2009年04月29日(水)
本山駅~佐世保~早岐~川棚~彼杵
晴れ
佐世保から本山までのダイヤをみると6時46分と7時8分がある。ホテルの朝食は6時30分からとなっているので、46分にはちょっと厳しいかなと思ったが、それでも急いで食べて46分に乗れるようにしてみようと思った。そしてホテルは駅のすぐ近くだったこともあって、なんとか間に合って本山駅に7時11分に着き歩き始める。結果としてここで22分早く出発できたことは最後の段階で実に貴重な時間となった。
駅を出て、すぐ先を左折して進む。このあたりは旧道が失われている。204号を横断し、相浦川に架かる中里橋を渡って進み、右手に中里郵便局のあるところから左折して進む。ここの標識は曲がり角の先に設置されていて、うっかり先に進んでしまったが、目印にしていた郵便局があったので事なきを得た。 相神浦本陣(中里本陣)は酒造りの篠崎家が本陣なのだが、明治時代に二度の大火に遭い、昔の面影は全く残っていない。今は篠崎家の一族の吉村家と西牟田酒造が跡地を継いでいるということだ。
中里町下公民館の敷地内に中里宿の説明がなされていた。それによると中里にはかって相神浦郡代役所があり相浦方面を治める行政、商業の中心だった。御本陣、阿弥陀寺跡、武家屋敷や多くの商家があったが、明治41年の大火で焼失してしまったと書かれている。
左手に中里八幡宮がある。創建は不詳だが、元和7年(1621)に宝殿、拝殿を造営したという記録が残っているということだ。ここの鳥居も石造肥前鳥居だ。
その先、中里小学校の横から街道を外れて、東漸寺に行ってみる。ここは寛和2年(986)観海法印の開基で平戸藩の祈願寺だったところだ。樹齢500年の大楠が境内に立っており、県の天然記念物に指定されている。寺宝の青銅鏡は元禄時以前の作と推定されており、市の有形文化財に指定されている。
街道に戻って進むと、右手少し入ったところに「天満神社」がある。社殿の傍らに別当の宅地跡があり、側にその墓があって、碑文に「永禄六癸亥(1563)7月21日」と刻まれてあるので、それ以前からあったということだ。
そのすぐ先右手に「十三塚」がある。明治初期まで吉岡天満宮から東に十三の塚があった。言い伝えでは戦国時代、遠藤但馬守という武将が飯森城の軍勢に討たれたとき、討ち死にした人たちを葬ったとか、井手大和守という武士が十三佛を信仰していて、経典を埋めたとも伝えられていると説明されていた。
その先、十字路を直進して坂を上ると左側に「犬堂観音」がある。昔一人の武士が大鹿を射ようと愛犬を連れてこの地にやってきた。ところが犬が激しく吠えたので武士は犬を切り捨ててしまった。ところが犬の首はものすごい音を立てて頭上を飛んだ。みると大蛇が今にも武士に飛び掛らんとしていたのだ。武士は逃げ出して事なきを得たが、その後自分を守ってくれた愛犬のため、堂を建て供養のため観音様を安置したという。
坂を上りきったところ右側に「吉岡一里塚跡」碑がある。このあたりの小字名は二本松というらしく、一里塚の松があったと資料では推測されている。
その先で道は二股に分かれおり、ここには標識はなかったが地図を見て直進する。十字路があるがここも直進する。ここには標識が立っている。
坂を下って突き当りを左折、すぐ先の204号線にでる。ここは標識がなかったが手持ちの地図に従って歩いた。ところがその先で204号線を右へ歩いていき、最初の角で右折、次の十字路を左折、さらにその先で右折して進んだのだが、ここに標識があり、私は坂を下って突き当たりを左折したが、右折するようになっていた。どちらが正しいのか分からなかった。ただ距離としては短い距離だったので、そのまま進むことにする。
左手にちょっと分かりにくいが井上歯科があるところから右折する道があるので、ここの坂を上って行く。ここにも標識が立っている。
このあたりの標識には道路が描かれており、それに赤い矢印で街道が書かれているので、矢印だけが書かれている標識に比べると非常に分かりやすい。ただ、このやり方ではそれぞれの場所で固有の標識を作らなければならないので、非常な手間とコストがかかったのではないかと思う。
狭い土道を直進し、突き当りを左折、カーブを描いて204号線に合流する。
黒橋バス停の先から右斜めに伸びる旧道があり、これに入ると左手に相浦川がありその川沿いに歩くことになる。
左側に「左石」があり、小さな祠が祀ってある。昔はこの岩はかなりの大岩で目立っていたらしく「左に大石あり」ということからこの名前が付けられたそうで、今でも地名として残っていると説明されている。この大岩は背後の砂岩が崩落したものとされているが、確かに右手には巨岩がそびえていた。
左手に左石橋があるところで右斜めに進んでいくと右手に「西蓮寺」がある。階段を上って行くが、ここは古来より霊地円相厳(眼鏡岩)に源を発した寺院と伝承されているそうだ。境内左手に入って行くと「眼鏡岩」がある。これは砂岩の海食洞穴で大昔大きな鬼が昼寝をしていた。あたりの騒がしさに目を覚ました鬼がうーんと手足を伸ばしたとたん両足が前の岩に当たってポッカリ二つの穴が開いたという鬼の民話や、弘法大師がこの地を訪れたとき、この奇岩をみて仏縁の地なりといい、岩肌に残っている梵字と千手観音像は大師の手によるものという伝説があり、江戸時代の平戸八景に選ばれている。
街道に戻って歩いていくと右手に「堺木峠減圧井」がある。佐世保海軍鎮守府は海軍専用の水源拡充のため岡本水源地(海抜180m)を作り、その原水を浄化のため、矢岳浄水場(海抜40m)に竣工した。ところが両者の間に高低差があり、水圧が強すぎるため減圧井をこの堺木峠ともう一箇所野中に設けた。赤レンガのモダンな造りだが、現在は使われていないということだ。
春日町の信号から右折すると、すぐ右手に「春日神社」がある。奈良の春日神社の御分霊を授かって主神としている。天文10年(1541)に再造営されたことが平戸旧記に書かれていると説明されている。
その先で204号を横断し、川を渡り、更に松浦鉄道の山の田踏切を渡って右へ進んでいくと、左手小高いところに「俵一里塚」の碑が立っている。
右斜めに下る細い道があり、標識が立っているのでそれに従って進むと鉄道のガードがあるのでこれをくぐって進む。左折して進むと204号線に合流、最初の信号で左折、川沿いを歩く。その先で204号を横断すると、左手に常念寺があり、その先から左折する。ここにも標識が立っている。
右手に亀山八幡宮の石垣があり、それに沿って行き、最初の角を右折すると、すぐ横右手に亀山稲荷があり、その横に「亀山八幡宮」がある。天武天皇白鳳4年(676)、宇佐八幡の神霊が赤崎山に現れて「西海鎮護のため、この地に現る」とのご神託で赤崎山に祭る。亀山天皇文永2年(1265)現在地に移ったと説明されている。大きな神社だ。
「西方寺」がある。前身は建長年間(1249~1256)赤崎岳の北麓に帰一庵として創建、その後戦国武将の赤崎伊予守が赤崎城から鼻繰城に移ったのに伴なって佐世保に移転したとなっている。ただ現在の建物は新しく、近代的な作りになっていた。
