2010年05月05日(水)
宍道~松江~揖屋
曇後晴れ
7時35分に宍道駅を出発する。休日で朝まだ早いということもあって、町は静かだ。
左手に「石仏」があり、台座に「南無地蔵願王菩薩」と書かれた紙が張られている。このような紙はこれまでも見かけていたのでなんだろうと思っていたのだが、丁度ご近所の方がおられたのでお聞きすると、このあたりでは葬儀を行った家がその次の日から「地蔵札うち」といって、近所のお地蔵様にこうして札を貼って回る習わしがあるということだった。
左手に「亀島神社」がある。台座に船名が刻まれた狛犬があることなどから船舶、牛馬の守護神として崇められていたことがわかる。
9号線に合流、これを歩く。左手に宍道湖が広がっているが、今日は曇っていて霞んでいる。9号線を進んで行き、宍道中学校前踏切でJRの線路を横断、すぐに左折する。
このあたりの方は道をお聞きした時や、すれ違うだけのときでも「ご苦労さま~」という声をかけてくれる人が多くて気持がいい。ちょっとした一言、挨拶が大切だとつくづく思う。
一旦JRの線路に接した後、小川があり、その流れに沿って右折して山際の道を進んでいく。
最初の三叉路を左折するが、その角に「石仏」を祀った小祠があり、ここにも先ほどと同様の紙が張られている。
山の中の舗装された道を進んでいくと竹にお札が挟まれて立っており、「区内安全 日待祭御守護」と書かれている。
地域に悪霊が入ってこないようにというお札で、各地でよく見かけるものだ。
右手に「宇由比神社」がある。ここは出雲風土記にも記載された古い神社で安永9年(1780)や文久2年(1862)と刻まれた石灯籠が立っていた。
左手に「長源寺」がある。境内に天保11年(1840)の一畑灯籠がある。
その先、田んぼの中の道を進むが、田んぼに水が張られており、早いところでは田植えも行われている。
来待川に突き当たり、これを右折して次の橋を渡って左折、JRの線路沿いを進むが、一部道がなくなっていてあぜ道を歩く。三成踏切でJRの線路を横断して9号線に合流、9号線が左にカーブするところで二股に分かれているので、右へ進むが、その先で再び9号線に合流する。 ここからひたすら9号線を歩く。このあたりは歩道がなく、しかも車の通行量が多いため歩き難い。
右手に「地蔵堂」があり、その先で鏡谷川に架かる向鏡橋を渡り、玉湯支所西の信号から9号線と分岐して右斜めへ進み、その先の玉湯の信号から再び二股に分かれているので、ここを右斜めへ進む。
その角右手、ガードレールの横に「玉湯村道路元票」がある。
右手線路の向こう側に玉造厚生年病院が見えるところから二股を右折、湯町踏切でJRの線路を横断、263号線を進み、布志名西のバス停があるところから左斜めへ進み、山際の道を進む。
高速道路の高架下を進み、すぐ先で右折、再び高架下を通って263号線に合流する。
右手に「布志名才ノ神」がある。
その先の時差式信号機から左折して高架下を通って進む。左手にパナソニックの工場があり、その敷地で旧道が失われているので263号線を進み、忌部川半原橋を渡り、松江農林高校のグラウンドの周囲を回るようにして進み、テニスコートの横から左折する。その先変則四叉路から左斜めへ進む。この先で旧道は二本に分かれていたようだが、そのまま直進する。
左手に天保9年(1838)と刻まれた「荒神」そして「恵比須社」「社日」が祀られている。資料によると荒神は牛荒神と呼ばれ、博労や牛を飼っていた人々の尊崇が厚かったという。
左手に「歳徳神」がある。歳徳神とは方位神の一つで、その年の福徳を司る吉神で、 歳徳神の在する方位を恵方と言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされる。関西では、立春の前日の節分の日に恵方を向いて太巻き(恵方巻)を丸かじりする習慣があるが、最近では全国に広がっているようだ。
その先二股を左へ進むと左手に「野代神社」がある。ここの創立は天平時代〈700年代)以前となっており、出雲風土記にも記載されている。天平時代は妙見社として創建されたが、明治2年に西宮神社と改称、更にその後野代神社となったという。
山居川に架かる庄司橋を渡って進むと、跨線橋の下に「一丁地蔵」がある。昔はこの街道一丁ごとに置かれていたといい、道標になっていて「右 大社・札所・玉造」と刻まれている。その先で24号線に合流する。
右手に「善光寺」がある。ここは源頼朝の家臣で宇治川の先陣争いで有名な佐々木高綱が開基したという。境内には宝暦12年(1762)快澄によって建てられたという墓碑があり、その横に乃木大将の遺髪塔が立っている。これは乃木大将が高綱の後裔であるという縁由によるものという。また墓地には大きくて古い五輪塔が数基立っていたが、だれの墓なのかはわからなかった。
左手に「円成寺」がある。ここには松江開府の祖、堀尾家の菩提所で松江城の初代城主堀尾忠晴公の廟がある。ここは洗合にあった瑞応寺を寛永10年(1633)に現在地に移し、円成寺と改めた。小泉八雲は明治24年に親友の西田千太郎と共に円成寺を訪れ、寺の山中を散策したという。
街道に戻り、すぐ先で二股に分かれているので、右へ進む。
右手に大きなタブの木があり、その穴の中に賽の神が祀られていた。花が活けられているので、参拝する人がおられるのだろう。
右手に「洞光寺」がある。ここは当初松江分地内にあり、松江城築城の際広瀬から移転したという。ここの南は山になっており、松江城を築城した堀尾吉晴と嫡子忠氏がその頂上で床几に腰かけて、広瀬から移転する新城地を選択したという元山がある。現在ではこの伝承から俗称「床几山」と呼ばれているということだ。
すぐ先で左折、竪町の信号で9号線に合流、右折して9号線に沿って進む。この竪町は松江から東へ向かう伯耆街道と松江から西へ向かう石州街道の出発点だった。松原の信号から左折、すぐ先を右折する。その先の信号から街道を離れて左折して松江駅へ向かい、とりあえず今日の宿に入って荷物を預け、その後松江城へ向かうことにする。12時50分に松江駅に着く。
駅からレイクラインという市内周遊のバスがあったので、これに乗って「松江城」まで行く。ここも学生時代に来たことがあり、昔の姿を残している城に当時感動したことを覚えている。松江城は日本に12カ所しか現存しない、江戸時代以前建造の天守を有する城であり、また中国地方の県庁所在地に所在する唯一の現存天守でもある。関が原の合戦で武功をたてた堀尾忠公は慶長5年(1600)に出雲・隠岐24万石を与えられ、広瀬の富田城に入城した。しかしその後現在地へ移転、慶長16年(1611)に足掛け5年を費やして完成したという。城主は堀尾氏、京極氏と続いたが、いずれも嗣子がなくて断絶、その後松平氏が11代続いて明治維新を迎えた。その後櫓や多門などは壊されたが、天守だけは保存されたという。
ここから「月照寺」へ向かう。ここはもと禅林のお寺で、洞雲寺と称したが、松平直政公〈徳川家康の孫)が生母月照院の霊牌を安置するため、寛文4年(1664)浄土宗の長誉上人を開基として月照寺と改称復興したものという。以来松江藩松平家の菩提所として尊崇をうけてきた。境内は一万坪に及ぶ霊域で9代にわたる藩主の廟がそれぞれ独立して立てられている。これまで色々な藩主の廟所をみてきたが、ここのようにそれぞれ独立している廟所は珍しい。
また、境内には亀跌の巨石の上に「天隆公寿蔵碑」がある。これは6代天隆公が安永7年(1778)に建てられたもので、この亀が夜中に市街を暴れまわったという伝説があり、そのことは小泉八雲の「知られぬ日本の面影」に紹介されている。また、ここには大関「雷電」の碑がある。雷電は出雲藩7代藩主松平治郷公に4人扶持をもって召抱えられていたということだ。
ここにもレイクラインのバス停があったので、ここからバスに乗って松江駅まで行き、14時55分に歩き始める。
一直線の道を進んで行き、右手に松江国道事務所がある先の信号から左折、すぐに右折して川沿いの進み、次を右折、更にすぐに左折、右折とジグザグに進み、歩道橋で9号線を横断、次を左折、その先の東津田一区の信号で再び9号線を横断、津田踏切でJRの線路を横断すると角に「松原延命地蔵」がある。
最初の十字路を左折して進むが、このあたりは道路が新しくできていたりしてわかりにくかった。左手に「歳徳神」があり、ここから右折したが、これはどうも間違っていたようで、本来の道はもっと先に、「東津田の地蔵堂」があり、そこから右折するようだった。馬橋川に架かる馬橋を渡るが、本来の旧道はこの左手からここへ合流するようだ。このあたりも旧道は失われているようで、馬橋からそのまま直線で進んでいくと「井奥地蔵堂」が右手にある。
左手、大橋川の中にある塩楯島に「手間天神社」がある。
道はJRの線路に沿っており、その先で跨線橋があったので、これを渡って進むつもりだったのだが、何と工事中で渡れない。前後を見たが踏切も見当たらないので、やむなく線路を横断して9号線に出る。そこは二股になっていて、9号線から分岐して右の道を進み、その先で9号線に合流する。
右手に「平濱八幡宮」がある。創建年代は不詳ということだが、天永2年(1111)には別宮として創建されているということなので、それ以前に創建されており、古い歴史を持った神社だ。岩清水八幡から勧請されたもので、出雲八社八幡の筆頭神社であった。境内末社に武内宿弥を祀る武内神社があり、ここの大祭は有名で、通称「たけおっつあんまつり」として親しまれており、徹夜の祭典には10万人の人出と数百軒の露店で賑うという。
9号線から左へ分岐、池を右に見ながら進んでいくと、左手角に「安国寺」の碑が立っている。ここから500mほどのところに安国寺はあり、足利尊氏、直義兄弟によって後醍醐天皇の冥福を祈るため暦応元年(1338)から全国に建立されたお寺の一つだ。
意宇川に架かる出雲郷橋を渡って進むと、右手少し入ったところに「阿太加夜神社」がある。ここは創建は不詳だが、天平5年(733)の出雲風土記に阿太加夜神社として記載されている。現在の本殿は元禄8年(1695)に造営されたものだ。境内に稲荷神社があるが、ここと松江城山の稲荷神社との間に12年に1度神幸式が行われるが、そのときの「ホーランエンヤ」の舟行列は有名である。
左手に「薬師堂」があり、右手に「浄土寺」がある。どちらも「雲陽誌」に紹介をされており、浄土寺の本尊の光背は寛政期(1789~1801)に活躍した名工小林如泥の作ということだ。
揖屋踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に「大内神社」がある。天文12年(1543)大内義隆は尼子氏を討つ為、北進してきたが成功せず、退却することになった。そのとき義隆の子、当時20歳の大内晴持の乗った舟が転覆して死んでしまった。その水死体を見つけた網元八斗屋惣右衛門が内密にこれを葬り回向してやったという。葬った当初は晴持の霊魂が馬で通行する武士などを悩ませたので、小さな社を建て晴持を祭神として大内権現と名づけ、毎年祭事を行ったという。明治時代になって大内神社と改められたが、今でも権現さんと呼ばれているという。
東出雲町に入ると、各所に「出雲街道」の標識が立っている。
17時30分に揖屋駅に到着し、出雲駅までJRで戻る。
本日の歩行時間 7時間50分(松江城、月照寺散策の時間は除く)。
本日の歩数&距離 47107歩、33.2km。
7時35分に宍道駅を出発する。休日で朝まだ早いということもあって、町は静かだ。
左手に「石仏」があり、台座に「南無地蔵願王菩薩」と書かれた紙が張られている。このような紙はこれまでも見かけていたのでなんだろうと思っていたのだが、丁度ご近所の方がおられたのでお聞きすると、このあたりでは葬儀を行った家がその次の日から「地蔵札うち」といって、近所のお地蔵様にこうして札を貼って回る習わしがあるということだった。
左手に「亀島神社」がある。台座に船名が刻まれた狛犬があることなどから船舶、牛馬の守護神として崇められていたことがわかる。
9号線に合流、これを歩く。左手に宍道湖が広がっているが、今日は曇っていて霞んでいる。9号線を進んで行き、宍道中学校前踏切でJRの線路を横断、すぐに左折する。
このあたりの方は道をお聞きした時や、すれ違うだけのときでも「ご苦労さま~」という声をかけてくれる人が多くて気持がいい。ちょっとした一言、挨拶が大切だとつくづく思う。
一旦JRの線路に接した後、小川があり、その流れに沿って右折して山際の道を進んでいく。
最初の三叉路を左折するが、その角に「石仏」を祀った小祠があり、ここにも先ほどと同様の紙が張られている。
山の中の舗装された道を進んでいくと竹にお札が挟まれて立っており、「区内安全 日待祭御守護」と書かれている。
地域に悪霊が入ってこないようにというお札で、各地でよく見かけるものだ。
右手に「宇由比神社」がある。ここは出雲風土記にも記載された古い神社で安永9年(1780)や文久2年(1862)と刻まれた石灯籠が立っていた。
左手に「長源寺」がある。境内に天保11年(1840)の一畑灯籠がある。
その先、田んぼの中の道を進むが、田んぼに水が張られており、早いところでは田植えも行われている。
来待川に突き当たり、これを右折して次の橋を渡って左折、JRの線路沿いを進むが、一部道がなくなっていてあぜ道を歩く。三成踏切でJRの線路を横断して9号線に合流、9号線が左にカーブするところで二股に分かれているので、右へ進むが、その先で再び9号線に合流する。 ここからひたすら9号線を歩く。このあたりは歩道がなく、しかも車の通行量が多いため歩き難い。
右手に「地蔵堂」があり、その先で鏡谷川に架かる向鏡橋を渡り、玉湯支所西の信号から9号線と分岐して右斜めへ進み、その先の玉湯の信号から再び二股に分かれているので、ここを右斜めへ進む。
その角右手、ガードレールの横に「玉湯村道路元票」がある。
右手線路の向こう側に玉造厚生年病院が見えるところから二股を右折、湯町踏切でJRの線路を横断、263号線を進み、布志名西のバス停があるところから左斜めへ進み、山際の道を進む。
高速道路の高架下を進み、すぐ先で右折、再び高架下を通って263号線に合流する。
右手に「布志名才ノ神」がある。
その先の時差式信号機から左折して高架下を通って進む。左手にパナソニックの工場があり、その敷地で旧道が失われているので263号線を進み、忌部川半原橋を渡り、松江農林高校のグラウンドの周囲を回るようにして進み、テニスコートの横から左折する。その先変則四叉路から左斜めへ進む。この先で旧道は二本に分かれていたようだが、そのまま直進する。
左手に天保9年(1838)と刻まれた「荒神」そして「恵比須社」「社日」が祀られている。資料によると荒神は牛荒神と呼ばれ、博労や牛を飼っていた人々の尊崇が厚かったという。
左手に「歳徳神」がある。歳徳神とは方位神の一つで、その年の福徳を司る吉神で、 歳徳神の在する方位を恵方と言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされる。関西では、立春の前日の節分の日に恵方を向いて太巻き(恵方巻)を丸かじりする習慣があるが、最近では全国に広がっているようだ。
その先二股を左へ進むと左手に「野代神社」がある。ここの創立は天平時代〈700年代)以前となっており、出雲風土記にも記載されている。天平時代は妙見社として創建されたが、明治2年に西宮神社と改称、更にその後野代神社となったという。
山居川に架かる庄司橋を渡って進むと、跨線橋の下に「一丁地蔵」がある。昔はこの街道一丁ごとに置かれていたといい、道標になっていて「右 大社・札所・玉造」と刻まれている。その先で24号線に合流する。
右手に「善光寺」がある。ここは源頼朝の家臣で宇治川の先陣争いで有名な佐々木高綱が開基したという。境内には宝暦12年(1762)快澄によって建てられたという墓碑があり、その横に乃木大将の遺髪塔が立っている。これは乃木大将が高綱の後裔であるという縁由によるものという。また墓地には大きくて古い五輪塔が数基立っていたが、だれの墓なのかはわからなかった。
左手に「円成寺」がある。ここには松江開府の祖、堀尾家の菩提所で松江城の初代城主堀尾忠晴公の廟がある。ここは洗合にあった瑞応寺を寛永10年(1633)に現在地に移し、円成寺と改めた。小泉八雲は明治24年に親友の西田千太郎と共に円成寺を訪れ、寺の山中を散策したという。
街道に戻り、すぐ先で二股に分かれているので、右へ進む。
右手に大きなタブの木があり、その穴の中に賽の神が祀られていた。花が活けられているので、参拝する人がおられるのだろう。
右手に「洞光寺」がある。ここは当初松江分地内にあり、松江城築城の際広瀬から移転したという。ここの南は山になっており、松江城を築城した堀尾吉晴と嫡子忠氏がその頂上で床几に腰かけて、広瀬から移転する新城地を選択したという元山がある。現在ではこの伝承から俗称「床几山」と呼ばれているということだ。
すぐ先で左折、竪町の信号で9号線に合流、右折して9号線に沿って進む。この竪町は松江から東へ向かう伯耆街道と松江から西へ向かう石州街道の出発点だった。松原の信号から左折、すぐ先を右折する。その先の信号から街道を離れて左折して松江駅へ向かい、とりあえず今日の宿に入って荷物を預け、その後松江城へ向かうことにする。12時50分に松江駅に着く。
駅からレイクラインという市内周遊のバスがあったので、これに乗って「松江城」まで行く。ここも学生時代に来たことがあり、昔の姿を残している城に当時感動したことを覚えている。松江城は日本に12カ所しか現存しない、江戸時代以前建造の天守を有する城であり、また中国地方の県庁所在地に所在する唯一の現存天守でもある。関が原の合戦で武功をたてた堀尾忠公は慶長5年(1600)に出雲・隠岐24万石を与えられ、広瀬の富田城に入城した。しかしその後現在地へ移転、慶長16年(1611)に足掛け5年を費やして完成したという。城主は堀尾氏、京極氏と続いたが、いずれも嗣子がなくて断絶、その後松平氏が11代続いて明治維新を迎えた。その後櫓や多門などは壊されたが、天守だけは保存されたという。
ここから「月照寺」へ向かう。ここはもと禅林のお寺で、洞雲寺と称したが、松平直政公〈徳川家康の孫)が生母月照院の霊牌を安置するため、寛文4年(1664)浄土宗の長誉上人を開基として月照寺と改称復興したものという。以来松江藩松平家の菩提所として尊崇をうけてきた。境内は一万坪に及ぶ霊域で9代にわたる藩主の廟がそれぞれ独立して立てられている。これまで色々な藩主の廟所をみてきたが、ここのようにそれぞれ独立している廟所は珍しい。
また、境内には亀跌の巨石の上に「天隆公寿蔵碑」がある。これは6代天隆公が安永7年(1778)に建てられたもので、この亀が夜中に市街を暴れまわったという伝説があり、そのことは小泉八雲の「知られぬ日本の面影」に紹介されている。また、ここには大関「雷電」の碑がある。雷電は出雲藩7代藩主松平治郷公に4人扶持をもって召抱えられていたということだ。
ここにもレイクラインのバス停があったので、ここからバスに乗って松江駅まで行き、14時55分に歩き始める。
一直線の道を進んで行き、右手に松江国道事務所がある先の信号から左折、すぐに右折して川沿いの進み、次を右折、更にすぐに左折、右折とジグザグに進み、歩道橋で9号線を横断、次を左折、その先の東津田一区の信号で再び9号線を横断、津田踏切でJRの線路を横断すると角に「松原延命地蔵」がある。
最初の十字路を左折して進むが、このあたりは道路が新しくできていたりしてわかりにくかった。左手に「歳徳神」があり、ここから右折したが、これはどうも間違っていたようで、本来の道はもっと先に、「東津田の地蔵堂」があり、そこから右折するようだった。馬橋川に架かる馬橋を渡るが、本来の旧道はこの左手からここへ合流するようだ。このあたりも旧道は失われているようで、馬橋からそのまま直線で進んでいくと「井奥地蔵堂」が右手にある。
左手、大橋川の中にある塩楯島に「手間天神社」がある。
道はJRの線路に沿っており、その先で跨線橋があったので、これを渡って進むつもりだったのだが、何と工事中で渡れない。前後を見たが踏切も見当たらないので、やむなく線路を横断して9号線に出る。そこは二股になっていて、9号線から分岐して右の道を進み、その先で9号線に合流する。
右手に「平濱八幡宮」がある。創建年代は不詳ということだが、天永2年(1111)には別宮として創建されているということなので、それ以前に創建されており、古い歴史を持った神社だ。岩清水八幡から勧請されたもので、出雲八社八幡の筆頭神社であった。境内末社に武内宿弥を祀る武内神社があり、ここの大祭は有名で、通称「たけおっつあんまつり」として親しまれており、徹夜の祭典には10万人の人出と数百軒の露店で賑うという。
9号線から左へ分岐、池を右に見ながら進んでいくと、左手角に「安国寺」の碑が立っている。ここから500mほどのところに安国寺はあり、足利尊氏、直義兄弟によって後醍醐天皇の冥福を祈るため暦応元年(1338)から全国に建立されたお寺の一つだ。
意宇川に架かる出雲郷橋を渡って進むと、右手少し入ったところに「阿太加夜神社」がある。ここは創建は不詳だが、天平5年(733)の出雲風土記に阿太加夜神社として記載されている。現在の本殿は元禄8年(1695)に造営されたものだ。境内に稲荷神社があるが、ここと松江城山の稲荷神社との間に12年に1度神幸式が行われるが、そのときの「ホーランエンヤ」の舟行列は有名である。
左手に「薬師堂」があり、右手に「浄土寺」がある。どちらも「雲陽誌」に紹介をされており、浄土寺の本尊の光背は寛政期(1789~1801)に活躍した名工小林如泥の作ということだ。
揖屋踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に「大内神社」がある。天文12年(1543)大内義隆は尼子氏を討つ為、北進してきたが成功せず、退却することになった。そのとき義隆の子、当時20歳の大内晴持の乗った舟が転覆して死んでしまった。その水死体を見つけた網元八斗屋惣右衛門が内密にこれを葬り回向してやったという。葬った当初は晴持の霊魂が馬で通行する武士などを悩ませたので、小さな社を建て晴持を祭神として大内権現と名づけ、毎年祭事を行ったという。明治時代になって大内神社と改められたが、今でも権現さんと呼ばれているという。
東出雲町に入ると、各所に「出雲街道」の標識が立っている。
17時30分に揖屋駅に到着し、出雲駅までJRで戻る。
本日の歩行時間 7時間50分(松江城、月照寺散策の時間は除く)。
本日の歩数&距離 47107歩、33.2km。
旅の地図
記録
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2010年04月07日(水)
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2010年04月08日(木)
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2010年04月14日(水)
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2010年04月15日(木)
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2010年04月16日(金)
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2010年04月17日(土)
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2010年04月18日(日)
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2010年05月04日(火)
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2010年05月05日(水)
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2010年05月06日(木)
プロフィール
歩人
かっちゃん