2009年06月04日(木)
小倉~曽根~南行橋
曇り
朝起きてみると曇り空で涼しい。今日は歩く予定にしていなかったのだが、この天気ならば歩きやすいと思い立って、急遽歩くことにした。
小倉の常盤橋を10時に出発する。ここは小倉五街道の起点、「門司往還」「長崎街道」「秋月街道」を歩く際もここから出発したところだ。「唐津街道」もここが起点のようだが、これは若松から歩いた。今回「中津街道」を歩けば五街道全てを踏破したことになる。
右手に勝山橋を見ながら進み、井筒屋の新館の先から左折して銀天街のアーケードに入ってその中を歩き、抜けたところを左折して次の信号、歩道橋の一つ手前の信号を右折、突き当りを左折して進む。モノレールの下を通って進むと、ここからしばらくは飲み屋街、私も時々出没するところだ。まだ朝が早いのでガラ~ンとしている。三つ目の角を右折して進む。
資料に高倉稲荷神社があって、そこに「中津口の大石」があると書かれている。このあたりにそれらしい寺社があったように思ったので、古船場の信号から街道を離れて行って見た。ところが私が思ったところにはお寺が立っており、稲荷神社ではない。このあたりに他には神社らしいものはないので、あきらめて街道に戻って歩く。
その後、市役所に問い合わせをしてみると、現在は小倉城の横にある八坂神社の鳥居のところにあるということで、日を改めていってみると二つの大きな石が鳥居の横にあった。説明文が立っており、「この大石は細川忠興が慶長7年(1602)小倉城を築くとき、大谷から運んできたもので、大石は運ぶ途中、上富野で動かなくなった。忠興は頭の富岡某を手討ちにしたので、石は勢いよく運ばれた。これを聞いた小笠原四代藩主忠総は「二つに割って運べば命まで奪わずにすんだ。石の大小は勝負にかかわらぬ」といったという。明治に入って中津や築上の青年が多数小倉にやって来た。門を入るとき、この大石をにらむと成功すると言われて一心ににらんだことから、「大石にらみ」といわれ、また、この石を見上げて「自分も出世し、このように人から見上げられる人物になるぞ」と誓ったので、「出世石」ともいったという。また手討ちにされた富岡某を哀れんだ村人は地蔵堂を建て供養したそうで、現在この富岡地蔵は安全寺に安置されているという。また資料に書かれていた高倉稲荷神社は平成13年に八坂神社に合祀されたので石も移したと説明されていた。
北九州都市高速の高架下を通ると道は二股に分かれているので、左斜めへ進む。前方にスーパーの看板が見えるところで右折して小川を渡って進み、一直線に歩いていき、突き当たりを左折、次の十字路を右折して進む。この角に中津街道の案内板が立っている。
足原小学校の先の突き当たりを左折、その先の黒原の信号で264号線に合流して進む。小学校のあたりは旧道が失われているようだ。
霧が丘一丁目の信号から街道を離れ、左折して坂を上って行くと「本通寺」がある。細川忠興の家来、大隈市正が関が原の陣中で仮眠中に仏が現れ、「汝に縁ある仏なり。仏門に入り、寺を建て我を安んぜよ」と告げた。そばに仏像があったのでこれを持ち帰り、忠興に事の次第を告げると、「仏門に入り、藩の発展を祈願せよ」と暇を与えられたので、市正(願覚)は本願寺法主の直弟子になった。慶長7年(1602)忠興が小倉城に入ったので願覚は田町に淨光寺を建てた。寛永9年(1632)細川忠利は肥後へ転封になったため、願覚と長男は熊本へ行き、次男が小倉に残って本通寺と改めた。昭和54年に現在地へ移転した時、本尊を修復したが、京都の仏師はこの仏像は地方にあるものとは思えぬ立派なもので鎌倉時代の金箔が施され、衣の部分も同時代の特徴を備えていて、快慶の作かそれに近い人の作と伝えたという。
街道に戻って進むと左手に「開善寺」の看板が立っているので、それに従って行ってみた。ここは建武2年(1335)小笠原貞宗が信州に創立し、翌年清拙が勧請開山したと伝えられており、寛永9年(1632)小笠原氏が小倉へ転ずるに従って小倉北区の馬借に移り、昭和36年に現在地に移設された。広寿山福寿寺が建立されるまで、小笠原家の菩提寺だったところで、境内には享保大飢饉の供養塔等があるということだったが、犬が二匹いて激しく吠え立てるので、ゆっくり見て回ることができなかった。私をよほどの不審者と思ったのだろう、とにかくうるさくてうんざりした。
湯川の信号で一旦10号線に接するが、そこから左斜めへ伸びる旧道を歩いていくと、左手に「水神社」がある。ここは和気清麻呂が宇佐八幡宮に勅使として行ったとき、足を痛めてしまった。そのとき白鹿が現れたので、和気清麻呂はこれに乗って宇佐神宮に参拝することができた。そのとき八幡大神から、この地に温泉があるのでこれに浴せよとお告げがあり、神託に従って温泉に入ると両足が回復したので、この山を足立山というようになった。
温泉はその後も枯れなかったので、ここを湯川(湯乾のなまったもの)といい、その湧き出る池を「一生水」と名づけたと説明されている。
その先、左手に「葛原八幡宮」がある。ここは和気清麻呂の嗣子真綱が勅使として宇佐八幡宮へ参内した帰途、父清麻呂由来のこの地へ来て、弘仁8年(817)創建したといわれている。嘉永6年(1853)京都神祇官から祭神となった清麻呂の神霊に「和気護王大明神」の称号、御幣を賜り、社宝とされている。
境内には和気清麻呂の銅像が立っている。女帝称徳天皇の深い寵愛を受けた道鏡が皇位を望んだとき、清麻呂は宇佐八幡宮へ勅使として遣わされ、「わが国は初めより君臣の分定まれり、道鏡を除くべし」という神勅を言上した。そのため道鏡の怒りを買い、足の筋を断たれ大隈の国へ流されることになったが、その途中、現れた霊猪に導かれ(水神社では白鹿が現れて宇佐八幡へ導かれたと書かれている)、宇佐八幡の神助によって当地でしばし逗留、山裾に沸き出でる霊泉で傷を受けた御足を癒したと説明されていた。
左手に「茶屋本邸御茶屋跡」の碑が立っている。茶屋本氏の姓は藩政時代の御茶屋名跡を示しており、邸の門先には先祖の頌徳碑が並んで立っている。
高速道路の高架下を通り葛原東一丁目の信号のところで、昼食を摂り、信号を渡って右斜めへ進み、すぐ先で左斜めへ進む。その先で25号線の高架下を通って進み、竹馬川に架かる唐戸橋を渡る。橋を渡ったところに猿田彦が並んでいる。このあたりにあったものをここに集めたような感じだ。
下曽根の信号のあたりが下曽根宿があったということなので、ここでカウントする。
13時丁度に下曽根宿を通る。
小倉から3時間、12.1km。
その先左手に旧北九州空港がある。この道は出張で空港を利用する際よく歩いた道だが、この道が中津街道だとは知らなかった。今は海上に新空港ができていて、ここは使われておらず、土盛りが見えた。跡地利用の準備が進んでいるようだ。
中曽根新町の信号の先で25号線と分かれて右斜めへ進む。右手にJRの線路が見える。一旦25号線に合流して新田橋を渡り、上曽根の信号の先、コンビニの横から再び25号線から分かれて右斜めへ進む。
その先で街道と分かれて右折し、踏切を渡って進むと「帝踏岩(タイトウイワ)」がある。これは巨大な花崗岩で、景行天皇(71~131)が貫山の土蜘蛛を討つため東方を拝し、戦勝祈願したという伝説が残っている。かってはこの巨石のすぐ前を中津街道が東西に延びていたと資料に書かれている。昔はJRの窓からこの岩がよく見えたのだが、今では周囲に住宅が立ち並んでいて、JRからは見ることができなくなっている。
街道に戻って進むと、10号線があり、これを歩道橋で横断すると、下りたところに旧道が続いている。
その先右手少し入ったところに「始覚寺」がある。ここは天正3年(1399)行伝甫学平僧が開基したと伝えられている。境内には五輪塔や宝篋印塔など中世の供養塔があり、庚申塚が残っている。
街道に戻り、朽網橋を渡って進むとTOTOの工場に突き当たるので、ここを左折、10号線に出てこれを進んでいく。
工場が途切れるところから左斜めへ進む旧道があるのでこれを進むが、このあたりは狸山古戦場といわれているところだ。ここは古くから豊前の軍事・交通の要衝だったところで、応仁戦乱では松山城を巡って激しい攻防が繰り広げられたといい、慶應2年(1866)長州軍を迎え撃つため、島村志津摩の構想下で狸山方面は小宮民部を総司令官として藩兵の主力をこれに当てて戦ったと説明されている。島村志津摩は秋月街道の金辺峠に頌徳碑が立っていたことを思い出した。
資料では左側に「郡境標柱」が立っていると書かれていたので、松山入口の信号のところから左折してみたが、分からなかった。左折する場所を間違えたかな?
10号線に戻って進み、次の角を左折、その先ですぐに右折するが、その先で旧道は失われているようなので、右折して10号線に合流する。
苅田町神田町の信号で右折、すぐ先で左折して進むと、左手に道標が立っており、
「従是久保新町迄四里」「従是小倉迄三里半」「従是椎田町四里半」「従是大里迄四里半」と刻まれている。
右手に「淨厳寺」がある。ここは城井城主城井鎮房の客将横尾将監春直が剃髪して名を春慶と改め、寛永元年(1624)に開基したといわれている。
左手に中央公民館があり、ここで一休み後、その先の小川を渡って左折、すぐに右折して進み、その先突き当りを左折して10号線に合流する。
苅田町富久町の信号の少し先から右折、すぐに左折して再び10号線に合流する。近衛橋バス停の先から10号線と分岐して左斜めへ進み、近衛橋を渡って進む。
右手に「御所山古墳」がある。北部九州屈指の規模を誇る前方後円墳で5世紀後半の築造と推測されており、墳丘は全長119m、前方部は82m、後円部径73mある。九州では珍しく周濠を持ち、前方部と後円部のくびれ部両側に「造り出し」と呼ばれる突起を持つなど、畿内の応神陵、仁徳陵と同じ古墳である。
文政3年(1820)大風のため、古墳が崩壊し、石室が偶然発見され、その後一旦埋め戻されたが、明治20年に調査が行われ、石室の形態が筑肥地域の影響を受けていることが分かったため、磐井の乱(527)の磐井の影響を受けたこの地域の縣主又は国造クラスの被葬者と考えられていると説明されている。石室の入口には「白庭神社」の拝殿が立っている。
その先左手の森の中に「塩寵神社」がある。ここは大型の円墳石塚古墳の上にあるが、享保年間(1725年頃)与原の製塩業の繁栄を願って宮城県塩釜市の塩寵神社から勧請したものだ。
道なりに進み、二崎の信号で10号線を横断し、川沿いに進んで、その先で左折、小波瀬橋を渡って進む。右手に行橋行事簡易郵便局がある。
「行事飴屋」がある。ここは京都郡行事村を本拠として宝永年間(1700年代初め)から約200年にわたって豊前有数の豪商として栄えたところだ。「飴屋」とは屋号で本姓は玉江といい、三代目の宗利が宝永6年(1708)に珍しい飴を創作して飴商として成功、その後も手広く商いを広げ、豊前の国の経済を支配したが、維新後の急激な社会の変動には勝てず、小笠原藩と盛衰を共にした。今も藩主がくぐった御成門が立っているが、建築年代は天保年間(1830~1844)頃と考えられていると説明されている。
長峡川に架かる万年橋を渡る。長峡川は平尾台を源とし、「長峡」と書いて「ながお」と読む。長峡の名の起こりは景行天皇がこの地に行宮を置いて京(みやこ)と呼ぶようになり、このとき長峡県(ながおのあがた)を設けたことにはじまるという。
行橋大橋郵便局から突き当たりを左折、左手に旧縁寺があるところから左折すると、三叉路の角に道標が立っており、 「南 中津道」「西 小倉道」「東 今元道」と刻まれている。この角にあるお店の人が昔、角屋敷なので馬車馬が暴れこんでは大変と立てたが、ただ石を置いただけでは風情がないし、よく道を尋ねられたので、道しるべの文字を書き込んだと資料には書かれている。
街道はここから右折して進むのだが、街道を離れて左折すると「大橋神社」がある。この神社は寛永年間(1624~1644)に京都郡草野村の草野正八幡神社から分社して仲津郡大橋、宮市、小部野の三村の産神としてこの地に建立されたという。
境内には「大橋太郎の碑」が立っている。鎌倉時代、大橋太郎は豊後の国の地頭で、国の用務のため鎌倉へ向かったとき、身に覚えのない罪をきせられた。しかし、やがて疑いが晴れ豊後の国へ帰る途中、下正路の浜辺(現在の行橋小学校の近く)にたどり着いた。2、3軒あった猟師の家に一夜の宿を求めたところ、厚いもてなしを受けたので、太郎はすっかりこの地が好きになり、豊後の家族を呼び寄せた。このことを知った豊後の人たちが次々にこの地へやってきて人口が増えた。太郎は商業を起こし、それが次第に繁盛して、町もにぎやかになった。そのため大橋太郎こそこの地の開拓者であるとしてその名をとって大橋村と名づけられた。その後明治22年にそれまでの行事村、大橋村、宮市村が合併して行事の「行」と大橋の「橋」をとって「行橋町」が生まれたということだ。
右手長い参道のむこうに「正八幡宮」がある。ここは行事村・草野村・長音寺村・大橋村・宮市村・小部埜村六ヶ村の土地の霊魂を、この地に一ヶ所に集めて地底に封じ込めて小さな祠を造営し、「産土正宮」として六村の地域住民に崇められていた。 貞観元年(859)に宇佐八幡宮を京都の男山に勧請の際に、その御神輿の御旅所としてこの地に仮殿を構えて安置した。そして翌朝御神輿が出発した後に、木綿垂を附けて献納したはずの榊が一本残されていたのを、人々はこれを大神御心にちがいないとして、その榊を大神の御璽として正宮の祠内に納め、宇佐八幡神を勧請した。これが創建となったということだ。
街道に戻って今川に架かる今川橋を渡り、左手に京都高校があるところから496号線と分かれて左斜めへ進む道を歩く。小犬丸橋を渡って、右手に南行橋駅があることろで、17時48分、今日は終わる。
本日の歩行時間 7時間48分。
本日の歩数&距離 46317歩、31.1km。
朝起きてみると曇り空で涼しい。今日は歩く予定にしていなかったのだが、この天気ならば歩きやすいと思い立って、急遽歩くことにした。
小倉の常盤橋を10時に出発する。ここは小倉五街道の起点、「門司往還」「長崎街道」「秋月街道」を歩く際もここから出発したところだ。「唐津街道」もここが起点のようだが、これは若松から歩いた。今回「中津街道」を歩けば五街道全てを踏破したことになる。
右手に勝山橋を見ながら進み、井筒屋の新館の先から左折して銀天街のアーケードに入ってその中を歩き、抜けたところを左折して次の信号、歩道橋の一つ手前の信号を右折、突き当りを左折して進む。モノレールの下を通って進むと、ここからしばらくは飲み屋街、私も時々出没するところだ。まだ朝が早いのでガラ~ンとしている。三つ目の角を右折して進む。
資料に高倉稲荷神社があって、そこに「中津口の大石」があると書かれている。このあたりにそれらしい寺社があったように思ったので、古船場の信号から街道を離れて行って見た。ところが私が思ったところにはお寺が立っており、稲荷神社ではない。このあたりに他には神社らしいものはないので、あきらめて街道に戻って歩く。
その後、市役所に問い合わせをしてみると、現在は小倉城の横にある八坂神社の鳥居のところにあるということで、日を改めていってみると二つの大きな石が鳥居の横にあった。説明文が立っており、「この大石は細川忠興が慶長7年(1602)小倉城を築くとき、大谷から運んできたもので、大石は運ぶ途中、上富野で動かなくなった。忠興は頭の富岡某を手討ちにしたので、石は勢いよく運ばれた。これを聞いた小笠原四代藩主忠総は「二つに割って運べば命まで奪わずにすんだ。石の大小は勝負にかかわらぬ」といったという。明治に入って中津や築上の青年が多数小倉にやって来た。門を入るとき、この大石をにらむと成功すると言われて一心ににらんだことから、「大石にらみ」といわれ、また、この石を見上げて「自分も出世し、このように人から見上げられる人物になるぞ」と誓ったので、「出世石」ともいったという。また手討ちにされた富岡某を哀れんだ村人は地蔵堂を建て供養したそうで、現在この富岡地蔵は安全寺に安置されているという。また資料に書かれていた高倉稲荷神社は平成13年に八坂神社に合祀されたので石も移したと説明されていた。
北九州都市高速の高架下を通ると道は二股に分かれているので、左斜めへ進む。前方にスーパーの看板が見えるところで右折して小川を渡って進み、一直線に歩いていき、突き当たりを左折、次の十字路を右折して進む。この角に中津街道の案内板が立っている。
足原小学校の先の突き当たりを左折、その先の黒原の信号で264号線に合流して進む。小学校のあたりは旧道が失われているようだ。
霧が丘一丁目の信号から街道を離れ、左折して坂を上って行くと「本通寺」がある。細川忠興の家来、大隈市正が関が原の陣中で仮眠中に仏が現れ、「汝に縁ある仏なり。仏門に入り、寺を建て我を安んぜよ」と告げた。そばに仏像があったのでこれを持ち帰り、忠興に事の次第を告げると、「仏門に入り、藩の発展を祈願せよ」と暇を与えられたので、市正(願覚)は本願寺法主の直弟子になった。慶長7年(1602)忠興が小倉城に入ったので願覚は田町に淨光寺を建てた。寛永9年(1632)細川忠利は肥後へ転封になったため、願覚と長男は熊本へ行き、次男が小倉に残って本通寺と改めた。昭和54年に現在地へ移転した時、本尊を修復したが、京都の仏師はこの仏像は地方にあるものとは思えぬ立派なもので鎌倉時代の金箔が施され、衣の部分も同時代の特徴を備えていて、快慶の作かそれに近い人の作と伝えたという。
街道に戻って進むと左手に「開善寺」の看板が立っているので、それに従って行ってみた。ここは建武2年(1335)小笠原貞宗が信州に創立し、翌年清拙が勧請開山したと伝えられており、寛永9年(1632)小笠原氏が小倉へ転ずるに従って小倉北区の馬借に移り、昭和36年に現在地に移設された。広寿山福寿寺が建立されるまで、小笠原家の菩提寺だったところで、境内には享保大飢饉の供養塔等があるということだったが、犬が二匹いて激しく吠え立てるので、ゆっくり見て回ることができなかった。私をよほどの不審者と思ったのだろう、とにかくうるさくてうんざりした。
湯川の信号で一旦10号線に接するが、そこから左斜めへ伸びる旧道を歩いていくと、左手に「水神社」がある。ここは和気清麻呂が宇佐八幡宮に勅使として行ったとき、足を痛めてしまった。そのとき白鹿が現れたので、和気清麻呂はこれに乗って宇佐神宮に参拝することができた。そのとき八幡大神から、この地に温泉があるのでこれに浴せよとお告げがあり、神託に従って温泉に入ると両足が回復したので、この山を足立山というようになった。
温泉はその後も枯れなかったので、ここを湯川(湯乾のなまったもの)といい、その湧き出る池を「一生水」と名づけたと説明されている。
その先、左手に「葛原八幡宮」がある。ここは和気清麻呂の嗣子真綱が勅使として宇佐八幡宮へ参内した帰途、父清麻呂由来のこの地へ来て、弘仁8年(817)創建したといわれている。嘉永6年(1853)京都神祇官から祭神となった清麻呂の神霊に「和気護王大明神」の称号、御幣を賜り、社宝とされている。
境内には和気清麻呂の銅像が立っている。女帝称徳天皇の深い寵愛を受けた道鏡が皇位を望んだとき、清麻呂は宇佐八幡宮へ勅使として遣わされ、「わが国は初めより君臣の分定まれり、道鏡を除くべし」という神勅を言上した。そのため道鏡の怒りを買い、足の筋を断たれ大隈の国へ流されることになったが、その途中、現れた霊猪に導かれ(水神社では白鹿が現れて宇佐八幡へ導かれたと書かれている)、宇佐八幡の神助によって当地でしばし逗留、山裾に沸き出でる霊泉で傷を受けた御足を癒したと説明されていた。
左手に「茶屋本邸御茶屋跡」の碑が立っている。茶屋本氏の姓は藩政時代の御茶屋名跡を示しており、邸の門先には先祖の頌徳碑が並んで立っている。
高速道路の高架下を通り葛原東一丁目の信号のところで、昼食を摂り、信号を渡って右斜めへ進み、すぐ先で左斜めへ進む。その先で25号線の高架下を通って進み、竹馬川に架かる唐戸橋を渡る。橋を渡ったところに猿田彦が並んでいる。このあたりにあったものをここに集めたような感じだ。
下曽根の信号のあたりが下曽根宿があったということなので、ここでカウントする。
13時丁度に下曽根宿を通る。
小倉から3時間、12.1km。
その先左手に旧北九州空港がある。この道は出張で空港を利用する際よく歩いた道だが、この道が中津街道だとは知らなかった。今は海上に新空港ができていて、ここは使われておらず、土盛りが見えた。跡地利用の準備が進んでいるようだ。
中曽根新町の信号の先で25号線と分かれて右斜めへ進む。右手にJRの線路が見える。一旦25号線に合流して新田橋を渡り、上曽根の信号の先、コンビニの横から再び25号線から分かれて右斜めへ進む。
その先で街道と分かれて右折し、踏切を渡って進むと「帝踏岩(タイトウイワ)」がある。これは巨大な花崗岩で、景行天皇(71~131)が貫山の土蜘蛛を討つため東方を拝し、戦勝祈願したという伝説が残っている。かってはこの巨石のすぐ前を中津街道が東西に延びていたと資料に書かれている。昔はJRの窓からこの岩がよく見えたのだが、今では周囲に住宅が立ち並んでいて、JRからは見ることができなくなっている。
街道に戻って進むと、10号線があり、これを歩道橋で横断すると、下りたところに旧道が続いている。
その先右手少し入ったところに「始覚寺」がある。ここは天正3年(1399)行伝甫学平僧が開基したと伝えられている。境内には五輪塔や宝篋印塔など中世の供養塔があり、庚申塚が残っている。
街道に戻り、朽網橋を渡って進むとTOTOの工場に突き当たるので、ここを左折、10号線に出てこれを進んでいく。
工場が途切れるところから左斜めへ進む旧道があるのでこれを進むが、このあたりは狸山古戦場といわれているところだ。ここは古くから豊前の軍事・交通の要衝だったところで、応仁戦乱では松山城を巡って激しい攻防が繰り広げられたといい、慶應2年(1866)長州軍を迎え撃つため、島村志津摩の構想下で狸山方面は小宮民部を総司令官として藩兵の主力をこれに当てて戦ったと説明されている。島村志津摩は秋月街道の金辺峠に頌徳碑が立っていたことを思い出した。
資料では左側に「郡境標柱」が立っていると書かれていたので、松山入口の信号のところから左折してみたが、分からなかった。左折する場所を間違えたかな?
10号線に戻って進み、次の角を左折、その先ですぐに右折するが、その先で旧道は失われているようなので、右折して10号線に合流する。
苅田町神田町の信号で右折、すぐ先で左折して進むと、左手に道標が立っており、
「従是久保新町迄四里」「従是小倉迄三里半」「従是椎田町四里半」「従是大里迄四里半」と刻まれている。
右手に「淨厳寺」がある。ここは城井城主城井鎮房の客将横尾将監春直が剃髪して名を春慶と改め、寛永元年(1624)に開基したといわれている。
左手に中央公民館があり、ここで一休み後、その先の小川を渡って左折、すぐに右折して進み、その先突き当りを左折して10号線に合流する。
苅田町富久町の信号の少し先から右折、すぐに左折して再び10号線に合流する。近衛橋バス停の先から10号線と分岐して左斜めへ進み、近衛橋を渡って進む。
右手に「御所山古墳」がある。北部九州屈指の規模を誇る前方後円墳で5世紀後半の築造と推測されており、墳丘は全長119m、前方部は82m、後円部径73mある。九州では珍しく周濠を持ち、前方部と後円部のくびれ部両側に「造り出し」と呼ばれる突起を持つなど、畿内の応神陵、仁徳陵と同じ古墳である。
文政3年(1820)大風のため、古墳が崩壊し、石室が偶然発見され、その後一旦埋め戻されたが、明治20年に調査が行われ、石室の形態が筑肥地域の影響を受けていることが分かったため、磐井の乱(527)の磐井の影響を受けたこの地域の縣主又は国造クラスの被葬者と考えられていると説明されている。石室の入口には「白庭神社」の拝殿が立っている。
その先左手の森の中に「塩寵神社」がある。ここは大型の円墳石塚古墳の上にあるが、享保年間(1725年頃)与原の製塩業の繁栄を願って宮城県塩釜市の塩寵神社から勧請したものだ。
道なりに進み、二崎の信号で10号線を横断し、川沿いに進んで、その先で左折、小波瀬橋を渡って進む。右手に行橋行事簡易郵便局がある。
「行事飴屋」がある。ここは京都郡行事村を本拠として宝永年間(1700年代初め)から約200年にわたって豊前有数の豪商として栄えたところだ。「飴屋」とは屋号で本姓は玉江といい、三代目の宗利が宝永6年(1708)に珍しい飴を創作して飴商として成功、その後も手広く商いを広げ、豊前の国の経済を支配したが、維新後の急激な社会の変動には勝てず、小笠原藩と盛衰を共にした。今も藩主がくぐった御成門が立っているが、建築年代は天保年間(1830~1844)頃と考えられていると説明されている。
長峡川に架かる万年橋を渡る。長峡川は平尾台を源とし、「長峡」と書いて「ながお」と読む。長峡の名の起こりは景行天皇がこの地に行宮を置いて京(みやこ)と呼ぶようになり、このとき長峡県(ながおのあがた)を設けたことにはじまるという。
行橋大橋郵便局から突き当たりを左折、左手に旧縁寺があるところから左折すると、三叉路の角に道標が立っており、 「南 中津道」「西 小倉道」「東 今元道」と刻まれている。この角にあるお店の人が昔、角屋敷なので馬車馬が暴れこんでは大変と立てたが、ただ石を置いただけでは風情がないし、よく道を尋ねられたので、道しるべの文字を書き込んだと資料には書かれている。
街道はここから右折して進むのだが、街道を離れて左折すると「大橋神社」がある。この神社は寛永年間(1624~1644)に京都郡草野村の草野正八幡神社から分社して仲津郡大橋、宮市、小部野の三村の産神としてこの地に建立されたという。
境内には「大橋太郎の碑」が立っている。鎌倉時代、大橋太郎は豊後の国の地頭で、国の用務のため鎌倉へ向かったとき、身に覚えのない罪をきせられた。しかし、やがて疑いが晴れ豊後の国へ帰る途中、下正路の浜辺(現在の行橋小学校の近く)にたどり着いた。2、3軒あった猟師の家に一夜の宿を求めたところ、厚いもてなしを受けたので、太郎はすっかりこの地が好きになり、豊後の家族を呼び寄せた。このことを知った豊後の人たちが次々にこの地へやってきて人口が増えた。太郎は商業を起こし、それが次第に繁盛して、町もにぎやかになった。そのため大橋太郎こそこの地の開拓者であるとしてその名をとって大橋村と名づけられた。その後明治22年にそれまでの行事村、大橋村、宮市村が合併して行事の「行」と大橋の「橋」をとって「行橋町」が生まれたということだ。
右手長い参道のむこうに「正八幡宮」がある。ここは行事村・草野村・長音寺村・大橋村・宮市村・小部埜村六ヶ村の土地の霊魂を、この地に一ヶ所に集めて地底に封じ込めて小さな祠を造営し、「産土正宮」として六村の地域住民に崇められていた。 貞観元年(859)に宇佐八幡宮を京都の男山に勧請の際に、その御神輿の御旅所としてこの地に仮殿を構えて安置した。そして翌朝御神輿が出発した後に、木綿垂を附けて献納したはずの榊が一本残されていたのを、人々はこれを大神御心にちがいないとして、その榊を大神の御璽として正宮の祠内に納め、宇佐八幡神を勧請した。これが創建となったということだ。
街道に戻って今川に架かる今川橋を渡り、左手に京都高校があるところから496号線と分かれて左斜めへ進む道を歩く。小犬丸橋を渡って、右手に南行橋駅があることろで、17時48分、今日は終わる。
本日の歩行時間 7時間48分。
本日の歩数&距離 46317歩、31.1km。