ここから下り、ホテル東京の前を左折して進むと、突き当たりに階段があるところから左折して進む。ここにも標識が立っているのでそれに従う。このあたりに相神浦筋郡代奉行所跡や馬指役所跡があったようなのだが、よくわからなかった。佐世保本陣跡は少し外れた場所にあり、現在は遺構は全く残っていないようなので、とりあえずこのあたりでカウントしておく。
9時56分、佐世保宿を通る。
佐々宿から5時間6分、16.2km。
坂を上って行くと右手に九品寺があるがここも近代的な建物になっている。このすぐ先から右折して進むと宮地嶽神社がある。このあたりは事前調査でもよく分からなかった場所だ。巫女さんがおられたのでお聞きすると、そのまま境内を通って階段を下っていけばいいと教えていただいたので、それに従って進む。階段を下ったところに信号があり、これを渡るとその前にグラウンドがあるので、左折しそれに沿って進んで行き、グラウンドの端から右折して進む。
左手に高僧のマンションがあり、その入口に階段があるので、これを上って行くと、途中で金網で仕切られた入口があるので、右折してこれを通っていく。右側の建物は医師会館のようだ。
階段を上る前にも、金網のところにも標識が立っているので間違うことはない。その先で千住病院に突き当たるのでこれを右折、すぐ先で突き当たりになるので、これを左折して進むと、左手に裁判所があり、その前を進む。その先、松浦鉄道のガード下を通り、すぐ先で右折して進むと右手に体育文化会館があり、この前を進んでいく。
大通りを渡った一つ先から川沿いに左折し、二番目の橋を渡って進むと左手に佛光寺があり、その先で階段を上って行く。ここは「峯の坂」と呼ばれるところでこの階段はかなり長い。
やっと階段を上りつめると車道に合流し直進すると五叉路に出る。ここで道を間違え、一番右の道を進んでしまった。右にあるはずの山澄中学校が左手にあったことで気がついて、元に戻り右から二本目、エレナ山祇店の横の道でこれを左に見ながら進むとエレナの横に標識があった。
右手に「山祇神社」がある。ここは元禄5年(1692)にこの地の産子神として奉斎式が行われたと神社帳に記されているが、往古神聖視され崇敬された烏帽子岳の登山をする人に対する守護神として登山口の地を示すために奉祀されたものと説明されている。境内には樹齢700年以上と推定される椋の木が立っている。
その先で道は二股に分かれており、左斜めへ進む。ここにも標識が立っている。
「馬宿お駕籠立場跡」の碑が右手に立っている。
道は二股に分かれているので、右へ進む。ここにも標識が立っている。ここから坂を下っていくと車道に合流する。
資料では藤原交番と福石川の間を下ると書かれているが、藤原交番がない。おかしいなと思ってご近所の方がおられたのでお聞きすると、交番は移転したとのこと。現在は空き地になっており、杭で囲まれている場所が交番跡ということだった。そのすぐ左横に小さな川が流れており、これが福石川のようだ。その間の細い道を通っていく。
その先で川を渡り、車道を横断して坂を上って行く。ここにも標識が立っている。
「藤原一里塚」があり、旧道はそのまま直進するそうだが、今は道が失われているのでここから右折して進む。
ただ、直進したすぐのところに「耳石」があった。最近までは街道の両側に残っていたそうだが、住宅建設のため片側の耳石は取り除かれたということだ。
一里塚碑から右折して進むと藤原歩道橋があり、これを渡って進む。
この先、ちょっと分かりにくく、JRのトンネルの上まで行ってしまったが、幸いすぐに間違いに気がつき元に戻る。左手に大浦建設という会社の倉庫のようなところがあって、その横の駐車場のところから坂道を下っていく。
福石トンネルが右手に見え、その先で福石隧道口踏切を渡り、左へ進むと車道に合流し、左折して車道を進んでいく。JRのガード下を通って西龍橋で35号線に合流して右へ進む。大和町の信号の先で35号線は左へカーブするが、旧道は直進し、JRのガード下を通って進む。その先で街道をはずれ、右手にあったスーパーで昼食にする。飢餓状態に弱い私にとって食事は大切なのでこれで一安心だ。
街道に戻って再びJRのガード下を通る。その先に日宇の茶屋跡があったとなっているのだが、遺構は残っていなかった。
35号線に出るが、その先に旧道が続いている。ただ35号線を横断できないので、少し先にある日宇駅前の信号で35号線を横断し、少し戻って交番の横から旧道に入って進んでいく。日宇川に架かる松川橋を渡り、松川橋踏切でJRを越えて進む。その先二股に分かれているところは左へ進む。ここにも標識が立っている。桜馬場踏切でもう一度JRを越え、右へ進む。ここにも標識が立っている。
左手に法光寺を見ながら進み、JRのガード下を通って35号線に合流、脇崎の信号を渡らず左へ進むと左手に「脇崎一里塚」の碑がある。ここは昭和45年の国道35号線拡張工事までは榎が繁り、榎茶屋もあったそうだが、工事のため消滅してしまったということだ。
すぐ先左手に土手を登る細い道がついている。これを上るとJRの線路だ。踏切はなく、線路を横切る。危険なので十分注意をしながら渡ると、その先に旧道がつながっている。ここは地図ではどうしてもわからなかったところだが、現地に来て初めて理解した。さすがにここは写真を撮る余裕はなかった。その先で二股があり、左へ進む。標識があるのでそれに従って歩く。小川に突き当たるので左へ進むと、右手にダスキンがあり、その裏をグルッと回るようにして歩き、ダスキンの前の車道に出、右へ進む。
すぐ先にリンナイ佐世保出張所が右手にあるところの前から左の急坂を登る道がある。この道は旧道で、新道はそのまま真っ直ぐに進むということだが、標識が立っているのでそれに従って旧道を進む。
やがて山の中へ入っていくが、標識が各所に立てられており、それに従って進むと迷うことはない。
山を下ると田ノ浦高架橋の下を通り、すぐ左折して高架橋に沿って進む。このあたり旧道は失われているようだ。突き当たりに「平戸藩調理師範松尾広孝の墓」の標柱が立っているところから右折して坂を上って行く。
ガード下を通って坂を上りきると若竹台公民館の前に出る。ここに「上倉駕籠立場跡」の石碑が立っている。ここは陣の内と田ノ浦を結ぶ峠で藩侯一行が休憩したところだ。今は若竹台住宅団地の中央部になっている。
その先で標識に従って右へ進み、坂を下ってこれもやはり標識があるので右へ進むと右手に「太神宮」がある。寛文6年(1666)に建立され、祭神は天照大神、境内には子安観世音菩薩、淀姫社、稲荷社等もお祭りしていると記されている。
陣ノ内川を渡り、標識に従って十字路を直進する。やがてJRとバイパスを跨ぐ橋を渡り、すぐに右折、最初道を間違ってそのまま直進して階段を下り、国道へ出てしまったが、間違いに気がつき、元に戻って、橋を渡って右折したすぐ先で折り返すようにして坂を上る道があるのでこれに従って墓地の中へ入る。ここが徳丸道路と呼ばれる道で、暫く墓地の中の細い坂道を下っていく。
坂を下ると左手に「史跡平戸街道徳丸上倉道」という石碑が立っている。
その先で道を間違ってしまった。右折しなければいけないのに、左折してしまったのだ。すぐ気がついて旧道に戻って進む。すぐ先に細い十字路があり、これを標識に従って左へ進み、更にその先でここも標識があるので、右折して進む。早岐宿の鍵型道路の始まりだ。
35号線を横断し、右手に第9分団と書かれた消防団のあるところから左斜めへ進むと「戸ノ上石畳」がある。この石畳はその先で車道に一旦分断されており、その先で再び伸びている。これがずっと続いていればもっと素晴らしい遺産として残っただろうにと思った。
その先、突き当りを標識に従って左へ進み、その先の突き当たりを右折して進む。ここも鍵型だ。この右折するところ、川の向こう側に村上病院が見える。ここの門が本陣の門と地元の方に教えていただいた。現在は向こうへ渡れないが、昔は橋が架かっていたということだ。
ここでカウントする。
14時23分、早岐宿を通る。
佐世保宿から4時間27分、12.6km。
突き当たりに親和銀行早岐支店があり、旧道はここを左折するのだが、右手に「史跡早岐浦札場の渡し跡」の石碑が立っていた。ここは船着場で高札場があったということだ。
銀行の前を左折して最初の角を右折して進む。ここには標識がなかった。このようにたまに標識がないところがあると、自分が間違った道を歩いているのではないかとつい思ってしまうから妙だ。その先の角に標識があり間違っていないことを確認できた。
その先にファーストイン早岐というホテルがあり、その前に「早岐一里塚跡」の石碑が立っている。
時間を見るともう14時半を少し回っている。今日これから彼杵まで行くのはちょっと無理なのではないかという思いが強くなってきた。このホテルは早岐駅からすぐ近くだ。それならここでチェックインをしておこう、と思ってホテルに入り、受付の女性と話をしながら予約をした。ただ話の中で川棚までは必ず行くことができると思うというと、川棚駅の近くにもホテルがあること、それとこの女性は川棚の出身で川棚から彼杵まで近いのでこれからでもいけるのではないかと言う。それでとりあえず予約だけしておいて、川棚の宿の予約ができなかったときはここまで戻ってくればいいし、もし川棚の宿が取れたり、彼杵まで歩くことができれば、キャンセルの連絡をもらえればいいです、と言ってくれたので、そうすることにした。
それからだ。それまでもう一泊する気持ちになっていたので、なんとなく気合が入っていなかったのだが、ひょっとすると間に合うかもしれないと思い出すととたんにエンジンがかかった。歩くピッチが早くなった。
その先で222号線に合流する。左手に早岐駅が見える。潮入橋の手前から左折して進み、小森橋を渡って進む。左手に「広田城址入口」の石碑があるところから標識に従って右折、右手に広田小学校があり、その横から左折する。
金田川に架かる金田橋を渡ってすぐに五叉路があり、標識に従って左斜めに進むと左手に「矢通し石」がある。天正14年(1586)の広田城合戦の時、広田城からここまで矢が届いたと説明されている。
その先222号線に出る直前で左折して進む。ここにも標識が立っている。右手に池を見ながら進んでいくとその先で222号線に合流するので、これを左へ進む。右手に刑務所が見える。旧道は刑務所の中を通っていたそうだが、入ることができないので、そのまま222号線に沿って進む。金田川に架かる重尾橋を渡り、その先の信号を右折して進むと、再び金田川があり、これに架かる小曲橋を渡って進む。
少し行くと県道が坂を上るところで左手に分かれるところがあり、これが旧道なのでこの道を進む。ここには標識はなかった。前方に西肥バスの車庫があり、そこで旧道は失われているので、右にカーブして県道に合流する。
左手に果樹園があり、その入口に「史跡 藩境舳の峯番所跡」の石碑が立っていた。平戸藩・大村藩から同数の番士を出して、往来の人・物を取り締まったと資料に記されている。
その先に番所峠の説明板が立っており、左手に標識が立っていたので行ってみたが、山麓のギリギリまで畑になっていて旧道は失われていたので県道を歩く。そのすぐ先で左にカーブした所に僅かに旧道の草道が残っているのが見えた。
番所川に架かる舳峯橋から左折してグルッと右回りに回る旧道が残っているが、すぐ先で県道に合流する。ここにも標識が立っている。
その先で左折、四郎丸橋を渡って左折、その先の二股を右斜めに上る。ここも分岐点ごとに標識が立っており、それに従って進めば迷うことはない。
左右に墓地があり、林の中を進む。林を抜けると草道になり、一旦舗装された道に出るが、これを横断して再び草道に入る。このあたり夏場は草が繁って藪払いをしなければ歩くことができないそうだが、この時期はまだ草がそれほど伸びておらず、容易に歩くことができた。
再び舗装された道に出て右へ進み、その先二股に分かれているので左へ進む。ここにも標識が立っているのでそれに従って進む。左手に「平戸街道 宮村街道 崩の迫 往還松の古株」という表示板があり、その横に大きな松の古株が残っていた。昔このあたりは松並木だったのだろう。道の両側に夏みかんの畑が広がっている。我が家にも夏みかんがなっており、毎日ジュースにして飲んでいるので、なんとなく親近感がある。
舗装された道が右へカーブするところで旧道は直進して土道に入る。小峠と記されている標識が立っている。軽トラックが止まっていて、おじさんが運転席に座っており、その前で子供が一人遊んでいた。
地図を見るとこれから暫く山の中へ入っていくようだ。時刻は16時半近く。暗くなる前にここを抜けたいと先を急ぐ。
その先で道は二股に分かれており、左斜めへ進む山道へ入っていく。入り口には標識はなかったが、少し先に標識が立っていた。一旦舗装された道に出るが、これを横断したところに「八幡岳公園歩道入口」の看板が立っており、ここから再び山道に入っていく。このあたりを針木峠というようだ。
右手に八幡神社の鳥居が立っている。急な坂道を上って行くと「宮村峠 258m 平戸街道での最高地」という標識がある。
258mが最も高い場所ということはこの街道が非常に平坦な街道ということが出来る。ちなみにこれまでに歩いた街道の中で最も高かったところは中山道の和田峠で1531mだった。
この峠は平坦なところはなく、すぐに急な下り坂になる。舗装道路に出て、標識に従って右へ進むと、再び道は少し上り始める。ここが松通峠〈標高252m)だ。
「宮村境一里塚跡」碑がある。ここは道をはさんで両側に石が積み上げられており、両塚の形を作っているが、これは最近作られたもののようで、平戸街道には道の両方に塚のある一里塚は発見されていないということだ。
暫く平坦な道を歩いていくと、右手に「旧平戸街道一杯水」の石碑がある。ここは駕籠立場で年中湧水があり、湧水の反対側には休憩用と思われる平たい石も発見されたと記されている。殿様もひしゃく一杯飲まれたことから「一杯水」の名がついたと説明されている。ここは標高247mで平戸街道の湧水では最も高い場所にあるということだ。
「白岳(大隅高野)の狼煙場跡」の石碑が右側にある。文化5年(1808)8月イギリスの軍艦フェートン号が長崎に不法侵入して乱暴を働いた。これが17年後の「異国船打払令」の大きな原因になるのだが、そこで今後長崎で同様な異変が起こった場合の迅速な情報伝達のため、その翌年大村領内にも数カ所の狼煙場を設けた。この先にある山頂もその数少ない遺跡の一つで、彼杵の立神狼煙場から合図を受け継いだと説明されている。
その先左手に階段があり、その横に「平戸街道 川棚往還 山中600m」と書かれた標識が立っているので、ここを上って行く。 ここには街道の耳石列が残っていたり、戦時中松根油を取るために松の根を掘り出した跡の窪みがいくつも残っている。
現在は松並木を再現させるために植樹がなされていた。 600mと書かれていたが、かなり長い距離あったように思った。
やがてここを抜けると舗装された道に出、これを左へ下っていく。
「平戸街道」と白いペンキで書かれた大きな岩を右手に見ながら草道を下っていくと、林の中へ入っていく。
林を抜けると墓地があり、その一番下、道路の右側に自然石の墓が三基立っている。これが御厨松浦氏の子孫三兄弟の墓ということだ。このあたりは急坂を下るが、ここが川棚往還中の最急坂で「走りおて」と標識に書かれている。
右手に川棚中学校が見えてきた。とりあえず暗くならない前に山を下ることができホッとする。
野口川に架かる上倉橋を渡って右折すると左手に「川棚宿庄屋跡」の石垣がある。
ここでカウントする。
17時47分、川棚宿を通る。
早岐宿から3時間24分、11.3km。
庄屋跡は明治以降小学校になっているようだ。
その先の車道に出たところで左折するとすぐ左手に「長浜大明神宮跡」の鳥居が立っている。壱岐郡芦辺町の安国寺に所蔵されている大般若経(591巻)は当初下松浦志佐白浜の源沙弥道林が応永27年(1420)川棚村鎮守長浜大明神宮へ施入したもので文明18年(1486)出羽国立石寺如円坊がこれを安国寺へ施入した。昭和58年に591巻全巻が国の重要文化財に指定されたが、平成6年に盗まれていることがわかり、現在全巻が行方不明になっているということだ。
その先、正面に右斜めに上る坂道があり、その上り口に「幸秀庵一里塚跡」碑が立っている。
その先坂を上りきった後で道が分かりにくかったが、近所の方が丁度おられたので、道を教えていただき、階段を下って進む。左手に池があり、これに沿って左へ進んでいく。この池の前に標識が立っているのでこれに従って進んでいくと、二股に分かれているので直進する平坦な道を進んでいく。
205号線に合流する。手元の地図ではここから線路を越えた向こう側に旧道があるようになっていたので、踏切を越えていってみると「タブノキ」への案内標識が立っていた。ただ旧道がどこか分からなかったので、205号線に戻って先を急ぐ。ここまでくるととにかくなんとか彼杵まで今日中に、それもできれば真っ暗にならないうちにたどり着きたいと道を急ぐ。
ひたすら205号線を歩く。右手は海が広がっている。なかなかいい眺めなのだが、のんびり景色を眺めている余裕はない。とにかく急ぐ。途中彼杵町境があり、大松があったと書かれた標識が立っている。
その先で右手に旧道が伸びている。ただここには踏切がない。仕方がないので、線路を横断して大音琴郷の浦集落へ入っていく。
集落の中央に空き地があり、低いが石垣が残っている。ここが音琴浦間役所の跡ということだ。
その先で再びJRの線路に突き当たり、ここも踏切はないが、そのまま線路を横切って行く。
踏切を横切って205号線にでると、旧道の延長線上に旧道が伸びているので、この坂を上って行くと「塚本一里塚跡」の石碑が立っていた。
細い坂道を上りつめたところで後ろを振り返ると丁度太陽が沈むときだった。
時間を見ると18時54分だ。彼杵までもう少しだ。残照のあるうちに何とかたどり着きたいととにかく急ぐ。
ここから坂を下り始めたが、道は一層狭くなり、カヤが繁っていて地面が見えない。草を掻き分け掻き分け下っていく。平戸街道で初めての藪コギだ。ただ距離は短く、すぐに抜けることができた。下りたところは砕石会社の敷地だった。旧道はその先に続いているように資料には書かれていたが、かなり荒れているようで、暗くなってきた状態では無理だと判断して、そこから205号線に合流、左折して進む。ちょっと残念だった。
その先で205号線はJRの線路の上を越えて右手に大きくカーブをしながら海沿いに進む。
蔵本郷の信号の先に右斜めに伸びる旧道に入る。分岐するところに「大村純伊旧領奪回戦蹟碑」が立っている。もう暗くなってしまっていて字を読むことができないが、資料に書かれているのでたぶんこれだろうと思う。ここにも標識が立っている。ここが平戸街道最後の標識だった。
その先左手に「熊野十二社権現」の鳥居が立っている。この神社は彼杵村の総鎮守として創建されたが、明治の初期に他の数社と共に彼杵神社となり、彼杵本陣跡へ移転したと説明されている。
ここの本殿横の大きな榎の下に島田万部塔が立っていると資料に書かれているが、周囲はもうすっかり暗くなっているので、そのまま進む。
その先、旧道は右にカーブし、その先で左折して進むと、終着点である「思案橋跡」の石碑に着く。石碑の中央に「思案橋」、右側に「長崎街道」、左側に「平戸街道起点」と刻まれている。
もう周囲は真っ暗だが、幸いこの場所は前に自販機が置いてあったりして明るさがあった。これでなんとかギリギリ今日中に無事平戸街道を踏破することができた。今朝22分早く出発できたことが非常によかったと改めて思った。
19時33分、平戸街道終点に到着する。
川棚宿から1時間46分、8.3km。
ここから左折して彼杵駅へ向かったが、その道は長崎街道で歩いた道だ。右手に彼杵宿の脇本陣の標識があり、その先、左手に彼杵宿本陣跡がある。一年前にここを通ったことを思い出す。
平戸街道は最初から最後まで標識が整備されており、非常に歩きやすい街道だった。このように標識が整備されていると、周囲への啓蒙にもなるようで、沿道の方々も平戸街道というものをよく御存知だった。あれだけのきめ細やかな標識を設置するということは大変なコストと時間そして労力が必要だろうと思ったが、それに匹敵する効果があったのではないかと思った。
本日の歩行時間 12時間22分。
本日の歩数&距離 65700歩、44.5km。
平戸街道総合計
総歩行時間 21時間12分。
総歩数 117281歩。
総歩行距離 78.4km。
宿場間距離 68km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
佐世保から本山までのダイヤをみると6時46分と7時8分がある。ホテルの朝食は6時30分からとなっているので、46分にはちょっと厳しいかなと思ったが、それでも急いで食べて46分に乗れるようにしてみようと思った。そしてホテルは駅のすぐ近くだったこともあって、なんとか間に合って本山駅に7時11分に着き歩き始める。結果としてここで22分早く出発できたことは最後の段階で実に貴重な時間となった。
駅を出て、すぐ先を左折して進む。このあたりは旧道が失われている。204号を横断し、相浦川に架かる中里橋を渡って進み、右手に中里郵便局のあるところから左折して進む。ここの標識は曲がり角の先に設置されていて、うっかり先に進んでしまったが、目印にしていた郵便局があったので事なきを得た。 相神浦本陣(中里本陣)は酒造りの篠崎家が本陣なのだが、明治時代に二度の大火に遭い、昔の面影は全く残っていない。今は篠崎家の一族の吉村家と西牟田酒造が跡地を継いでいるということだ。
中里町下公民館の敷地内に中里宿の説明がなされていた。それによると中里にはかって相神浦郡代役所があり相浦方面を治める行政、商業の中心だった。御本陣、阿弥陀寺跡、武家屋敷や多くの商家があったが、明治41年の大火で焼失してしまったと書かれている。
左手に中里八幡宮がある。創建は不詳だが、元和7年(1621)に宝殿、拝殿を造営したという記録が残っているということだ。ここの鳥居も石造肥前鳥居だ。
その先、中里小学校の横から街道を外れて、東漸寺に行ってみる。ここは寛和2年(986)観海法印の開基で平戸藩の祈願寺だったところだ。樹齢500年の大楠が境内に立っており、県の天然記念物に指定されている。寺宝の青銅鏡は元禄時以前の作と推定されており、市の有形文化財に指定されている。
街道に戻って進むと、右手少し入ったところに「天満神社」がある。社殿の傍らに別当の宅地跡があり、側にその墓があって、碑文に「永禄六癸亥(1563)7月21日」と刻まれてあるので、それ以前からあったということだ。
そのすぐ先右手に「十三塚」がある。明治初期まで吉岡天満宮から東に十三の塚があった。言い伝えでは戦国時代、遠藤但馬守という武将が飯森城の軍勢に討たれたとき、討ち死にした人たちを葬ったとか、井手大和守という武士が十三佛を信仰していて、経典を埋めたとも伝えられていると説明されていた。
その先、十字路を直進して坂を上ると左側に「犬堂観音」がある。昔一人の武士が大鹿を射ようと愛犬を連れてこの地にやってきた。ところが犬が激しく吠えたので武士は犬を切り捨ててしまった。ところが犬の首はものすごい音を立てて頭上を飛んだ。みると大蛇が今にも武士に飛び掛らんとしていたのだ。武士は逃げ出して事なきを得たが、その後自分を守ってくれた愛犬のため、堂を建て供養のため観音様を安置したという。
坂を上りきったところ右側に「吉岡一里塚跡」碑がある。このあたりの小字名は二本松というらしく、一里塚の松があったと資料では推測されている。
その先で道は二股に分かれおり、ここには標識はなかったが地図を見て直進する。十字路があるがここも直進する。ここには標識が立っている。
坂を下って突き当りを左折、すぐ先の204号線にでる。ここは標識がなかったが手持ちの地図に従って歩いた。ところがその先で204号線を右へ歩いていき、最初の角で右折、次の十字路を左折、さらにその先で右折して進んだのだが、ここに標識があり、私は坂を下って突き当たりを左折したが、右折するようになっていた。どちらが正しいのか分からなかった。ただ距離としては短い距離だったので、そのまま進むことにする。
左手にちょっと分かりにくいが井上歯科があるところから右折する道があるので、ここの坂を上って行く。ここにも標識が立っている。
このあたりの標識には道路が描かれており、それに赤い矢印で街道が書かれているので、矢印だけが書かれている標識に比べると非常に分かりやすい。ただ、このやり方ではそれぞれの場所で固有の標識を作らなければならないので、非常な手間とコストがかかったのではないかと思う。
狭い土道を直進し、突き当りを左折、カーブを描いて204号線に合流する。
黒橋バス停の先から右斜めに伸びる旧道があり、これに入ると左手に相浦川がありその川沿いに歩くことになる。
左側に「左石」があり、小さな祠が祀ってある。昔はこの岩はかなりの大岩で目立っていたらしく「左に大石あり」ということからこの名前が付けられたそうで、今でも地名として残っていると説明されている。この大岩は背後の砂岩が崩落したものとされているが、確かに右手には巨岩がそびえていた。
左手に左石橋があるところで右斜めに進んでいくと右手に「西蓮寺」がある。階段を上って行くが、ここは古来より霊地円相厳(眼鏡岩)に源を発した寺院と伝承されているそうだ。境内左手に入って行くと「眼鏡岩」がある。これは砂岩の海食洞穴で大昔大きな鬼が昼寝をしていた。あたりの騒がしさに目を覚ました鬼がうーんと手足を伸ばしたとたん両足が前の岩に当たってポッカリ二つの穴が開いたという鬼の民話や、弘法大師がこの地を訪れたとき、この奇岩をみて仏縁の地なりといい、岩肌に残っている梵字と千手観音像は大師の手によるものという伝説があり、江戸時代の平戸八景に選ばれている。
街道に戻って歩いていくと右手に「堺木峠減圧井」がある。佐世保海軍鎮守府は海軍専用の水源拡充のため岡本水源地(海抜180m)を作り、その原水を浄化のため、矢岳浄水場(海抜40m)に竣工した。ところが両者の間に高低差があり、水圧が強すぎるため減圧井をこの堺木峠ともう一箇所野中に設けた。赤レンガのモダンな造りだが、現在は使われていないということだ。
春日町の信号から右折すると、すぐ右手に「春日神社」がある。奈良の春日神社の御分霊を授かって主神としている。天文10年(1541)に再造営されたことが平戸旧記に書かれていると説明されている。
その先で204号を横断し、川を渡り、更に松浦鉄道の山の田踏切を渡って右へ進んでいくと、左手小高いところに「俵一里塚」の碑が立っている。
右斜めに下る細い道があり、標識が立っているのでそれに従って進むと鉄道のガードがあるのでこれをくぐって進む。左折して進むと204号線に合流、最初の信号で左折、川沿いを歩く。その先で204号を横断すると、左手に常念寺があり、その先から左折する。ここにも標識が立っている。
右手に亀山八幡宮の石垣があり、それに沿って行き、最初の角を右折すると、すぐ横右手に亀山稲荷があり、その横に「亀山八幡宮」がある。天武天皇白鳳4年(676)、宇佐八幡の神霊が赤崎山に現れて「西海鎮護のため、この地に現る」とのご神託で赤崎山に祭る。亀山天皇文永2年(1265)現在地に移ったと説明されている。大きな神社だ。
「西方寺」がある。前身は建長年間(1249~1256)赤崎岳の北麓に帰一庵として創建、その後戦国武将の赤崎伊予守が赤崎城から鼻繰城に移ったのに伴なって佐世保に移転したとなっている。ただ現在の建物は新しく、近代的な作りになっていた。
ここから下り、ホテル東京の前を左折して進むと、突き当たりに階段があるところから左折して進む。ここにも標識が立っているのでそれに従う。このあたりに相神浦筋郡代奉行所跡や馬指役所跡があったようなのだが、よくわからなかった。佐世保本陣跡は少し外れた場所にあり、現在は遺構は全く残っていないようなので、とりあえずこのあたりでカウントしておく。
9時56分、佐世保宿を通る。
佐々宿から5時間6分、16.2km。
坂を上って行くと右手に九品寺があるがここも近代的な建物になっている。このすぐ先から右折して進むと宮地嶽神社がある。このあたりは事前調査でもよく分からなかった場所だ。巫女さんがおられたのでお聞きすると、そのまま境内を通って階段を下っていけばいいと教えていただいたので、それに従って進む。階段を下ったところに信号があり、これを渡るとその前にグラウンドがあるので、左折しそれに沿って進んで行き、グラウンドの端から右折して進む。
左手に高僧のマンションがあり、その入口に階段があるので、これを上って行くと、途中で金網で仕切られた入口があるので、右折してこれを通っていく。右側の建物は医師会館のようだ。
階段を上る前にも、金網のところにも標識が立っているので間違うことはない。その先で千住病院に突き当たるのでこれを右折、すぐ先で突き当たりになるので、これを左折して進むと、左手に裁判所があり、その前を進む。その先、松浦鉄道のガード下を通り、すぐ先で右折して進むと右手に体育文化会館があり、この前を進んでいく。
大通りを渡った一つ先から川沿いに左折し、二番目の橋を渡って進むと左手に佛光寺があり、その先で階段を上って行く。ここは「峯の坂」と呼ばれるところでこの階段はかなり長い。
やっと階段を上りつめると車道に合流し直進すると五叉路に出る。ここで道を間違え、一番右の道を進んでしまった。右にあるはずの山澄中学校が左手にあったことで気がついて、元に戻り右から二本目、エレナ山祇店の横の道でこれを左に見ながら進むとエレナの横に標識があった。
右手に「山祇神社」がある。ここは元禄5年(1692)にこの地の産子神として奉斎式が行われたと神社帳に記されているが、往古神聖視され崇敬された烏帽子岳の登山をする人に対する守護神として登山口の地を示すために奉祀されたものと説明されている。境内には樹齢700年以上と推定される椋の木が立っている。
その先で道は二股に分かれており、左斜めへ進む。ここにも標識が立っている。
「馬宿お駕籠立場跡」の碑が右手に立っている。
道は二股に分かれているので、右へ進む。ここにも標識が立っている。ここから坂を下っていくと車道に合流する。
資料では藤原交番と福石川の間を下ると書かれているが、藤原交番がない。おかしいなと思ってご近所の方がおられたのでお聞きすると、交番は移転したとのこと。現在は空き地になっており、杭で囲まれている場所が交番跡ということだった。そのすぐ左横に小さな川が流れており、これが福石川のようだ。その間の細い道を通っていく。
その先で川を渡り、車道を横断して坂を上って行く。ここにも標識が立っている。
「藤原一里塚」があり、旧道はそのまま直進するそうだが、今は道が失われているのでここから右折して進む。
ただ、直進したすぐのところに「耳石」があった。最近までは街道の両側に残っていたそうだが、住宅建設のため片側の耳石は取り除かれたということだ。
一里塚碑から右折して進むと藤原歩道橋があり、これを渡って進む。
この先、ちょっと分かりにくく、JRのトンネルの上まで行ってしまったが、幸いすぐに間違いに気がつき元に戻る。左手に大浦建設という会社の倉庫のようなところがあって、その横の駐車場のところから坂道を下っていく。
福石トンネルが右手に見え、その先で福石隧道口踏切を渡り、左へ進むと車道に合流し、左折して車道を進んでいく。JRのガード下を通って西龍橋で35号線に合流して右へ進む。大和町の信号の先で35号線は左へカーブするが、旧道は直進し、JRのガード下を通って進む。その先で街道をはずれ、右手にあったスーパーで昼食にする。飢餓状態に弱い私にとって食事は大切なのでこれで一安心だ。
街道に戻って再びJRのガード下を通る。その先に日宇の茶屋跡があったとなっているのだが、遺構は残っていなかった。
35号線に出るが、その先に旧道が続いている。ただ35号線を横断できないので、少し先にある日宇駅前の信号で35号線を横断し、少し戻って交番の横から旧道に入って進んでいく。日宇川に架かる松川橋を渡り、松川橋踏切でJRを越えて進む。その先二股に分かれているところは左へ進む。ここにも標識が立っている。桜馬場踏切でもう一度JRを越え、右へ進む。ここにも標識が立っている。
左手に法光寺を見ながら進み、JRのガード下を通って35号線に合流、脇崎の信号を渡らず左へ進むと左手に「脇崎一里塚」の碑がある。ここは昭和45年の国道35号線拡張工事までは榎が繁り、榎茶屋もあったそうだが、工事のため消滅してしまったということだ。
すぐ先左手に土手を登る細い道がついている。これを上るとJRの線路だ。踏切はなく、線路を横切る。危険なので十分注意をしながら渡ると、その先に旧道がつながっている。ここは地図ではどうしてもわからなかったところだが、現地に来て初めて理解した。さすがにここは写真を撮る余裕はなかった。その先で二股があり、左へ進む。標識があるのでそれに従って歩く。小川に突き当たるので左へ進むと、右手にダスキンがあり、その裏をグルッと回るようにして歩き、ダスキンの前の車道に出、右へ進む。
すぐ先にリンナイ佐世保出張所が右手にあるところの前から左の急坂を登る道がある。この道は旧道で、新道はそのまま真っ直ぐに進むということだが、標識が立っているのでそれに従って旧道を進む。
やがて山の中へ入っていくが、標識が各所に立てられており、それに従って進むと迷うことはない。
山を下ると田ノ浦高架橋の下を通り、すぐ左折して高架橋に沿って進む。このあたり旧道は失われているようだ。突き当たりに「平戸藩調理師範松尾広孝の墓」の標柱が立っているところから右折して坂を上って行く。
ガード下を通って坂を上りきると若竹台公民館の前に出る。ここに「上倉駕籠立場跡」の石碑が立っている。ここは陣の内と田ノ浦を結ぶ峠で藩侯一行が休憩したところだ。今は若竹台住宅団地の中央部になっている。
その先で標識に従って右へ進み、坂を下ってこれもやはり標識があるので右へ進むと右手に「太神宮」がある。寛文6年(1666)に建立され、祭神は天照大神、境内には子安観世音菩薩、淀姫社、稲荷社等もお祭りしていると記されている。
陣ノ内川を渡り、標識に従って十字路を直進する。やがてJRとバイパスを跨ぐ橋を渡り、すぐに右折、最初道を間違ってそのまま直進して階段を下り、国道へ出てしまったが、間違いに気がつき、元に戻って、橋を渡って右折したすぐ先で折り返すようにして坂を上る道があるのでこれに従って墓地の中へ入る。ここが徳丸道路と呼ばれる道で、暫く墓地の中の細い坂道を下っていく。
坂を下ると左手に「史跡平戸街道徳丸上倉道」という石碑が立っている。
その先で道を間違ってしまった。右折しなければいけないのに、左折してしまったのだ。すぐ気がついて旧道に戻って進む。すぐ先に細い十字路があり、これを標識に従って左へ進み、更にその先でここも標識があるので、右折して進む。早岐宿の鍵型道路の始まりだ。
35号線を横断し、右手に第9分団と書かれた消防団のあるところから左斜めへ進むと「戸ノ上石畳」がある。この石畳はその先で車道に一旦分断されており、その先で再び伸びている。これがずっと続いていればもっと素晴らしい遺産として残っただろうにと思った。
その先、突き当りを標識に従って左へ進み、その先の突き当たりを右折して進む。ここも鍵型だ。この右折するところ、川の向こう側に村上病院が見える。ここの門が本陣の門と地元の方に教えていただいた。現在は向こうへ渡れないが、昔は橋が架かっていたということだ。
ここでカウントする。
14時23分、早岐宿を通る。
佐世保宿から4時間27分、12.6km。
突き当たりに親和銀行早岐支店があり、旧道はここを左折するのだが、右手に「史跡早岐浦札場の渡し跡」の石碑が立っていた。ここは船着場で高札場があったということだ。
銀行の前を左折して最初の角を右折して進む。ここには標識がなかった。このようにたまに標識がないところがあると、自分が間違った道を歩いているのではないかとつい思ってしまうから妙だ。その先の角に標識があり間違っていないことを確認できた。
その先にファーストイン早岐というホテルがあり、その前に「早岐一里塚跡」の石碑が立っている。
時間を見るともう14時半を少し回っている。今日これから彼杵まで行くのはちょっと無理なのではないかという思いが強くなってきた。このホテルは早岐駅からすぐ近くだ。それならここでチェックインをしておこう、と思ってホテルに入り、受付の女性と話をしながら予約をした。ただ話の中で川棚までは必ず行くことができると思うというと、川棚駅の近くにもホテルがあること、それとこの女性は川棚の出身で川棚から彼杵まで近いのでこれからでもいけるのではないかと言う。それでとりあえず予約だけしておいて、川棚の宿の予約ができなかったときはここまで戻ってくればいいし、もし川棚の宿が取れたり、彼杵まで歩くことができれば、キャンセルの連絡をもらえればいいです、と言ってくれたので、そうすることにした。
それからだ。それまでもう一泊する気持ちになっていたので、なんとなく気合が入っていなかったのだが、ひょっとすると間に合うかもしれないと思い出すととたんにエンジンがかかった。歩くピッチが早くなった。
その先で222号線に合流する。左手に早岐駅が見える。潮入橋の手前から左折して進み、小森橋を渡って進む。左手に「広田城址入口」の石碑があるところから標識に従って右折、右手に広田小学校があり、その横から左折する。
金田川に架かる金田橋を渡ってすぐに五叉路があり、標識に従って左斜めに進むと左手に「矢通し石」がある。天正14年(1586)の広田城合戦の時、広田城からここまで矢が届いたと説明されている。
その先222号線に出る直前で左折して進む。ここにも標識が立っている。右手に池を見ながら進んでいくとその先で222号線に合流するので、これを左へ進む。右手に刑務所が見える。旧道は刑務所の中を通っていたそうだが、入ることができないので、そのまま222号線に沿って進む。金田川に架かる重尾橋を渡り、その先の信号を右折して進むと、再び金田川があり、これに架かる小曲橋を渡って進む。
少し行くと県道が坂を上るところで左手に分かれるところがあり、これが旧道なのでこの道を進む。ここには標識はなかった。前方に西肥バスの車庫があり、そこで旧道は失われているので、右にカーブして県道に合流する。
左手に果樹園があり、その入口に「史跡 藩境舳の峯番所跡」の石碑が立っていた。平戸藩・大村藩から同数の番士を出して、往来の人・物を取り締まったと資料に記されている。
その先に番所峠の説明板が立っており、左手に標識が立っていたので行ってみたが、山麓のギリギリまで畑になっていて旧道は失われていたので県道を歩く。そのすぐ先で左にカーブした所に僅かに旧道の草道が残っているのが見えた。
番所川に架かる舳峯橋から左折してグルッと右回りに回る旧道が残っているが、すぐ先で県道に合流する。ここにも標識が立っている。
その先で左折、四郎丸橋を渡って左折、その先の二股を右斜めに上る。ここも分岐点ごとに標識が立っており、それに従って進めば迷うことはない。
左右に墓地があり、林の中を進む。林を抜けると草道になり、一旦舗装された道に出るが、これを横断して再び草道に入る。このあたり夏場は草が繁って藪払いをしなければ歩くことができないそうだが、この時期はまだ草がそれほど伸びておらず、容易に歩くことができた。
再び舗装された道に出て右へ進み、その先二股に分かれているので左へ進む。ここにも標識が立っているのでそれに従って進む。左手に「平戸街道 宮村街道 崩の迫 往還松の古株」という表示板があり、その横に大きな松の古株が残っていた。昔このあたりは松並木だったのだろう。道の両側に夏みかんの畑が広がっている。我が家にも夏みかんがなっており、毎日ジュースにして飲んでいるので、なんとなく親近感がある。
舗装された道が右へカーブするところで旧道は直進して土道に入る。小峠と記されている標識が立っている。軽トラックが止まっていて、おじさんが運転席に座っており、その前で子供が一人遊んでいた。
地図を見るとこれから暫く山の中へ入っていくようだ。時刻は16時半近く。暗くなる前にここを抜けたいと先を急ぐ。
その先で道は二股に分かれており、左斜めへ進む山道へ入っていく。入り口には標識はなかったが、少し先に標識が立っていた。一旦舗装された道に出るが、これを横断したところに「八幡岳公園歩道入口」の看板が立っており、ここから再び山道に入っていく。このあたりを針木峠というようだ。
右手に八幡神社の鳥居が立っている。急な坂道を上って行くと「宮村峠 258m 平戸街道での最高地」という標識がある。
258mが最も高い場所ということはこの街道が非常に平坦な街道ということが出来る。ちなみにこれまでに歩いた街道の中で最も高かったところは中山道の和田峠で1531mだった。
この峠は平坦なところはなく、すぐに急な下り坂になる。舗装道路に出て、標識に従って右へ進むと、再び道は少し上り始める。ここが松通峠〈標高252m)だ。
「宮村境一里塚跡」碑がある。ここは道をはさんで両側に石が積み上げられており、両塚の形を作っているが、これは最近作られたもののようで、平戸街道には道の両方に塚のある一里塚は発見されていないということだ。
暫く平坦な道を歩いていくと、右手に「旧平戸街道一杯水」の石碑がある。ここは駕籠立場で年中湧水があり、湧水の反対側には休憩用と思われる平たい石も発見されたと記されている。殿様もひしゃく一杯飲まれたことから「一杯水」の名がついたと説明されている。ここは標高247mで平戸街道の湧水では最も高い場所にあるということだ。
「白岳(大隅高野)の狼煙場跡」の石碑が右側にある。文化5年(1808)8月イギリスの軍艦フェートン号が長崎に不法侵入して乱暴を働いた。これが17年後の「異国船打払令」の大きな原因になるのだが、そこで今後長崎で同様な異変が起こった場合の迅速な情報伝達のため、その翌年大村領内にも数カ所の狼煙場を設けた。この先にある山頂もその数少ない遺跡の一つで、彼杵の立神狼煙場から合図を受け継いだと説明されている。
その先左手に階段があり、その横に「平戸街道 川棚往還 山中600m」と書かれた標識が立っているので、ここを上って行く。 ここには街道の耳石列が残っていたり、戦時中松根油を取るために松の根を掘り出した跡の窪みがいくつも残っている。
現在は松並木を再現させるために植樹がなされていた。 600mと書かれていたが、かなり長い距離あったように思った。
やがてここを抜けると舗装された道に出、これを左へ下っていく。
「平戸街道」と白いペンキで書かれた大きな岩を右手に見ながら草道を下っていくと、林の中へ入っていく。
林を抜けると墓地があり、その一番下、道路の右側に自然石の墓が三基立っている。これが御厨松浦氏の子孫三兄弟の墓ということだ。このあたりは急坂を下るが、ここが川棚往還中の最急坂で「走りおて」と標識に書かれている。
右手に川棚中学校が見えてきた。とりあえず暗くならない前に山を下ることができホッとする。
野口川に架かる上倉橋を渡って右折すると左手に「川棚宿庄屋跡」の石垣がある。
ここでカウントする。
17時47分、川棚宿を通る。
早岐宿から3時間24分、11.3km。
庄屋跡は明治以降小学校になっているようだ。
その先の車道に出たところで左折するとすぐ左手に「長浜大明神宮跡」の鳥居が立っている。壱岐郡芦辺町の安国寺に所蔵されている大般若経(591巻)は当初下松浦志佐白浜の源沙弥道林が応永27年(1420)川棚村鎮守長浜大明神宮へ施入したもので文明18年(1486)出羽国立石寺如円坊がこれを安国寺へ施入した。昭和58年に591巻全巻が国の重要文化財に指定されたが、平成6年に盗まれていることがわかり、現在全巻が行方不明になっているということだ。
その先、正面に右斜めに上る坂道があり、その上り口に「幸秀庵一里塚跡」碑が立っている。
その先坂を上りきった後で道が分かりにくかったが、近所の方が丁度おられたので、道を教えていただき、階段を下って進む。左手に池があり、これに沿って左へ進んでいく。この池の前に標識が立っているのでこれに従って進んでいくと、二股に分かれているので直進する平坦な道を進んでいく。
205号線に合流する。手元の地図ではここから線路を越えた向こう側に旧道があるようになっていたので、踏切を越えていってみると「タブノキ」への案内標識が立っていた。ただ旧道がどこか分からなかったので、205号線に戻って先を急ぐ。ここまでくるととにかくなんとか彼杵まで今日中に、それもできれば真っ暗にならないうちにたどり着きたいと道を急ぐ。
ひたすら205号線を歩く。右手は海が広がっている。なかなかいい眺めなのだが、のんびり景色を眺めている余裕はない。とにかく急ぐ。途中彼杵町境があり、大松があったと書かれた標識が立っている。
その先で右手に旧道が伸びている。ただここには踏切がない。仕方がないので、線路を横断して大音琴郷の浦集落へ入っていく。
集落の中央に空き地があり、低いが石垣が残っている。ここが音琴浦間役所の跡ということだ。
その先で再びJRの線路に突き当たり、ここも踏切はないが、そのまま線路を横切って行く。
踏切を横切って205号線にでると、旧道の延長線上に旧道が伸びているので、この坂を上って行くと「塚本一里塚跡」の石碑が立っていた。
細い坂道を上りつめたところで後ろを振り返ると丁度太陽が沈むときだった。
時間を見ると18時54分だ。彼杵までもう少しだ。残照のあるうちに何とかたどり着きたいととにかく急ぐ。
ここから坂を下り始めたが、道は一層狭くなり、カヤが繁っていて地面が見えない。草を掻き分け掻き分け下っていく。平戸街道で初めての藪コギだ。ただ距離は短く、すぐに抜けることができた。下りたところは砕石会社の敷地だった。旧道はその先に続いているように資料には書かれていたが、かなり荒れているようで、暗くなってきた状態では無理だと判断して、そこから205号線に合流、左折して進む。ちょっと残念だった。
その先で205号線はJRの線路の上を越えて右手に大きくカーブをしながら海沿いに進む。
蔵本郷の信号の先に右斜めに伸びる旧道に入る。分岐するところに「大村純伊旧領奪回戦蹟碑」が立っている。もう暗くなってしまっていて字を読むことができないが、資料に書かれているのでたぶんこれだろうと思う。ここにも標識が立っている。ここが平戸街道最後の標識だった。
その先左手に「熊野十二社権現」の鳥居が立っている。この神社は彼杵村の総鎮守として創建されたが、明治の初期に他の数社と共に彼杵神社となり、彼杵本陣跡へ移転したと説明されている。
ここの本殿横の大きな榎の下に島田万部塔が立っていると資料に書かれているが、周囲はもうすっかり暗くなっているので、そのまま進む。
その先、旧道は右にカーブし、その先で左折して進むと、終着点である「思案橋跡」の石碑に着く。石碑の中央に「思案橋」、右側に「長崎街道」、左側に「平戸街道起点」と刻まれている。
もう周囲は真っ暗だが、幸いこの場所は前に自販機が置いてあったりして明るさがあった。これでなんとかギリギリ今日中に無事平戸街道を踏破することができた。今朝22分早く出発できたことが非常によかったと改めて思った。
19時33分、平戸街道終点に到着する。
川棚宿から1時間46分、8.3km。
ここから左折して彼杵駅へ向かったが、その道は長崎街道で歩いた道だ。右手に彼杵宿の脇本陣の標識があり、その先、左手に彼杵宿本陣跡がある。一年前にここを通ったことを思い出す。
平戸街道は最初から最後まで標識が整備されており、非常に歩きやすい街道だった。このように標識が整備されていると、周囲への啓蒙にもなるようで、沿道の方々も平戸街道というものをよく御存知だった。あれだけのきめ細やかな標識を設置するということは大変なコストと時間そして労力が必要だろうと思ったが、それに匹敵する効果があったのではないかと思った。
本日の歩行時間 12時間22分。
本日の歩数&距離 65700歩、44.5km。
平戸街道総合計
総歩行時間 21時間12分。
総歩数 117281歩。
総歩行距離 78.4km。
宿場間距離 68km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)