2010年05月27日(木)
浦安~由良~下北条
曇時々霧雨
13時30分に浦安に着き、歩き始める。今日の天気予報では午前中は雨、しかも風が強いということだったので、出発を始発から2時間ずらしてこの時間に到着する。
岡山までの瀬戸内海側は好天だったのだが、伯備線で中国山地を越えるときにはかなりの雨が降っていた。風も強そうだし、いやだなと思っていたが、幸い浦安に着くと雨は止んでいてほっとする。浦安駅から海沿いの267号線に出て歩き始めるが、風が強く、海は波立っていた。
右手、逢束自治公民館があるところに「地蔵堂」がある。ここの盆踊りは琴浦町指定無形民俗文化財になっているようだ。
左手に「地蔵堂」がある。白い衣が着せられており、花が活けてあった。参拝をされる人がおられるのだろう。
加勢蛇川に架かる加勢蛇橋、兵川に架かる兵川橋を渡って進むと、左手に「東京力士 黒岩萬吉之碑」と刻まれた相撲塚が立っている。
この碑の前から道は二股に分かれているので、左へ進み、大谷の信号で9号線を横断する。
その先で道は二股に分かれており、右へ進むが、その角に「道標」が立っている。
左手に文政、天保と刻まれた墓がある古い墓地がある。このあたり街道に面して墓地がかなりの数あるが、いずれも古い墓地のようだ。数百年前からこの地の方々はここに葬られてきたのだろう。
左手に「岩崎神社」がある。天保3年(1832)の狛犬が置かれていた。
すぐ先、右手に「夜泣松神社」がある。
由良の町へ入って行くと左手に「由良本陣跡 佐伯宅」がある。佐伯家は赤碕の佐伯仁右衛門の分家で、佐伯長兵衛が由良に御蔵役人としてきたことが始まりで、延享元年(1744)駅次が逢束から由良へ移った時、その本陣を務めたのが佐伯伝右衛門で、その後名字帯刀を許されるほどの格式を重んじた本陣だったという。山陰鎮撫総督だった西園寺公望がこの地を訪れたとき、ここに宿泊したという。
その先には由良藩倉の役人だった「遠藤家(橋津屋)」や伯州屈指の刀鍛冶の末裔「道祖尾家(鍛冶屋)」などの案内板が立っていた。
由良川に架かる由良橋を渡ってすぐに左折、突き当たりを右折して進むと、左手西園多目的集会所の前に「地蔵堂」が立っている。
このあたりいかにも旧家を思わせる家が多い。その先で「建速神社」に突き当たる。ここには宝暦12年(1762)の鳥居が立っており、年不詳だがいかにも時代を感じさせる狛犬があった。
神社を右手に見ながら北条川に沿って進むと「東園神社」がある。ここは元亨元年(1321)に周防イモノ里綱敷天満宮から勧請したのが創建で、その後享保12年(1727)に現在地に移ったという。境内には樹齢300年を越す古松数十本が繁っていたそうだが、松くい虫にやられたため全て伐採したという。
左手に「松神神社」「松本神社」と二つの名前が掲げられた神社がある。弘化2年(1845)と刻まれた狛犬があるが、この地方の狛犬は形が変わっていて、尻を高くして尻尾が大きいのが特徴のようだ。最初は尻尾が頭かと思い、それにしてはえらくのけぞっているなぁと思ってしまった。
左手に「隆光寺」がある。ここは藩主池田慶徳公に藩校の教授方として仕え、側近として国事に奔走した正墻適處(ショウガキテキショ)が「研志塾」を開いたところという。ここの庭園は砂丘の南縁の地形をたくみに生かした名園という。
ここには「牛塚」がある。昔松神の新屋という豪農に大山の牛市で一番と言われた牛がおり、子牛を生んだが心無き人々によって殺されたので、親牛は怒り狂って浜道を北へ走り、海に身を投じて死んでしまった。以来不幸が続き、新屋は衰微してしまったので、霊を慰めるため、牛塚を建てたという。
その先で左折して北条倉吉道路下のトンネルを越えたところで街道から離れて下北条駅へ向かい、16時58分に下北条駅に着く。このあたりは宿がないので17時19分のJRで浜村駅まで移動する。ここも電車は1時間に1本しかない。1時間に1本はある・・・かな?
本日の歩行時間 3時間28分。
本日の歩数&距離 24031歩、14.4km。
13時30分に浦安に着き、歩き始める。今日の天気予報では午前中は雨、しかも風が強いということだったので、出発を始発から2時間ずらしてこの時間に到着する。
岡山までの瀬戸内海側は好天だったのだが、伯備線で中国山地を越えるときにはかなりの雨が降っていた。風も強そうだし、いやだなと思っていたが、幸い浦安に着くと雨は止んでいてほっとする。浦安駅から海沿いの267号線に出て歩き始めるが、風が強く、海は波立っていた。
右手、逢束自治公民館があるところに「地蔵堂」がある。ここの盆踊りは琴浦町指定無形民俗文化財になっているようだ。
左手に「地蔵堂」がある。白い衣が着せられており、花が活けてあった。参拝をされる人がおられるのだろう。
加勢蛇川に架かる加勢蛇橋、兵川に架かる兵川橋を渡って進むと、左手に「東京力士 黒岩萬吉之碑」と刻まれた相撲塚が立っている。
この碑の前から道は二股に分かれているので、左へ進み、大谷の信号で9号線を横断する。
その先で道は二股に分かれており、右へ進むが、その角に「道標」が立っている。
左手に文政、天保と刻まれた墓がある古い墓地がある。このあたり街道に面して墓地がかなりの数あるが、いずれも古い墓地のようだ。数百年前からこの地の方々はここに葬られてきたのだろう。
左手に「岩崎神社」がある。天保3年(1832)の狛犬が置かれていた。
すぐ先、右手に「夜泣松神社」がある。
由良の町へ入って行くと左手に「由良本陣跡 佐伯宅」がある。佐伯家は赤碕の佐伯仁右衛門の分家で、佐伯長兵衛が由良に御蔵役人としてきたことが始まりで、延享元年(1744)駅次が逢束から由良へ移った時、その本陣を務めたのが佐伯伝右衛門で、その後名字帯刀を許されるほどの格式を重んじた本陣だったという。山陰鎮撫総督だった西園寺公望がこの地を訪れたとき、ここに宿泊したという。
その先には由良藩倉の役人だった「遠藤家(橋津屋)」や伯州屈指の刀鍛冶の末裔「道祖尾家(鍛冶屋)」などの案内板が立っていた。
由良川に架かる由良橋を渡ってすぐに左折、突き当たりを右折して進むと、左手西園多目的集会所の前に「地蔵堂」が立っている。
このあたりいかにも旧家を思わせる家が多い。その先で「建速神社」に突き当たる。ここには宝暦12年(1762)の鳥居が立っており、年不詳だがいかにも時代を感じさせる狛犬があった。
神社を右手に見ながら北条川に沿って進むと「東園神社」がある。ここは元亨元年(1321)に周防イモノ里綱敷天満宮から勧請したのが創建で、その後享保12年(1727)に現在地に移ったという。境内には樹齢300年を越す古松数十本が繁っていたそうだが、松くい虫にやられたため全て伐採したという。
左手に「松神神社」「松本神社」と二つの名前が掲げられた神社がある。弘化2年(1845)と刻まれた狛犬があるが、この地方の狛犬は形が変わっていて、尻を高くして尻尾が大きいのが特徴のようだ。最初は尻尾が頭かと思い、それにしてはえらくのけぞっているなぁと思ってしまった。
左手に「隆光寺」がある。ここは藩主池田慶徳公に藩校の教授方として仕え、側近として国事に奔走した正墻適處(ショウガキテキショ)が「研志塾」を開いたところという。ここの庭園は砂丘の南縁の地形をたくみに生かした名園という。
ここには「牛塚」がある。昔松神の新屋という豪農に大山の牛市で一番と言われた牛がおり、子牛を生んだが心無き人々によって殺されたので、親牛は怒り狂って浜道を北へ走り、海に身を投じて死んでしまった。以来不幸が続き、新屋は衰微してしまったので、霊を慰めるため、牛塚を建てたという。
その先で左折して北条倉吉道路下のトンネルを越えたところで街道から離れて下北条駅へ向かい、16時58分に下北条駅に着く。このあたりは宿がないので17時19分のJRで浜村駅まで移動する。ここも電車は1時間に1本しかない。1時間に1本はある・・・かな?
本日の歩行時間 3時間28分。
本日の歩数&距離 24031歩、14.4km。
旅の地図
記録
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2010年05月06日(木)
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2010年05月07日(金)
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2010年05月27日(木)
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2010年05月28日(金)
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2010年05月29日(土)
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2010年05月30日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん