日田往還(朝倉街道)を歩く

2009年12月11日(金) ~2009年12月12日(土)
総歩数:72149歩 総距離:50.4km

2009年12月11日(金)

筑前山家~甘木

                   曇一時雨

 九州のほぼ中央部に位置する日田は四周を山に取り囲まれているが、永山布政所(日田代官所)を核とした政治の要衝であったため、江戸時代には日田を中心に四方に道が張り巡らされていた。「豊後国志」によると日田を核にして、①豊前国宇佐宮路。中津城路、②彦山・小倉路、③筑前国宰府路・福岡城路、④筑後国高良山路、⑤肥後国阿蘇山路・隈府路・熊本城路・直入郡岡城路、⑥玖珠郡森営路の六路があげられている。今年(2009年)2月に歩いた日田往還(中津~日田)は①の道であり、今回歩く朝倉街道はこのうちの③の福岡城へ向かう道のうち、日田から筑前山家までの部分を指している。
 出発点は豊前街道を歩いた時の出発点である「石櫃の追分石」のある場所とした。
 JRで原田駅についてみると雨が降っている。予報では朝方まで雨が残るが、その後は回復するとあったので、午後からの出発と時間をずらしたのだが、これはちょっと想定外だった。ところが石櫃までタクシーで行き、下りた途端に雨が止んだ。これはありがたい、日ごろの行いの良さがこういうときに効果を発揮するのかな?
 「石櫃の追分石」は江戸時代初期の道標で、「右 肥後薩摩道」「左 豊後 秋月 日田 甘木道」と印されているという説明がなされている。
石櫃の追分石 
 ここから豊前街道は右折するのだが、朝倉街道は道標を右に見ながら直進する。11時55分に出発する。
 左手に「松延池」がある。この池は夜須町のほぼ中央にあり、溜池の広さは10haもあって、江戸時代には筑前の国の八大大塘の一つだったということだ。現在は水が抜かれていて、僅かに残った水のところで、二人の方が魚を取っていた。
松延池 
 そのすぐ先、左手に「えびす様」が祀られていたが、由来等の書かれたものはなかったので、詳細は分からなかった。
えびす様 
 曽根田川に架かる篠隈橋を渡って進むと、右手に「高木神社」があり、道に面したところにある大木の前に猿田彦が立っていた。
高木神社 
 右手に「當所神社」がある。ここは本名称は熊野神社なのだが、地元出身の方が里帰りした時に、宝くじを買っていたことを思い出し、祈願をされたところ百万円が当たったということで、それから「宝くじ神社」と呼ばれるようになったということだ。
當所神社 
 この地域は1700年前の弥生時代から人々が集落を形成していたそうだが、享保年間に黒田長興公の命を受け、栗田村から分村したのが、藩政上の村としての始まりとされ、同時期に日光東照宮が完成をしていたので、東照という呼び名を戴いて当所と名づけられたのが地名の由来と説明されている。
土盛り円墳 この神社境内には3mの高さの土盛り円墳があって6世紀後半の横穴式古墳といわれており、更にこの古墳は曽我兄弟の母、虎御前の墓とみられているという。もっとも虎御前は鎌倉時代の人であるから、この伝承は貞女孝子伝説の当地版だろうと説明されている。虎御前の墓は全国に数多くあるという。和泉式部のお墓が全国に数多くあるということを街道歩きをする中で知ったが、虎御前のお墓も同様だとは知らなかった。
 旭ノ下川に架かる旭ノ下橋を渡って進むと、左手に「阿弥陀堂」がある。本尊は阿弥陀仏、脇立観音勢至菩薩で伝教大師の作であったが、文亀元年(1501)小郡光養寺の住職と田主丸厳淨寺の住職が共に自分が祀ると取りに来て争い、首は光養寺に、胴は厳淨寺に持ち去ってしまったので、その後祖帆が像を作り、これが現在の仏像であると説明されている。明治時代に金箔を塗ったため国宝にもれたといわれているそうだ。また、古だぬきが阿弥陀仏に化け、人身御供を強要したという伝説が残されているということだ。
阿弥陀堂 
 その横に庚申塔と天保7年(1836)死去と刻まれた「喜作之墓」が立っていた。
喜作之墓 
 左手に「阿弥陀ガ峰古城」と書かれた説明板が立っている。筑前国続風土記に「久光村にあり、秋月氏の端城の由。その家臣板波左京進守りしと言い伝う」と書かれており、説明板には今は阿弥陀ガ峰山上に金比羅社があり、大己貴神を祀る石の祠があると書かれている。入口に鳥居が立っていた。
阿弥陀ガ峰古城 
 その先、左手に「道祖神」があるところから、街道を外れて左折して進むと、「五穀神社」がある。ここは明和2年(1765)秋月藩主が高上より神社をこの地に移し祀ったという。また、文化16年(1818)に横の約3アールの地に社倉を建て、御囲米を蓄えたと説明されている。
五穀神社 
 その先、街道から左へ入ったところに「仙道古墳」がある。この古墳は古墳時代中期、6世紀の赤色や緑色の彩色で円文・同心円文・三角文などの装飾が描かれている復室の横穴式石室で、昭和52年の発掘調査のときにはかなり破壊されていたが、現在は墳丘の形状を築造当時の姿に復元しており、埴輪も当時のように並べられていた。
仙道古墳 
 北新町の信号で386号線を横断、新町区公民館の横に「西宮神社」がある。入口に猿田彦があり、その横にある鳥居には「恵比須神社」と書かれた額がはめられていた。
西宮神社 
 突き当たりを右折、依井新町の信号を渡って、すぐ次の角を左折して進むと、左手に「庚申尊天」と「えびす様」の石碑が立っている。
庚申尊天 
 道は386号線と併行して通っているのでこれを直進、小石原川に架かる小石原橋を渡って進むと左手に「道祖神」が立っている。
「道祖神」 
 本通り商店街のアーケードの中を進むが平日の昼間ということもあるのだろうが、人通りが少ない。シャッターが閉まった店もかなり多い。
本通り商店街 
 アーケードを抜けてすぐに右折すると、右側に「安長寺」がある。今から1000年以上前、甘木遠江守安道の息子安長が幼時疱瘡を患い命が危ぶまれたが、矢田(奈良県)の金剛山寺の地蔵を信仰していた安道は矢田に篭って祈願し、安長の病が癒えた。安長が長じてこの地に移り、幼時の霊護に報いようと矢田の地蔵尊をこの地に迎えて本尊として本堂に祭ったということだ。甘木市はこの安長寺の門前町から発展した町だ。
安長寺 
 ここには大きな楠の木が立っており、近くにある須賀神社にも大楠がある。安長寺の芽立ちが赤芽で、女楠と見立てられ、須賀神社の楠の芽立ちが青芽で男楠と見られており、この二本の大楠は仲睦まじく、昼は恥ずかしいので、知らないふりをしているが、夜になれば梢を伸ばして触れたり、二本の楠を結ぶ役目を梟が取り持つといわれ、縁結びの楠ともいわれているということだ。
 ここから街道を外れて、「須賀神社」へ行ってみる。ここは創建時期は不明だが、元応2年(1320)に再興、創建されたということだ。前述したように、ここにも大楠が立っている。
須賀神社 
 街道に戻って安長寺の先を左折すると「法泉寺」がある。

 昭和通りの信号を直進すると左手に「屋須多神社」があり、その先で386号線に合流する。

 左手に「立石神社」がある。境内には天保3年(1832)の猿田彦が立っており、芭蕉の句碑が立っていた。
立石神社 
 右手の民家の庭に地蔵堂があり、お地蔵様が二体祀られている。
民家の庭に地蔵堂 
 更にその先、左手に二体のお地蔵様が立っている。このあたりはこのようにお地蔵様や道祖神、猿田彦等が数多く祀られていて、これほど数多く立っている街道はあまり見たことがない。
二体のお地蔵様 
 佐田川に架かる佐田川橋を渡って進むが、その先左手の民家の庭にも地蔵堂が立っている。
 一里塚という名前のバス停がある。このあたりに一里塚があったのだろう。
 「菅槍長七」の墓が右側に立っているが、どのような人なのかはわからなかった。
菅槍長七 
 左に明和4年(1767)と刻まれた猿田彦が立っており、その横にまだ新しい地蔵堂が立っていた。
明和4年(1767)と刻まれた猿田彦 
 左手に朝倉農業高校があるが、ここには立派な銀杏並木がある。今はほとんどが葉を落としていたが、これが黄色く色づいているときはきれいだろうなと思った。
朝倉農業高校 
 左手に「三所神社」がある。ここは宝暦元年(1751)に建立されたもので、文政3年(1820)の鳥居が立っていた。
三所神社 
 この先、ちょっと分かりにくく、386号線を歩いていたが、左側に旧道らしい道があることに気がつき、後戻ってみると、左側に大きな岩があるところから、左手に386号線に沿った旧道があり、これを進む。
左側に大きな岩 
 左手に「恵比須塔」とその横に「豊竹若葉太夫」の碑が立っている。
恵比須塔 
 その先にも「地蔵堂」がある。この街道は本当に地蔵堂が多い。
 新立川に架かる藪の下橋を渡って進み、その先で右折して、16時40分、比良松中学校のバス停からバスで甘木まで戻る。

 本日の歩行時間   4時間45分。
 本日の歩数&距離  28869歩、19.9km。

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