2009年11月25日(水)
高城町〈石山)~都城
晴れ
高岡から高城を経由して都城へ至る道は山の中を通っており、狩猟が始まったこの時期に歩くのは危険と地元の方から言われたため、今回はその区間を除外し、山を下ったところから南へ向けて歩くことにした。
当初の予定では9時4分に鹿児島中央駅に着き、9時11分の電車で都城に向かうことにしていたのだが、今朝は濃霧が発生しており、その影響で鹿児島中央駅到着が9時20分になってしまった。そのため9時11分に乗り遅れてしまい、次は10時42分までない。バス便を調べたが、JRのほうが早いことが分かり、駅のベンチに座って時間をつぶす。1時間半あれば6kmは歩くことができたのになぁ、日暮れが早いこの時期の1時間半は大きいなぁ、などとぼやいてみてもなす術がない。
ようやく時間が来て都城へ出発。少しでも時間の節約を図るため電車の中で早めの昼食を食べ、12時に都城に到着、ここからタクシーで石山小学校まで行く。当初の予定では有水中学校まで行く予定だったのだが、急遽変更し、その約2km手前の場所から12時26分に歩き始める。残った部分は次回、山を歩く際に歩くことにする。
石山小学校の横から左折する道があり、これを進む。きれいに舗装された道路だが、車もほとんど通らない道だ。
二股に分かれているところがあり、ここを右折して進むと10号線に合流する。10号線はいつものことだが車の流れが多い。ただ歩道があるので歩きやすい。
暫く10号線を進んでいくと小さな橋があり、
その先で左手に入る道があり、すぐに右折、10号線と併行して進む。左手は山が迫っている道を直進し、その先で左折しなければいけなかった道を通り過ぎてしまい、一本先の突き当たりを左折してしまった。
左手少し入ったところに「諏訪神社」がある。諏訪明神は島津の守護神とされており、高城を初めて島津氏が領有した享徳の頃(1453)に創建されたものといわれている。ここには馬に乗った稚児と献上品をのせた荷馬を中心に、その前後に多数の人々が連なって行列する「穂満坊あげ馬」という行事がある。文禄の役のとき都城島津家第11代北郷忠虎が出陣に際して諏訪神社に戦勝祈願したが、陣中で病死してしまった。そのため忠虎の長子で6歳の長千代丸が後見役の叔父だった北郷三久に伴なわれて願解きに代参し、神楽を奉納したが、そのときの大行列をまねたものと伝えられている。
ここでもまだ道がよく分からず迷ったが、その後無事旧道に合流できた。
左手に「諏訪馬場古戦場」の標柱が立っている。天文10年(1541)志和池城の北原久兼が伊東氏の援軍を得て北郷忠相の居城日和城を攻めた。そのとき、ここ諏訪馬場鳥井元で両軍が激突し、多数の死者がでたため、その後忠相が六地蔵を建てたり、戦没者の供養塔もあちこちにあったそうだが、今では何も残っていないと説明されている。
47号線に合流し、左折して進むと、右手に「旧後藤家商家交流資料館」がある。後藤家はこの地の大地主で、この家は明治33年に建設したものという。明治17~18年の不況の際、養蚕の発展に寄与し、この商家は当時の養蚕事業のシンボル的な建物だったと説明されている。
その先正面に「八坂神社」があり、そこから右へカーブする47号線と分かれて直進すると、左手に「慶正寺」がある。ここは明治4年に建てられ、明治38年まであった高城小学校の跡地に立てられたものということだ。
その先で右折して進むと大きな木の下に「高城地頭仮屋跡」の標柱が立っている。ここは明治以降昭和33年に現庁舎に移転するまで、ここに役場があったということだ。
その先で左折、すぐ先を右折して直進する。
曲がり角の塀の前に石が置いてある。なにか意味があるのかな?とつい思ってしまうがよく分からない。
ここから右折して進むと、右手に「七日市石敢当」がある。石敢当」は元は中国伝来の風習で魔よけの意味があり、石敢當の字が刻まれた石碑を建てたり、石版を壁面に貼り付けたものが多い。日本では沖縄や鹿児島に数多く見ることが出来る物だ。
ここから左折、すぐ先の小川に沿って右折して進む。このあたりは小さな道が入り組んでおり分かり難い。
突き当たりを左折、高城高校を右に見ながら直進する。東岳川に架かる東岳橋を渡り、その先の二股を右へ進むとここにも新しい「石敢當」が立っている。
10号線を横断、花木川に架かる高櫻橋を渡って一直線に進むと10号線に合流する。
暫く10号線を進み、沖水川に架かる沖水橋を渡ると、右手に「御野立所聖跡」の石碑が立っている。説明がなかったのでよく分からないが、昭和の文字が見えるので昭和天皇がおいでになったときのことかもしれない。
この先で地図と現地が異なっていて、少し迷ったが、橋を渡ってすぐに右折して進むと、川本用水路に架かる平野橋があり、その先に霧島酒造の本社工場がある。ここを抜けてすぐ先で右折、突き当たりを左折し、その先を直進する。
公園に突き当たるのでこれを左折、公園の周囲を回るようにして次の角を右折、更にその先の突き当たりを左折して10号線に合流する。暫く10号線を進み、JRのガード下を通って進む。
その先に今日泊まるホテルがあり、一旦チェックインを済ます。時間を見るとまだ16時半だ。あと一時間は歩くことが出来ると思い、荷物を置いて再び歩き始める。
広口の信号から右折、西都城駅前の信号から左折、その先で右斜めの旧道に入る。右手に「松元馬場」の標柱が立っている。ここは領主館の西口から領主館の西北の周辺を廻り、北口〈現広口)に出て高岡街道筋に繋がる道で、他国人が通る道であったため警備が厳しかったと説明されている。
八幡西の信号で31号線に合流、すぐにJRの高架下を通って進む。
大淀川に架かる竹ノ下橋を渡って進み、鷹尾の信号から左折して2号線を歩く。五十市小学校が右手にあり、その先の二股に分かれてところから右へ進む。
渡川に架かる渡橋を渡って進み、10号線に合流、右折して10号線を進む。「一里塚」というバス停があるので、このあたりに一里塚があったのだろう。ただ、バスは一日に3本しか走っていなかった。
17時28分、その先にコンビニがあるところで今日は終わることにし、電話でタクシーにきていただく。
本日の歩行時間 5時間2分。
本日の歩数&距離 33974歩、23.6km。
高岡から高城を経由して都城へ至る道は山の中を通っており、狩猟が始まったこの時期に歩くのは危険と地元の方から言われたため、今回はその区間を除外し、山を下ったところから南へ向けて歩くことにした。
当初の予定では9時4分に鹿児島中央駅に着き、9時11分の電車で都城に向かうことにしていたのだが、今朝は濃霧が発生しており、その影響で鹿児島中央駅到着が9時20分になってしまった。そのため9時11分に乗り遅れてしまい、次は10時42分までない。バス便を調べたが、JRのほうが早いことが分かり、駅のベンチに座って時間をつぶす。1時間半あれば6kmは歩くことができたのになぁ、日暮れが早いこの時期の1時間半は大きいなぁ、などとぼやいてみてもなす術がない。
ようやく時間が来て都城へ出発。少しでも時間の節約を図るため電車の中で早めの昼食を食べ、12時に都城に到着、ここからタクシーで石山小学校まで行く。当初の予定では有水中学校まで行く予定だったのだが、急遽変更し、その約2km手前の場所から12時26分に歩き始める。残った部分は次回、山を歩く際に歩くことにする。
石山小学校の横から左折する道があり、これを進む。きれいに舗装された道路だが、車もほとんど通らない道だ。
二股に分かれているところがあり、ここを右折して進むと10号線に合流する。10号線はいつものことだが車の流れが多い。ただ歩道があるので歩きやすい。
暫く10号線を進んでいくと小さな橋があり、
その先で左手に入る道があり、すぐに右折、10号線と併行して進む。左手は山が迫っている道を直進し、その先で左折しなければいけなかった道を通り過ぎてしまい、一本先の突き当たりを左折してしまった。
左手少し入ったところに「諏訪神社」がある。諏訪明神は島津の守護神とされており、高城を初めて島津氏が領有した享徳の頃(1453)に創建されたものといわれている。ここには馬に乗った稚児と献上品をのせた荷馬を中心に、その前後に多数の人々が連なって行列する「穂満坊あげ馬」という行事がある。文禄の役のとき都城島津家第11代北郷忠虎が出陣に際して諏訪神社に戦勝祈願したが、陣中で病死してしまった。そのため忠虎の長子で6歳の長千代丸が後見役の叔父だった北郷三久に伴なわれて願解きに代参し、神楽を奉納したが、そのときの大行列をまねたものと伝えられている。
ここでもまだ道がよく分からず迷ったが、その後無事旧道に合流できた。
左手に「諏訪馬場古戦場」の標柱が立っている。天文10年(1541)志和池城の北原久兼が伊東氏の援軍を得て北郷忠相の居城日和城を攻めた。そのとき、ここ諏訪馬場鳥井元で両軍が激突し、多数の死者がでたため、その後忠相が六地蔵を建てたり、戦没者の供養塔もあちこちにあったそうだが、今では何も残っていないと説明されている。
47号線に合流し、左折して進むと、右手に「旧後藤家商家交流資料館」がある。後藤家はこの地の大地主で、この家は明治33年に建設したものという。明治17~18年の不況の際、養蚕の発展に寄与し、この商家は当時の養蚕事業のシンボル的な建物だったと説明されている。
その先正面に「八坂神社」があり、そこから右へカーブする47号線と分かれて直進すると、左手に「慶正寺」がある。ここは明治4年に建てられ、明治38年まであった高城小学校の跡地に立てられたものということだ。
その先で右折して進むと大きな木の下に「高城地頭仮屋跡」の標柱が立っている。ここは明治以降昭和33年に現庁舎に移転するまで、ここに役場があったということだ。
その先で左折、すぐ先を右折して直進する。
曲がり角の塀の前に石が置いてある。なにか意味があるのかな?とつい思ってしまうがよく分からない。
ここから右折して進むと、右手に「七日市石敢当」がある。石敢当」は元は中国伝来の風習で魔よけの意味があり、石敢當の字が刻まれた石碑を建てたり、石版を壁面に貼り付けたものが多い。日本では沖縄や鹿児島に数多く見ることが出来る物だ。
ここから左折、すぐ先の小川に沿って右折して進む。このあたりは小さな道が入り組んでおり分かり難い。
突き当たりを左折、高城高校を右に見ながら直進する。東岳川に架かる東岳橋を渡り、その先の二股を右へ進むとここにも新しい「石敢當」が立っている。
10号線を横断、花木川に架かる高櫻橋を渡って一直線に進むと10号線に合流する。
暫く10号線を進み、沖水川に架かる沖水橋を渡ると、右手に「御野立所聖跡」の石碑が立っている。説明がなかったのでよく分からないが、昭和の文字が見えるので昭和天皇がおいでになったときのことかもしれない。
この先で地図と現地が異なっていて、少し迷ったが、橋を渡ってすぐに右折して進むと、川本用水路に架かる平野橋があり、その先に霧島酒造の本社工場がある。ここを抜けてすぐ先で右折、突き当たりを左折し、その先を直進する。
公園に突き当たるのでこれを左折、公園の周囲を回るようにして次の角を右折、更にその先の突き当たりを左折して10号線に合流する。暫く10号線を進み、JRのガード下を通って進む。
その先に今日泊まるホテルがあり、一旦チェックインを済ます。時間を見るとまだ16時半だ。あと一時間は歩くことが出来ると思い、荷物を置いて再び歩き始める。
広口の信号から右折、西都城駅前の信号から左折、その先で右斜めの旧道に入る。右手に「松元馬場」の標柱が立っている。ここは領主館の西口から領主館の西北の周辺を廻り、北口〈現広口)に出て高岡街道筋に繋がる道で、他国人が通る道であったため警備が厳しかったと説明されている。
八幡西の信号で31号線に合流、すぐにJRの高架下を通って進む。
大淀川に架かる竹ノ下橋を渡って進み、鷹尾の信号から左折して2号線を歩く。五十市小学校が右手にあり、その先の二股に分かれてところから右へ進む。
渡川に架かる渡橋を渡って進み、10号線に合流、右折して10号線を進む。「一里塚」というバス停があるので、このあたりに一里塚があったのだろう。ただ、バスは一日に3本しか走っていなかった。
17時28分、その先にコンビニがあるところで今日は終わることにし、電話でタクシーにきていただく。
本日の歩行時間 5時間2分。
本日の歩数&距離 33974歩、23.6km。
旅の地図
記録
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2009年11月25日(水)
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2009年11月26日(木)
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2009年11月27日(金)
プロフィール
歩人
かっちゃん