2010年03月26日(金)
美祢~塩見峠~下関吉田
晴れ
9時4分に美祢駅に着き、街道に合流して歩き始める。
右手に新四国美祢市八十八ヶ所第六十四番霊場となっている弘法大師の祠があり、その先の二股を右へ進む。
今日は天気はいいのだが花冷えという言葉がピッタリする寒さだ。
三叉路があり、これを左折して進むと、右手に美祢市八十八ヶ所第六十七番霊場の祠があり、その横に鳥居に文化6年(1809)と刻まれた貴船神社がある。
吉則第一踏切を越えて直進すると33号線に合流する。その先でわずかの距離だが、左折して半円を描く形で旧道が伸びており、すぐに33号線に合流する。
厚狭川に架かる渋倉橋、その先で叔父ケ瀬橋を渡り、JRの線路を横断(ここには踏切はない)、すぐに左折して進む。
角に二つ祠が立っている。左手に南大嶺駅を見ながら、JRの線路に沿って進む。
前方に四郎ケ原トンネルが見えるところから右折する道があり、資料によるとこれが旧道で、トンネルの上を通って反対側へ抜けるようになっているので進んでみた。
ところが最初はきれいに舗装された道だったが、すぐに倒木が折り重なっていて道がなくなった。それでもそれらを乗り越えて進んでみたが、その先から全く道はなくなっていて、進むことができない。
仕方がないので、一旦33号線に戻り、トンネルの左側に道がついていたのでこれを進む。資料によるとトンネルの上部で先ほどの右手から回る道と合流しているので注意をしながら進んでいったが、それらしい道はなかった。
右手から回る道は完全に失われてしまっているようだった。
山を越えると33号線に再び合流する。33号線は車が多く、しかも歩道がないので歩き難い。
道路工事が行われており、その先で右折する道があるので、これを進んで行き、四郎ケ原集落に入っていく。
集落の中ほど、左手に「諸隊宿應懲隊宿陣跡」の標柱が立っている。大田、絵堂戦役の際の陣屋の跡なのだろう。
またその横の家の前に吉田松陰投宿之碑が立っており、嘉永3年(1850)8月25日、九州遊学のため四郎ケ原に宿泊したと西遊日記に記されていると説明されていた。松蔭、21歳の時だったという。
右手、城原小学校の横に神社があったので行ってみた。天保3年(1832)と刻まれた常夜燈や寛政4年(1792)と刻まれた鳥居が立っており、かなり古い神社のようだが、由来はなく、名前も分からない。丁度小学生が数人通りかかり、「こんにちは」と挨拶をしてくれたので、神社の名前を聞いてみると、「ワカミヤサマ」と呼ばれているということだった。
33号線に合流して進み、その先、左手に流れている厚狭川が直角に曲がるところの少し先から右折する道があり、これを進む。
ここは舗装された道だが、その少し先から左折する土道があり、これを進む。
この旧道も日ごろ人が通っていないようで、大分荒れていたが一応道はあり、特にこの時期は草が枯れているので歩くことが出来る。ただ途中に湿地帯があり、萱が相当に繁っていたので夏場ここを歩くのは厳しいかもしれない。
山を下ると235号線を横断して直進する。235号線と合流する右手角に文政2年(1819)と刻まれた、大理石で作られた「江ノ河原の地蔵」が立っており、その先の角に「植松・柳井川←1.7km 旧赤間関街道(中道筋)」と書かれた標識が立っていた。
こういうのを見ると道が間違っていないことが分かり安心する。
江ノ河原川に架かる夏焼橋、植松川に架かる第一植松橋、第二植松橋を渡って233号線を進んでいく。
左手に「歴史の道(赤間関街道)」の案内板が立っている。
この案内板の横に山道があり、150mほど旧道が残っていると説明されており、確かに横に土道が伸びているので、これを行ってみた。方角からみて、これまで歩いてきた方向へ戻っているようだ。ということは先ほど山を抜けてきたあたりから、この道に繋がる旧道があったのだろう。
きれいに整備された道を行くと、柵がしてあり、そこから先は行くことができないようになっている。私有地なのだろう。
仕方がないので元の場所へ戻り始めた。
その時、なにやら小鳥の鳴き声がする。それも普通の鳴き声ではなく、えらくけたたましい鳴き声だ。どこで鳴いているのだろうと思って周囲を見渡すと、道の横に小鳥がいてもがいている。最初は何かの罠にかかったか、あるいは巣から落ちてもがいているのかと思ってみたが、どうも違うようだ。よく見ると小鳥は二羽いて盛んに羽をばたつかせながら、上になったり下になったりしている。写真を撮っても、その動きは一向に止みそうにないので、更によく見ようと思ってもう一歩踏み出した途端二羽は飛び立ってしまった。二羽とも元気だったので、交尾でもしていたのかもしれない。
233号線に戻って進むがその先で道が微妙に交差していて迷ってしまった。十字路があり、その先で道は直進する道と左折する道に分かれている。
地図を確かめるがよく分からないので、とりあえず直進してみた。ところが道は砂利道になっている。この道は県道なので砂利道はないだろうと思いながら、暫く進んでみたが、どうもおかしいと思って元に戻り、今度は左折してみた。このあたりは地図に目印がなく、唯一道に沿って池があるので、これを頼りに歩いていったがどこまで行っても池がない。道の形状もどうも地図とは違うようだ。誰かに道を聞きたいのだが、だ~れも人がいない。困ったな、と思っていると軽トラが通りかかったので、手を上げて地図を見せながら道を聞いてみた。この方は地元の人だというが、分からないという。県道233号線といってもご存知ないのだ。さて、困った。どうしようと思ったが、こうなれば焦っても仕方がない。幸い今日は距離が短いので、時間的な余裕はたっぷりある。昼になっていたのでまずは腹ごしらえをしようと思い、いつものように持参したパンを食べ始めたところに、自転車に乗った方が通りかかった。
本格的な装備をされているので、この方だったら分かるかもしれないと思ってお尋ねすると、とても親切に一緒に考えてくれ、とりあえず一旦県道まで戻りましょうということになった。この方について行くと、先ほどの「赤間関街道」の案内板が立っているところにもどった。ここは間違いがない場所だ。ここから先ほど歩いた道を辿っていき、先ほどの十字路のところに来た。ここから私は直進と左折をしたのだが、県道233号線はここから右折するのだった。ではどこかに池があるはずだと思いながら進んでいくと、右手に放水路のようなものがあり、その横に階段があったので、それを上ってみると、池があった!これでこの道で間違いないことが分かった。もう大丈夫だとホッとする。後でデータを調べてみるとこの間で1時間半をロスしていた。
その先で道は二股に分かれているので、これを左折して進む。地図のとおりの道だ。
こうなると余裕が出てきて、この方と話をしながら進む。この方は自転車に乗って月に1000kmほど走られるとのこと。若い頃にはフルマラソンにも出られており、3時間20分台で走られていたという。現在51歳ということだったが、とてもお元気な方だった。道は舗装されており、一本道なので途中で迷うことなく、無事65号線に合流することができた。ここで左折、すぐ先を右折して233号線を進むこの分岐点でお別れするが本当にお世話になり有り難かった。お陰さまで無事旧道を歩くことができた。感謝である。別れ際に写真を撮らせていただいた。
その先で道は二股に分かれているところがあり、これを左へ進む。
十字路があり、その左角小高いところに三界万霊と庚申塔が立っていた。「柳井坊の地蔵」だ。
更に直進すると塩見垰に差し掛かる。ここは美祢市と下関市の境になっているところだ。中道筋で始めて瀬戸内海を望むことができたことから付けられた名前ということだが、現在は見ることができない。
道は掘割になっており、更にその先では竹が軒並みなぎ倒されたようになっている。先日の大雪の影響なのだろう。
この裏は現在ニュージランド村になっているようだ。峠を抜けると中ノ岳からの道と合流、貞恒川に沿って道を下っていく。右手に砂防ダムがあり、そこから旧道は川の向こう側を通っていたということだが、道は失われているようなので、川に沿って舗装された道を下っていく。
もう少し下ってきたところで対岸を見ると、旧道らしき道が僅かに見えたので、途中にあった橋を渡っていってみると、確かに旧道が残っていた。
ただ、この橋から先は旧道は残っていなかったため、舗装された道に戻って進む。
小さな橋を渡るが、ここでも少し小高いところに旧道が僅かに残っていた。この道も少し戻ってみたが、その先は消失しているようだった。そのすぐ先で湯谷にでる。
八大竜王の祠があり、その上にかすかに旧道が残っているようなのでこれを行って見たが、すぐ先で藪に包まれてしまって道はなくなっていたので、川沿いを進みその先で33号線に合流する。
このあたりの旧道は中国自動車道を作った際にかなりの部分失われてしまったようで、仕方がないので33号線を歩いていく。
左手に自然石に彫られた庚申塔が立っている。川土手のような旧道がここに繋がっているようだった。
貞恒のバス停の裏に旧道が僅かに残っており、ここに「大判地区の庚申塔」が立っている。
その先中国自動車道の下関JCTの下を抜け、33号線から左折した旧道に入る。
貞恒川に架かる清瀬橋を渡って進むと、その先に山陽道との分岐点があり、「右 上方道 左 萩道」という道標が立っている。山陽道を歩いた時、ここを通ったことを鮮明に覚えている。
山陽道はここから左折して進むのだ。
15時38分にここに到着する
ここから下関までは山陽道を歩いた時にすでに歩いているため、ここで中道筋は終わることにする。
本日の歩行時間 6時間34分。
本日の歩数&距離 35499歩、25.7km。
赤間関街道(中道筋明木~吉田間)総合計
総歩行時間 15時間46分。
総歩数 85173歩。
総歩行距離 61.7km。
北浦道筋純距離 52.2km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
なお、萩唐樋札場から明木までの距離は7.5km、吉田から下関までの山陽道の距離は12.7km
を加算すると、赤間関街道(中道筋)の萩~赤間関(下関)通算では72.4kmとなる。
9時4分に美祢駅に着き、街道に合流して歩き始める。
右手に新四国美祢市八十八ヶ所第六十四番霊場となっている弘法大師の祠があり、その先の二股を右へ進む。
今日は天気はいいのだが花冷えという言葉がピッタリする寒さだ。
三叉路があり、これを左折して進むと、右手に美祢市八十八ヶ所第六十七番霊場の祠があり、その横に鳥居に文化6年(1809)と刻まれた貴船神社がある。
吉則第一踏切を越えて直進すると33号線に合流する。その先でわずかの距離だが、左折して半円を描く形で旧道が伸びており、すぐに33号線に合流する。
厚狭川に架かる渋倉橋、その先で叔父ケ瀬橋を渡り、JRの線路を横断(ここには踏切はない)、すぐに左折して進む。
角に二つ祠が立っている。左手に南大嶺駅を見ながら、JRの線路に沿って進む。
前方に四郎ケ原トンネルが見えるところから右折する道があり、資料によるとこれが旧道で、トンネルの上を通って反対側へ抜けるようになっているので進んでみた。
ところが最初はきれいに舗装された道だったが、すぐに倒木が折り重なっていて道がなくなった。それでもそれらを乗り越えて進んでみたが、その先から全く道はなくなっていて、進むことができない。
仕方がないので、一旦33号線に戻り、トンネルの左側に道がついていたのでこれを進む。資料によるとトンネルの上部で先ほどの右手から回る道と合流しているので注意をしながら進んでいったが、それらしい道はなかった。
右手から回る道は完全に失われてしまっているようだった。
山を越えると33号線に再び合流する。33号線は車が多く、しかも歩道がないので歩き難い。
道路工事が行われており、その先で右折する道があるので、これを進んで行き、四郎ケ原集落に入っていく。
集落の中ほど、左手に「諸隊宿應懲隊宿陣跡」の標柱が立っている。大田、絵堂戦役の際の陣屋の跡なのだろう。
またその横の家の前に吉田松陰投宿之碑が立っており、嘉永3年(1850)8月25日、九州遊学のため四郎ケ原に宿泊したと西遊日記に記されていると説明されていた。松蔭、21歳の時だったという。
右手、城原小学校の横に神社があったので行ってみた。天保3年(1832)と刻まれた常夜燈や寛政4年(1792)と刻まれた鳥居が立っており、かなり古い神社のようだが、由来はなく、名前も分からない。丁度小学生が数人通りかかり、「こんにちは」と挨拶をしてくれたので、神社の名前を聞いてみると、「ワカミヤサマ」と呼ばれているということだった。
33号線に合流して進み、その先、左手に流れている厚狭川が直角に曲がるところの少し先から右折する道があり、これを進む。
ここは舗装された道だが、その少し先から左折する土道があり、これを進む。
この旧道も日ごろ人が通っていないようで、大分荒れていたが一応道はあり、特にこの時期は草が枯れているので歩くことが出来る。ただ途中に湿地帯があり、萱が相当に繁っていたので夏場ここを歩くのは厳しいかもしれない。
山を下ると235号線を横断して直進する。235号線と合流する右手角に文政2年(1819)と刻まれた、大理石で作られた「江ノ河原の地蔵」が立っており、その先の角に「植松・柳井川←1.7km 旧赤間関街道(中道筋)」と書かれた標識が立っていた。
こういうのを見ると道が間違っていないことが分かり安心する。
江ノ河原川に架かる夏焼橋、植松川に架かる第一植松橋、第二植松橋を渡って233号線を進んでいく。
左手に「歴史の道(赤間関街道)」の案内板が立っている。
この案内板の横に山道があり、150mほど旧道が残っていると説明されており、確かに横に土道が伸びているので、これを行ってみた。方角からみて、これまで歩いてきた方向へ戻っているようだ。ということは先ほど山を抜けてきたあたりから、この道に繋がる旧道があったのだろう。
きれいに整備された道を行くと、柵がしてあり、そこから先は行くことができないようになっている。私有地なのだろう。
仕方がないので元の場所へ戻り始めた。
その時、なにやら小鳥の鳴き声がする。それも普通の鳴き声ではなく、えらくけたたましい鳴き声だ。どこで鳴いているのだろうと思って周囲を見渡すと、道の横に小鳥がいてもがいている。最初は何かの罠にかかったか、あるいは巣から落ちてもがいているのかと思ってみたが、どうも違うようだ。よく見ると小鳥は二羽いて盛んに羽をばたつかせながら、上になったり下になったりしている。写真を撮っても、その動きは一向に止みそうにないので、更によく見ようと思ってもう一歩踏み出した途端二羽は飛び立ってしまった。二羽とも元気だったので、交尾でもしていたのかもしれない。
233号線に戻って進むがその先で道が微妙に交差していて迷ってしまった。十字路があり、その先で道は直進する道と左折する道に分かれている。
地図を確かめるがよく分からないので、とりあえず直進してみた。ところが道は砂利道になっている。この道は県道なので砂利道はないだろうと思いながら、暫く進んでみたが、どうもおかしいと思って元に戻り、今度は左折してみた。このあたりは地図に目印がなく、唯一道に沿って池があるので、これを頼りに歩いていったがどこまで行っても池がない。道の形状もどうも地図とは違うようだ。誰かに道を聞きたいのだが、だ~れも人がいない。困ったな、と思っていると軽トラが通りかかったので、手を上げて地図を見せながら道を聞いてみた。この方は地元の人だというが、分からないという。県道233号線といってもご存知ないのだ。さて、困った。どうしようと思ったが、こうなれば焦っても仕方がない。幸い今日は距離が短いので、時間的な余裕はたっぷりある。昼になっていたのでまずは腹ごしらえをしようと思い、いつものように持参したパンを食べ始めたところに、自転車に乗った方が通りかかった。
本格的な装備をされているので、この方だったら分かるかもしれないと思ってお尋ねすると、とても親切に一緒に考えてくれ、とりあえず一旦県道まで戻りましょうということになった。この方について行くと、先ほどの「赤間関街道」の案内板が立っているところにもどった。ここは間違いがない場所だ。ここから先ほど歩いた道を辿っていき、先ほどの十字路のところに来た。ここから私は直進と左折をしたのだが、県道233号線はここから右折するのだった。ではどこかに池があるはずだと思いながら進んでいくと、右手に放水路のようなものがあり、その横に階段があったので、それを上ってみると、池があった!これでこの道で間違いないことが分かった。もう大丈夫だとホッとする。後でデータを調べてみるとこの間で1時間半をロスしていた。
その先で道は二股に分かれているので、これを左折して進む。地図のとおりの道だ。
こうなると余裕が出てきて、この方と話をしながら進む。この方は自転車に乗って月に1000kmほど走られるとのこと。若い頃にはフルマラソンにも出られており、3時間20分台で走られていたという。現在51歳ということだったが、とてもお元気な方だった。道は舗装されており、一本道なので途中で迷うことなく、無事65号線に合流することができた。ここで左折、すぐ先を右折して233号線を進むこの分岐点でお別れするが本当にお世話になり有り難かった。お陰さまで無事旧道を歩くことができた。感謝である。別れ際に写真を撮らせていただいた。
その先で道は二股に分かれているところがあり、これを左へ進む。
十字路があり、その左角小高いところに三界万霊と庚申塔が立っていた。「柳井坊の地蔵」だ。
更に直進すると塩見垰に差し掛かる。ここは美祢市と下関市の境になっているところだ。中道筋で始めて瀬戸内海を望むことができたことから付けられた名前ということだが、現在は見ることができない。
道は掘割になっており、更にその先では竹が軒並みなぎ倒されたようになっている。先日の大雪の影響なのだろう。
この裏は現在ニュージランド村になっているようだ。峠を抜けると中ノ岳からの道と合流、貞恒川に沿って道を下っていく。右手に砂防ダムがあり、そこから旧道は川の向こう側を通っていたということだが、道は失われているようなので、川に沿って舗装された道を下っていく。
もう少し下ってきたところで対岸を見ると、旧道らしき道が僅かに見えたので、途中にあった橋を渡っていってみると、確かに旧道が残っていた。
ただ、この橋から先は旧道は残っていなかったため、舗装された道に戻って進む。
小さな橋を渡るが、ここでも少し小高いところに旧道が僅かに残っていた。この道も少し戻ってみたが、その先は消失しているようだった。そのすぐ先で湯谷にでる。
八大竜王の祠があり、その上にかすかに旧道が残っているようなのでこれを行って見たが、すぐ先で藪に包まれてしまって道はなくなっていたので、川沿いを進みその先で33号線に合流する。
このあたりの旧道は中国自動車道を作った際にかなりの部分失われてしまったようで、仕方がないので33号線を歩いていく。
左手に自然石に彫られた庚申塔が立っている。川土手のような旧道がここに繋がっているようだった。
貞恒のバス停の裏に旧道が僅かに残っており、ここに「大判地区の庚申塔」が立っている。
その先中国自動車道の下関JCTの下を抜け、33号線から左折した旧道に入る。
貞恒川に架かる清瀬橋を渡って進むと、その先に山陽道との分岐点があり、「右 上方道 左 萩道」という道標が立っている。山陽道を歩いた時、ここを通ったことを鮮明に覚えている。
山陽道はここから左折して進むのだ。
15時38分にここに到着する
ここから下関までは山陽道を歩いた時にすでに歩いているため、ここで中道筋は終わることにする。
本日の歩行時間 6時間34分。
本日の歩数&距離 35499歩、25.7km。
赤間関街道(中道筋明木~吉田間)総合計
総歩行時間 15時間46分。
総歩数 85173歩。
総歩行距離 61.7km。
北浦道筋純距離 52.2km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
なお、萩唐樋札場から明木までの距離は7.5km、吉田から下関までの山陽道の距離は12.7km
を加算すると、赤間関街道(中道筋)の萩~赤間関(下関)通算では72.4kmとなる。