2009年05月27日(水)
海老津駅~赤間~畦町~香椎駅
曇り
7時に前回道を間違った場所から歩き始める。 218号線の高架下を通って進み、松田の信号から左折、更にそのすぐ先から右斜めへ伸びる旧道を歩く。
右折する道があり、そのすぐ先で左折、草道を進んでいく。
暫く山裾の道を進み、一旦287号線に出、その先で再び右斜めへ分岐していくと、左手前方に赤い鳥居が見える。資料ではそのまま直進して少し先で287号線に合流するようになっているが、探しても道はなくなっていたので、鳥居の前へ行く道を進む。この鳥居には「敷島稲荷大明神赤鳥居」と書かれている。
287号線に合流、右折して進み、3号線の下のトンネルを通って進む。このあたりが城山峠だ。その先で一旦3号線に合流する。
武丸北のバス停のところから右斜めへ分かれて土道を進むと、右手に「太平寺福岡別院」があり、その前を進んでいく。まだ新しい建物だ。
その先から道は草道になっており、その入口のところに「唐津街道」と書かれた標識が立っている。
最初は草道だったが、次第に竹林の中になり、更に完全に山の中の道になる。涼しくて静かで気持ちのいい道だ。
道なりに進んでいくと、二股に分かれているところがあり、ここから右へ進む道が旧道のようだが、その先で福岡教育大学があったりして道は失われているので、左へ下っていく。ここにも左手に標識が立っており、それに「唐津街道」「う回路」と記されている。
城山の信号で3号線に合流した後、道を間違えて3号線をそのまま歩いて行ってしまった。しばらく歩いていくと、跨線橋があり下をJRの線路が通っているのをみて初めて道を間違えたことに気がついた。仕方がないので、城山の信号まで戻り、右斜めへ伸びる69号線を歩いていく。右手は福岡教育大学だ。ここの出身者が数名会社にいるので、彼らの顔を思い出しながら歩いていく。
JR教育大前駅があり、そこから左折して進む。駅のすぐ横に「旧唐津街道」「赤間宿」と書かれた木柱が立っている。ここが赤間宿の入口で、構口があった場所ということだ。

ここでカウントする。
8時43分に赤間宿を通る。
芦屋宿から4時間19分、15.1km。
その先左手に「須賀神社」がある。ここは元禄9年(1566)赤馬の里の鬼門除けの守護神として現在地に遷座したと説明されている。
境内には「節婦阿政之碑」が立っている。宗像三偉人の一人で孝女と言い伝えられているのが、節婦阿政こと赤間のお政。政は約200年前に風流人として名を馳せた七兵衛の後妻の娘として生まれたが、両親を早くに亡くしたため、腹違いの姉夫婦に育てられた。その姉夫婦から大庄屋の嫁にとの縁談が持ち込まれたが、政には亡父から言われた本家筋の許婚がいた。ところが許婚の家は貧しく、姉夫婦は裕福な大庄屋との婚姻を勧めたため、悩んだ政は婚礼の夜に「我身ひとつかくこを極め参らせ候」という遺書を残して自害してしまった。享和元年(1801)政が18歳のことだった。政の貞節は頼山陽著の「節婦阿政伝」にも記され、婦女子の鏡と言われたと説明されている。
すぐ横に法然寺があるが、このあたりで木屋瀬から来た道と合流している。
その横に「五卿西遷之碑」が立っている。
幕末動乱期、三条実美ら五人の公卿が徳川幕府の手から逃れるため、長州から大宰府へ移る途中、この地を訪れ約一ヶ月間滞在したという。最初は藩主黒田公の別館跡(旧赤間小学校庭)にあったが、昭和42年にこの地に移されたという。
その先、釣川に架かる辻田橋の袂に道標が立っている。それには「此方鞍手郡山口道」「自是下田○分之内迄八百六十一間」と刻まれている。
右手に「節婦政伝」の説明板が立っており、須賀神社にあった案内板と同様のことが書かれていた。その横の道を上って行くと「烈女政碑」が立っている。須賀神社の石碑と比べると小さな碑だが、こちらのほうがお政らしいように私には思えた。
今日は曇り空。若干蒸し暑いが、それでも日照りがないので楽だ。
暫く3号線と併行した道を進み、ガソリンスタンドがあるところから、左に進むと3号線に合流する道があるが、ここを右へ進んで坂を下る。野坂の信号を渡って右折すると3号線に併行して旧道が伸びているので、これを進む。
左手に原神社があり、ここから原町に入る。その先に「恵比寿神社」が右手にある。原町は赤間宿と畦町宿の中間点になり、黒田藩、唐津藩の参勤交代の際の休憩所になったところという案内板がある。
確かに板塀の大きな家が残っていたり、道端には辻行灯が立っていたりして昔の雰囲気を残している。
右手に「幸福稲荷」があり、その先にお地蔵さんが並んでいる「地蔵堂」がある。
左手に「淨徳寺」があり、右手には「蛭子神社」がある。
その先坂を下ったところ右手に「太閤水」がある。天正15年(1587)豊臣秀吉は島津制圧のため、筑前から肥後路へと南下した。その際この地で大休止を命じ、千利休が汲んできた湧き水を飲んで、大変おいしかったと見えて、利休に「この水の味、京に戻っても決して忘れるな」といったといわれている。その後、九州を平定しての帰路、再びこの山の口峠でこの水を飲み、大変喜んだので、以来この清水を太閤水と呼ぶようになったと説明されている。
月が森池が左手にあり、その池の周囲を回るようにして進んでいき、西郷川に架かる畦町橋を渡る。
このあたりは畦町宿のあったところだ。左手に「天満宮」があり、寛延2年(1749)と刻まれた鳥居が立っている。ここの参道入口には大きなそして変わった形のソテツの木が立っていた。
その先左手に「祇園神社」がある。いってみると神社の鳥居には「須賀神社」と書かれている。ご近所の方にお聞きすると、本当は須賀神社なのだが、今では博多にある祇園神社の系統になっているので、このあたりの方は皆祇園神社と呼んでいるといわれていた。
この反対側に空き地が広がっているがここが畦町の庄屋跡だ。
ここでカウントする。
11時14分、畦町宿を通る。
赤間宿から2時間31分、8.5km。
突き当たりに「構口」跡が残っており、ここを右折して進む。
右手にJAむなかた福間選果場があるところから左折、最初の信号を右折して進む。左手に上西郷小学校がある。
左へカーブした道を進み、その先の二股を右斜めに進むと山の中へ入っていく。ここにも先ほどと同様の標識が立っている。ここを「ならの木坂」と呼ぶようだ。
森を抜けると舗装された道になる。坂を下ると十字路がありこれを直進する。ここにも標識が立っていた。その先地図では玄望峠となっているが、確かに右手はるかかなたに、今日は曇っていて霞んでいるが玄界灘が見える。玄界灘を望む峠ということから玄望峠と名づけられたのだろうか。右手に愛宕神社があり、左手には飯盛山へ行く道があり、その入口に「飯盛山ひとくち歴史」の案内板が立っている。それによると飯盛山は戦国時代には城が築かれていた史跡だが、今では合戦の舞台となった面影はない。ただ福間町全域を見渡すことができ、空気が澄んだ晴れた日などは博多湾や福岡タワーが見えることがあると書かれている。
旦ノ原井戸がある。旦ノ原は旧糟屋・宗像・薦野・内殿・上西郷の四村にまたがる丘陵一帯のことをいい、江戸時代、このあたりは水がなくて困っていた。そこでこの地に住んでいた伊東忠平が申し出て許可を受け、文久3年(1862)に井戸ができた。以来住民や旅人にも便利になったので、この井戸のことを「二郡四ケ村井戸ひとつ」と呼ぶようになった。昭和61年と平成21年にあった県道拡張工事により、現在地に移転したと説明されている。
左手に高速道路に接して古賀サービスエリアがあり、予定通りここで昼食を摂る。
「旧筑前唐津街道」の石碑が立っていて、「右 青柳町一里」「左 畦町二里」「平成2年」と刻まれている。
ここから左斜めへ短いが旧道が残っているのでこれを進む。その先左手に福岡県馬術競技場がある。
更にその先に先ほどの石碑と同様の「旧筑前唐津街道」が立っており「右 畦町二里半」「左 青柳町半里」と刻まれている。
その先で右斜めへ伸びる旧道があり、これを歩くのだが、道を間違ってしまい、一つ手前の道を進んでしまった。途中で気がついて元に戻り、その先、井浦工務店の看板がかかっているところから右折して進む。
すぐ先右手に「十一面観音」があるが、由来は書かれていなかった。
その先右手に古賀市新原コミュニティー消防センターがあるところの十字路で左折して進み、谷山川に架かる川原橋を渡り、青柳交番の横を右折して進む。
右手に薬師堂があり、石仏が並んで立っている。このあたりから青柳宿に入っていく。青柳宿は慶長10年((1605)に御茶屋を中心にして作られ、元禄時代初期(17世紀末)までに町並みが完成したと書かれた案内板が立っている。
左手に緑に囲まれた大きな家が立っており、地元の方からここが庄屋の跡と教えていただいた。
ここでカウントする。
14時8分、青柳宿を通る。
畦町宿から2時間54分、8.5km。
左手に「大宰府神社道」「明治29年」と刻まれた石柱が立っている。
左手に「構口跡」がある。
青柳橋を渡って進むと、左手に青柳小学校があり、その先504号線を進む。
左手に五所八幡宮を見ながら進むと、左手に「太閤水」がある。天正15年(1587)九州を平定した豊臣秀吉が大坂への帰路、ここで馬を休め、自ら清水を飲んだところで、秀吉を追って九州入りした堺の茶人「津田宗及」は三代の里で水を求めたがあまりよい水ではなかったため、自ら井戸を掘って水を得た。秀吉はこの水を飲んで喜び、掘った者の名前を聞き「宗及水」と名づけた。その後京都大徳寺の江月和尚(宗及の子)が立ち寄った際、「飯銅水」と改めたが、後世に石畳の井戸場が造られ、「太閤水」と呼ばれるようになったと説明されている。今でも水を汲みに来ている人がいた。
左手に祥雲寺があり、その先の三代公民館前信号で右折、さらにその先で左折、すぐ先の細い道を左折して進むと504号線に合流する。
千田の信号を直進すると左手に「夜泣き観音」がある。元禄11年(1568)立花城が落城した時、城主鑑載の妻子は城を脱出し、この橋の下に隠れた。しかし子供が泣きやまず、もはやこれまでとあきらめて観音経を唱えたところ、子供は泣きやみ、追っ手から逃れることができたという。以後子供の夜泣きを治してくれる観音様と呼ばれているという。
原上の信号を直進し、小川を渡った次の角を左折して進むと道は山の中へ入っていく。最初に右へ分岐する道があり、これを進んだが、どうも違うようなので引き返して直進し、次に右折する道を進む。あとは道なりに進んでいくと、平山の信号の少し手前の3号線に合流する。地図によると旧道はもう少し先まで伸びていたようだが、今は道がなくなっており、歩くことができないようだ。信号を渡って右折、ガソリンスタンドの手前から左へ伸びる旧道に入るが、その先で一旦3号線に合流する。このあたり、資料と現実の道が若干異なっており、判断に迷った箇所があった。下原の信号で右へカーブする3号線と分かれて直進する504号線を進み、最初の角を右折して進むと、左手に淨光寺がある。
そのまま道なりに進み、跨線橋でJRを越えて左折、その先で504号線に合流、左折して進むと左手に香椎駅があるので、今日はここまでとする。
16時21分、香椎駅に着く。
本日の歩行時間 9時間21分。
本日の歩数&距離 52680歩、34.5km。
7時に前回道を間違った場所から歩き始める。 218号線の高架下を通って進み、松田の信号から左折、更にそのすぐ先から右斜めへ伸びる旧道を歩く。
右折する道があり、そのすぐ先で左折、草道を進んでいく。
暫く山裾の道を進み、一旦287号線に出、その先で再び右斜めへ分岐していくと、左手前方に赤い鳥居が見える。資料ではそのまま直進して少し先で287号線に合流するようになっているが、探しても道はなくなっていたので、鳥居の前へ行く道を進む。この鳥居には「敷島稲荷大明神赤鳥居」と書かれている。

287号線に合流、右折して進み、3号線の下のトンネルを通って進む。このあたりが城山峠だ。その先で一旦3号線に合流する。
武丸北のバス停のところから右斜めへ分かれて土道を進むと、右手に「太平寺福岡別院」があり、その前を進んでいく。まだ新しい建物だ。

その先から道は草道になっており、その入口のところに「唐津街道」と書かれた標識が立っている。

最初は草道だったが、次第に竹林の中になり、更に完全に山の中の道になる。涼しくて静かで気持ちのいい道だ。

道なりに進んでいくと、二股に分かれているところがあり、ここから右へ進む道が旧道のようだが、その先で福岡教育大学があったりして道は失われているので、左へ下っていく。ここにも左手に標識が立っており、それに「唐津街道」「う回路」と記されている。

城山の信号で3号線に合流した後、道を間違えて3号線をそのまま歩いて行ってしまった。しばらく歩いていくと、跨線橋があり下をJRの線路が通っているのをみて初めて道を間違えたことに気がついた。仕方がないので、城山の信号まで戻り、右斜めへ伸びる69号線を歩いていく。右手は福岡教育大学だ。ここの出身者が数名会社にいるので、彼らの顔を思い出しながら歩いていく。
JR教育大前駅があり、そこから左折して進む。駅のすぐ横に「旧唐津街道」「赤間宿」と書かれた木柱が立っている。ここが赤間宿の入口で、構口があった場所ということだ。

ここでカウントする。
8時43分に赤間宿を通る。
芦屋宿から4時間19分、15.1km。
その先左手に「須賀神社」がある。ここは元禄9年(1566)赤馬の里の鬼門除けの守護神として現在地に遷座したと説明されている。

境内には「節婦阿政之碑」が立っている。宗像三偉人の一人で孝女と言い伝えられているのが、節婦阿政こと赤間のお政。政は約200年前に風流人として名を馳せた七兵衛の後妻の娘として生まれたが、両親を早くに亡くしたため、腹違いの姉夫婦に育てられた。その姉夫婦から大庄屋の嫁にとの縁談が持ち込まれたが、政には亡父から言われた本家筋の許婚がいた。ところが許婚の家は貧しく、姉夫婦は裕福な大庄屋との婚姻を勧めたため、悩んだ政は婚礼の夜に「我身ひとつかくこを極め参らせ候」という遺書を残して自害してしまった。享和元年(1801)政が18歳のことだった。政の貞節は頼山陽著の「節婦阿政伝」にも記され、婦女子の鏡と言われたと説明されている。

すぐ横に法然寺があるが、このあたりで木屋瀬から来た道と合流している。
その横に「五卿西遷之碑」が立っている。
幕末動乱期、三条実美ら五人の公卿が徳川幕府の手から逃れるため、長州から大宰府へ移る途中、この地を訪れ約一ヶ月間滞在したという。最初は藩主黒田公の別館跡(旧赤間小学校庭)にあったが、昭和42年にこの地に移されたという。

その先、釣川に架かる辻田橋の袂に道標が立っている。それには「此方鞍手郡山口道」「自是下田○分之内迄八百六十一間」と刻まれている。

右手に「節婦政伝」の説明板が立っており、須賀神社にあった案内板と同様のことが書かれていた。その横の道を上って行くと「烈女政碑」が立っている。須賀神社の石碑と比べると小さな碑だが、こちらのほうがお政らしいように私には思えた。

今日は曇り空。若干蒸し暑いが、それでも日照りがないので楽だ。
暫く3号線と併行した道を進み、ガソリンスタンドがあるところから、左に進むと3号線に合流する道があるが、ここを右へ進んで坂を下る。野坂の信号を渡って右折すると3号線に併行して旧道が伸びているので、これを進む。
左手に原神社があり、ここから原町に入る。その先に「恵比寿神社」が右手にある。原町は赤間宿と畦町宿の中間点になり、黒田藩、唐津藩の参勤交代の際の休憩所になったところという案内板がある。

確かに板塀の大きな家が残っていたり、道端には辻行灯が立っていたりして昔の雰囲気を残している。

右手に「幸福稲荷」があり、その先にお地蔵さんが並んでいる「地蔵堂」がある。

左手に「淨徳寺」があり、右手には「蛭子神社」がある。
その先坂を下ったところ右手に「太閤水」がある。天正15年(1587)豊臣秀吉は島津制圧のため、筑前から肥後路へと南下した。その際この地で大休止を命じ、千利休が汲んできた湧き水を飲んで、大変おいしかったと見えて、利休に「この水の味、京に戻っても決して忘れるな」といったといわれている。その後、九州を平定しての帰路、再びこの山の口峠でこの水を飲み、大変喜んだので、以来この清水を太閤水と呼ぶようになったと説明されている。

月が森池が左手にあり、その池の周囲を回るようにして進んでいき、西郷川に架かる畦町橋を渡る。
このあたりは畦町宿のあったところだ。左手に「天満宮」があり、寛延2年(1749)と刻まれた鳥居が立っている。ここの参道入口には大きなそして変わった形のソテツの木が立っていた。

その先左手に「祇園神社」がある。いってみると神社の鳥居には「須賀神社」と書かれている。ご近所の方にお聞きすると、本当は須賀神社なのだが、今では博多にある祇園神社の系統になっているので、このあたりの方は皆祇園神社と呼んでいるといわれていた。
この反対側に空き地が広がっているがここが畦町の庄屋跡だ。

ここでカウントする。
11時14分、畦町宿を通る。
赤間宿から2時間31分、8.5km。
突き当たりに「構口」跡が残っており、ここを右折して進む。

右手にJAむなかた福間選果場があるところから左折、最初の信号を右折して進む。左手に上西郷小学校がある。
左へカーブした道を進み、その先の二股を右斜めに進むと山の中へ入っていく。ここにも先ほどと同様の標識が立っている。ここを「ならの木坂」と呼ぶようだ。

森を抜けると舗装された道になる。坂を下ると十字路がありこれを直進する。ここにも標識が立っていた。その先地図では玄望峠となっているが、確かに右手はるかかなたに、今日は曇っていて霞んでいるが玄界灘が見える。玄界灘を望む峠ということから玄望峠と名づけられたのだろうか。右手に愛宕神社があり、左手には飯盛山へ行く道があり、その入口に「飯盛山ひとくち歴史」の案内板が立っている。それによると飯盛山は戦国時代には城が築かれていた史跡だが、今では合戦の舞台となった面影はない。ただ福間町全域を見渡すことができ、空気が澄んだ晴れた日などは博多湾や福岡タワーが見えることがあると書かれている。
旦ノ原井戸がある。旦ノ原は旧糟屋・宗像・薦野・内殿・上西郷の四村にまたがる丘陵一帯のことをいい、江戸時代、このあたりは水がなくて困っていた。そこでこの地に住んでいた伊東忠平が申し出て許可を受け、文久3年(1862)に井戸ができた。以来住民や旅人にも便利になったので、この井戸のことを「二郡四ケ村井戸ひとつ」と呼ぶようになった。昭和61年と平成21年にあった県道拡張工事により、現在地に移転したと説明されている。

左手に高速道路に接して古賀サービスエリアがあり、予定通りここで昼食を摂る。
「旧筑前唐津街道」の石碑が立っていて、「右 青柳町一里」「左 畦町二里」「平成2年」と刻まれている。

ここから左斜めへ短いが旧道が残っているのでこれを進む。その先左手に福岡県馬術競技場がある。
更にその先に先ほどの石碑と同様の「旧筑前唐津街道」が立っており「右 畦町二里半」「左 青柳町半里」と刻まれている。

その先で右斜めへ伸びる旧道があり、これを歩くのだが、道を間違ってしまい、一つ手前の道を進んでしまった。途中で気がついて元に戻り、その先、井浦工務店の看板がかかっているところから右折して進む。

すぐ先右手に「十一面観音」があるが、由来は書かれていなかった。

その先右手に古賀市新原コミュニティー消防センターがあるところの十字路で左折して進み、谷山川に架かる川原橋を渡り、青柳交番の横を右折して進む。
右手に薬師堂があり、石仏が並んで立っている。このあたりから青柳宿に入っていく。青柳宿は慶長10年((1605)に御茶屋を中心にして作られ、元禄時代初期(17世紀末)までに町並みが完成したと書かれた案内板が立っている。

左手に緑に囲まれた大きな家が立っており、地元の方からここが庄屋の跡と教えていただいた。

ここでカウントする。
14時8分、青柳宿を通る。
畦町宿から2時間54分、8.5km。
左手に「大宰府神社道」「明治29年」と刻まれた石柱が立っている。

左手に「構口跡」がある。

青柳橋を渡って進むと、左手に青柳小学校があり、その先504号線を進む。
左手に五所八幡宮を見ながら進むと、左手に「太閤水」がある。天正15年(1587)九州を平定した豊臣秀吉が大坂への帰路、ここで馬を休め、自ら清水を飲んだところで、秀吉を追って九州入りした堺の茶人「津田宗及」は三代の里で水を求めたがあまりよい水ではなかったため、自ら井戸を掘って水を得た。秀吉はこの水を飲んで喜び、掘った者の名前を聞き「宗及水」と名づけた。その後京都大徳寺の江月和尚(宗及の子)が立ち寄った際、「飯銅水」と改めたが、後世に石畳の井戸場が造られ、「太閤水」と呼ばれるようになったと説明されている。今でも水を汲みに来ている人がいた。

左手に祥雲寺があり、その先の三代公民館前信号で右折、さらにその先で左折、すぐ先の細い道を左折して進むと504号線に合流する。
千田の信号を直進すると左手に「夜泣き観音」がある。元禄11年(1568)立花城が落城した時、城主鑑載の妻子は城を脱出し、この橋の下に隠れた。しかし子供が泣きやまず、もはやこれまでとあきらめて観音経を唱えたところ、子供は泣きやみ、追っ手から逃れることができたという。以後子供の夜泣きを治してくれる観音様と呼ばれているという。

原上の信号を直進し、小川を渡った次の角を左折して進むと道は山の中へ入っていく。最初に右へ分岐する道があり、これを進んだが、どうも違うようなので引き返して直進し、次に右折する道を進む。あとは道なりに進んでいくと、平山の信号の少し手前の3号線に合流する。地図によると旧道はもう少し先まで伸びていたようだが、今は道がなくなっており、歩くことができないようだ。信号を渡って右折、ガソリンスタンドの手前から左へ伸びる旧道に入るが、その先で一旦3号線に合流する。このあたり、資料と現実の道が若干異なっており、判断に迷った箇所があった。下原の信号で右へカーブする3号線と分かれて直進する504号線を進み、最初の角を右折して進むと、左手に淨光寺がある。
そのまま道なりに進み、跨線橋でJRを越えて左折、その先で504号線に合流、左折して進むと左手に香椎駅があるので、今日はここまでとする。
16時21分、香椎駅に着く。
本日の歩行時間 9時間21分。
本日の歩数&距離 52680歩、34.5km。
旅の地図
記録
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2009年05月25日(月)
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2009年05月27日(水)
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2009年05月29日(金)
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2009年06月01日(月)
プロフィール

歩人
かっちゃん