2009年04月08日(水)
久住~今市~野津原~塚野
晴れ
朝、宿のご夫婦にお会いする。部屋は別棟になっており、昨日はお会いしていないのだ。ご主人が立候補されており、大変なご様子。賄ができずに申し訳ないと何度もおっしゃっていただいた。ご主人が街道は大分県に入ると急に標識がなくなるので、自分がボランティアで標識を設置するつもりだといわれていた。ぜひお願いしたいものだ。奥さんが昼食にといって大きなおむずびを作ってくれていた。有り難く頂く。
7時5分、お二人に見送られて出発する。30号線を歩くが、すぐ先左手に「久住小学校」があるので行ってみたが、意外と距離があった。ここは御茶屋の跡で表門のところに人馬会所があったというが、今は遺構は全く残っていない。
街道(30号線)に戻って進むと右手に「久住神社」がある。平成4年に作られた碑に370年の歴史を持つと書かれているので、かなり古い神社だ。
その先正法寺の下に久住町総合運動公園への案内が立っている。旧道はここから左折していくのだが、今は通ることができなくなっているようなので、そのまま30号線を歩く。
右手に「水恩記念碑」があり、その横に「猿田彦」の碑が立っている。
久住川に架かる黒岩橋があり、その左手横に石作りの眼鏡橋「七里川橋」が架かっているので、これを渡って進み、すぐ先で30号線に合流する。
左手に金刀羅宮があり、その前を進んでいくと、「左折すると納地公園」という標識がある十字路の先で道は二股に分かれているので、左側の道を進む。
奥さんが二人おられたので言葉を交わす。登山が趣味ということで、左手に見える山が「久住山、その横が稲星山、大船山、黒岳」と教えていただいた。
その先で橋が二本架かっており、左側の石造りの眼鏡橋が「境橋」だ。ただ、今は通行できないようだ。
30号線に合流し、左折するとすぐ先の右手、道路を横断した先に、山の中へ入る道があり、これを登っていく。
道はかなり荒れているが、掘割道になっていて一段低くなっているので、それに沿って進んでいく。途中にしっかりとした横断する掘割道があった。これを右折して進めばよかったのかもしれないが、とにかく直進することにし、それを横切って直進すると、やがて412号線に出たので、これを右折、412号線を歩いていく。
しばらく歩くと古屋敷を通るが、右に大きくカーブするところがあり、このあたりは「茶屋場」という地名ということを、丁度おられたお年寄りに教えていただいた。昔茶屋場があったのだろうということだ。
四ツ口の跨道橋を渡って進むが、山の中の道なので誰もおらず、ただ黙々と歩いていく。
やがて神堤集落に入るが、その入口右側にまだ新しい祠があり、その横に古い石仏が立っている。文政13年(1830)と刻まれているものもあった。
左手に「常証寺」がある。ここは昔庄屋屋敷が建っていたそうで、その後庄屋屋敷は下の30号線沿いに建て替えられたので、その跡にお寺が建てられたということだ。このお寺の下、左手に湧水の井戸があり、この井戸はいかなる時にも枯れたことがないということだ。今は使われておらず、トタン板が被せられていた。最初このお寺の境内に「キリシタンの墓」があると思っていたので、お寺の奥さんにお聞きすると、別の場所にあるということで、わざわざ案内していただいた。
墓の場所は熊本から来ると常証寺の手前で、朝地方面へ行く209号線が右へ伸びている、その反対側に左折する道があり、これを入っていく。道なりに進んでいくと左手小高いところに石仏があり、そこを左折してすぐ先を左へ上って行くと、そこに「キリシタン墓」があった。かなり分かりにくい場所だ。
資料では30基ほどあると書かれているが、確かにそれぐらいはありそうだ。墓をよく見ると家の形をしたものと丸い形をしたものの二種類がある。家の形をしたものはイエス様ということで男性の墓、丸い形をしたものはマリア様ということで女性の墓ではないかと考えられているそうだ。墓には名前と文化8年(1811)などという年月が刻まれていた。
奥さんと別れて412号線を進む。集落を抜けると再び山の中の道だ。その先道の駅やすらぎがあったので、ここで昼食にする。宿で頂いたおにぎりを食べたが、ちょっと足りなかったので、肉うどんを食べる。豊後牛はこのあたりの名産だ。今回の旅は宿の確保には苦労したが、昼食の場所は車道沿いを歩くことが多かったので、あまり苦労することはなかった。
その先、12時16分に大分市に入る。もう少しだという気持ちと、距離はまだかなりあるので合併によるものだろうが、大分市は随分広いなという両方の感じを持った。
左手にひぐらし茶屋があり、その先から30号線と分かれて左手旧道に入る。
すぐ左手に丸山八幡宮がある。ここの楼門は今市在住の豪商であった松田庄右衛門尉長次が父母の長命、子孫繁栄を祈願して享保5年(1720)寄進したもので、内側面に透彫りで酒造りの過程、24孝(中国で古今の孝子24人を選定したもの)の人物や12支の動物など数々の彫刻が施されている大きくて立派な楼門だ。
その先から石畳道が復元されている。今市は庄屋伝兵衛の祖先が藩命により慶長年間〈1596~1615)に宿場として整備したと伝えられている。岡藩の御茶屋は元禄8年(1695)、上町に移されて西の御茶屋と呼ばれるようになったが、延享元年(1744)に廃止された。肥後藩の御茶屋は寛永10年(1633)下町に移ったといわれ、宿場の東西には上構、下構と呼ぶ門があって警護に当たっていたと説明されている。
集落の中は「畳屋跡」とか「鍛冶屋跡」というように昔の屋号を掲げた家が並んでいる。
左手に「萬生寺」がある。ここは開基年月は不詳だが、寛文4年(1664)に萬祥寺として創立、寛政7年(1795)に萬生寺と改称されたということだ。境内にはふるい石仏が並んで立っていた。
その先左手に代官屋敷跡がある。ここには石牢があったと案内されている。
ここでカウントする。
13時37分、今市宿を通る。
久住宿から6時間32分、22.3km。
今市町公民館の前には「火除藪跡」の案内板が立っている。
その先で道は左に直角に曲がっている。これは「信玄曲がり」と呼ばれるもので、町の中央部を2回、鉤の手に曲げて宿場を見通せないようにし、この曲がり角に「火防藪床」という竹藪を設けていたといわれている。
「安楽寺」がある。ここは永正年間(1504年ごろ)肥後の住人だった松尾市次郎隼人が阿弥陀如来を本尊とし、光念寺として建立。寛永12年(1625)安楽寺と改称した。現在の建物は寛政7年(1795)に建立され、肥後の国宇土城藩主は参勤交代の途中によくここに参拝し休憩されたということだ。
412号線を歩いていくが、ここも歩道がない。もっとも人家もないし、従って歩いている人もいないので、歩道がなくても当たり前といえば当たり前だ。
しばらく歩いていくと右側に「肥後街道」の看板が立っている。これは野津原町商工会が立てたもので、これから先、野津原町に至るまで数多く立てられており、歩く上で非常に助かった。
ここから坂を下っていき、その先で412号線を横断してその先に旧道が伸びているのでこれを歩くが、ここにも同様な看板が立っている。この道は412号線に併行して、その上を通っているのでこれを歩いていく。
左手に「野津原三渠碑」が立っている。元禄時代、この地の惣庄屋であった工藤三助が荒地だったこの地に水路を開き、水田を切り開いたことを記念して立てられたもので、大きな石碑だ。
その先620号線を横断して進み、左手に伏見稲荷のある先で412号線に合流して進む。
途中、左手から合流する道があるが、そのまま直進すると、右手に民家があり、その先で右側に先ほどと同様の看板が立っているので、それに従って、坂を下っていく。途中二股に分かれているところがあるが、右側の舗装された道を下っていくと、ヘアピンカーブがあり、そのまま進むと412号線に合流する。ここは412号線が膨らんでいるので、ショートカットされた道になっている。
しばらく412号線を進むが、右側に看板が立っているので、それに従って右斜めの道に入っていく。右手に大分バスの車庫があり、その先で412号線に合流する。
その先で今度は左側に看板が立っているので、それに従って左側の旧道を歩いていくと左側に東岸寺があるので、その前を通って進む。
これから先も看板が立っているので、それに従って進むと、前方にコンクリートの橋のようなものがあり、旧道はその下を通って進む。林の中に入ると「危険」と書かれた看板が立っており、足元に注意を促している。
山の中を抜け出ると、ここにも看板が立っており、それに従って下っていく。ここに町上の石畳といわれる道が残っている。その先で412号線に合流、左へ進むと社会福祉法人和泉荘の看板があるので、そこを左折する。ここにも街道の看板が立っている。そこから100mほど進むと右折する道があり、ここにも看板が立っているのでそれにしたがって進む。
このあたりはとにかく分岐するところに全て看板が立っているので、それに従って進めば、迷うことはない。
矢貫のバス停で車道に合流し、左へ進み、その先で車道が左へカーブするところで、右折する。小川を渡って進むとやがて道は山の中へ入っていく。ここに伊塚の石畳が残っている。途中には「大分県ウォーキング協会」の看板が立っている。昨年歩かれた時のものなのだろう。
山を下り442号線に合流するが、下った後、Uターンをして左折することになる。これは以前はそのまま真っ直ぐに山を下っていたのだが、現在家が建ったのでこのようにUターンするということだった。
七瀬川に架かる一の瀬橋を渡って進むが、資料では橋を渡ってすぐに左折するようになっている。当然ここにも看板が立っているものと思っていたがない。それでそのまま直進し、次の角まで行って見たが、ここにも看板がない。これまで分岐点には必ず看板があったので、おかしいなと思い、近くにあったお店に入って聞いてみると、丁度そこに「大分市社会教育委員で野津原方言調査会」のSさんがおられ、野津原を案内してくれると言われたので、そのお言葉に甘えることにした。旧道はやはり橋を渡ってすぐに川に沿って左折し、最初の角を右折して進み、次の角を左折して進むということだった。看板がないのは、今市から野津原までの間に看板を立てたが、野津原の町内には立てていないということだった。しばらく直進し、突き当たりを右へ進む。
左手に福城禅寺があり、その先に「野津原神社」がある。ここは明治16年出雲大社から御分霊されて出雲大社野津原教会として設立されたと説明されている。
野津原神社の裏に野津原東部小学校があり、ここが野津原宿御茶屋の跡である。ただ、遺構は全く残っていない。
ここでカウントする。
16時40分 野津原宿を通る。
今市宿から3時間3分、11km。
右手に「法護寺」がある。ここは加藤清正が建立したお寺で石垣はあまり高くはないが、よく見ると熊本城と同様に武者返しになっている。
ここでSさんとお別れする。もう80歳ということだったが、お元気な方だった。ご丁寧に案内をしていただき感謝である。
そのまま直進し、七瀬川に突き当たったところで川に沿って右折して歩いていくと「往還田」がある。これは参勤交代の時ここを歩いて川を渡っていたのだが、明治維新後、その道は払い下げられて細長い水田になった。そのためその場所を「往還田」と呼ぶようになったが、その後、そこに町道を通し、現在ではその場所が分かるように青く塗装されている。
七瀬川に架かる広瀬橋を渡って進む。七瀬川は蛇行しており昔の道は七回も川を渡ったといい、それぞれの渡しに一ノ瀬から七ノ瀬までの名前がついていたようだ。ただ、現在では旧道は失われているので、昔の道を歩くことができない。大分県ウォーキング協会の真砂さんにお聞きすると、明確でないので協会としては442号線を歩いたといわれたので、私も442号線を歩いたが、442号線の右手、七瀬川の向こう側に442号線と併行して道が通っている。この道は先で442号線と合流するのでどちらを通っても同じようだが、442号線は車の通行量が多く、一方の道は川沿いの道で、車もほとんど通っていなかったため、こちらの道を歩いたほうが良かったように思った。
廻栖野の信号があり、そこから街道を離れて右折し、約1km歩いて今日の宿である「塚野鉱泉 福来屋」に着く。野津原も宿泊するところがなく、ようやく探し当てた宿だ。ここは湯治客が中心という鄙びた宿だったが、気持ちが良かった。
17時45分に宿に着く。
本日の歩行時間 10時間40分。
本日の歩数&距離 58793歩、40.3km。
朝、宿のご夫婦にお会いする。部屋は別棟になっており、昨日はお会いしていないのだ。ご主人が立候補されており、大変なご様子。賄ができずに申し訳ないと何度もおっしゃっていただいた。ご主人が街道は大分県に入ると急に標識がなくなるので、自分がボランティアで標識を設置するつもりだといわれていた。ぜひお願いしたいものだ。奥さんが昼食にといって大きなおむずびを作ってくれていた。有り難く頂く。
7時5分、お二人に見送られて出発する。30号線を歩くが、すぐ先左手に「久住小学校」があるので行ってみたが、意外と距離があった。ここは御茶屋の跡で表門のところに人馬会所があったというが、今は遺構は全く残っていない。
街道(30号線)に戻って進むと右手に「久住神社」がある。平成4年に作られた碑に370年の歴史を持つと書かれているので、かなり古い神社だ。
その先正法寺の下に久住町総合運動公園への案内が立っている。旧道はここから左折していくのだが、今は通ることができなくなっているようなので、そのまま30号線を歩く。
右手に「水恩記念碑」があり、その横に「猿田彦」の碑が立っている。
久住川に架かる黒岩橋があり、その左手横に石作りの眼鏡橋「七里川橋」が架かっているので、これを渡って進み、すぐ先で30号線に合流する。
左手に金刀羅宮があり、その前を進んでいくと、「左折すると納地公園」という標識がある十字路の先で道は二股に分かれているので、左側の道を進む。
奥さんが二人おられたので言葉を交わす。登山が趣味ということで、左手に見える山が「久住山、その横が稲星山、大船山、黒岳」と教えていただいた。
その先で橋が二本架かっており、左側の石造りの眼鏡橋が「境橋」だ。ただ、今は通行できないようだ。
30号線に合流し、左折するとすぐ先の右手、道路を横断した先に、山の中へ入る道があり、これを登っていく。
道はかなり荒れているが、掘割道になっていて一段低くなっているので、それに沿って進んでいく。途中にしっかりとした横断する掘割道があった。これを右折して進めばよかったのかもしれないが、とにかく直進することにし、それを横切って直進すると、やがて412号線に出たので、これを右折、412号線を歩いていく。
しばらく歩くと古屋敷を通るが、右に大きくカーブするところがあり、このあたりは「茶屋場」という地名ということを、丁度おられたお年寄りに教えていただいた。昔茶屋場があったのだろうということだ。
四ツ口の跨道橋を渡って進むが、山の中の道なので誰もおらず、ただ黙々と歩いていく。
やがて神堤集落に入るが、その入口右側にまだ新しい祠があり、その横に古い石仏が立っている。文政13年(1830)と刻まれているものもあった。
左手に「常証寺」がある。ここは昔庄屋屋敷が建っていたそうで、その後庄屋屋敷は下の30号線沿いに建て替えられたので、その跡にお寺が建てられたということだ。このお寺の下、左手に湧水の井戸があり、この井戸はいかなる時にも枯れたことがないということだ。今は使われておらず、トタン板が被せられていた。最初このお寺の境内に「キリシタンの墓」があると思っていたので、お寺の奥さんにお聞きすると、別の場所にあるということで、わざわざ案内していただいた。
墓の場所は熊本から来ると常証寺の手前で、朝地方面へ行く209号線が右へ伸びている、その反対側に左折する道があり、これを入っていく。道なりに進んでいくと左手小高いところに石仏があり、そこを左折してすぐ先を左へ上って行くと、そこに「キリシタン墓」があった。かなり分かりにくい場所だ。
資料では30基ほどあると書かれているが、確かにそれぐらいはありそうだ。墓をよく見ると家の形をしたものと丸い形をしたものの二種類がある。家の形をしたものはイエス様ということで男性の墓、丸い形をしたものはマリア様ということで女性の墓ではないかと考えられているそうだ。墓には名前と文化8年(1811)などという年月が刻まれていた。
奥さんと別れて412号線を進む。集落を抜けると再び山の中の道だ。その先道の駅やすらぎがあったので、ここで昼食にする。宿で頂いたおにぎりを食べたが、ちょっと足りなかったので、肉うどんを食べる。豊後牛はこのあたりの名産だ。今回の旅は宿の確保には苦労したが、昼食の場所は車道沿いを歩くことが多かったので、あまり苦労することはなかった。
その先、12時16分に大分市に入る。もう少しだという気持ちと、距離はまだかなりあるので合併によるものだろうが、大分市は随分広いなという両方の感じを持った。
左手にひぐらし茶屋があり、その先から30号線と分かれて左手旧道に入る。
すぐ左手に丸山八幡宮がある。ここの楼門は今市在住の豪商であった松田庄右衛門尉長次が父母の長命、子孫繁栄を祈願して享保5年(1720)寄進したもので、内側面に透彫りで酒造りの過程、24孝(中国で古今の孝子24人を選定したもの)の人物や12支の動物など数々の彫刻が施されている大きくて立派な楼門だ。
その先から石畳道が復元されている。今市は庄屋伝兵衛の祖先が藩命により慶長年間〈1596~1615)に宿場として整備したと伝えられている。岡藩の御茶屋は元禄8年(1695)、上町に移されて西の御茶屋と呼ばれるようになったが、延享元年(1744)に廃止された。肥後藩の御茶屋は寛永10年(1633)下町に移ったといわれ、宿場の東西には上構、下構と呼ぶ門があって警護に当たっていたと説明されている。
集落の中は「畳屋跡」とか「鍛冶屋跡」というように昔の屋号を掲げた家が並んでいる。
左手に「萬生寺」がある。ここは開基年月は不詳だが、寛文4年(1664)に萬祥寺として創立、寛政7年(1795)に萬生寺と改称されたということだ。境内にはふるい石仏が並んで立っていた。
その先左手に代官屋敷跡がある。ここには石牢があったと案内されている。
ここでカウントする。
13時37分、今市宿を通る。
久住宿から6時間32分、22.3km。
今市町公民館の前には「火除藪跡」の案内板が立っている。
その先で道は左に直角に曲がっている。これは「信玄曲がり」と呼ばれるもので、町の中央部を2回、鉤の手に曲げて宿場を見通せないようにし、この曲がり角に「火防藪床」という竹藪を設けていたといわれている。
「安楽寺」がある。ここは永正年間(1504年ごろ)肥後の住人だった松尾市次郎隼人が阿弥陀如来を本尊とし、光念寺として建立。寛永12年(1625)安楽寺と改称した。現在の建物は寛政7年(1795)に建立され、肥後の国宇土城藩主は参勤交代の途中によくここに参拝し休憩されたということだ。
412号線を歩いていくが、ここも歩道がない。もっとも人家もないし、従って歩いている人もいないので、歩道がなくても当たり前といえば当たり前だ。
しばらく歩いていくと右側に「肥後街道」の看板が立っている。これは野津原町商工会が立てたもので、これから先、野津原町に至るまで数多く立てられており、歩く上で非常に助かった。
ここから坂を下っていき、その先で412号線を横断してその先に旧道が伸びているのでこれを歩くが、ここにも同様な看板が立っている。この道は412号線に併行して、その上を通っているのでこれを歩いていく。
左手に「野津原三渠碑」が立っている。元禄時代、この地の惣庄屋であった工藤三助が荒地だったこの地に水路を開き、水田を切り開いたことを記念して立てられたもので、大きな石碑だ。
その先620号線を横断して進み、左手に伏見稲荷のある先で412号線に合流して進む。
途中、左手から合流する道があるが、そのまま直進すると、右手に民家があり、その先で右側に先ほどと同様の看板が立っているので、それに従って、坂を下っていく。途中二股に分かれているところがあるが、右側の舗装された道を下っていくと、ヘアピンカーブがあり、そのまま進むと412号線に合流する。ここは412号線が膨らんでいるので、ショートカットされた道になっている。
しばらく412号線を進むが、右側に看板が立っているので、それに従って右斜めの道に入っていく。右手に大分バスの車庫があり、その先で412号線に合流する。
その先で今度は左側に看板が立っているので、それに従って左側の旧道を歩いていくと左側に東岸寺があるので、その前を通って進む。
これから先も看板が立っているので、それに従って進むと、前方にコンクリートの橋のようなものがあり、旧道はその下を通って進む。林の中に入ると「危険」と書かれた看板が立っており、足元に注意を促している。
山の中を抜け出ると、ここにも看板が立っており、それに従って下っていく。ここに町上の石畳といわれる道が残っている。その先で412号線に合流、左へ進むと社会福祉法人和泉荘の看板があるので、そこを左折する。ここにも街道の看板が立っている。そこから100mほど進むと右折する道があり、ここにも看板が立っているのでそれにしたがって進む。
このあたりはとにかく分岐するところに全て看板が立っているので、それに従って進めば、迷うことはない。
矢貫のバス停で車道に合流し、左へ進み、その先で車道が左へカーブするところで、右折する。小川を渡って進むとやがて道は山の中へ入っていく。ここに伊塚の石畳が残っている。途中には「大分県ウォーキング協会」の看板が立っている。昨年歩かれた時のものなのだろう。
山を下り442号線に合流するが、下った後、Uターンをして左折することになる。これは以前はそのまま真っ直ぐに山を下っていたのだが、現在家が建ったのでこのようにUターンするということだった。
七瀬川に架かる一の瀬橋を渡って進むが、資料では橋を渡ってすぐに左折するようになっている。当然ここにも看板が立っているものと思っていたがない。それでそのまま直進し、次の角まで行って見たが、ここにも看板がない。これまで分岐点には必ず看板があったので、おかしいなと思い、近くにあったお店に入って聞いてみると、丁度そこに「大分市社会教育委員で野津原方言調査会」のSさんがおられ、野津原を案内してくれると言われたので、そのお言葉に甘えることにした。旧道はやはり橋を渡ってすぐに川に沿って左折し、最初の角を右折して進み、次の角を左折して進むということだった。看板がないのは、今市から野津原までの間に看板を立てたが、野津原の町内には立てていないということだった。しばらく直進し、突き当たりを右へ進む。
左手に福城禅寺があり、その先に「野津原神社」がある。ここは明治16年出雲大社から御分霊されて出雲大社野津原教会として設立されたと説明されている。
野津原神社の裏に野津原東部小学校があり、ここが野津原宿御茶屋の跡である。ただ、遺構は全く残っていない。
ここでカウントする。
16時40分 野津原宿を通る。
今市宿から3時間3分、11km。
右手に「法護寺」がある。ここは加藤清正が建立したお寺で石垣はあまり高くはないが、よく見ると熊本城と同様に武者返しになっている。
ここでSさんとお別れする。もう80歳ということだったが、お元気な方だった。ご丁寧に案内をしていただき感謝である。
そのまま直進し、七瀬川に突き当たったところで川に沿って右折して歩いていくと「往還田」がある。これは参勤交代の時ここを歩いて川を渡っていたのだが、明治維新後、その道は払い下げられて細長い水田になった。そのためその場所を「往還田」と呼ぶようになったが、その後、そこに町道を通し、現在ではその場所が分かるように青く塗装されている。
七瀬川に架かる広瀬橋を渡って進む。七瀬川は蛇行しており昔の道は七回も川を渡ったといい、それぞれの渡しに一ノ瀬から七ノ瀬までの名前がついていたようだ。ただ、現在では旧道は失われているので、昔の道を歩くことができない。大分県ウォーキング協会の真砂さんにお聞きすると、明確でないので協会としては442号線を歩いたといわれたので、私も442号線を歩いたが、442号線の右手、七瀬川の向こう側に442号線と併行して道が通っている。この道は先で442号線と合流するのでどちらを通っても同じようだが、442号線は車の通行量が多く、一方の道は川沿いの道で、車もほとんど通っていなかったため、こちらの道を歩いたほうが良かったように思った。
廻栖野の信号があり、そこから街道を離れて右折し、約1km歩いて今日の宿である「塚野鉱泉 福来屋」に着く。野津原も宿泊するところがなく、ようやく探し当てた宿だ。ここは湯治客が中心という鄙びた宿だったが、気持ちが良かった。
17時45分に宿に着く。
本日の歩行時間 10時間40分。
本日の歩数&距離 58793歩、40.3km。
旅の地図
記録
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2009年03月31日(火)
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2009年04月01日(水)
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2009年04月07日(火)
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2009年04月08日(水)
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2009年04月09日(木)
プロフィール
歩人
かっちゃん