2009年04月07日(火)
宮地~坂梨~久住
晴れ
小倉を朝一番の新幹線で出て、9時47分に宮地駅に着き歩き始める。
駅の前の57号線に出て右折し、古恵川に架かる松原橋を渡って進むと右手に水車があり、その横にお地蔵様がある。
その先坂梨小学校前の信号で道は二股に分かれているので、右側の旧道に入る。
「歴史の道」の青い看板が立っている。
左手に猿田彦の石碑と石仏が立っている。
「手永会所跡」の標柱が右手に立っている。手永会所とは江戸時代細川藩独自の役所名で、現在の本町、産山村、波野村を含む周辺十一村を管轄しており、明治維新後会所は廃止されたと説明されている。
ここから街道を離れて右折して入っていくと突き当たりに石仏を祀った祠があり、ここを左折するとすぐ左手の民家の庭に「坂梨手永会所跡地」の碑が二つ並んで立っていた。
街道に戻って進むと、すぐ先に「天神橋(めがね橋)」がある。この工事は足掛け3年を要し、約百個の石が見事なアーチを描いている。橋の袂には弘化4年(1847)八代郡種山手永棟梁石工卯助」と刻まれており、卯助は最後の一石を頂点にはめるとき、その真下に威儀を正して正座したと説明されている。当時の職人気質、仕事にかける思いを如実に現しているように思う。
このあたりの町並みには昔の街道の雰囲気が色濃く残っている。静かで落ち着いた町並みだ。
その先、街道が枡形で右にカーブする手前、左手に案内板が立っており、それに従って左折し57号線を横断して進むと「坂梨御茶屋」がある。ここは代々市原家が御茶屋番を勤めていた。江戸時代の御茶屋は現在の市原家(明治2年に改築)の西にあったが、その場所は現在では田畑になっている。
ここでカウントする。
10時25分、坂梨宿を通る。
内牧宿から3時間38分、11.9km。
街道に戻って進むと、左手に「天神社」があり、その境内の小堂に「子安観音像」が納められている。欅造りの高さ163cmの老婆が赤ん坊を抱いた立像で、町の大富豪だった虎屋の奥方が子供運が良くなかったため、木喰上人に依頼して作られたといわれている。子供が病気、乳が出ないといったときの救いの神として今でも参拝者が多く、小さな竹筒に甘酒を入れて参られており、県内では唯一の木喰の彫刻と説明されている。
その先右手に日向往還(野尻往還)の起点の案内板が立っていた。日向往還も歩くつもりにしているので、チェックしておく。その先左手に「阿蘇外輪伏流水 名水滝壷の水」の標識があり、「冷たくおいしい水をどうぞ」と書かれているので、いつものように早速飲んでみた。たしかに冷たくておいしかった。
「坂梨番所跡」が右手にある。ここは豊後街道上最重要な関所で、街道を行く旅人を取り締まり、女改部屋があって、女性には特に厳しく詮議がなされた番所だっと説明されている。
突き当りを左折したすぐ先、左手に「十三里木跡」の案内板が立っている。この先57号線に合流したところにも「十三里木」の碑が立っているが、ご近所の方にお伺いすると、最初にあった場所が昔からの「十三里木」の跡で、以前は大きな木が立っていたということだった。現在でも枝を切った大木が立っていた。
57号線に合流し、右折して少し進んだ先にもう一度右折する道があり、その角に「(歴史の道)旧豊後街道」の標識が立っているので、それに従って右折して進んでいく。
道は山の中に入って行き、石畳が残っている。突き当たりに階段があり、そこを左折して進むが、ここにも「歴史の道旧豊後街道」の標識が立っている。
木立の中を進んでちょっとした広場に出るが、その先に同様な標識が立っており、それに従って左に下っていくと木橋が架かっているので、これを渡って山の中へ入っていく。
やがて水は僅かしか流れていないが、小さな谷川がありそれを歩いていく。昔は道があったそうだが、度重なる水害で廃道になってしまい、今では谷川を登るしかなくなったということだ。途中で梯子で岩を登るところがあったりするが、道は一本というか、谷川に沿って登って行く。この日は水が流れていなかったからよかったが、強い雨の後などではうまく歩くことができるのだろうか?と思う。
やがて57号線に合流。ガードレールを跨いで57号線に出、右方向へ歩いていくと左手に「西南の役砲台跡」の案内板が立っている。明治10年の西南の役の陣地があったところで、今も土塁の跡が残っており、昭和初期まで小銃の弾を拾うことができたと説明されている。
その先にも左手に「西南の役砲台跡」の標柱が立っており、その横に「カヲの墓」の案内板があり、「参勤交代の時、この場所は駕籠を置き、「坂梨手永」と「久住手永」の人足交代の場所でもあり、休息の場所だったということだ。休憩中の殿様にお茶を献じたといわれる美人の「カヲ」に殿様が恋をしたという話が残っており、その墓標がこの奥に建てられている」と説明されている。案内に従って山の中に入っていく。案内板には200mと記されていたが、それ以上あるようだ。墓には「釈尼妙信不退転位 俗名カヲ」「文政十三年寅二月二四日」と刻まれていた。
左手にドライブイン高原があり11時40分になっていたので、ここで昼食にする。まだ時間的に昼食には少し早かったので客は誰もおらず、お店をしているご夫婦と色々と話をしながら食べる。この店のすぐ横に旧道があると資料に書かれており、確かにそれらしい入口があったのでお聞きすると、今はその先で行き止まりになっており、歩くことができないので、笹倉までは57号線を歩くしかないといわれた。ここですっかり話し込んでしまい約40分ほどゆっくりして出発する。
しばらく57号線を歩いていたが、左手になにやら道らしきものがあるので入ってみた。そうすると一段低くなった川のようなところがあり水は流れていなかったので、少し歩いてみたが、すぐに砂防ダムがあり、やはり歩けないと分かったので、そこから先は57号線を歩いた。
「十四里塚」の案内板が左手に立っている。熊本の札の辻から十四里にあたるのだが、この一帯は四里塚と呼ばれているそうで、ここが久住から四里にあたることからそう呼ばれているということだ。
このあたりの国道には歩道がないが、周囲に家があまりないので歩道を作る意味がなかったのだろう。その先に道の駅波野が左手にあり、さらにその先左手に菅原神社の鳥居が立っている。
笹倉に入り、57号線が右に大きくカーブしているところで、左側民家の塀の横に「参勤交代道石畳」と「豊後街道/歴史の道」の標柱が並んで立っているので、ここから左折して進む。
ここはきれいに整備された道で杉林の中、木漏れ日の中を歩いていく。気持ちがいい道だ。
左手に「十五里塚」の案内板が立っている。
その先、やはり左手に「茶沸場跡」の案内板が立っている。参勤交代の道路の途中に何ヶ所かの休憩所として茶屋があり、昔からこの地を茶沸場と呼んでいたのは、茶を沸かして飲んだという言い伝えがあるからと思われると説明されている。
「ヘキ谷の道標」がある。「前 熊本 鶴崎道」「ひだり ならきの なんこう」「明治元戌辰十二月建 播州龍埜 准南堂碧松」と刻まれており、「熊本城から61.5km、鶴崎港より62.5km」と書かれている。ほぼ豊後街道の中間点まできたということだ。
ここからヘキ谷橋(片俣川橋)を渡って左へ進む。
右手に産山村の「里程標」がある。「役場より8キロ、標高680m」と書かれている。
その先左手に「水恩碑」が立っており、その横に「参勤交代道跡」の標識が立っている。
ここから左折して土道を歩いていくと、右手に養鶏場があり、その先から草道になり、坂を下っていく。
二股に分かれているところがあり、左側に「日本一の鞍掛櫟」の看板が立っているのでそれに従って下っていく。
途中、「弁財天の石畳道路」の標識が右手に立っており、その先で街道からはずれ、坂を上って行くと、「日本一の鞍掛櫟」がある。弁財天が山鹿の祠に帰る途中の坂が急で、乗っていた鞍が牛の首まで下がったため、道の傍らにあるこの櫟の枝に鞍をかけて休息したことから鞍掛け櫟といい、その坂道を弁天坂と呼ぶようになった。この櫟には母を思わせる豊かな両の乳房に似た瘤があり、これを弁天の垂れ乳という。昔旅人が精魂尽きてこの樹の下で眠っていると優しい母の懐に抱かれ乳を飲む夢を見ていた。朝目覚めると櫟の落葉が布団のように身体を包み、垂乳から露が雫となって口に注れていた。櫟の精を吸った旅人は体力を回復して再び度を続けたという。以来女性はこの瘤に触ると乳を授かると伝えられていると説明されている。樹高20m、樹齢推定630年ということだ。
街道に戻って坂を下っていく。このあたりにも石畳が残っている。大利の石畳と呼ばれているところだ。
その先左手に「大黒石」がある。参勤交代の途中の殿様もこの石を参拝したといい、男は石を背から、女は頭上から3個投げ、みんな落ちないと願いが叶うと書かれていたので、早速やってみた。ところが意外と距離があるらしく、最初の3個はいずれも石に届かなかったため、改めて投げなおすと、皆石の上に乗ったようだ。というか後ろを向いて投げるので、はっきりと確かめられないのだ。ただ、乗ったようだったのでよしとした。さて、どんな願いが叶うことやら。
左手に廃屋があり、その先で舗装された道に突き当たるので、これを右折して進むと御休所跡の標柱が立っており、その先民家の塀の端に道標がある。正面に「右 笹倉阿蘇 左 白丹久住」、側面に「右 原大利 片俣」と刻まれている。
その先で216号線に合流すると大利のバス停があり、216号線を左へ進む。途中で右斜めに上る道があるが、直進する。その先に「一里山 参勤交代」の標柱がある。ここは十六里跡なのだが、一里山と呼んでいたようだ。
下っていくと216号線は左に大きくカーブするが、そのまま直進する土道が伸びており、その道を進んで玉来川に架かる大利橋を渡る。
橋を渡ると道は三本に分かれており、左側は川に沿っており、右側は細い道で、すぐに行き止まりになっているので、真ん中の道を上って行く。
突き当たりに「山鹿(境の松)の石畳道路」の標柱が立っている。ここから石畳を上って行く。ここもきれいな石畳が残っている。
境の松が肥後と豊後の国境になるのだ。いよいよこれから大分県にはいるのだ。さて、と思って杉林を抜けると道が二股に分かれているのだが、標識が全くない。実は今回事前に調べるにあたり、2万5千分の1の地図と分かりにくい場所はgoogleマップを拡大して調べたのだが、山の中の道はgoogleマップには表示されておらず、よく分からない場所が何ヶ所かあった。ただ熊本県側には標柱がかなりあって、調査でわからなかった場所もトラブルことなく歩いてくることができた。ところが境の松を過ぎて大分県側に入ると途端に標識がない!境の松を出たところで道が二股になっているが、標識がないし、手持ちの地図でも自分がどの場所にいるのかがわからない状態。さぁ困ったぞ。山の中で人はもちろん、人家もない。仕方がないので、今回事前調査の段階でお世話になった大分県ウォーキング協会の真砂さんに電話を入れて聞いてみた。そうするとすぐに右へ進むようにと教えていただくことができた。真砂さんは昨年11月に会員の皆さんを引率して歩かれたばかりなのだ。これから先の道も教えていただいて歩き始める。
しばらく山の中の道を歩いていくと、左手に養鶏場があり、その先左手に「三本松公民館」があったので、これを左折して進む。その先で道は二股に分かれているが、左手を直進して進み、その先で坂を下っていく。このあたりは教えていただいたとおりだ。
その先で「米賀生活改善センター」という少し古い建物が突き当たりにあり、道はその前を左右に通っている。
ここでまた分からなくなったが、とりあえず右折して坂を下ると車道に合流する。その先が分からないので、ここでも真砂さんに電話を入れて確認をする。下ったところから20mほど左へ歩き、そこから右下へ下る道があり、その先、最初の角に「白丹温泉」の看板が立っているところ、右側に道標があるところから左折して下る道があるので、これを下っていく。
橋が二本架かっており、その一方に「米賀橋」の標識が立っていたので、これを渡って進む。この橋も石造りの眼鏡橋だ。
このあたり、手持ちの地図と自分のいる場所が私の頭の中で一致しておらず、よく分からないまま道に従って進んでいく。一度道に迷うとどうも立ち直りが遅いようだ。歩いているとオバサンがいたので「豊後街道を歩いているのですが、この道でいいのでしょうか」と聞くと、「豊後街道は自分の家の前の道を行くのよ」と言われる。そしてその道は少し前にあった三叉路から左へ進むのだという。自分がどこにいるのか分からなくなっている私は素直にその言葉に従って、今来た道を少し引き返し、左折して進んで行った。しばらく歩いたが、どうもおかしい。誰か道を聞く人がいないかと探すが、だれもいない。困ったなと思っているとお寺があったので、そこに入っていって玄関を開けて道を聞いたところ、出てこられた和尚さんが親切な方で、詳しく教えていただいた。それによると、先ほど左折したところを真っ直ぐに進めばいいとのこと。結局私が歩いていた道で正しかったのだ。ただ、その先で旧道は白丹町の中に入るので曲がっており、その曲がり角の目印がわかっていなかったのでお聞きすると「光照寺入口」という看板がかかっているところだと教えていただいた。ここでようやく地図と自分のいる場所が確認できた。
感謝してその場を辞し、元に戻って進み、潤島川に架かる新高塚橋を渡る。このあたりは道路工事が盛んに行われていて、道が分かりにくくなっている。その先で先ほどお聞きしたとおり「光照寺→入口」と書かれた看板が右手に立っており、そこから右折して集落の中へ入っていく。
道が最初に二股に分かれているところに道標があり、「下構 至阿蘇 (内ノ牧)」と刻まれている。
ここを左折して集落の中を通る。左手に「光照寺」があり、そのまま進むと、左手に白丹町公民館があり、その横に「相ヶ鶴井手家の石蔵」がある。
この建物は明治13年に建設された石積み竹瓦葺屋根の石蔵で、昭和57年に町文化財に指定されたが、この度稲葉ダムの建設により、相ケ鶴地区が水没するため、この場所に移転復元したと説明されている。
そのすぐ先で道が十字路になっている。地図を見るとどうも左へ進んでいるようなので、左折して歩いていった。ここも山の中である。しばらく歩いていると久住中学校が右手に見えてきた。おかしいな?と思ったが、ここも道を聞く人がいない。そのまま歩いていると、お店があったのでそこに入ってオバサンに「豊後街道を歩いているのですが」というと「肥後街道でしょ」といわれてしまった。熊本県では「豊後街道」なのだが、大分県では「肥後街道」と呼ぶようだ。いずれにしても道が分からなくなっているというと、先ほど迷った十字路を直進して坂を下るのだと教えてくれた。そのお店の前の道路を進んでいくと一里山石燈籠があり、そこで旧道と合流できると教えていただいたが、自分としては折角なので旧道を歩きたいので、元に戻りますというと、ここからあそこまで戻るの?と驚いていた。
急ぎ足で先ほどの十字路まで戻ったが、時間は既に17時20分近くになっており、ボヤボヤしていると日が暮れてしまう。しかもまだ山の中の道が続くようだ。とにかく急ごう。
しばらく山の中の道を進んでいくと、やがて人家があり、その先で道は二股になっているので、ここを左斜めに進み、その先で道路のガード下を通って進む。
左手に牛舎がある横の坂を上って行くと、車道に合流するので、これを右折して今度は坂を下っていく。
間もなく道は二股に分かれるので、右斜めに伸びる細い道を下っていくと、「神馬の石橋」がある。この橋をみて旧道を歩いていることが確認できてうれしかった。
ただ、その先でまた道を間違えた。最初に右に分岐する道、前に神馬営農組合の格納庫があるので、そこを右折して進んで行かなければならないのだが、そのまま直進してしまった。幸い今度は人がおられたのでお聞きすると、先ほどの道を右折していくと教えていただいたので、元に戻って右折して進む。今度は上り坂だ。このあたり上り下りが多い。
道なりに進んでいくと左手に「一里山石燈籠」があった。
ただここも道が二股に分かれており、どちらに進めばいいかわからない。感覚としては直進するように思ったが、もう薄暗くなってきており、やり直しはしたくないので、もう一度真砂さんに電話を入れてお聞きするとやはり直進すればいいと教えていただいた。久住までもうすぐだが、これから先、山の中で益々暗くなると思うので気をつけるようにと言っていただいた。本当にお世話になりました。
山の中を抜けて久住の町に出てくると、車道に合流する。左側に左折する道があり、その先が肥後街道と教えていただいたのでこれを歩き、18時35分にようやく久住の町に着いた。今日の宿は民宿綾だ。久住はここしか宿がなく、最初宿泊をお願いしたところ、選挙で忙しいので賄いできないと断られてしまった。ただ、前後には全く宿がないので、ここを断られてしまうとどうしようもない。素泊まりでいいからという条件でお願いをし、なんとか了解してもらったのだ。宿に入る前に近くに一軒だけあったスーパーで弁当を買い、翌朝の朝食用にこれも一軒だけあったコンビニでパンを買って宿に入る。宿に着くころにはもう真っ暗になっていた。
後で聞くと竹田市議会選挙に宿のご主人が立候補されていたということで、確かに宿泊の賄いどころではなかっただろう。今日は何度も道を間違って自分がどこにいるのか分からなくなってしまい、時間も遅くなって暗くなる直前まで歩いていたりして、さすがにすっかりくたびれてしまったが、なんとか無事久住に着くことができた。
18時35分、久住宿に着く。
坂梨宿から8時間10分、24.3km.。
本日の歩行時間 8時間48分。
本日の歩数&距離 46970歩、33.2km。
小倉を朝一番の新幹線で出て、9時47分に宮地駅に着き歩き始める。
駅の前の57号線に出て右折し、古恵川に架かる松原橋を渡って進むと右手に水車があり、その横にお地蔵様がある。
その先坂梨小学校前の信号で道は二股に分かれているので、右側の旧道に入る。
「歴史の道」の青い看板が立っている。
左手に猿田彦の石碑と石仏が立っている。
「手永会所跡」の標柱が右手に立っている。手永会所とは江戸時代細川藩独自の役所名で、現在の本町、産山村、波野村を含む周辺十一村を管轄しており、明治維新後会所は廃止されたと説明されている。
ここから街道を離れて右折して入っていくと突き当たりに石仏を祀った祠があり、ここを左折するとすぐ左手の民家の庭に「坂梨手永会所跡地」の碑が二つ並んで立っていた。
街道に戻って進むと、すぐ先に「天神橋(めがね橋)」がある。この工事は足掛け3年を要し、約百個の石が見事なアーチを描いている。橋の袂には弘化4年(1847)八代郡種山手永棟梁石工卯助」と刻まれており、卯助は最後の一石を頂点にはめるとき、その真下に威儀を正して正座したと説明されている。当時の職人気質、仕事にかける思いを如実に現しているように思う。
このあたりの町並みには昔の街道の雰囲気が色濃く残っている。静かで落ち着いた町並みだ。
その先、街道が枡形で右にカーブする手前、左手に案内板が立っており、それに従って左折し57号線を横断して進むと「坂梨御茶屋」がある。ここは代々市原家が御茶屋番を勤めていた。江戸時代の御茶屋は現在の市原家(明治2年に改築)の西にあったが、その場所は現在では田畑になっている。
ここでカウントする。
10時25分、坂梨宿を通る。
内牧宿から3時間38分、11.9km。
街道に戻って進むと、左手に「天神社」があり、その境内の小堂に「子安観音像」が納められている。欅造りの高さ163cmの老婆が赤ん坊を抱いた立像で、町の大富豪だった虎屋の奥方が子供運が良くなかったため、木喰上人に依頼して作られたといわれている。子供が病気、乳が出ないといったときの救いの神として今でも参拝者が多く、小さな竹筒に甘酒を入れて参られており、県内では唯一の木喰の彫刻と説明されている。
その先右手に日向往還(野尻往還)の起点の案内板が立っていた。日向往還も歩くつもりにしているので、チェックしておく。その先左手に「阿蘇外輪伏流水 名水滝壷の水」の標識があり、「冷たくおいしい水をどうぞ」と書かれているので、いつものように早速飲んでみた。たしかに冷たくておいしかった。
「坂梨番所跡」が右手にある。ここは豊後街道上最重要な関所で、街道を行く旅人を取り締まり、女改部屋があって、女性には特に厳しく詮議がなされた番所だっと説明されている。
突き当りを左折したすぐ先、左手に「十三里木跡」の案内板が立っている。この先57号線に合流したところにも「十三里木」の碑が立っているが、ご近所の方にお伺いすると、最初にあった場所が昔からの「十三里木」の跡で、以前は大きな木が立っていたということだった。現在でも枝を切った大木が立っていた。
57号線に合流し、右折して少し進んだ先にもう一度右折する道があり、その角に「(歴史の道)旧豊後街道」の標識が立っているので、それに従って右折して進んでいく。
道は山の中に入って行き、石畳が残っている。突き当たりに階段があり、そこを左折して進むが、ここにも「歴史の道旧豊後街道」の標識が立っている。
木立の中を進んでちょっとした広場に出るが、その先に同様な標識が立っており、それに従って左に下っていくと木橋が架かっているので、これを渡って山の中へ入っていく。
やがて水は僅かしか流れていないが、小さな谷川がありそれを歩いていく。昔は道があったそうだが、度重なる水害で廃道になってしまい、今では谷川を登るしかなくなったということだ。途中で梯子で岩を登るところがあったりするが、道は一本というか、谷川に沿って登って行く。この日は水が流れていなかったからよかったが、強い雨の後などではうまく歩くことができるのだろうか?と思う。
やがて57号線に合流。ガードレールを跨いで57号線に出、右方向へ歩いていくと左手に「西南の役砲台跡」の案内板が立っている。明治10年の西南の役の陣地があったところで、今も土塁の跡が残っており、昭和初期まで小銃の弾を拾うことができたと説明されている。
その先にも左手に「西南の役砲台跡」の標柱が立っており、その横に「カヲの墓」の案内板があり、「参勤交代の時、この場所は駕籠を置き、「坂梨手永」と「久住手永」の人足交代の場所でもあり、休息の場所だったということだ。休憩中の殿様にお茶を献じたといわれる美人の「カヲ」に殿様が恋をしたという話が残っており、その墓標がこの奥に建てられている」と説明されている。案内に従って山の中に入っていく。案内板には200mと記されていたが、それ以上あるようだ。墓には「釈尼妙信不退転位 俗名カヲ」「文政十三年寅二月二四日」と刻まれていた。
左手にドライブイン高原があり11時40分になっていたので、ここで昼食にする。まだ時間的に昼食には少し早かったので客は誰もおらず、お店をしているご夫婦と色々と話をしながら食べる。この店のすぐ横に旧道があると資料に書かれており、確かにそれらしい入口があったのでお聞きすると、今はその先で行き止まりになっており、歩くことができないので、笹倉までは57号線を歩くしかないといわれた。ここですっかり話し込んでしまい約40分ほどゆっくりして出発する。
しばらく57号線を歩いていたが、左手になにやら道らしきものがあるので入ってみた。そうすると一段低くなった川のようなところがあり水は流れていなかったので、少し歩いてみたが、すぐに砂防ダムがあり、やはり歩けないと分かったので、そこから先は57号線を歩いた。
「十四里塚」の案内板が左手に立っている。熊本の札の辻から十四里にあたるのだが、この一帯は四里塚と呼ばれているそうで、ここが久住から四里にあたることからそう呼ばれているということだ。
このあたりの国道には歩道がないが、周囲に家があまりないので歩道を作る意味がなかったのだろう。その先に道の駅波野が左手にあり、さらにその先左手に菅原神社の鳥居が立っている。
笹倉に入り、57号線が右に大きくカーブしているところで、左側民家の塀の横に「参勤交代道石畳」と「豊後街道/歴史の道」の標柱が並んで立っているので、ここから左折して進む。
ここはきれいに整備された道で杉林の中、木漏れ日の中を歩いていく。気持ちがいい道だ。
左手に「十五里塚」の案内板が立っている。
その先、やはり左手に「茶沸場跡」の案内板が立っている。参勤交代の道路の途中に何ヶ所かの休憩所として茶屋があり、昔からこの地を茶沸場と呼んでいたのは、茶を沸かして飲んだという言い伝えがあるからと思われると説明されている。
「ヘキ谷の道標」がある。「前 熊本 鶴崎道」「ひだり ならきの なんこう」「明治元戌辰十二月建 播州龍埜 准南堂碧松」と刻まれており、「熊本城から61.5km、鶴崎港より62.5km」と書かれている。ほぼ豊後街道の中間点まできたということだ。
ここからヘキ谷橋(片俣川橋)を渡って左へ進む。
右手に産山村の「里程標」がある。「役場より8キロ、標高680m」と書かれている。
その先左手に「水恩碑」が立っており、その横に「参勤交代道跡」の標識が立っている。
ここから左折して土道を歩いていくと、右手に養鶏場があり、その先から草道になり、坂を下っていく。
二股に分かれているところがあり、左側に「日本一の鞍掛櫟」の看板が立っているのでそれに従って下っていく。
途中、「弁財天の石畳道路」の標識が右手に立っており、その先で街道からはずれ、坂を上って行くと、「日本一の鞍掛櫟」がある。弁財天が山鹿の祠に帰る途中の坂が急で、乗っていた鞍が牛の首まで下がったため、道の傍らにあるこの櫟の枝に鞍をかけて休息したことから鞍掛け櫟といい、その坂道を弁天坂と呼ぶようになった。この櫟には母を思わせる豊かな両の乳房に似た瘤があり、これを弁天の垂れ乳という。昔旅人が精魂尽きてこの樹の下で眠っていると優しい母の懐に抱かれ乳を飲む夢を見ていた。朝目覚めると櫟の落葉が布団のように身体を包み、垂乳から露が雫となって口に注れていた。櫟の精を吸った旅人は体力を回復して再び度を続けたという。以来女性はこの瘤に触ると乳を授かると伝えられていると説明されている。樹高20m、樹齢推定630年ということだ。
街道に戻って坂を下っていく。このあたりにも石畳が残っている。大利の石畳と呼ばれているところだ。
その先左手に「大黒石」がある。参勤交代の途中の殿様もこの石を参拝したといい、男は石を背から、女は頭上から3個投げ、みんな落ちないと願いが叶うと書かれていたので、早速やってみた。ところが意外と距離があるらしく、最初の3個はいずれも石に届かなかったため、改めて投げなおすと、皆石の上に乗ったようだ。というか後ろを向いて投げるので、はっきりと確かめられないのだ。ただ、乗ったようだったのでよしとした。さて、どんな願いが叶うことやら。
左手に廃屋があり、その先で舗装された道に突き当たるので、これを右折して進むと御休所跡の標柱が立っており、その先民家の塀の端に道標がある。正面に「右 笹倉阿蘇 左 白丹久住」、側面に「右 原大利 片俣」と刻まれている。
その先で216号線に合流すると大利のバス停があり、216号線を左へ進む。途中で右斜めに上る道があるが、直進する。その先に「一里山 参勤交代」の標柱がある。ここは十六里跡なのだが、一里山と呼んでいたようだ。
下っていくと216号線は左に大きくカーブするが、そのまま直進する土道が伸びており、その道を進んで玉来川に架かる大利橋を渡る。
橋を渡ると道は三本に分かれており、左側は川に沿っており、右側は細い道で、すぐに行き止まりになっているので、真ん中の道を上って行く。
突き当たりに「山鹿(境の松)の石畳道路」の標柱が立っている。ここから石畳を上って行く。ここもきれいな石畳が残っている。
境の松が肥後と豊後の国境になるのだ。いよいよこれから大分県にはいるのだ。さて、と思って杉林を抜けると道が二股に分かれているのだが、標識が全くない。実は今回事前に調べるにあたり、2万5千分の1の地図と分かりにくい場所はgoogleマップを拡大して調べたのだが、山の中の道はgoogleマップには表示されておらず、よく分からない場所が何ヶ所かあった。ただ熊本県側には標柱がかなりあって、調査でわからなかった場所もトラブルことなく歩いてくることができた。ところが境の松を過ぎて大分県側に入ると途端に標識がない!境の松を出たところで道が二股になっているが、標識がないし、手持ちの地図でも自分がどの場所にいるのかがわからない状態。さぁ困ったぞ。山の中で人はもちろん、人家もない。仕方がないので、今回事前調査の段階でお世話になった大分県ウォーキング協会の真砂さんに電話を入れて聞いてみた。そうするとすぐに右へ進むようにと教えていただくことができた。真砂さんは昨年11月に会員の皆さんを引率して歩かれたばかりなのだ。これから先の道も教えていただいて歩き始める。
しばらく山の中の道を歩いていくと、左手に養鶏場があり、その先左手に「三本松公民館」があったので、これを左折して進む。その先で道は二股に分かれているが、左手を直進して進み、その先で坂を下っていく。このあたりは教えていただいたとおりだ。
その先で「米賀生活改善センター」という少し古い建物が突き当たりにあり、道はその前を左右に通っている。
ここでまた分からなくなったが、とりあえず右折して坂を下ると車道に合流する。その先が分からないので、ここでも真砂さんに電話を入れて確認をする。下ったところから20mほど左へ歩き、そこから右下へ下る道があり、その先、最初の角に「白丹温泉」の看板が立っているところ、右側に道標があるところから左折して下る道があるので、これを下っていく。
橋が二本架かっており、その一方に「米賀橋」の標識が立っていたので、これを渡って進む。この橋も石造りの眼鏡橋だ。
このあたり、手持ちの地図と自分のいる場所が私の頭の中で一致しておらず、よく分からないまま道に従って進んでいく。一度道に迷うとどうも立ち直りが遅いようだ。歩いているとオバサンがいたので「豊後街道を歩いているのですが、この道でいいのでしょうか」と聞くと、「豊後街道は自分の家の前の道を行くのよ」と言われる。そしてその道は少し前にあった三叉路から左へ進むのだという。自分がどこにいるのか分からなくなっている私は素直にその言葉に従って、今来た道を少し引き返し、左折して進んで行った。しばらく歩いたが、どうもおかしい。誰か道を聞く人がいないかと探すが、だれもいない。困ったなと思っているとお寺があったので、そこに入っていって玄関を開けて道を聞いたところ、出てこられた和尚さんが親切な方で、詳しく教えていただいた。それによると、先ほど左折したところを真っ直ぐに進めばいいとのこと。結局私が歩いていた道で正しかったのだ。ただ、その先で旧道は白丹町の中に入るので曲がっており、その曲がり角の目印がわかっていなかったのでお聞きすると「光照寺入口」という看板がかかっているところだと教えていただいた。ここでようやく地図と自分のいる場所が確認できた。
感謝してその場を辞し、元に戻って進み、潤島川に架かる新高塚橋を渡る。このあたりは道路工事が盛んに行われていて、道が分かりにくくなっている。その先で先ほどお聞きしたとおり「光照寺→入口」と書かれた看板が右手に立っており、そこから右折して集落の中へ入っていく。
道が最初に二股に分かれているところに道標があり、「下構 至阿蘇 (内ノ牧)」と刻まれている。
ここを左折して集落の中を通る。左手に「光照寺」があり、そのまま進むと、左手に白丹町公民館があり、その横に「相ヶ鶴井手家の石蔵」がある。
この建物は明治13年に建設された石積み竹瓦葺屋根の石蔵で、昭和57年に町文化財に指定されたが、この度稲葉ダムの建設により、相ケ鶴地区が水没するため、この場所に移転復元したと説明されている。
そのすぐ先で道が十字路になっている。地図を見るとどうも左へ進んでいるようなので、左折して歩いていった。ここも山の中である。しばらく歩いていると久住中学校が右手に見えてきた。おかしいな?と思ったが、ここも道を聞く人がいない。そのまま歩いていると、お店があったのでそこに入ってオバサンに「豊後街道を歩いているのですが」というと「肥後街道でしょ」といわれてしまった。熊本県では「豊後街道」なのだが、大分県では「肥後街道」と呼ぶようだ。いずれにしても道が分からなくなっているというと、先ほど迷った十字路を直進して坂を下るのだと教えてくれた。そのお店の前の道路を進んでいくと一里山石燈籠があり、そこで旧道と合流できると教えていただいたが、自分としては折角なので旧道を歩きたいので、元に戻りますというと、ここからあそこまで戻るの?と驚いていた。
急ぎ足で先ほどの十字路まで戻ったが、時間は既に17時20分近くになっており、ボヤボヤしていると日が暮れてしまう。しかもまだ山の中の道が続くようだ。とにかく急ごう。
しばらく山の中の道を進んでいくと、やがて人家があり、その先で道は二股になっているので、ここを左斜めに進み、その先で道路のガード下を通って進む。
左手に牛舎がある横の坂を上って行くと、車道に合流するので、これを右折して今度は坂を下っていく。
間もなく道は二股に分かれるので、右斜めに伸びる細い道を下っていくと、「神馬の石橋」がある。この橋をみて旧道を歩いていることが確認できてうれしかった。
ただ、その先でまた道を間違えた。最初に右に分岐する道、前に神馬営農組合の格納庫があるので、そこを右折して進んで行かなければならないのだが、そのまま直進してしまった。幸い今度は人がおられたのでお聞きすると、先ほどの道を右折していくと教えていただいたので、元に戻って右折して進む。今度は上り坂だ。このあたり上り下りが多い。
道なりに進んでいくと左手に「一里山石燈籠」があった。
ただここも道が二股に分かれており、どちらに進めばいいかわからない。感覚としては直進するように思ったが、もう薄暗くなってきており、やり直しはしたくないので、もう一度真砂さんに電話を入れてお聞きするとやはり直進すればいいと教えていただいた。久住までもうすぐだが、これから先、山の中で益々暗くなると思うので気をつけるようにと言っていただいた。本当にお世話になりました。
山の中を抜けて久住の町に出てくると、車道に合流する。左側に左折する道があり、その先が肥後街道と教えていただいたのでこれを歩き、18時35分にようやく久住の町に着いた。今日の宿は民宿綾だ。久住はここしか宿がなく、最初宿泊をお願いしたところ、選挙で忙しいので賄いできないと断られてしまった。ただ、前後には全く宿がないので、ここを断られてしまうとどうしようもない。素泊まりでいいからという条件でお願いをし、なんとか了解してもらったのだ。宿に入る前に近くに一軒だけあったスーパーで弁当を買い、翌朝の朝食用にこれも一軒だけあったコンビニでパンを買って宿に入る。宿に着くころにはもう真っ暗になっていた。
後で聞くと竹田市議会選挙に宿のご主人が立候補されていたということで、確かに宿泊の賄いどころではなかっただろう。今日は何度も道を間違って自分がどこにいるのか分からなくなってしまい、時間も遅くなって暗くなる直前まで歩いていたりして、さすがにすっかりくたびれてしまったが、なんとか無事久住に着くことができた。
18時35分、久住宿に着く。
坂梨宿から8時間10分、24.3km.。
本日の歩行時間 8時間48分。
本日の歩数&距離 46970歩、33.2km。
旅の地図
記録
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2009年03月31日(火)
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2009年04月01日(水)
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2009年04月07日(火)
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2009年04月08日(水)
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2009年04月09日(木)
プロフィール
歩人
かっちゃん