日向街道〈豊前道)を歩く

2009年10月12日(月) ~2009年10月28日(水)
総歩数:153382歩 総距離:99.3km

2009年10月18日(日)

地蔵峠~日出中央公民館(ザビエルの道)

                                   快晴

 今日は杵築市観光協会山香観光案内所の主催による「ザビエルの道ウォーキング」に参加して歩くことにする。この間は山の中の道が多く、地図を見ても道が描かれていない場所が多くある場所だったので、この道を熟知された地元の方の案内による、今回で4回目になるというこの催しに参加できてよかったと思う。
 資料によると、フロイスの「日本史」に、この道を「険悪な山岳を横切り、難儀の多い道を旅した」と記載されているそうで、実際歩いてみても確かに険しい道だった。
 7時に「山香温泉 風の郷」に集合し、そこから地蔵峠入口までバスで移動する。この「地蔵峠入口」の標識が立っている場所がスタート地点ということを聞いていたので、前回ここまで歩いていたのだ。
 7時30分に「地蔵峠入口」を出発する。総勢約30名ほどで、「健脚グループ」と「ゆっくりグループ」に分かれて出発。私はHPを作る関係上、途中でメモを取ったり、写真を撮ったりするので「ゆっくりグループ」に入れていただいた。
地蔵峠入口 
 「地蔵峠入口」の標識が立っているところから、すぐに左折し10号線に併行して舗装された道が通っているので、これを歩いていく。今日は快晴で気持ちがいい。
 歩き始めて5分ほどで右手に「庚申塔」がある。庚申塔は道教に由来する庚申信仰の「人間の体内にいる三尸(し)虫が庚申の日に、その人が寝ている間に天帝にその人の悪事を報告しに行くため、それを防ぐため夜通し眠らないで宴会などをして見張る風習」に基づいて建てられた石塔のことをいうといった説明板が立っている。
 庚申塔
 この後もこういった説明板が立っていたが、これらは主催者の方が立てられたということだった。
 山へ入り、突き当りを右へ進み、その先二股に分かれているところを左へ進む。所々に脇道があるが、基本的に直進して進む。山の中に入ると木々に邪魔をされてGPSがうまく電波を捉えることができないため、地図に記されているこのあたりの情報は正確な道筋ではありません。従って主に文章と写真を見て判断していただきたいと思います。
 舗装された道を進むが、右へ分岐するところがあり、ここから山の中へ登って行く土道になる。
峠入口 
 いよいよ地蔵峠へ登り始める。標高290mということだったので、たいしたことはないと思っていたのだが、この登りは急な山道でかなりきつかった。
 左手に大分痛んでいる「昭和58年度指定山林林業構造改善事業」と書かれた標柱が立っている。その横に「ザビエルの道ウォーク」「山香コース」と書かれた標識が立っている。この標識は今回の催しの後、撤去されるということだが、できればこのまま残しておいて欲しいと思った。
古い標柱 
 石がゴロゴロしている急な坂を登る。この日のために草を切っていただいているので、歩きやすかったが、切る前はかなり草が繁っていたということだ。もっとも最近はこの道を歩く人が増えているようで、その分道が踏まれて歩きやすくなっているそうだ。
峠登り 
 8時10分に峠の頂上に到着する。このあたりは掘割になっており、標識が立っている。見上げると祠が一つあった。お地蔵様が祀られているのだろう。天文3年(1534)周防山口の大内氏と豊後の大友氏は勢場ヶ原で戦ったが、その時大友氏はこの地蔵峠に約800名の守備兵を差し向けたという説明がされていた。
峠頂上 
 ここから峠を下っていくとやがて舗装された道にでる。「地蔵峠入口」の標柱が立っている。別府側からの入口に当たる場所だ。
 左手に定野尾池を見ながら進んで行くと集落があり、定野尾川に架かる定野尾橋を渡って進む。
 その先で道は二股に分かれているので、これを左折して進む。
二股分岐
 コスモスが咲いており、青空に映えてきれいだ。田んぼは実りの時期を迎えており、いかにも秋を思わせる景色だ。
コスモス 
 右手、田んぼの向こうに「角柱碑」が立っている。これは約30cm角に切った石の塔で「供養碑」と「逆修碑」の二種類があり、供養碑は亡くなった方への弔いに建てた碑で、逆修碑は生前に本人が生葬式をして、自分の後世のために建てた碑のことをいい、出陣の際に建てるという説明がされている。
角柱碑 
 川に沿って進み、すぐ先の橋を渡って左折して進む。橋を渡る前、左手に「パン工房」の看板が立っている。
パン工房分岐 
 その先にある橋の向こう側に「原の板碑」が見える。
原の板碑 
 山浦小学校を右に見ながら進むと右手に「三嶋神社」がある。このあたりの神社の鳥居には柱の上部に丸いリングのようなものが作られており、それがこの地方の特徴ということだ。
三嶋神社 
 その先、十字路があるが、これを直進して進む。
 そのすぐ先に浦篠公民館があり、9時3分に到着。ここで最初の休憩を取る。
浦篠公民館 
 地元の方がお茶やお菓子、果物を準備して待っていてくれた。ホッとくつろぐ瞬間だ。ここで15分ほど休憩を取って出発する。
 すぐ先で右折して進み、山蔵川に架かる谷本篠橋を渡って進む。
谷本篠橋 
 「↑大分農業文化公園」「↑氷川神社」「←本篠板碑」の標識が立っているところから左折して進む。
←本篠板碑 
 9時25分、左手に「本篠板碑」がある。これは石塔婆の一種で死者の追善、生前の逆修供養のために建立されるもので、この板碑は凝灰岩の一石で作られており総高は262cmある。碑面の正面には梵字キリーク(阿弥陀如来)が薬研彫りされている。建武元年(1334)の紀年銘があり、南北朝時代の時宗関係者によって造立されたものと推定されているという。
本篠板碑 
 この先で舗装道に従って、右にカーブし、その先で二股に分かれている道を右へ進み、その先の突き当りを右へ進む。

 更にその先の突き当たりを左折して進む。
突き当たり左 
 その先左折する道があるが直進して進む。
 「←氷川神社」「←石風呂」の標識が立っているところから左折する道があるが、ここも直進して進む。
 9時50分、左手に「杉長門守の供養碑」がある。大内氏と大友氏が戦った「勢場ヶ原合戦」で戦死した大内軍の将、杉長門守の供養碑で、山口の石でできているということだ。穴が開いていることから、牛の鼻に穴を開ける「はなぐり石」とも呼ばれているそうで、名前を入れると壊されるということから、名前等は刻まれていないということだ。
杉長門守の供養碑 
 すぐ先、右手に「善神王社」を見ながら進む。
善神王社 
 その先の十字路を直進して進む。左折すると「ストーンサークル記念館」があるようで、矢印の案内板が出ていた。
 左手、道の少し上に「一里塚」の標柱が立っている。10時1分にここを通過する。
最初の一里塚 
 そのすぐ先、やはり左手に半分残った鳥居が立っていた。珍しいので写真に撮ってみた。よく倒れないものだと感心する。
半分の鳥居 
 そのすぐ先で左折する道があるが、ここは直進し、更にその先二股に分かれる場所で、右へカーブする舗装された道を進む。
 更にその先で三叉路があり、ここを左折して進む。
 10時14分、十字路があり、これを直進するが、ここからの下り坂が三文坂と呼ばれる場所だ。天文3年(1534)の大内氏と大友氏の戦いで戦死した大内氏の将、杉長門守の供養碑の石材を運んだとき、この坂がどうしても上がらないので、三文払って人夫を雇ったことから「三文坂」と呼ばれるようになったということだ。確かにかなりの急坂だ。このあたりの道を西鹿鳴越(ニシカナゴエ)旧道」と標識に記されている。
三文坂 
 坂を下ると42号線に合流、左折して久木野尾川に沿って進み、左手に六所神社があるところから、右折して花結橋を渡る。
 その先「←水の口湧水」「←光明真言碑」と書かれた看板のところから左折して進む。
「←水の口湧水 
 このあたりが「中尾平」(ピンラショウ)地区で、ザビエルは険悪な峠道を越え、疲労がつのったため、日出から2里のビンラショウ〈平)と呼ばれるこの地で具合が悪くなり、領主田北鑑生の家で休んだと商人のピントが伝えている。昔、中尾平は平と呼ばれていたということだ。
  八坂川に架かる殿川橋を渡って進むと、正面に「西福寺」があり、ここを左折して舗装された道を進む。
西福寺
 途中、左折する道があるが、直進する。
 左手に「一里塚」の標柱が立っている。時間を見ると11時2分。先ほどの一里塚からぴったり1時間4kmのペースで歩いていることが分かる。誰かが「先ほどの一里塚から4km歩いたのだなぁ」とつぶやく声が聞こえた。昔の人も同じような感覚で一里塚を見ていたのだろう。
二番目壱里図か
 十字路があるがこれを直進する。立派な道なのだが、車は全く通っていない。農道のような感じだった。
 その先に「私有地につき関係者以外立入禁止」(罰金10万円頂きます)という看板のところから左折して進む。このあたり同様の看板が目に付く。
車道に突き当たるので、ここを右折して進むと、右手に「やまがポケットパーク」があり、ここで2回目の休憩を取る。ここには事務局の女性らしい方がお茶とみかん、お菓子を準備して待っていてくれた。
車道突き当たり 
 休憩後、歩き始めると間もなく日出町に入る。そのすぐ先、左手に「ようこそザビエルが歩いた道へ」、「1551年、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが大友宗麟の招きで、豊前街道から日出町の西鹿鳴越道(ザビエルの道)を通り、日出の浜に出て、ポルトガル船で府内〈今の大分市)に入ったとされています」という看板が立っているところから、左折して土道を下っていく。丁度12時だ。
日出町 
 「山田〈湧水)七ツ石山」と書かれた案内板が立っているところから右折して、山の中へ入っていく。
山田〈湧水)七ツ石山
 すぐ先で左折する道があるが、直進する。
 ここもかなりの急坂を下っていく。下るからまだいいが、これを逆に登るとなるとかなり厳しい坂だろう。
 下っていく途中で、急に眺望が開ける場所があり、そこから高崎山や別府市、遠く大分市を眺望できる。
眺望 
 昔、豊前から豊後へ通じる街道は、江戸時代以前から鹿鳴越峠を越えるのが通例だった。鹿鳴越峠は立石から中山香、東山香を経て、長野へ通じる東鹿鳴越道と宇佐から安心院を通って山田へつながる西鹿鳴越道の2つがあり、フランシスコ・ザビエルは山口から大友宗麟の待つ豊後府内へ向かう際、この西鹿鳴越道を通り、日出の港に来航したポルトガル船に乗って府内へ向かったとされるという説明板が立っていた。
 左手に「一目城・石切り場」の案内板が立っている。それによると、ここは江戸時代から昭和初期にかけて営まれた石切り場で良質の安山岩が採掘された。かってこのあたりから日出城を見渡すことができたので「一目城」の名前がついたといわれているが、いまでは木々に囲まれており、眺望は全くない。日出藩主木下氏が参勤交代の折に使う大阪港には一目城の石で作った灯篭が建てられ、他の地方からも石灯篭が持ち込まれたが、強い潮風に吹かれても、一目城の石灯篭だけは崩れることはなかったという。
 このあたりの道は石畳の跡と思われる石が敷き詰められている。
石畳 
 やがて坂を下ったところに「山田湧水」があり、水が流れ出ている。12時39分に到着。この水を汲むため、ペットボトルを持った人もこられていた。私も飲んでみたが、冷たくておいしかった。
山田湧水 
 ここから更に下っていき、突き当りの車道を左折して進む。
本来の豊前道はこの先で右折して豊後豊岡駅のほうへ進むのだが、今日はそのまま直進して進む。
 当初の予定ではここで皆さんと分かれて、豊前道を別府まで歩いていくつもりにしていたのだが、この先、豊後豊岡から亀川へ至る道がよく把握できていなかった。別府市役所の方もこの場所に関してはよく分からないということだったのだ。ところが今日一緒に歩いた方の中に郷土史研究会である別府市史談会の副会長をされている恒松さんがおられたので、私が歩こうとしていた道をチェックしていただくと間違っているということだった。そのため急遽この先を歩くことを中止し、恒松さんに今後正しい旧道を教えていただくことにした。そのため今日は最後まで「ザビエルの道ウォーキング」を歩くことにしたのだ。
 左手に「日出町殉教公園」がある。ここが「日出町成敗場跡」だ。キリシタンであった日出藩の家老加賀山半左衛門とその息子ディエゴも隠れキリシタンとして、この処刑場で殉教死している。この加賀山親子の処罰によって日出藩のキリスト教信者は処刑を免れたという。
日出町殉教公園 
 ここから日出町中央公民館まで歩いて、13時30分に到着する。ゴールでは豚汁のお接待を受け、完歩証を頂いて解散する。

本日の歩行時間 6時間。
本日の歩数&距離 32520歩、20.6km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん