていくと、右手に京都霊園が広がっている。その先で9号線に合流、すぐ先で9号線から分岐して左斜めへ進む142号線を歩く。
左手に「桓武天皇御母御陵参道」の石柱が立っているので、ここから階段を上って行く。御陵には「高野新笠大枝陵」と刻まれた石柱が立っていた。
その先、左手に「大枝神社」がある。ここは康保4年(967)施行の延喜式に「乙訓郡大井神社」と記載されており、この地の先住民である大枝氏の祭祀神といわれている。しかしはじめは聖徳太子の幼児の像が祀られていたことから千児(ちご)明神と称していたという。境内には享保8年(1723)の石灯籠や享保16年(1731)の鳥居が立っている。
電柱に「山陰街道沓掛」の標識が架かっている道を進んでいくと、左手に「児子神社」がある。ここは聖徳太子の児子が祀られていることからこの名がついていると説明されている。その前にあった大枝神社と関係があるのだろうか?
左手に藁葺き屋根の家があり、ここから左へ進む。
右手に大枝小学校がある。下狩川に架かる下狩橋を渡って進むと、左手に「三ノ宮神社」がある。ここには享保10年(1725)の石灯籠が立っていた。
この神社の奥に「淳和天皇御母陵」がある。ここも桓武天皇御母陵と同じような形で、ここには「贈皇太后宇波多陵」と刻まれた石柱が立っていた。
その先で道は二股に分かれているところがあり、左へ進まなければならなかったのだが、間違って右へ進んでしまった。
そのまま歩いていくと9号線に合流してしまって道を間違ったことに気がつき、ここまで戻って改めて左へ進む。
ここから暫くは竹やぶの中の道を通って進むが、なかなかいい雰囲気の道だった。
樫原秤谷の信号で9号線に合流するが、この先で旧道が分かりにくかった。合流したところにガソリンスタンドがあり、その前を左折、すぐ先の「五条烏丸から8km」という道路標識が立っている少し先から塀に沿って右折する、道とはいえないような塀際を進んで142号線に一旦出る。そこから左折すると、その先左手に「樫原札の辻 三士殉難の地」の説明板が立っている。それによると、樫原の地は江戸時代は交通の要衝として本陣や旅宿が設けられていたという。元治元年(1864)の蛤御門の変で長州勢に属していた三名の兵士がここまで逃れてきたが、警備していた小浜藩兵によって討たれてしまった。遺体はそのまま放置されていたが、村人によってこの丘の中腹に葬られ、墓標が立てられたという。ここから丘を上る道があったが、うっかり舗装道を進んでしまった。その先で左から合流している道があることに気がついて、その道を辿って戻ってみると、先ほどの丘を上る道に出たので、道を間違ったことに気がついた。
その先、街道を歩いていくと、左手に「樫原宿場街と札場」という説明板が立っており、それには樫原は山陰街道の京都よりの最初の宿場だったということが書かれている。
地蔵尊を安置した地蔵堂があり、「左 松尾 嵐山道」と刻まれた道標、更に天保14年(1843)の愛宕山常夜燈が立っていた。
その先、左手に「樫原宿本陣跡」が残っている。ここは享保4年(1719)に当地の豪族廣田庄兵衛門永張が京都所司代板倉氏から依頼されて経営に従事したことから「頼まれ本陣」といわれており、安政2年(1855)に足利直系の玉村新太郎が継承し、今日まで五代大切に維持されていると説明されている。
右手に「龍淵寺」があり、そこに「辻の地蔵さん」が安置されている。明智光秀によって丹波国が平定され、秦之秀治は滅亡したが、その部下であった雲林院式部承高任は樫原まで逃げ延びてきて、名を太郎左衛門入道と改めて仏門に入り、信仰していた地蔵尊を小さな堂宇を立てて安置して祀り、百八歳の長寿を全うしたという。
右手に年貢米等を収納していたという「郷倉」が残っている。
左手には「勤皇家殉難之地」と刻まれた石柱が立っている。
川岡踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に本願寺西山別院が建っている。
突き当たりに年不詳の愛宕山常夜燈が立っており、その先に道標がある。それには「右 西山御坊 よし峯 大原の 岩くら」「左 むかふ町 あわふ ながをか やなぎ谷」と刻まれている。
ここで左折、すぐ先を右折して142号線に合流する。
左手に「地蔵寺」がある。ここの本堂に安置される地蔵菩薩(桂地蔵)は平安時代の初期に小野篁が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵菩薩に出会って蘇った後、一本の大木から作った六体の地蔵菩薩の一つといわれている。
桂川に架かる桂大橋の袂に弘化3年(1846)の大きな常夜燈が立っており、左手は桂離宮だ。
ここで学生時代の友人に電話をすると、すぐに出てきてくれ、橋の袂にある中村軒という和菓子屋で抹茶と和菓子をご馳走になった。この店は有名な店で観光シーズンには行列ができるほどだということだった。
友人と別れて橋を渡り、次の信号を左折して進むと、天保6年(1835)の愛宕山常夜燈が立っている。
愛宕信仰は、京都市右京区の愛宕山山頂にある愛宕神社から発祥した神道の信仰ということだが、確かに京都に入ると各所に常夜燈が立っている。 天神川に架かる七条橋を渡って進むと、左手に地蔵堂があり、その先の二股を左へ進む。以降七条通りに沿って進んでいく。
右手に「六条判官」といわれた清和源氏の棟梁であった源為義の塚がある。為義は保元の乱で崇徳上皇方について敗れ、勝った後白河天皇方についた為義の長男である源義朝の家臣に朱雀野で処刑された人物だ。
その先のJR山陰線のガード下まで来たところで、山陰道の終点とした。終点は丹波口なのだが、現在では遺構が全く残っていないため、ここで山陰道の終点とした。
15時47分に山陰道を歩き終える。アクセスが悪い中、小刻みに分割をして歩いたので、とても長く感じた街道でした。
でも、その分、「無事に歩き終えた」という気持は強いです。
これで山陽道、山陰道共に踏破したことで、中国地方は終了。次の場所へと向かう予定です。
本日の歩行時間 8時間17分。
本日の歩数&距離 34944歩、24km。
山陰道 (京都府)総合計
総歩行時間 40時間14分。
総歩数 187398歩。
総歩行距離 126km。
山陰道(島根県)純距離 116.8km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
山陰道全体(小郡~京都府)総合計
総歩行時間 197時間37分。
総歩数 1025547歩。
総歩行距離 709.6km。
山陰道全体純距離 647.5km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
7時30分にホテルを出発し、山陰道に合流する。昨日歩いてきた道からいうと、左折して進む。
左手に「本町辻子」の説明板が立っている。それによると本町通りの裏に「ブレ」という道があり、その道に沿って法華寺、寿仙院、本門寺と五つの祠堂が立ち並んでいると書かれている。
この説明板の奥に「本門寺」がある。ここは正和年間(1312~1317)に京都二条柳馬場に創建されたが、応仁の乱で焼失したため、明応2年(1493)に丹波国桑田郡山内郷に移転再建された。更に慶長5年(1600)に亀山城下の現在地に移転されたという。門前に享保3年(1718)の題目石が立っている。
その横に「壽仙院」がある。ここは元亀3年(1572)に創建されたということだが、詳細は不明とのこと。天正20年(1592)小早川秀秋が息子の一存の菩提を弔うため米二石を寄進した五ヶ寺の一つとして、寺名を壽仙院と改称され、更に福知山城主前田玄以の時に現在地に移されたということだ。境内には元福知山城主小野木公知の墓がある。
更にその横に「法華寺」がある。ここは寛政5年(1464)に創建されたもので、亀山城主小早川秀秋の保護を受けて現在地に移転したという。本堂は宝永6年(1709)に建造されたもので、城下の寺院本堂の中では最も古いということだ。境内には元禄10年(1697)の題目石が立っている。
街道に戻って突き当たりを右折、新町の説明板が立っている。新町は亀山城の大手門に通じる道に沿って形成されたため、高札場が設けられていたという。
次の角を左折して進むが、このあたりは枡形になっている。左手に亀岡病院があるが、ここが本陣があったところのようだ。
丹波亀山城古世門跡の説明板が立っている。それによると城下の南方面への出入り口として古世門があったという。
「古世地蔵堂」がある。平安末期の武将源頼政の守り本尊と伝えられる「矢の根地蔵」が安置されている。
その先で左折して進む。
右手に「祇園社」がある。京都の八坂神社の御分霊を勧請したものだが、由来は不詳とのことだ。
今日から始まる祭りの鉾を組み立てていて、かなりの方が集まっていたので、これから越える老ノ坂峠のことをお聞きした。
京都府の山陰道には用野峠と観音峠、そしてこれから越えようと思っている老ノ坂峠の三つの峠があり、そのうちの二つは越えることが出来なかったので、最後の老ノ坂峠は越えることが出来るかどうかの情報が欲しかったのだ。しかし残念ながら知っている人は誰もおらず、最近では越える人はいないということだった。右手に文久3年(1863)の愛宕山常夜燈が立っている。
年谷川に架かる年谷橋を渡って進むと、右手に「念仏寺」がある。天正14年(1586)に創建され、寺内の釈迦堂に安置される仏像は室町時代の作という。
西川に架かる西川橋を渡ると、左手に「道路元標」が立っている。正面には海抜106mと刻まれ、側面に「北緯」と「東経」が刻まれているが、このような数字が刻まれている道路元標は珍しい。
右手に宝暦の文字が読める愛宕山常夜燈が立っており、左手に「篠村八幡宮」がある。ここは延久3年(1071)源頼義によって創建されたもので、頼義から10代末裔の足利尊氏が元弘3年(1333)にこの地で挙兵し、六波羅探題を滅ぼして建武中興のきっかけをつかんだ。その後、建武3年(1336)に一旦占拠した京都攻防戦に敗れ、この地で敗残の兵を集めて九州へ逃れたが、その後僅か一ヶ月で九州を平定し、湊川の合戦で決定的な勝利を得て、室町幕府開幕のきっかけをつかんだのだ。なぜかスーツ姿の人が大勢集まっており、どうしたのかと思って聞いてみると、今日は足利尊氏のお祭りをする日で、尊氏の子孫もこられており、尊氏ゆかりの寺社関係者や自治体、観光協会の方々が集まっているということだった。
右手に「王子神社」があるところから、左へ下る道があり、これを進む。王子神社には寛延3年(1750)後水尾院勅願の天神様を祀る境内社天満宮がある。
分岐した先に「船着場跡」等の案内板が立っており、それにしたがって進んでいく。 左手に「三軒屋」と書かれた案内板が立っており、
その先左手に「占い石」がある。往時山陰道を行き交う旅人は、この石に座る辻占い師に旅の吉凶を問うたと説明されている。
道は山の中へ入って行き、その先で9号線に合流する。
9号線を進み、その先で右へ分岐して京都縦貫自動車道のガード下を通って進んで、坂を上って行く。静かな竹林の中を歩いていくと右手に「京都の自然二百選 老ノ坂峠(山陰道)」と書かれた標識と愛宕山常夜燈が立っていた。
更にその先右手に「従是東山城国」と刻まれた国境石が立っている。いよいよ京都に入るのだ。
そのすぐ先に「首塚大明神」と刻まれた石柱が立っており、その上に首塚があった。平安初期、酒呑童子が悪行の限りを尽くしたので、天子は源頼光ら四天王に命じてこれを征伐させた。四天王はここまでその首をもって帰ってきて、この地で休憩をした。
そのとき、道端の子安地蔵尊が、鬼の首のような不浄なものを天子様がおられる都へ持っていくことはまかりならんといったという。それにかまわず坂田の金時が首を持ち上げようとしたがどうしても持ち上げることが出来なかったので、この地に首を埋めて首塚を作ったという。
ここまでは舗装された道が続いていたので、問題なく来ることができたが、これからだ。果たして峠を越える道があるのか。首塚の横に道がついているので、これを登っていく。雨が降ったときにここは水の流れる道になっている感じだ。道を登って行くと、間もなく上に西部クリーンセンターの車両が通行する道路が横断してあり、道はその下をくぐる形で続いている。ガード下を通るとその先で道は下り坂になっている。峠を越えたのだ。意外にあっさりと越えたという感じだった。
「洛西散策の森」の表示板が立っており、道を下っていくと土嚢が一列に置かれているので、それを伝って下っていく。だれがこの土嚢を置いたのか分からなかったが、道がはっきり分かって助かった。しかしこれだけの数の土嚢を置く作業は大変だっただろうと思う。そのまま土嚢の道を伝って下っていくと、やがて舗装された道が見えた。峠を越えたのだ。思わず「やった!」と声に出してしまった。用野峠も観音峠も越えることが出来なかったため、最後の老ノ坂峠は何とか越えたいと思っていたので、無事越えることが出来てうれしかった!結局首塚から先、峠を越える所要時間はわずか13分ほどだった。
「
舗装された坂を下っていくと、右手に京都霊園が広がっている。その先で9号線に合流、すぐ先で9号線から分岐して左斜めへ進む142号線を歩く。
左手に「桓武天皇御母御陵参道」の石柱が立っているので、ここから階段を上って行く。御陵には「高野新笠大枝陵」と刻まれた石柱が立っていた。
その先、左手に「大枝神社」がある。ここは康保4年(967)施行の延喜式に「乙訓郡大井神社」と記載されており、この地の先住民である大枝氏の祭祀神といわれている。しかしはじめは聖徳太子の幼児の像が祀られていたことから千児(ちご)明神と称していたという。境内には享保8年(1723)の石灯籠や享保16年(1731)の鳥居が立っている。
電柱に「山陰街道沓掛」の標識が架かっている道を進んでいくと、左手に「児子神社」がある。ここは聖徳太子の児子が祀られていることからこの名がついていると説明されている。その前にあった大枝神社と関係があるのだろうか?
左手に藁葺き屋根の家があり、ここから左へ進む。
右手に大枝小学校がある。下狩川に架かる下狩橋を渡って進むと、左手に「三ノ宮神社」がある。ここには享保10年(1725)の石灯籠が立っていた。
この神社の奥に「淳和天皇御母陵」がある。ここも桓武天皇御母陵と同じような形で、ここには「贈皇太后宇波多陵」と刻まれた石柱が立っていた。
その先で道は二股に分かれているところがあり、左へ進まなければならなかったのだが、間違って右へ進んでしまった。
そのまま歩いていくと9号線に合流してしまって道を間違ったことに気がつき、ここまで戻って改めて左へ進む。
ここから暫くは竹やぶの中の道を通って進むが、なかなかいい雰囲気の道だった。
樫原秤谷の信号で9号線に合流するが、この先で旧道が分かりにくかった。合流したところにガソリンスタンドがあり、その前を左折、すぐ先の「五条烏丸から8km」という道路標識が立っている少し先から塀に沿って右折する、道とはいえないような塀際を進んで142号線に一旦出る。そこから左折すると、その先左手に「樫原札の辻 三士殉難の地」の説明板が立っている。それによると、樫原の地は江戸時代は交通の要衝として本陣や旅宿が設けられていたという。元治元年(1864)の蛤御門の変で長州勢に属していた三名の兵士がここまで逃れてきたが、警備していた小浜藩兵によって討たれてしまった。遺体はそのまま放置されていたが、村人によってこの丘の中腹に葬られ、墓標が立てられたという。ここから丘を上る道があったが、うっかり舗装道を進んでしまった。その先で左から合流している道があることに気がついて、その道を辿って戻ってみると、先ほどの丘を上る道に出たので、道を間違ったことに気がついた。
その先、街道を歩いていくと、左手に「樫原宿場街と札場」という説明板が立っており、それには樫原は山陰街道の京都よりの最初の宿場だったということが書かれている。
地蔵尊を安置した地蔵堂があり、「左 松尾 嵐山道」と刻まれた道標、更に天保14年(1843)の愛宕山常夜燈が立っていた。
その先、左手に「樫原宿本陣跡」が残っている。ここは享保4年(1719)に当地の豪族廣田庄兵衛門永張が京都所司代板倉氏から依頼されて経営に従事したことから「頼まれ本陣」といわれており、安政2年(1855)に足利直系の玉村新太郎が継承し、今日まで五代大切に維持されていると説明されている。
右手に「龍淵寺」があり、そこに「辻の地蔵さん」が安置されている。明智光秀によって丹波国が平定され、秦之秀治は滅亡したが、その部下であった雲林院式部承高任は樫原まで逃げ延びてきて、名を太郎左衛門入道と改めて仏門に入り、信仰していた地蔵尊を小さな堂宇を立てて安置して祀り、百八歳の長寿を全うしたという。
右手に年貢米等を収納していたという「郷倉」が残っている。
左手には「勤皇家殉難之地」と刻まれた石柱が立っている。
川岡踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に本願寺西山別院が建っている。
突き当たりに年不詳の愛宕山常夜燈が立っており、その先に道標がある。それには「右 西山御坊 よし峯 大原の 岩くら」「左 むかふ町 あわふ ながをか やなぎ谷」と刻まれている。
ここで左折、すぐ先を右折して142号線に合流する。
左手に「地蔵寺」がある。ここの本堂に安置される地蔵菩薩(桂地蔵)は平安時代の初期に小野篁が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵菩薩に出会って蘇った後、一本の大木から作った六体の地蔵菩薩の一つといわれている。
桂川に架かる桂大橋の袂に弘化3年(1846)の大きな常夜燈が立っており、左手は桂離宮だ。
ここで学生時代の友人に電話をすると、すぐに出てきてくれ、橋の袂にある中村軒という和菓子屋で抹茶と和菓子をご馳走になった。この店は有名な店で観光シーズンには行列ができるほどだということだった。
友人と別れて橋を渡り、次の信号を左折して進むと、天保6年(1835)の愛宕山常夜燈が立っている。
愛宕信仰は、京都市右京区の愛宕山山頂にある愛宕神社から発祥した神道の信仰ということだが、確かに京都に入ると各所に常夜燈が立っている。 天神川に架かる七条橋を渡って進むと、左手に地蔵堂があり、その先の二股を左へ進む。以降七条通りに沿って進んでいく。
右手に「六条判官」といわれた清和源氏の棟梁であった源為義の塚がある。為義は保元の乱で崇徳上皇方について敗れ、勝った後白河天皇方についた為義の長男である源義朝の家臣に朱雀野で処刑された人物だ。
その先のJR山陰線のガード下まで来たところで、山陰道の終点とした。終点は丹波口なのだが、現在では遺構が全く残っていないため、ここで山陰道の終点とした。
15時47分に山陰道を歩き終える。アクセスが悪い中、小刻みに分割をして歩いたので、とても長く感じた街道でした。
でも、その分、「無事に歩き終えた」という気持は強いです。
これで山陽道、山陰道共に踏破したことで、中国地方は終了。次の場所へと向かう予定です。
本日の歩行時間 8時間17分。
本日の歩数&距離 34944歩、24km。
山陰道 (京都府)総合計
総歩行時間 40時間14分。
総歩数 187398歩。
総歩行距離 126km。
山陰道(島根県)純距離 116.8km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
山陰道全体(小郡~京都府)総合計
総歩行時間 197時間37分。
総歩数 1025547歩。
総歩行距離 709.6km。
山陰道全体純距離 647.5km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
旅の地図
記録
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2010年10月08日(金)
-
2010年10月20日(水)
-
2010年10月21日(木)
-
2010年10月22日(金)
-
2010年10月23日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん