2010年05月29日(土)
宝木~湖山~鳥取城~鳥取砂丘~福部岩戸
曇後晴れ
7時33分に宝木駅に着き、昨日歩いた街道の場所まで戻って歩きはじめる。宝木の集落を抜けると道は坂を上って山の中へ入って行く。舗装された道だが、人も車も通らない静かな道だ。
左手墓地の中に「大乗妙典六十六部日本廻国供養塔」と題目石が立っている。供養塔には慶応という年号が刻まれているようだったが、よく読み取れなかった。
右手に水尻湖があり、その淵を進んでいき、最深部を回って少し行ったところから左折して9号線に合流する。鳥取市も教育委員会の方に資料をチェックしていただいたが、てきぱきと且つ丁寧に対応していただいて有り難かった。
左手に海が広がっているが、このあたりが白兎海岸で、稲羽の白兎の神話で有名なところだ。
兎が洪水のとき、竹の切り株に乗って淤岐島に流された。兎は陸へ帰りたいばっかりに近海のワニザメをだまして陸へ戻ったので、ワニザメは怒って兎の皮をはぎ、赤裸にしてしまった。兎が泣いていると、そこへ稲羽(因幡)の八上姫を娶らんものと出雲国から大勢の神様が通りかかった。意地悪な八十神(大国主命の兄)は「海水で身体を洗い、高尾山で風に吹かれながら寝ているように」と教え、兎はそのとおりにすると前より痛みが増してしまった。あとからきたやさしい大国主命は「水門(不増不減池)の真水で海水の塩を洗い流して身千山でガマの穂にくるまっているように」と教え、そのとおりにするともとのきれいな白兎に戻ったという神話だ。ここは波が高く土曜日ということもあってか、かなりの数のサーファーが出ていた。
右手に「白兎神社」がある。ここは古事記や日本書紀にも記されている神社で、境内にはいかなる干天、豪雨にも水の増減がないという「不増不減の池」がある。この池で皮をむかれて赤裸になった白兎が身体を洗ったという池だ。このことから日本医療の発祥の地とし、古来病気傷痍に霊験あらたかな神社とされているということだ。ここには常緑のタブ、シイノキ等の低木が数多く育っているが、これは北西方向の黒松が冬季の寒風を遮ったために生育したもので、日本海岸地方の原始林景を今に残している重要なもので、国指定天然記念物になっている。
神社の前から9号線に併行して旧道が通っているので、これを歩いていく。内海川に架かる白兎橋を渡った右手に墓地があり、その横に「六地蔵」がある。
その先、左手に「ハマナス自生南限地帯」がある。日本海側ではこの場所や大山町松河原、島根県大田市静門の海岸まで分布しており、これらは地球が寒かった氷河期時代に南下分布したものが、適地を得て今日まで残ったもので、世界の自生南限地帯として貴重ということで国の天然記念物になっている。
すぐ先の二股を右へ進むと右手に養護学校がある。伏野の集落を通って進み、その先で9号線に合流、満川の信号で9号線と分岐して318号線を進む。
右手に中の茶屋集会所があり、その前に天保9年(8137)と刻まれた「小難波要助」の碑が立っている。ここに中の茶屋一里塚があったという。
10時を過ぎて薄日が差してきた。ただ吹く風は涼しい。右手に湖山池があり、ヨットやカヌーが浮かんでいる。
右手に「砂丘開拓記念碑」が立っており、その横に「酒ノ津商人中と刻まれた石仏」とその他小祠の中に数多くの石仏が集められていた。
鳥取大学前信号から二股を右へ進むと、左手に「尾車文五郎」の墓をはじめとした相撲取りの墓が集められていた。尾車親方は明治時代の力士でこの地の出身だという。他に天保13年(1842)の羅生門綱五郎、慶応3年(1867)の豊島豊七等の石碑が立っている。
左手に寛保4年(1744)と刻まれた「日本六十六部供養塔」が立っている。これは湖山村の善六が日本廻国の旅を記念し、同時に亡き両親の供養のために建立したものだ。
158号線に合流、湖山川に架かる湖山橋を渡って進み、湖山駅入口の信号で五叉路を直進する。
突き当たりを右折して156号線を進み、安長の信号を直進する。
左手に寛政2年(1790)の「大乗妙典日本廻国供養塔」が立っている。
突き当たりを左折して進み、千代川に架かる八千代橋を渡る。
左手に「首切り地蔵」があり、元文5年(1740)の題目石と寛永2年(1625)の南無阿弥陀仏の石碑が立っている。
昔、このあたりに藩の斬刑場があったことからこの地蔵尊の名前がついたという。地蔵尊は宝永2年(1705)に造立されたと考えており、当初は木造だったが、明和7年(1770)に現在の石像になったという。処刑者の最も多かった年は元文5年(1740)の19名で、有名な元文百姓一揆の指導者達だったという。元文5年と題目石に刻まれていることから、この石はその供養碑だったと思われるというこだ。
左手に「玄忠寺」がある。ここには荒木又衛門の墓がある。寛永7年(1630)岡山藩主池田忠雄の小姓渡辺源太夫が同藩の藩士河合又五郎に殺されるという事件が起きた。その後、江戸の旗本にかくまわれた又五郎を巡って引渡しを求める池田家とこれを拒む旗本との対立が熾烈を極めた。荒木又衛門は仇討ちを悲願とする源太夫の兄渡辺数馬を助け、寛永11年(1634)に首尾よく本懐を遂げさせた。この仇討ちは伊賀越仇討ちといって有名な事件だ。その後、又兵衛は鳥取藩の強い希望によって数馬と共に寛永15年(1638)鳥取藩へ迎えられたが、鳥取に入った僅か28日後に急死したという。何かがあったのだろうかと勝手に想像する。
右手に「景福寺」がある。ここは鳥取藩池田家家老荒尾家の菩提寺で南北朝時代に創建されたという。慶長年間、当時姫路城主だった池田輝政の家老荒尾隆重は同寺を姫路城下に移して再興し、池田輝政没後、備前岡山藩主となった忠雄に従い荒尾家と共に同寺も岡山へ移り、寛永10年(1633)に現在地へ移ったという。境内には荒尾家代々の墓がある。
また、ここには後藤又兵衛と妻子の墓もある。後藤又兵衛は元和元年(1615)の大坂夏の陣で戦死したが、夫人は遺髪を胸に岡山の実家三浦家へ逃げ延びた。その後、池田公の家臣だった三浦家と共に後藤一族も鳥取に移り、この寺を菩提寺としたという。
その先で袋川に架かる鋳物師橋を渡る。この橋の名前は江戸時代の寿町の町名「鋳物師町」に由来しているという。この橋は元和5年(1619)に鳥取城下町の造成に伴なって袋川が掘削された際に架橋された5橋の一つという。
次の信号を左折して進むと正面に「鳥取城」がある。ここは戦国時代に織田信長の家臣だった羽柴秀吉が毛利軍と戦った鳥取城の兵糧攻めが有名だ。現在見られる石垣で造られた城は天正10年(1582)から嘉永2年(1849)の約270年間に段階的に整備されたもので、特に元和3年(1617)に入城した池田光政はそれまで5~6万石規模であった城を32万石の居城として一新したという。城内の建物は明治時代に大半が取り壊され、残った石垣も昭和18年の鳥取大地震で多くが崩れたという。復元された城門が立っていた。
県立博物館が城内にあり、ここで昼食にする。
城を出て堀に沿って進み、北中学の横を右折、すぐに左折して進む。この頃になると雲ひとつない快晴になる。日差しは強いが気温は低くて歩きやすい。湯所町の山際の道を歩いていくと、右手に文化8年(1811)の「六地蔵」がある。
丸山町の信号の右角に「南無阿弥陀佛」享保6年(1721)と刻まれた石碑とその横に天保14年(1843)の天保の大飢饉供養塔と思われる同じく「南無阿弥陀佛」の石碑、更にその横に文化7年(1810)の「右 はまにみち是ヨリ三十四丁」「たじま山ミちまにへかけ蓮ハ四丁のま王り」「左ハたしまは満道」と刻まれた道標地蔵がある。この道標は摩尼山への最初の道案内という。
右手に「離水海食洞」がある。この洞窟は海の波浪によって形成された海食洞であるが、現在は海岸から遠く離れた場所にあるため、「離水海食洞」といい、入口部分の高さは約1m、奥行は18mある。この洞窟の形成は縄文時代前期頃に海水面が上昇した「縄文海進」によるものと考えられ、その後の海退によって陸化したものと説明されている。
その先、右手に「奈佐日本助」と「塩谷周防」の墓がある。ここにある山は天正9年(1581)に羽柴秀吉が鳥取城を攻めた久松戦の丸山城跡で、ここの城主を奈佐日本助といい、鳥取城主吉川経家に仕えて、この城を守りつつ、毛利軍から海を越えて送られてくる兵糧を舟で袋川から雁金砦を経て鳥取本城に運んでいた。しかし秀吉はこの雁金砦を奪取したため、唯一の補給路を断たれた鳥取本城は大混乱のうちに落城してしまった。雁金砦の将だった塩谷周防もこの地へ退いていたため、鳥取本城明け渡しの報に日本助と共にその責を負って自刃したという。
9号線の高架下を通って進むと、左手に「浜坂犬塚」がある。昔、浜坂の農民が旅人の難儀を見かねて、一本橋を大きな橋に架け替えたいと考えた。そこで橋建設の勧募趣意書の木札と竹筒を自分の飼い犬の首につけて放した。旅人や村人が竹筒に銭を入れ、こうして集まった募金で新しい橋が建設され、旅人の難儀を救ったという。この犬が死ぬと村人は橋の近くに墓を造って「犬塚」として祀り、またこの橋を「犬橋」と呼ぶようになったという。
摩尼川に架かるこの犬橋を渡る。
橋の横に鳥取砂丘への「道標」があり、「鳥取砂丘 右ハ摺鉢・旧砲台、左ハ十六本松海 昭和九年四月 浜坂有志」と刻まれている。これは浜坂村が鳥取市に編入され、鳥取砂丘という名になってから建てられたという。
その横に「六地蔵」があるが年号は分からなかった。ここを右折、その先の突き当たりを左折して進むが、このあたりは分岐が多く分かり難い。ただ基本的に直進する。
坂道を上っていき、突き当たりを右折すると、左手に鳥取砂丘が広がっている。海、空の青さに映えて砂丘がきれいだ。何人かの若者がハンググライダーの練習をしていた。
「浜坂の遠き砂丘の中にして さびしき我を見出でけるかも」という「有島武郎の歌碑」が立っている。有島武郎は大正12年、水脈社主催の自由大学講座の講師として鳥取に来た。そのときに鳥取砂丘に案内されてこの歌を詠んだことから、鳥取砂丘は一躍有名になったという。有島武郎はこの後、帰京してから一ヶ月余り後に、軽井沢の別荘で愛人と情死したのだ。
昔はこの砂丘の中を通っていたようだが、現在は砂丘を歩くのは大変なので265号線に合流、その先で左折して265号線から分岐する319号線を進む。
ここからもう一度砂丘へ行ってみるが、この場所は学生時代に旅行した際、来た記憶がある。今日は好天の土曜日ということもあって、観光客が数多く来ていた。
このあたりに民宿が何軒かあるのだが、まだ時間が早いので先へ進む。319号線は砂丘に沿って通っており、それに併行して松林の中に遊歩道が通っているので、これを歩く。
砂丘から5kmばかり先にある岩戸海水浴場の近くに今日の宿があり、ここに入る。時間はまだ16時15分なので、もっと先へ進みたいのだが、この先は宿もアクセスもないので、ここで今日は終わることにする。
夕方、宿から日本海に沈む夕陽を眺める。旅情をそそられるひとときだ。明日も天気はよさそうなので無事鳥取県を歩き終えることができそうだ。
本日の歩行時間 8時間42分。
本日の歩数&距離 46907歩、31.3km。
7時33分に宝木駅に着き、昨日歩いた街道の場所まで戻って歩きはじめる。宝木の集落を抜けると道は坂を上って山の中へ入って行く。舗装された道だが、人も車も通らない静かな道だ。
左手墓地の中に「大乗妙典六十六部日本廻国供養塔」と題目石が立っている。供養塔には慶応という年号が刻まれているようだったが、よく読み取れなかった。
右手に水尻湖があり、その淵を進んでいき、最深部を回って少し行ったところから左折して9号線に合流する。鳥取市も教育委員会の方に資料をチェックしていただいたが、てきぱきと且つ丁寧に対応していただいて有り難かった。
左手に海が広がっているが、このあたりが白兎海岸で、稲羽の白兎の神話で有名なところだ。
兎が洪水のとき、竹の切り株に乗って淤岐島に流された。兎は陸へ帰りたいばっかりに近海のワニザメをだまして陸へ戻ったので、ワニザメは怒って兎の皮をはぎ、赤裸にしてしまった。兎が泣いていると、そこへ稲羽(因幡)の八上姫を娶らんものと出雲国から大勢の神様が通りかかった。意地悪な八十神(大国主命の兄)は「海水で身体を洗い、高尾山で風に吹かれながら寝ているように」と教え、兎はそのとおりにすると前より痛みが増してしまった。あとからきたやさしい大国主命は「水門(不増不減池)の真水で海水の塩を洗い流して身千山でガマの穂にくるまっているように」と教え、そのとおりにするともとのきれいな白兎に戻ったという神話だ。ここは波が高く土曜日ということもあってか、かなりの数のサーファーが出ていた。
右手に「白兎神社」がある。ここは古事記や日本書紀にも記されている神社で、境内にはいかなる干天、豪雨にも水の増減がないという「不増不減の池」がある。この池で皮をむかれて赤裸になった白兎が身体を洗ったという池だ。このことから日本医療の発祥の地とし、古来病気傷痍に霊験あらたかな神社とされているということだ。ここには常緑のタブ、シイノキ等の低木が数多く育っているが、これは北西方向の黒松が冬季の寒風を遮ったために生育したもので、日本海岸地方の原始林景を今に残している重要なもので、国指定天然記念物になっている。
神社の前から9号線に併行して旧道が通っているので、これを歩いていく。内海川に架かる白兎橋を渡った右手に墓地があり、その横に「六地蔵」がある。
その先、左手に「ハマナス自生南限地帯」がある。日本海側ではこの場所や大山町松河原、島根県大田市静門の海岸まで分布しており、これらは地球が寒かった氷河期時代に南下分布したものが、適地を得て今日まで残ったもので、世界の自生南限地帯として貴重ということで国の天然記念物になっている。
すぐ先の二股を右へ進むと右手に養護学校がある。伏野の集落を通って進み、その先で9号線に合流、満川の信号で9号線と分岐して318号線を進む。
右手に中の茶屋集会所があり、その前に天保9年(8137)と刻まれた「小難波要助」の碑が立っている。ここに中の茶屋一里塚があったという。
10時を過ぎて薄日が差してきた。ただ吹く風は涼しい。右手に湖山池があり、ヨットやカヌーが浮かんでいる。
右手に「砂丘開拓記念碑」が立っており、その横に「酒ノ津商人中と刻まれた石仏」とその他小祠の中に数多くの石仏が集められていた。
鳥取大学前信号から二股を右へ進むと、左手に「尾車文五郎」の墓をはじめとした相撲取りの墓が集められていた。尾車親方は明治時代の力士でこの地の出身だという。他に天保13年(1842)の羅生門綱五郎、慶応3年(1867)の豊島豊七等の石碑が立っている。
左手に寛保4年(1744)と刻まれた「日本六十六部供養塔」が立っている。これは湖山村の善六が日本廻国の旅を記念し、同時に亡き両親の供養のために建立したものだ。
158号線に合流、湖山川に架かる湖山橋を渡って進み、湖山駅入口の信号で五叉路を直進する。
突き当たりを右折して156号線を進み、安長の信号を直進する。
左手に寛政2年(1790)の「大乗妙典日本廻国供養塔」が立っている。
突き当たりを左折して進み、千代川に架かる八千代橋を渡る。
左手に「首切り地蔵」があり、元文5年(1740)の題目石と寛永2年(1625)の南無阿弥陀仏の石碑が立っている。
昔、このあたりに藩の斬刑場があったことからこの地蔵尊の名前がついたという。地蔵尊は宝永2年(1705)に造立されたと考えており、当初は木造だったが、明和7年(1770)に現在の石像になったという。処刑者の最も多かった年は元文5年(1740)の19名で、有名な元文百姓一揆の指導者達だったという。元文5年と題目石に刻まれていることから、この石はその供養碑だったと思われるというこだ。
左手に「玄忠寺」がある。ここには荒木又衛門の墓がある。寛永7年(1630)岡山藩主池田忠雄の小姓渡辺源太夫が同藩の藩士河合又五郎に殺されるという事件が起きた。その後、江戸の旗本にかくまわれた又五郎を巡って引渡しを求める池田家とこれを拒む旗本との対立が熾烈を極めた。荒木又衛門は仇討ちを悲願とする源太夫の兄渡辺数馬を助け、寛永11年(1634)に首尾よく本懐を遂げさせた。この仇討ちは伊賀越仇討ちといって有名な事件だ。その後、又兵衛は鳥取藩の強い希望によって数馬と共に寛永15年(1638)鳥取藩へ迎えられたが、鳥取に入った僅か28日後に急死したという。何かがあったのだろうかと勝手に想像する。
右手に「景福寺」がある。ここは鳥取藩池田家家老荒尾家の菩提寺で南北朝時代に創建されたという。慶長年間、当時姫路城主だった池田輝政の家老荒尾隆重は同寺を姫路城下に移して再興し、池田輝政没後、備前岡山藩主となった忠雄に従い荒尾家と共に同寺も岡山へ移り、寛永10年(1633)に現在地へ移ったという。境内には荒尾家代々の墓がある。
また、ここには後藤又兵衛と妻子の墓もある。後藤又兵衛は元和元年(1615)の大坂夏の陣で戦死したが、夫人は遺髪を胸に岡山の実家三浦家へ逃げ延びた。その後、池田公の家臣だった三浦家と共に後藤一族も鳥取に移り、この寺を菩提寺としたという。
その先で袋川に架かる鋳物師橋を渡る。この橋の名前は江戸時代の寿町の町名「鋳物師町」に由来しているという。この橋は元和5年(1619)に鳥取城下町の造成に伴なって袋川が掘削された際に架橋された5橋の一つという。
次の信号を左折して進むと正面に「鳥取城」がある。ここは戦国時代に織田信長の家臣だった羽柴秀吉が毛利軍と戦った鳥取城の兵糧攻めが有名だ。現在見られる石垣で造られた城は天正10年(1582)から嘉永2年(1849)の約270年間に段階的に整備されたもので、特に元和3年(1617)に入城した池田光政はそれまで5~6万石規模であった城を32万石の居城として一新したという。城内の建物は明治時代に大半が取り壊され、残った石垣も昭和18年の鳥取大地震で多くが崩れたという。復元された城門が立っていた。
県立博物館が城内にあり、ここで昼食にする。
城を出て堀に沿って進み、北中学の横を右折、すぐに左折して進む。この頃になると雲ひとつない快晴になる。日差しは強いが気温は低くて歩きやすい。湯所町の山際の道を歩いていくと、右手に文化8年(1811)の「六地蔵」がある。
丸山町の信号の右角に「南無阿弥陀佛」享保6年(1721)と刻まれた石碑とその横に天保14年(1843)の天保の大飢饉供養塔と思われる同じく「南無阿弥陀佛」の石碑、更にその横に文化7年(1810)の「右 はまにみち是ヨリ三十四丁」「たじま山ミちまにへかけ蓮ハ四丁のま王り」「左ハたしまは満道」と刻まれた道標地蔵がある。この道標は摩尼山への最初の道案内という。
右手に「離水海食洞」がある。この洞窟は海の波浪によって形成された海食洞であるが、現在は海岸から遠く離れた場所にあるため、「離水海食洞」といい、入口部分の高さは約1m、奥行は18mある。この洞窟の形成は縄文時代前期頃に海水面が上昇した「縄文海進」によるものと考えられ、その後の海退によって陸化したものと説明されている。
その先、右手に「奈佐日本助」と「塩谷周防」の墓がある。ここにある山は天正9年(1581)に羽柴秀吉が鳥取城を攻めた久松戦の丸山城跡で、ここの城主を奈佐日本助といい、鳥取城主吉川経家に仕えて、この城を守りつつ、毛利軍から海を越えて送られてくる兵糧を舟で袋川から雁金砦を経て鳥取本城に運んでいた。しかし秀吉はこの雁金砦を奪取したため、唯一の補給路を断たれた鳥取本城は大混乱のうちに落城してしまった。雁金砦の将だった塩谷周防もこの地へ退いていたため、鳥取本城明け渡しの報に日本助と共にその責を負って自刃したという。
9号線の高架下を通って進むと、左手に「浜坂犬塚」がある。昔、浜坂の農民が旅人の難儀を見かねて、一本橋を大きな橋に架け替えたいと考えた。そこで橋建設の勧募趣意書の木札と竹筒を自分の飼い犬の首につけて放した。旅人や村人が竹筒に銭を入れ、こうして集まった募金で新しい橋が建設され、旅人の難儀を救ったという。この犬が死ぬと村人は橋の近くに墓を造って「犬塚」として祀り、またこの橋を「犬橋」と呼ぶようになったという。
摩尼川に架かるこの犬橋を渡る。
橋の横に鳥取砂丘への「道標」があり、「鳥取砂丘 右ハ摺鉢・旧砲台、左ハ十六本松海 昭和九年四月 浜坂有志」と刻まれている。これは浜坂村が鳥取市に編入され、鳥取砂丘という名になってから建てられたという。
その横に「六地蔵」があるが年号は分からなかった。ここを右折、その先の突き当たりを左折して進むが、このあたりは分岐が多く分かり難い。ただ基本的に直進する。
坂道を上っていき、突き当たりを右折すると、左手に鳥取砂丘が広がっている。海、空の青さに映えて砂丘がきれいだ。何人かの若者がハンググライダーの練習をしていた。
「浜坂の遠き砂丘の中にして さびしき我を見出でけるかも」という「有島武郎の歌碑」が立っている。有島武郎は大正12年、水脈社主催の自由大学講座の講師として鳥取に来た。そのときに鳥取砂丘に案内されてこの歌を詠んだことから、鳥取砂丘は一躍有名になったという。有島武郎はこの後、帰京してから一ヶ月余り後に、軽井沢の別荘で愛人と情死したのだ。
昔はこの砂丘の中を通っていたようだが、現在は砂丘を歩くのは大変なので265号線に合流、その先で左折して265号線から分岐する319号線を進む。
ここからもう一度砂丘へ行ってみるが、この場所は学生時代に旅行した際、来た記憶がある。今日は好天の土曜日ということもあって、観光客が数多く来ていた。
このあたりに民宿が何軒かあるのだが、まだ時間が早いので先へ進む。319号線は砂丘に沿って通っており、それに併行して松林の中に遊歩道が通っているので、これを歩く。
砂丘から5kmばかり先にある岩戸海水浴場の近くに今日の宿があり、ここに入る。時間はまだ16時15分なので、もっと先へ進みたいのだが、この先は宿もアクセスもないので、ここで今日は終わることにする。
夕方、宿から日本海に沈む夕陽を眺める。旅情をそそられるひとときだ。明日も天気はよさそうなので無事鳥取県を歩き終えることができそうだ。
本日の歩行時間 8時間42分。
本日の歩数&距離 46907歩、31.3km。
旅の地図
記録
-
2010年05月06日(木)
-
2010年05月07日(金)
-
2010年05月27日(木)
-
2010年05月28日(金)
-
2010年05月29日(土)
-
2010年05月30日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん