山陰道〈島根県)を歩く

2010年04月07日(水) ~2010年05月06日(木)
総歩数:394342歩 総距離:281.4km

2010年04月15日(木)

岡見~折居~浜田~下府 

                   曇後晴れ

 7時28分に宿を出発する。昨夜は雨が降っていたようで、地面が濡れていたが、朝には雨は止んでいた。
右手にJAの支所があるところから右折する。ここから先は旧三隅町の方から詳細な地図を戴いたので、それに従って進む。
 右手に「六地蔵」があり、その横に「井戸公の石碑」が立っている。これから先、井戸公の石碑が色々なところに立っていた。
右手に「六地蔵 
 左手少し入ったところに覚泉寺があるところを直進し、その先の二股で左へ進み、山際の道を歩く。左手少し入ったところに 
 岡見川に架かる高杭橋を渡り、その先で9号線に合流、左折して9号線を進んでいく。ここから先で9号線から分岐して山の中に旧道があるように歴史の道調査報告書ではなっていたが、三隅町から戴いた地図を見ると道は全く失われていて歩くことができないようなので、暫く9号線を歩くことにする。
 滝見集落があり、僅かの距離だが9号線から分岐した道があるのでこれを歩く。左手に「観音堂」があり、その道を挟んだ前に「三界万霊」があった。
滝見集落 
 田原川に架かる中田原橋を渡って進むと、右手に三隅変電所があり、その先に「慶徳寺」がある。
ここの山門は立派な造りだ。
慶徳寺
 田原の信号で9号線と分かれて右へ進み、田原川に架かる田原橋を渡り、更に三隅川に架かる大橋を渡ってすぐに左折、川沿いを進む。左手に新三隅大橋があり、その少し先から右へ下る道があるので、これを進む。
 右手に「鐘ノ尾砦跡」の案内板が立っている。それによると三隅にある正法寺の前の丘を鐘ノ尾といい、そこには三隅氏の兵糧倉があったそうで、近年まで戦火で焼けた米が発見されたという。鐘ノ尾とは敵を発見したとき、鐘を鳴らして味方の出城に警報した山の尾からきた地名と説明されている。
鐘ノ尾砦跡 
 その先で右斜めへ進み、小野の集落を通るが、右手に洞明寺がある。その先JAがあるところから左へ進んで9号線に合流する。
 石田川に架かる庚寅橋、明治橋を渡って右へ東平原方面への道を進み、その先で石田川に架かる堂ケ原橋、花立松橋を渡って進む。ここからきれいに舗装されているが山の中の道になる。室谷農免農道となっているが、人はもちろん車もほとんど通らない道だ。歴史の道調査報告書によると、この道の途中から右へ分岐する道があるようだったが、歩いているときは分からなかった。後になって見直していると途中で右へ進む土道があったので、あれが旧道だったのかもしれないと思った。
 ひたすら舗装された道を進んでいく。誰も通らない静かな道に鶯の鳴き声だけが盛んに聞こえて気持がいい。ただ山の中の道は目印となるものが何もないので、自分がどのあたりを歩いているのか皆目分からない。
ひたすら山の中
 黙々とかなりの距離を歩いていくと突然前方に海が見えてきた。峠を抜けたのだ。なぜか海が特別きれいに見える。
黙々と歩いていくと 
 ここから9号線に合流して進む。
 折居駅の手前から右折して進むと、右手に「厳島神社」がある。実はこのあたりから旧道が山の中を通っていて、暫く先で9号線に合流するようになっており、実際山を上る道が見えたのだが、なんとなく自信が持てなくて、折居駅の前にあった老人ホームへ入っていってそこの職員の方に道を聞いた。その方のいわれるには山のほうへ進む道は確かにあるが、途中で何カ所も分岐していてわかりにくく、しかも現在山陰道路の建設が行われていて、一層道が分かりにくくなっているので、9号線を歩いたほうが無難と言われた。このあたりも地図は縮尺が大きいものしかなく、ほとんど道が載っていない地図しか手元にないので、しかたなく9号線を歩くことにした。
 9号線は海辺を通っているため、風が強く寒い。右手の山を見ると道路工事が行われている。これが山陰道路の工事なのだろう。ここから先、しばらくこの工事は続いていた。この道路ができて、どれくらい便利になるのだろうか?現実に9号線はそんなに渋滞しているわけでもなく、また信号もそれほどない道路にみえるのだが・・・。
途中で旧道が合流しているはずだと思って右側を注意してみていたが、どの道がそうなのかはわからなかった。
 その先で9号線から分かれ、右側に入ったところに「周布古墳」があったので立ち寄ってみた。この古墳の築造時期は出土した埴輪の特徴から5世紀後半から6世紀はじめ頃と推定されていて、石見第2の規模を持っているということだ。周辺に5世紀から6世紀頃の古墳が集中していることから、5世紀から7世紀までのあいだ、この周布平野に石見の政治的中心があったと考えられているということだ。
周布古墳 
 ここから坂を下って305号線に合流、右折して進む。周布川に架かる久光橋を渡って左折、すぐ先を右斜めへ進む。
 右手に「淨琳寺」があり、そこに「吉賀三郎右衛門之碑」が立っている。享保7年(1722)飢饉による年貢の増納に反対をした原井組大庄屋三郎右衛門は家財一切を没収され、4人の子供ともども斬罪に処せられたという。しかし三郎右衛門の農民を思う気持は後々まで語り継がれたため、供養塔を建立したと説明されている。
淨琳寺 
 ここから一直線に道は伸びており、その先で左折、更に突き当たりを右へ進む。9号線に合流する手前で右折、その先で9号線に合流する。
 合流後すぐに左折、突き当たりを右折して進む。
 右手に「地蔵堂」と嘉永5年(1852)と刻まれた「題目石」が立っているが、碑の表面がかなり崩れ落ちていた。
右手に「地蔵堂」と 
 江川里道踏切でJRの線路を横断、左へ進み、突き当りを右折して進む。
 右手に「大島天満宮」がある。ここは鳥羽天皇の永久年間(1113~1117)に大宰府天満宮から菅原道真公の御霊を勧請したという。
大島天満宮 
 右手に「訂心寺」がある。ここは周布氏14代元兼が現在地へ移し、訂心寺と名を改めて歴代の祈願所としたところだ。墓所には開山禅拙天僧大和尚と元兼、元盛の墓碑がある。
訂心寺 
 この訂心寺の横からグルッと迂回する形で街道は回っており、その先で先ほどの241号線に合流する。
 その先で右へ上る道があり、長浜踏切でJRの線路を横断して進み、9号線に合流する。その先、右手に第二中学校があるところから旧道があったようだが、現在では道は失われているようなので、9号線を進む。
 右手、少し入ったところに「専稱寺」がある。ここの山門は変わった形をしているが社殿は新しかった。専稱寺 
 その先左手に「十念寺」があるが、ここも社殿は新しかった。
漁港入口の信号から左斜めへ進み、最初の角を右折、京町の信号で9号線を横断して進む。
 榮町商店街があり、ここの五叉路を右折、すぐ次を左折する。
 右手に「神並山天満宮」があり、嘉永5年(1852)と刻まれた鳥居が立っている。また境内には「筆塚」がある。ここは使い古した筆を埋めていた塚だ。文政年間のころ、このあたりの庶民の間でも俳諧が盛んになったといい、文政14年(1817)春水堂寒光が筆塚を建立したという。
神並山天満宮 
 ここから街道を外れて「長安院跡」へ行って見る。長安院は浜田藩主松平周防守の菩提寺で慶安3年(1650)に創立され、宝永6年(1709)に大建築が完成したという。その後長安院は周防守家とともに棚倉に移ったため、現在では墓所だけが残っている。長安院跡 
 この横に「浜田久光山八幡宮」がある。ここは天正2年(1574)岩清水八幡宮より夕日ケ丘の砦に勧請され、寛永13年(1636)に現在地に移築されたという。正徳3年(1713)と刻まれた鳥居が立っている。
浜田久光山八幡宮 
 街道に戻って鏡山大橋の手前から右折、相生橋を渡って右折する。左手に「龍泉寺」があり、宝暦12年(1762)と刻まれた題目石が立っている。
龍泉寺 
 その先で208号線に合流、ガード下を通ってJRの線路を越え、線路沿いを進む。
 右手に「大師堂」があり、井戸平左衛門の戒名である泰雲院、享保18年(1733)と刻まれた石碑と天保5年(1834)と刻まれた「三界万霊」が立っていた。
右手に「大師堂 
 左手に浜田駅があるところから右折して、とりあえず今日のホテルに入って荷物を置き、身軽になってもう少し先まで歩くことにする。荷物があるとないとでは負担がかなりちがうのだ。
 右手に石見武道館があるところから左手に細道があるので、これを進み、梨田踏切でJRの線路を横断して、9号線に合流する。このあたりから9号線から左手に旧道があるようになっているが、市役所に問い合わせをすると、いまでは道がなくなっているので、9号線を歩いたほうがいいと言われたため、9号線を進み、その先の王水道の信号から9号線から分岐して山際の道を進み、その先で9号線に合流。右手川を渡ったところに下布駅があるので、今日はここで終わることにする。下布駅から浜田駅までJRで戻って宿に入る。

 16時58分 下布駅に到着する。

 本日の歩行時間   9時間30分。
 本日の歩数&距離  47219歩、35.9km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん