2009年11月06日(金)
重岡~梓峠~北川~日向長井
晴れ
旅館に昨日の運転手さんに来ていただき、昨日歩いたところまでタクシーで行って歩き始めようと思っていたが、今日は難所中の難所である梓峠を越えるので、少し先の昨日タクシーで行った水ガ谷入口の標識が立っているところまで行って7時27分に歩き始める。
深い霧がかかっており、誰もいない静かな山の中を歩いていく。ここからかなり上のほうにある水ケ谷(スイガタニ)の集落まで、全く人家はない。
敷倉川に架かる第一大河内橋、市園川支流に架かる第二大河内橋を渡って進んでいくと、左手でガサガサという音が聞こえた。何だろうと思ってみると鹿が一頭私のすぐ横から山のほうへ走っていく姿が見えた。このあたりは鹿が多いらしく、先ほどの運転手さんが以前この道を夜通ったとき、18頭の鹿を見たといわれていた。
まだ歩き始めて間がないため、肌寒い。
榎木小橋という小さな橋を渡るとすぐ先で道は二股に分かれているので、これを左斜めへ上って行く。ここからひたすら坂を上って行く。
一本道を上って行くと、左手下に視界が開けてくる。雲海が広がっており、墨絵を見ているようで眺めがいい。しばし感動して眺め、写真を撮る。
かなり上ったところに十字路があり、水ケ谷への矢印があるので、それに従って直進する。ここまで上り始めて既に50分が経過している。
山は紅葉が始っており、きれいだ。下界は相変わらず雲海が見える。
一旦平坦になった道はその先で再び上り坂になり、その先に「古戦場 黒土峠」「天正の頃の豊薩戦争、西南戦争古戦場」という標識が立っている。ここが黒土峠だ。8時45分にここを通る。歩き始めて1時間18分が経過している。この間、道は急ではないがずっと上り坂だった。
そこから道は下っており、左手にある小川に沿って歩いていくと、9時13分、梓峠入口に到着する。橋の袂の木に「古代官道跡 梓峠 左へ」と書かれた標識が立てられている。
歩き始めて1時間46分が経過している。歩き始めてここまで来る間にすれ違った車は4台だけだった。水ケ谷から町へ向かう車なのだろう。
昔は延岡から海路で北川まで来、更に北川を船で上り、この梓峠を越える道が主流だったようで、その当時は水ケ谷も交通の要所として賑わったということだ。ここはまた西南戦争の際の激戦地でもあった。
現在の10号線は大正時代にJR日豊本線を敷設する際の工事用として作られたということだ。
橋を渡っていくと、間もなく道が三本に分かれているので、最初左へ進んでみた。ところが暫く行くと道がなくなったので、戻ってきて今度は真ん中の道を上る。
すぐ先の左手の木に「梓峰 登山道」と書かれた標識が打ち込まれていたので、よし、この道に間違いないと思って、農道を上って行く。
1.1km坂道を上ったところで(この距離は後で地主の方にお聞きしました)道は行き止まりになっており、前方には鹿除けの網が張ってあり、右手に上る道があるのでこれを上っていった。
しかし道はすぐになくなってしまった。仕方がないので、そのまま強行突破で上を目指して上っていったが、道はさっぱり分からない。
この峠のことは調査の段階で地元の郷土史家の方に連絡がついたので、事前に電話で色々とお聞きしていたのだが、イザ現場に来てみるとさっぱり分からない。仕方がないのでここで電話をした。幸いこのあたりはすぐ下に水ケ谷の集落があるので携帯の電波は通じたのだ。電話で今自分がいる場所をお話したのだが、とにかく山の中で目印になるものが何もないため、会話がうまくかみ合わない。その方のお話では尾根を越えると古道が残っており、それを伝っていくと峠を越えて下の326号線に出ることが出来るといわれるのだが、尾根のどこにその古道があるのかが分からない。
しかたがないので、再び山の中をウロウロしていると、上のほうになにやら黄色い塊が見える。何か建造物があるのかな?と思ってそれを目指して登っていってみると、なんとそれは黄色く色づいた木の葉っぱが日に映えて輝いて見えていたのだった。
もう一度原点に戻ってやり直してみようと思って、下へ降り、再度やってみるが、どうしても道らしきものが見つからない。枯葉が積もっていて、どこを見ても道に見えるし、道ではないようにも思える。
仕方がないので一旦入口まで下りた。時間を見ると11時53分だ。山へ入って2時間40分経過している。だれか道を知っている人を探してみようと思って水ケ谷の集落へ行く。十数軒の集落はここからさほど離れていないところにあった。
最初にあった家に若い女性がおられたので、誰か梓峠の道をご存知の方はいないか聞いてみると、自分のオバアサンが詳しいと思うが今出かけているので、他の人に当たってみましょうといって一人のオバアサンを呼んでくれた。この方、私を見ると「あんた、ここまで歩いてきていたね」と言われる。すれ違った4台の車のどれかに乗っておられた方のようだった。私が山の中でウロウロしている間に帰ってこられたのだろう。峠越えはよく分からないという。話をしているうちにその家のオバアサンが帰ってこられたが、この方もやはり分からないといわれる。そしてこの方も「先ほどすれ違ったね」と言われる。やはり4台の中の一台に乗っておられたようだ。一本道なので通行者のチェックは簡単だ。
困ったなと思っていると、水ケ谷の集落を通り過ぎた先に山を下る道があり、それを下ると上赤の先、本来私が下ろうと思っている場所よりも大分先になるのだが、そこに出るという。その道は通ることができるのかと聞くと、昔は小学生がその道を通って、40分ほどかけて上赤の学校に通っていた。その道が今でもあるといわれる。じゃ、その道を下りますというと、入口まで案内してくれた。
見るとそこから先は幅50cmほどの山道が続いている。倒木があったり、石がゴロゴロしていたりして、道はかなり荒れており最近は使われていないようだ。右側はかなり急な崖で、木が繁っているのでそのまま滑り落ちることはないとは思うが、注意をして歩き始めた。
暫く行ったところに鉄塔が立っており、それから先は道がない!ここまでの道はこの鉄塔を作るときに使われたので、道が残っていたのだろう。暫く山の中を道を探してうろついたが分からない。こりゃ、だめだ、と思い引き返す。
もう一度郷土史家に電話を入れ、どうもだめなようだというと、「そうですか、でも分かるはずだがなぁ」と言われる。その言葉に「よし!もう一度だけ挑戦してみよう」と思って、再度山を登るが、さすがに疲れを感じる。こういうときこそ「気合と根性だ!」と自らに言い聞かせ、一歩一歩登って行く。道がなくなったところから右方向へいけばいいという言葉に従って、とにかく古道があるという尾根に出た。そこで電話をすると、右方向へ坂を登るように言われる。ところが右へ行くと道は下っている。左へ行くと登っているというと、じゃ左へ行ってくださいという言葉にしたがって、道のない稜線を進んでいくと、大きな岩があり、その上に石の祠が祭ってあるところにきた。これで目印ができたので、再度電話をし、「今私の右横に祠があります。これからどう行けば古道にでることができますか?」と聞くと、更に坂を登るように言われる。ところがかなり高いところにきているので、周囲はどこも下っている。おかしいなと思って前方をみると、一旦下った先にもう一段高い場所があるので、それを目指して進んでいくと、「梓峰 725m」と書かれた標柱が立っている。
その下には国土地理院の四等三角点がある。ここが梓峠の頂上なのだ。よしこれで明確な目印が得られた。これで大丈夫だと思って再度電話をすると、「そんなものがありますか」といわれる。ご存知ないようだ。郷土史家の方には何度も電話で親切に対応していただき、本当にありがたかったが、この時点で梓峠を踏破することをあきらめた。
今度は山を下らなければいけない。下りで道に迷ってはどうにもならないので、注意をしながら下っていき、無事農道のところまできた。暫く農道を下ったところで、急に空腹を感じ出した。踏破をあきらめたので気が緩んだのだろう。そこで旅館で作ってもらった弁当を取り出して、道端に座って食べた。食べながら踏破できなかった悔しさと終わったという気持ちで半ば放心状態だ。
食べ終わってとぼとぼと坂を下り、峠の入口に来た。時計を見ると15時だ。さて、どうしよう。人里まで歩くとなると、下りだから早いといっても1時間半はかかるだろう。気持ちが萎えてしまっている身にはつらい。幸い朝乗ったタクシーの運転手の名刺を頂いていたので、電話をしてここまできてもらおうと思って携帯を取り出したところに、水ケ谷のほうから軽トラがやってきた。この道を通るからには山を下って、人里まで行くはずだ。そう思って手を上げると停まってくれ、「下まで行きたい」というと、「いいよ」と気持ちよく乗せてくれた。道中、梓峠に挑戦したが、失敗したことを話すと、なんとあの峠はこの方が地主だった。そして石の祠の話をすると、「あれはわしが置いたものだ。もう少し下に殿様道といわれる古道があったのに、惜しかったなぁ」といわれる。峠へ登る農道が1.1kmあることもこの方から教えていただいた。「今から引き返しても、もう遅いので、途中で暗くなってしまうだろうから無理だね。」「で、どこまで送ればいい」といわれて、さてどうしようかと思ってしまった。これからどう行動するか何も考えていなかったのだ。とりあえず、重岡まで行けば、昨日の旅館がある。本数は少ないものの、駅もある。と思って、そう伝えたが、梓峠を越えた後、旧道は北川という駅のところを通っていることを思い出した。「できれば北川の駅まで行きたい」というと、「よし、送ってやろう」と言っていただいた。その前に自宅に寄って免許証を取ってくるといわれる。山の中だけだと誰にも会わないし、途中で落としたりすると困るので免許証を持って出ないそうだ。「自分がもう少し時間があれば案内してあげたのになぁ」と言っていただいたが、今はしいたけの作業で忙しいということだった。
約1時間ほど走って16時7分に北川駅に着いた。随分遠くまで送っていただいて、本当に有り難かった。感謝。
北川駅から線路沿いに進んでいくが平坦な道で分かりやすい。ただ、梓峠を踏破できなかったという思いが心にのしかかっており、更に次の日向長井という駅まで歩くのだが、早く着いても電車は当分ないため、ダラダラと歩いていく。今日はまだ3万歩ほどしか歩いていないのだが、疲労感が強い。北川に架かる川坂大橋を渡って10号線に合流、少し右手に戻ったところにガソリンスタンドがあるので、そこから左折して集落の中を通って進む。
右手に「右宮神社」がある。文政11年(1828)の常夜燈が立っていたが、縁起は書かれていなかった。
集落を抜けた先で10号線に合流するが、このあたりは歩道がなく、ちょっと怖い。
その先で二股に分かれているところがあり、右手坂を上るほうへ進んで、10号線と分かれる。
17時15分、日向長井駅に到着。この駅も一日に停まる電車は4本だけ。次の電車は18時23分だ。誰もいない駅で1時間以上待って延岡まで行き、ホテルに入る。今日は金曜日なのでビジネスホテルはすぐに取れた。さすがに疲れたのでマッサージをとる。
今日歩いた情報は失われているので、自分でルートを作成したが、途中車に乗って移動した部分をはずして作成した。しかしこれを地図上に表示すると、峠まで歩いて終わった地点と次に始まった地点が直線で結ばれてしまっている。これはこのソフトが連続したルートで結ばれていることを前提に立っているので、最初の終点と次の始点を直線で結んでしまうために発生した現象だ。現在では対応のやりようがないため、そのまま掲載していますのでご了承ください。また、歩行時間と歩数は正確ですが、距離に関しては実際に歩いた距離よりかなり少なくなっていることをあわせてご報告させていただきます。
本日の歩行時間 8時間41分。
本日の歩数&距離 38260歩、11.3km。
旅館に昨日の運転手さんに来ていただき、昨日歩いたところまでタクシーで行って歩き始めようと思っていたが、今日は難所中の難所である梓峠を越えるので、少し先の昨日タクシーで行った水ガ谷入口の標識が立っているところまで行って7時27分に歩き始める。
深い霧がかかっており、誰もいない静かな山の中を歩いていく。ここからかなり上のほうにある水ケ谷(スイガタニ)の集落まで、全く人家はない。
敷倉川に架かる第一大河内橋、市園川支流に架かる第二大河内橋を渡って進んでいくと、左手でガサガサという音が聞こえた。何だろうと思ってみると鹿が一頭私のすぐ横から山のほうへ走っていく姿が見えた。このあたりは鹿が多いらしく、先ほどの運転手さんが以前この道を夜通ったとき、18頭の鹿を見たといわれていた。
まだ歩き始めて間がないため、肌寒い。
榎木小橋という小さな橋を渡るとすぐ先で道は二股に分かれているので、これを左斜めへ上って行く。ここからひたすら坂を上って行く。
一本道を上って行くと、左手下に視界が開けてくる。雲海が広がっており、墨絵を見ているようで眺めがいい。しばし感動して眺め、写真を撮る。
かなり上ったところに十字路があり、水ケ谷への矢印があるので、それに従って直進する。ここまで上り始めて既に50分が経過している。
山は紅葉が始っており、きれいだ。下界は相変わらず雲海が見える。
一旦平坦になった道はその先で再び上り坂になり、その先に「古戦場 黒土峠」「天正の頃の豊薩戦争、西南戦争古戦場」という標識が立っている。ここが黒土峠だ。8時45分にここを通る。歩き始めて1時間18分が経過している。この間、道は急ではないがずっと上り坂だった。
そこから道は下っており、左手にある小川に沿って歩いていくと、9時13分、梓峠入口に到着する。橋の袂の木に「古代官道跡 梓峠 左へ」と書かれた標識が立てられている。
歩き始めて1時間46分が経過している。歩き始めてここまで来る間にすれ違った車は4台だけだった。水ケ谷から町へ向かう車なのだろう。
昔は延岡から海路で北川まで来、更に北川を船で上り、この梓峠を越える道が主流だったようで、その当時は水ケ谷も交通の要所として賑わったということだ。ここはまた西南戦争の際の激戦地でもあった。
現在の10号線は大正時代にJR日豊本線を敷設する際の工事用として作られたということだ。
橋を渡っていくと、間もなく道が三本に分かれているので、最初左へ進んでみた。ところが暫く行くと道がなくなったので、戻ってきて今度は真ん中の道を上る。
すぐ先の左手の木に「梓峰 登山道」と書かれた標識が打ち込まれていたので、よし、この道に間違いないと思って、農道を上って行く。
1.1km坂道を上ったところで(この距離は後で地主の方にお聞きしました)道は行き止まりになっており、前方には鹿除けの網が張ってあり、右手に上る道があるのでこれを上っていった。
しかし道はすぐになくなってしまった。仕方がないので、そのまま強行突破で上を目指して上っていったが、道はさっぱり分からない。
この峠のことは調査の段階で地元の郷土史家の方に連絡がついたので、事前に電話で色々とお聞きしていたのだが、イザ現場に来てみるとさっぱり分からない。仕方がないのでここで電話をした。幸いこのあたりはすぐ下に水ケ谷の集落があるので携帯の電波は通じたのだ。電話で今自分がいる場所をお話したのだが、とにかく山の中で目印になるものが何もないため、会話がうまくかみ合わない。その方のお話では尾根を越えると古道が残っており、それを伝っていくと峠を越えて下の326号線に出ることが出来るといわれるのだが、尾根のどこにその古道があるのかが分からない。
しかたがないので、再び山の中をウロウロしていると、上のほうになにやら黄色い塊が見える。何か建造物があるのかな?と思ってそれを目指して登っていってみると、なんとそれは黄色く色づいた木の葉っぱが日に映えて輝いて見えていたのだった。
もう一度原点に戻ってやり直してみようと思って、下へ降り、再度やってみるが、どうしても道らしきものが見つからない。枯葉が積もっていて、どこを見ても道に見えるし、道ではないようにも思える。
仕方がないので一旦入口まで下りた。時間を見ると11時53分だ。山へ入って2時間40分経過している。だれか道を知っている人を探してみようと思って水ケ谷の集落へ行く。十数軒の集落はここからさほど離れていないところにあった。
最初にあった家に若い女性がおられたので、誰か梓峠の道をご存知の方はいないか聞いてみると、自分のオバアサンが詳しいと思うが今出かけているので、他の人に当たってみましょうといって一人のオバアサンを呼んでくれた。この方、私を見ると「あんた、ここまで歩いてきていたね」と言われる。すれ違った4台の車のどれかに乗っておられた方のようだった。私が山の中でウロウロしている間に帰ってこられたのだろう。峠越えはよく分からないという。話をしているうちにその家のオバアサンが帰ってこられたが、この方もやはり分からないといわれる。そしてこの方も「先ほどすれ違ったね」と言われる。やはり4台の中の一台に乗っておられたようだ。一本道なので通行者のチェックは簡単だ。
困ったなと思っていると、水ケ谷の集落を通り過ぎた先に山を下る道があり、それを下ると上赤の先、本来私が下ろうと思っている場所よりも大分先になるのだが、そこに出るという。その道は通ることができるのかと聞くと、昔は小学生がその道を通って、40分ほどかけて上赤の学校に通っていた。その道が今でもあるといわれる。じゃ、その道を下りますというと、入口まで案内してくれた。
見るとそこから先は幅50cmほどの山道が続いている。倒木があったり、石がゴロゴロしていたりして、道はかなり荒れており最近は使われていないようだ。右側はかなり急な崖で、木が繁っているのでそのまま滑り落ちることはないとは思うが、注意をして歩き始めた。
暫く行ったところに鉄塔が立っており、それから先は道がない!ここまでの道はこの鉄塔を作るときに使われたので、道が残っていたのだろう。暫く山の中を道を探してうろついたが分からない。こりゃ、だめだ、と思い引き返す。
もう一度郷土史家に電話を入れ、どうもだめなようだというと、「そうですか、でも分かるはずだがなぁ」と言われる。その言葉に「よし!もう一度だけ挑戦してみよう」と思って、再度山を登るが、さすがに疲れを感じる。こういうときこそ「気合と根性だ!」と自らに言い聞かせ、一歩一歩登って行く。道がなくなったところから右方向へいけばいいという言葉に従って、とにかく古道があるという尾根に出た。そこで電話をすると、右方向へ坂を登るように言われる。ところが右へ行くと道は下っている。左へ行くと登っているというと、じゃ左へ行ってくださいという言葉にしたがって、道のない稜線を進んでいくと、大きな岩があり、その上に石の祠が祭ってあるところにきた。これで目印ができたので、再度電話をし、「今私の右横に祠があります。これからどう行けば古道にでることができますか?」と聞くと、更に坂を登るように言われる。ところがかなり高いところにきているので、周囲はどこも下っている。おかしいなと思って前方をみると、一旦下った先にもう一段高い場所があるので、それを目指して進んでいくと、「梓峰 725m」と書かれた標柱が立っている。
その下には国土地理院の四等三角点がある。ここが梓峠の頂上なのだ。よしこれで明確な目印が得られた。これで大丈夫だと思って再度電話をすると、「そんなものがありますか」といわれる。ご存知ないようだ。郷土史家の方には何度も電話で親切に対応していただき、本当にありがたかったが、この時点で梓峠を踏破することをあきらめた。
今度は山を下らなければいけない。下りで道に迷ってはどうにもならないので、注意をしながら下っていき、無事農道のところまできた。暫く農道を下ったところで、急に空腹を感じ出した。踏破をあきらめたので気が緩んだのだろう。そこで旅館で作ってもらった弁当を取り出して、道端に座って食べた。食べながら踏破できなかった悔しさと終わったという気持ちで半ば放心状態だ。
食べ終わってとぼとぼと坂を下り、峠の入口に来た。時計を見ると15時だ。さて、どうしよう。人里まで歩くとなると、下りだから早いといっても1時間半はかかるだろう。気持ちが萎えてしまっている身にはつらい。幸い朝乗ったタクシーの運転手の名刺を頂いていたので、電話をしてここまできてもらおうと思って携帯を取り出したところに、水ケ谷のほうから軽トラがやってきた。この道を通るからには山を下って、人里まで行くはずだ。そう思って手を上げると停まってくれ、「下まで行きたい」というと、「いいよ」と気持ちよく乗せてくれた。道中、梓峠に挑戦したが、失敗したことを話すと、なんとあの峠はこの方が地主だった。そして石の祠の話をすると、「あれはわしが置いたものだ。もう少し下に殿様道といわれる古道があったのに、惜しかったなぁ」といわれる。峠へ登る農道が1.1kmあることもこの方から教えていただいた。「今から引き返しても、もう遅いので、途中で暗くなってしまうだろうから無理だね。」「で、どこまで送ればいい」といわれて、さてどうしようかと思ってしまった。これからどう行動するか何も考えていなかったのだ。とりあえず、重岡まで行けば、昨日の旅館がある。本数は少ないものの、駅もある。と思って、そう伝えたが、梓峠を越えた後、旧道は北川という駅のところを通っていることを思い出した。「できれば北川の駅まで行きたい」というと、「よし、送ってやろう」と言っていただいた。その前に自宅に寄って免許証を取ってくるといわれる。山の中だけだと誰にも会わないし、途中で落としたりすると困るので免許証を持って出ないそうだ。「自分がもう少し時間があれば案内してあげたのになぁ」と言っていただいたが、今はしいたけの作業で忙しいということだった。
約1時間ほど走って16時7分に北川駅に着いた。随分遠くまで送っていただいて、本当に有り難かった。感謝。
北川駅から線路沿いに進んでいくが平坦な道で分かりやすい。ただ、梓峠を踏破できなかったという思いが心にのしかかっており、更に次の日向長井という駅まで歩くのだが、早く着いても電車は当分ないため、ダラダラと歩いていく。今日はまだ3万歩ほどしか歩いていないのだが、疲労感が強い。北川に架かる川坂大橋を渡って10号線に合流、少し右手に戻ったところにガソリンスタンドがあるので、そこから左折して集落の中を通って進む。
右手に「右宮神社」がある。文政11年(1828)の常夜燈が立っていたが、縁起は書かれていなかった。
集落を抜けた先で10号線に合流するが、このあたりは歩道がなく、ちょっと怖い。
その先で二股に分かれているところがあり、右手坂を上るほうへ進んで、10号線と分かれる。
17時15分、日向長井駅に到着。この駅も一日に停まる電車は4本だけ。次の電車は18時23分だ。誰もいない駅で1時間以上待って延岡まで行き、ホテルに入る。今日は金曜日なのでビジネスホテルはすぐに取れた。さすがに疲れたのでマッサージをとる。
今日歩いた情報は失われているので、自分でルートを作成したが、途中車に乗って移動した部分をはずして作成した。しかしこれを地図上に表示すると、峠まで歩いて終わった地点と次に始まった地点が直線で結ばれてしまっている。これはこのソフトが連続したルートで結ばれていることを前提に立っているので、最初の終点と次の始点を直線で結んでしまうために発生した現象だ。現在では対応のやりようがないため、そのまま掲載していますのでご了承ください。また、歩行時間と歩数は正確ですが、距離に関しては実際に歩いた距離よりかなり少なくなっていることをあわせてご報告させていただきます。
本日の歩行時間 8時間41分。
本日の歩数&距離 38260歩、11.3km。
旅の地図
記録
-
2009年10月29日(木)
-
2009年10月30日(金)
-
2009年11月05日(木)
-
2009年11月06日(金)
-
2009年11月07日(土)
-
2009年11月18日(水)
-
2009年11月19日(木)
-
2009年11月20日(金)
-
2012年12月25日(火)
-
2012年12月26日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん