山陰道〈島根県)を歩く

2010年04月07日(水) ~2010年05月06日(木)
総歩数:394342歩 総距離:281.4km

2010年04月18日(日)

波根~田儀~小田~出雲

                     晴れ

 8時12分に波根駅を出発する。今日もいい天気だ。いつ、どこで藪コギをしなければいけないかわからないため天気のいい日を選んで歩いているのだが、こうして予報どおりに天気がいいとありがたい。
 波根駅からJRの線路に沿って進み、突き当たりでガード下を通り、一旦少し戻って左折して進む。
左手に「郷社八幡宮」がある。このあたりは古い家並みが続いている。
郷社八幡宮 
 波根川に架かる叶松橋を渡って進み、9号線に合流する手前で左折して進む。左手に朝波小学校があり、この校門付近に一里塚があったということだが、いまでは遺構はなにも残ってはいない。
この先によく分からない場所がある。市役所から頂いた資料によると「道はあるが、途中ブッシュがけわしい」と書かれている。その場所へ行く前に民家があり、その家の人がおられたので道をお聞きすると、その道は自分も行ったことがなく、おそらく通ることはできないだろうということだった。そしてそこへ至る手前で左折すると歩くことが出来る道に合流するということを教えていただいた。その段階では教えていただいた道を歩こうと思っていたのだが、「ちょっとだけ」旧道の入口を見てみようと思って進んでみた。この「ちょっとだけ」が間違いだった。入口に古い朽ちたような丸太が数本小川に架かっており、その先に人一人がようやく歩くことが出来るような道が続いている。道があるのだ。道があるのであれば「ちょっとだけ」行ってみようと悪い癖が出てしまった。地図で道がない距離を測ってみると700~800mほどだ。歩き難いことを考えても20分もあれば通り抜けることが出来るかもしれないと思い、時間を計りながら先へ進んでいった。道は案外長く続いていたが、7分ほど進んだあたりで次第に道がなくなってきた。ここで引き返せばよかったのだが、ここまで来たからには何とかこの藪を抜けることができないかという具合に気持が切り替わってしまっていた。完全にスイッチが入ったのだ。
藪コギだ 
 さあそれから苦闘が始まった。沼のようなところがあって靴がズボッと埋まってしまったり、荊で引っかいたりといつもの藪コギだ。視界が開けないので自分がどこにいるのかわからない。ただ、ここまでほぼ直線で来ているので(と、自分では思っていた)左手に行くと当初歩こうと思っていた道があるはずだ。従っていよいよになれば左手に行けばいいと思っていた。そのうち左手から(と、このときは思った)車の音が聞こえてきた。道があるのだ。よしそちらへ進もうと思って尾根を目指して進んでいき、ようやく藪を抜け出すことができた。ただ出たところは高い崖の上で、下に舗装された立派な道が見える。どう見ても迂回路ではないようだ。ただいまさら藪の中へ戻るのも嫌なので、しばらく崖に沿って進み、その先で坂を下って、下に見えていた道路に出た。出た道はどうも9号線のようだが、自分がどこに出たのかがわからないので、どちらへ向かって進めばいいのかがわからない。とりあえず、右へ進んでいくと表示板があって、浜田方面となっているので、これは逆方向だと気がついた。そこで左へ9号線を歩きはじめ、少し行ったところで右手に地図に載っている工場があるのに気がついた。これで自分のいる場所は把握できたのでとりあえず田儀のほうへ歩いていくことにした。後でGPSの情報を見てみると、藪の中を自分では左へ進んだつもりだったが、見事に右へ、それも直角に近い形で曲がっていた。完全に方向感覚が狂ってしまっていたのだ。
 今更山の中へ戻るわけにも行かず、仕方がないので9号線を進んでいく。このまま9号線を進んでいっても田儀には着くのだ。暫く歩いているうちに、朝山というところから9号線から分岐する道があり、この道を通っていくと旧道に合流することが出来ることに気がついた。よし、せめて途中からでも旧道に合流しようと思ったが、さて分岐する道がどこなのかがわからない。誰かに聞きたいと思ってもだれもいない。だれかいないかと思いながら歩いていると、男性が庭に出ておられる姿が見えたので、急いで大声で呼びかけて道を聞いた。そうすると分岐する道は既に通り過ぎていたがそれほど前ではないことが分かったので、引き返して旧道へ向かった。
 旧道へ合流する少し手前に「鶴賀駐輦碑」が立っている。明治40年に大正天皇が皇太子であったとき、山陰を巡幸され、この朝山の峠で馬車〈鶴賀)を駐めて休憩されたという。行列は馬車5台、人力車150台、馬20頭、従者90人余の大掛かりなものだったという。記念碑の文字は東郷平八郎元帥の筆によると説明されている。
鶴賀駐輦碑 
 その先で旧道が合流している場所があった。ここを歩けなかったことが残念だ。
 その先で道は二股に分かれており、その角に「山谷道路改修記念碑」が立っている。ここから右へ進む。
 食肉公社があって旧道は失われているようなので、迂回して進む。
山谷道路改修記念碑 
 その先で二股に分かれているところがあるので、これは右へ進み、更にその先でもう一度二股に分かれているところがあり、右へ行くと土道になっているが、ここは左へ進む。右手に池がある。ここから先も地図に道が記載されていなかったが、市役所の資料には「道あり」と書かれていたので進んでみると、ここは車が一台通ることが出来るほどの舗装された道が続いていた。その先で二股 
 坂を下っていくと集落があり、その中を通っていく。左手に「島津屋口番所跡」の石碑が立っている。
島津屋口番所跡 
 この道は古くから石見と出雲を結ぶ重要な道で江戸時代島津屋には天領の石見銀山領と出雲松平藩との境の東口門戸として口番所が置かれており、朝6時から夕6時までを通行時間としていたと説明されている。
 その先右手に消防の機材置き場があるところで道は二股に分かれており、どちらを進むか迷ったが、右手の山を登る道を進む。
消防の機材置き場 
 坂を登り、その先から坂を下っていくと、右手に「源蔵塚」がある。
源蔵塚 
 江戸時代の初め、このあたりに源蔵夫婦が住んでいたが、大森銀山で銀を盗んで逃げてきた男をかくまったという罪で処刑されてしまった。村人は哀れんでこの夫婦の遺体を埋め、塚を造り、松を植えたという。これが「源蔵塚、源蔵松」だ。これらは藩政時代に出雲、石見の国境として重要な役目を持っていたということだ。塚の傍らの石碑は後年供養のために建てられたもので正面に「南無妙法蓮華経・法界」側面に享保7年(1722)壬寅10月13日 大田村長谷淀」と刻まれている。
 ここから出雲市に入る。大田市はとても詳細な資料を頂いて本当に助かった。有難うございました。
 田儀川に架かる魚貝橋を渡り、川沿いの道の横に右斜めへ伸びる道を進む。口田儀の信号で9号線を横断、突き当たりを左折して進み、その先で9号線に合流する。
 左手に「手引ケ浦台場公園」がある。幕末に外国船の来航が続いたため、松江藩はこの地と湾の西田儀川の二ヶ所に台場〈砲台)を築いて大砲を三門ずつ配備したという。大砲が複製されている。
手引ケ浦台場公園 
 ここで昼食にする。今日も例によって今朝出雲のコンビニで買ったパンだ。
 9号線を進み、跨線橋の前から歩道のない9号線から分岐して集落の中を歩き、その先で一旦9号線に合流するが、右斜めへ分岐する道があり、これを進んで、山陰街道柳谷踏切でJRの線路を横断する。
左手に「一畑薬師」の石碑が立っている。
一畑薬師」の石碑 
 跨線橋を渡って9号線に合流する。しばらく9号線を進み、東港入口の信号から9号線と分岐して右斜めへ進む。9号線と分かれてホッとする。
 集落の中を進むと右手に安政5年(158)と刻まれた「法華経塔」と「一畑薬師」が立っている。
法華経塔」と「一畑薬師 
 9号線の向こう側に小田神社が見える。 
小田川に架かる宮の下橋を渡って進み、280号線に合流する。右に小田駅が見えるところから左折して進み、9号線の手前から右折して旧道を歩く。
 左手前方に真浄寺があるところから右折、280号線に合流、跨線橋の下を線路沿いに進み、その先で9号線に合流する。新道の信号で9号線から分岐して左折、すぐ先で右折、その先の突き当たりを左折する。
 右手に「地蔵尊」があり、元治元年(1864)6月に再建と書かれており、この像は三代目とされている。
右手に地蔵尊 
 左手に円通寺があるところから右折、久村川に架かる久村大橋を渡る。
ここにも「一畑薬師」が立っており、その横に常夜燈が立っている。
一畑薬師、常夜燈 
 左折して進むと右手に西楽寺がある。その先で海岸沿いの道に出て進むが、この先で右斜めへ分岐するのだが、目印がなにもなくて、途中で曲がってしまったりしたが、ちょっとした坂があり、それを下ったところから右折する。
 道なりに進んでいくと、右手に「一畑薬師と地蔵尊」が立っている。
一畑薬師と地蔵尊 
 蛇島南集会場の前にも「一畑薬師と六地蔵」が立っている。
 差海川に架かる差海橋を渡って右折、その先で9号線を横断して進むと、左手に弘化4年(1847)と刻まれた「力士碑」と「地蔵堂」がある。
力士碑と地蔵堂 
 時刻は15時を過ぎた。今回は出雲市まで出て終わる予定にしており、そこまでの資料しか持ってきていない。できれば今日北九州へ帰りたいのだが、アクセスを調べると、最終は18時32分に岡山経由で小倉まで帰るJRがあり、その前は18時に出雲からバスで広島駅まで出て、新幹線で小倉へ帰る二通りの方法がある。もし間に合わなければもう一泊すればいいやと思っていたのだが、ここまでくるとギリギリ間に合いそうだ。こうなると何とか間に合わせたいと思うのが当然で、ギアチェンジをして急ぎ始める。
 左手に「一畑薬師」がある。このあたりは一畑薬師がとにかく多い。
 左手に「胎泉寺」がある。境内に天保6年(1835)に門人達が建てた医師梶谷春揚の頌徳碑がある。
胎泉寺 
 その先で右折するのだが、YAHOOの地図に小林商店というお店が左手にあるように載っているが、これは間違いで実際は右手にあった。ここから右折するとすぐ先の右手に大願寺があった。すぐ先で道は二股に分かれているので、左へ進む。
左手に「大就寺」がある。天文14年(1544)毛利元就に属して川本温湯城を引き払い、三部下横尾城に移った小笠原氏が城の鬼門にあたるこの地に寺を建てたということだ。境内には小笠原三代の墓碑がある。
大就寺 
 その先保知石川に沿って進む。
 「願勝寺」が左手にある。ここを開基した善想法師は元亀元年(1570)の石山合戦に参戦し、その戦功が本願寺法皇に届いて「願」の一字を賜って、「願勝寺」を建立したという。元和元年(1615)に焼失したが、宝暦元年(1751)に再建され、その後増改築を重ねて現在に至っているということだ。
願勝寺 
 その先で区画整理でも行われたのであろう、道は一直線に伸びているが、途中から右折して旧道と思われる道を進み、やがて9号線に合流する。芦渡の信号から右折、右手に神戸川小学校のあるところで二股に分かれているので、これを左へ進む。
 左手に「天満宮」がある。ここの創立は定かではないが、江戸時代の始めには存在をしていたようで、慶応元年(1865)に現在地に移されたということだ。
天満宮 
 第一下古志踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に「弘法寺」がある。ここは天平年間(729~748)に領主公卿形部臣が建立、大同2年(807)高祖大師が自身の姿を刻んで大師堂に安置されたという。承久3年(1221)後鳥羽上皇が隠岐へ遷幸の際、ここを信仰され、不動尊を寄付されたそうで、現在でもそれは残されているということだ。
弘法寺 
 右手に「恵比須神社」がある。神亀年間(724~728)から古志郷にあったが、その後古志町が拡大するにつれて所在地が変わっており、現在地に鎮座したのは明治20年ごろと説明されている。
恵比須神社 
 道を挟んだ反対側に「正法寺」がある。ここには「大梶七兵衛翁位牌堂」がある。七兵衛は計測工役の技に優れており、この一帯の開拓事業に大きな役割を果たしたということだ。元和7年(1621)に生まれ、元禄2年(1689)に亡くなったという。
大梶七兵衛翁位牌堂 
 古志大橋を渡って右折、その先で左折して184号線を横断、その先の二股を右へ進み、その次の二股を左折、更にその先を右折と何度も角を曲がりながら進むと、左手に「神門寺」がある。ここは天応元年(781)に宋肇菩薩によって創建され、二世は伝教大師、三世は弘法大師で、弘法大師がここで「いろは歌」を作られたということから「いろは寺」ともいわれているということだ。永く密教を厳修していたが、38世良空上人が法然上人の専修念仏に帰依したことから山陰地方における最初の念仏弘通の霊場になったという。
神門寺 
 この先で新しく道ができていて、地図と異なる様子になっていたため、道が分からずにウロウロしてしまう。時間はすでに17時を回っていて、かなり焦る。幸い近所の方がおられたので、地図を見せて道を教えていただくことができた。赤川に架かるほたる橋を渡り、右手に「日吉神社」があるところで、街道から離れて出雲市駅へ向かう。

 17時33分に出雲市駅に着く。何とか間に合ったが、今回の4泊5日の歩きはいずれも時間に追い立てられるような歩きが多く、さすがにくたびれた。駅のトイレで汗で濡れたシャツを着替えて、18時のバスに乗って帰宅する。18時32分のJRで岡山経由で帰るより一時間半早く帰り着くので、これに間に合ってよかった。

 本日の歩行時間   9時間21分。
 本日の歩数&距離  52900歩、37.3km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん