豊後街道を歩く

2009年03月31日(火) ~2009年04月09日(木)
総歩数:229528歩 総距離:156.8km

2009年04月01日(水)

高尾野~二重峠~的石~内牧~宮地

                                   晴れ

 ホテルを出て7時24分に昨日歩いた街道のところから出発する。今日もいい天気だが肌寒い。大陸から寒気がきているという天気予報が流れていた。
 昨日に続いて今日も桜並木の中を歩く。満開の桜がきれいだ。
清正公道桜 
 「清正公道」の大きな看板が立っている。この清正公道は広い意味では豊後街道のうち、熊本から阿蘇外輪山越えの二重峠までを称していたようで、狭く限定すると大津馬場の杉並木から二重峠の手前、大津町より一里半ばかりの方里ヶ谷(現在の堀ヶ谷)あたりを指していたということだ。以前肥後の国は海港は全て有明海にあり、太閤秀吉の遺児秀頼のいる大坂や江戸へ赴く為には有明海から玄界灘航路か日向灘航路によるしかなかった。そのため瀬戸内海への最短距離にある豊後鶴崎への直線道路の整備が政治的・軍事的に重要であり、その整備に多くの労力を費やしたということだ。確かにこれまで歩いてきた街道と比較し、その道幅ははるかに広く、壮大な構想の下に作られたものという感じを受ける。加藤清正、忠弘父子で参勤17回、後の藩主細川氏も忠利公以後57回の参勤交代にはその大半がこの道を使用したということだ。
 左手に高尾野公民館があり、その横に高尾野地蔵が二体祀られている。これはどちらも江戸中後期の1800年代の製作と見られ、往時は街道沿いに立てられていたと伝えられていたが、その後所在不明になっていた。平成18年に区の幹部が墓地で確認し、新たに地蔵小屋を建て再び旧街道沿いに設置したと説明されている。
高尾野地蔵 
 そのすぐ先の十字路を直進するが、渡ったところの左手に「猪鹿供養碑」が立っていた。このあたりには猪や鹿が多かったのだろう。
猪鹿供養碑 
 十字路を渡るとこれまで道路の左側にあった桜並木が右側になっている。右手に清正公園があり、そこに「人馬水呑場」の案内板が立っていた。それによると清正公道に沿った高尾野水道は文化8年(1811)惣庄屋斉藤形右衛門によって敷設されたもので、堀ヶ谷と高尾野の二カ所に水船(水槽)を設け人馬の飲み水に供していたということだ。折角なので車道を離れ、車道と併行して通っている公園内の道を歩く。
 左手に熊本中核工業団地があり、大きな建物が立っている。この団地のはずれ、右手に六里木跡がある。資料に六里木跡を「I氏宅の庭の一角にたぶの大木」と書かれていた。しかしこのあたりは大木は沢山あり、道から少し入ったところに家があったりしたので、そこに行ってみたりして探しながら歩いたが、街道に沿った分かりやすいところにあった。
六里木 
 その先、しばらく行ったところで「大津町 町民の森」という看板が右手に立っており、道路の上の表示板に「↑大観峰」「←弥護山自然公園」「←陽の原キャンプ場」と書かれた看板がかかっているところで道が二股に分かれている。ここを左折して少し右カーブしている道を下っていく。この道もきれいに舗装された道だ。
分岐看板 
 道を下っていくと、一番下ったところで道は左にカーブしており、その曲がり角のところに橋が架かっている。橋を渡る前、ガードレールの横に直進する土道があり、川沿いに杭が立っているのでこの道を下っていく。ここが堀ガ谷だ。
旧道分岐 
 入口こそ土道だが、すぐに細いが舗装された道になり、山の中へ入っていく。緩い上り坂を上って行き、途中から舗装は途切れるが歩きやすい道だ。誰もいない山の中、うぐいすの鳴き声が聞こえる。気持ちがいい。
舗装された旧道 
 やがてタイヤが散乱しているところに来る。ここから先もそうだが、産廃物の不法投棄が多い。ここから再び舗装道になる。やがてミルクロードに合流する。合流するところに「堀ガ谷参勤道」の標柱が左手に立っている。
ヒリ 
 ここから左折してミルクロードを上って行く。
 左手に家が一軒立っている。今は廃屋になっているようだ。
 その先右手に七里木跡碑が立っており、ここから車道と分かれて山道に入っていく。
七里木 
 大分荒れてはいるが道は続いているのでそれに従って上って行く。特に今の時期は草が枯れており、歩く上で支障はなかった。道に石ころが多いが、これは石畳の痕跡なのだろうか?
 やがて道は二股に分かれていて、その真ん中に鉄柵で囲まれた場所がある。中を覗いてみると排水施設のようだ。
鉄柵 
 左へ上る道はまだ新しい感じなので、右へ進んでみる。これまでと同じような雰囲気の道が続いているのだが、しばらくいくと急に道がなくなった。おかしいなと思って、その先の藪の中へ入っていってみたが、道は完全に失われている。しばらく藪の中でウロウロしたが、分からない。仕方がないので先ほどの分岐点のところまで戻って、今度は左へ進む道を上ってみると車道(339号線)に出た。ここから右折して車道を上っていくと二重峠に出た。結局七里木からの旧道はよく分からなかった。いつもの事だがこのあたりのように森の中を歩く場合、GPSがうまく機能していない。後で地図を見てみると電波を検知した場所が飛び飛びになっており、実際に歩いた道とズレが出ている可能性があります。
 峠の十字路に「歴史の道」「豊後街道/二重の峠石畳」という青い表示板が立っており、その先に西南の役戦跡」の石碑が立っている。
表示板 
 明治10年四百余名の薩摩軍と五百名の政府軍はここで激突し、一旦は薩摩軍が勝利したが、再度体制を整えた政府軍が薩摩軍を破ったと説明されている。
西南の役碑 
 ここから標識に従って九十九折の坂道を上って行く。周囲は草地のようだが、丁度野焼きが行われた後らしく、一面の焼け野原状態だ。 これだけの範囲を焼くとなると、壮大な野焼きになるだろうと思った。ただ今日は天気はいいのだが寒波の影響で風が強く寒い!
 右手に「二重峠石畳」の案内板が立っているので右折して進むと、石畳の入口だ。そしてここから始まる石畳は見事だ。
二重峠看板 
 下っていくと溶岩の大岩があり、そこから眺める阿蘇谷の眺望は素晴らしい。
大岩 
 更に下っていくと、「文字石」の案内板が立っている。「岩村村つくり」と刻まれており、道普請に駆り出された農民が仕事の合間に彫った文字と言われている。岩村村は白川を隔てて、大津町の対岸にあった村で、この現場まで三里の道程があり、道普請に使役された農民の苦しみを物語る唯一の遺物であると書かれている。ただ、岩の文字が薄れており、よく分からない。どの岩なのだろうと探し、結局案内板の立っているすぐ前の道に埋め込まれている岩にかすかに「岩」と読むことが出来る文字が刻まれていることに気がついた。今後益々風化していくのだろう。
文字石 
 その先に「牛王の水」がある。一説には護法の水とも呼ばれるが、以前この上に乙護法の祠があったのでそう呼ばれたのだろうということだ。乙護法とは仏法守護の神で、童子の姿で行者につかえ、霊地を守ったので護法童子とも言われている。旅人にとってこの水はかけがえのないものであり、この地を霊地として石仏を祭り、旅の安全を祈り、乾いた喉を潤したのだろう。確かにかなりの急坂なので、下りはいいがこれを登ることは大変だろうと思った。ここには今でも湧き水が流れていた。
二重峠牛王の水 
 ここに祀られている石仏は舟形光背を持つ二体の地蔵で、厨子には文政5年(1822)車帰村坂の下和七の名があるので和七の寄進と思われ、石仏の施主には紺屋町大坂才助同金屋文平次世話人大津松屋幸助二本木光平の文字がみえる。
牛王の水 
 「工具痕跡の残る石」がある。敷石を適当な大きさに割って使うとき、割れ目をたてるために矢で穴を掘るが、この石は割れず、矢のあとを残したままになっているという案内板が立っている。
 道の端に排水溝が設けられている。丹念に石をつなぎ合わせた精巧なつくりで、当時の土木技術の高さを如実に表している。また石畳を横切る溝を造り、流れてきた山水を流して、石畳の流失を防ぐ排水溝(水きり)も設けられている。このような排水施設はほかに例がない特別な工法だといわれている。
排水溝 
 更に下っていくと右手に「駕籠据場」が復元されている。この石畳の急坂を駕籠を担いで登るのはかなりの重労働だったため、峠の途中のこの駕籠据場で休息をとるために設けられたものだ。
駕籠据場
 「参勤交代道の桧」が左手に立っており、阿蘇町指定天然記念物に指定されている。大きな木だ。その後ろに観音堂が建立されており、また、その横に「坂下御茶屋跡」が復元されている。
参勤交代道の桧
 石橋がある。石畳左側の谷水を右下へ流す自然石の小石橋で、石材は安山岩ということだ。石畳道で橋はここだけである。
石橋 
 「坂ノ下お客屋跡」の案内板が右側に立っている。ここは旅人の休憩所といわれており、敷地の道を挟んだ前には石垣が残っている。
 左手に菅原神社がある。ここから右折する道があるが、そのまま直進する。その先で町道に合流するので、これを左折して進む。
菅原神社 
 二股に分かれるところがあるが、「内牧温泉」「的石御茶屋跡(史跡)」という標識が立っているので、それに従って右斜めに進む。
内牧分岐表示 
 その先左手に「めぐすり石」がある。大きな石で伝説によると石の裂け目から少量の水が湧き出る事があり、その水は目の病に効くと伝えられているというとこだ。
めぐすり石 
 左手に「八里木跡」の標柱が立っている。「歴史の道報告書」によると、この場所は古老の言などによるものなので、その位置は確定的なものではないということだ。
八里木 
 その先左手に「山内抑八」の殉難の碑が立っている。この地の人だった山内抑八が西南戦争で死亡したので供養しているということだ。
 的石御茶屋跡に着く。ここでカウントする。
 11時46分、的石宿本陣跡を通る。
 大津宿から5時間11分、15.8km。
 熊本城を出発し大津で第一夜を過ごした藩主一行は二重峠で休憩した後、この的石御茶屋で昼食を摂られ、次の宿泊地である内牧へ向かった。的石茶屋は元禄10年(1697)に小糸次右衛門忠経の屋敷を御茶屋と定められ、代々御茶屋番を勤めたが明治5年の廃藩置県により御茶屋を廃止し、そのまま小糸家の住居となり、現在に及んでいる。外観は改修されているが、間取り、庭園等は当時の様式をほとんどそのまま残しているということで、見事な庭が広がっている。
的石本陣 
 邸内には小糸家の高野槙が立っており、阿蘇伏流水が流れていて「くまもと名水百選」に選ばれているということだ。
 庭の奥に「隼鷹天満宮」がある。ここは菅原神社ともいうが、肥後第4代藩主細川綱利が参勤交代のため船で東上の折、海上で天候が悪化し、激しい波に船が呑まれようとしたとき、一羽の白鷹がどこからともなく船柱に飛んできた。すると怒涛はたちまち鎮まり、つつがなく渡航を終えることができた。藩主はその夜、宿で霊鷹は的石天満宮の現化との夢をみて、その霊験あらたかなるを感じ、京都で社殿の建立を命じたという言い伝えがあるそうだ。享保元年(1716)に国主が奉納された絵馬と天保13年(1842)に細川斎護公が奉納された鶴の額が神殿に収蔵されている。写真に撮ったが、うまく写っていなかった。
隼鷹天満宮 
 左手街道から少し入ったところに「的石」がある。阿蘇の開拓神健磐龍命が北外輪山の麓にあるこの石を的にして矢を射ていた。矢が当たった勢いで磐がくるりと回ったと言われており、穴は北側を向いている。ここは阿蘇七鼻八石の一つとされている。またここには「健磐龍命が家来の鬼八法師を連れて的石に向かって弓の練習をしていた。鬼八は放たれた矢を取りに行ったが、99本までは命に捧げたが、走りに走って疲れ果て、100本目の矢を足の指に挟んで投げ返した。怒った命は鬼八の首を切り落としてしまった。以後鬼八の因縁からか地域には霜の害が相次ぐことになった」という伝説が残っているそうだ。
的石 
 149号線を歩いていくと、左手に「産神社」があり、境内には杉の大木が立っている。ここの創建はおよそ2百年前、細川藩士三淵永次郎が祖先からの鎮守として建立したと伝えられており、社殿には豊玉毘売を象ったとされる女性の形をした御神体が祀られている。以前は社殿の両脇から豊富な湧水があり、西側の水源からは数十年ごとに乳白色の水が湧くことから産婦の乳もらい、子育て、安産、縁結び等にご利益があると伝えられている。神社の前の橋は架け替えられていたが以前架かっていた眼鏡橋産土橋に使われた石が右手に現在でも残っていた。
産神社 
 このあたりは右手に阿蘇五山が見えてとても眺めがいい場所だ。
阿蘇五山 
 九里木跡が右手に立っている。
九里木 
 その先、尾ヶ石郵便局を過ぎ、徳仏川に架かる第四宇土橋を渡って進むと、左手に「歴史の道 豊後街道」の青い標識があり、入口には柵がしてある。車の進入を禁止しているためのようなので、左折して柵を越えて中へ入っていく。
旧道入口 
 ここからの道は最近整備されたようできれいな道が続いている。
木漏れ日旧道 
 「工具痕跡の残る石」がある。これは保存整備の工事中に地中より出土したもので、石には「矢」と呼ばれる工具を当て、切断等の加工を施した跡が残っていると説明されている。
工具痕石 
 「石橋跡の石組遺構」がある。この石組は石橋の基礎部分で当時を語る貴重な遺構として現状保存がされている。
石組み石橋 
 その先で道は川に下りて、川底を渡るようになっている。幸い水が流れていないので渡ることができたが、雨が降った後などで水が流れていると橋がないので渡るのは大変だろう。
川底道路 
 その先左手に「亀石 男亀石」がある。阿蘇七鼻八石・四十八石に数えられる夫婦亀石の男亀石であると説明されている。
男亀石 
 更にその先右手に今度は「女亀石」がある。
 「五高阿蘇道場跡」の碑が立っている。阿蘇道場は第五高等学校の生徒自治会の発案と努力によって昭和15年に作られた山小屋で建設には卒業生が資金と技術面で協力し、在校の教職員や生徒が地元から無償提供された土地を整地するなどして作ったという。学制改革により、熊本大学の阿蘇研修所になっていたが、平成4年に解体されたという。丁度ここに家を建てて住んでおられる方がいたのでお話をお伺いすると、当時教職員や学生が手作りで作ったという石垣を案内していただいた。街道からは見えない場所にあったので、いい見物ができた。
五高寮跡 
 その先で道は二股に分かれているがここは直進して進む。道幅はここから急に狭くなる。
 「山の神」がある。これは家畜の安全を祈願する観音様という案内板が立っていた。
山ノ神 
 「切通地蔵」がある。豊後街道を通ってお伊勢詣りに行く人をこの地蔵の場所まで見送りをした。皆を振り返った場所なので、そう呼ばれていると案内板に書かれていた。
切通地蔵 
 山の中からの出口に「豊後街道」の標柱が立っており、そこから下っていくと、県道に出る。折戸のバス停があるので、ここを左折して進んでいくと左手に「御前水」の標柱が立っている。御前水は内牧御茶屋の用水に使用され、今も良質の水が沸いている。その先花原川に架かる花原橋を渡って進む。
 左手に「菅原神社」がある。ここの境内には阿蘇町の天然記念物に指定されているタブの大木が立っている。ここは永禄年間に内牧城内に勧請され、明治23年に再建されたようだが、由緒を書いた文字が消えかけていて、判読できない部分が多かった。
菅原神社大木 
 その先、三叉路を右へ進むと、左手に「十里木の址」碑が立っている。
十里木 
 そのすぐ先の十字路を左折して進み、内牧の中心街に入っていく。コンビニがあったので弁当を買おうか迷ったが、その先に食堂があるようだったので、そのまま進む。
 左手に「下町火除碑」が立っている。内牧は文政5年(1822)、6年(1823)の火事で町全体が焼け、更に正保、文化年間にも火事が相次いだので、町内に空き地を設け火除けの碑を立てたということだ。
下町火除け 
 突き当たりにショッピングセンターがあるが、ここは閉店してしまっていた。 
 その左横に体育館がありここが内牧御茶屋跡だ。ただ遺構は全く残っていない。ここでカウントする。
 14時22分、内牧宿を通る。
 的石宿から2時間36分、6.7km。

 昼を大分過ぎているので昼食にしようと思ったが、当てにしていたショッピングセンターは閉店している。その前から右へ街道は進むのだが、そこに食堂があったのでそこに行ってみると、張り紙がしてあり、3月31日で閉店したと書かれている。なんと、昨日で閉店!これは困ったぞ。先ほどのコンビニまで戻るのはいやだなぁ。どこかに店はないかと思って近くの商店に入って聞いてみると、この先の街道沿いにラーメン屋があるとのこと。ただ時間が昼を大分過ぎているので、一旦閉まったかもしれないといわれる。とにかく行ってみようと思い、その先で左折して歩いていくと幸いにして店はまだ開いていたので、入って昼食にする。ヤレヤレだ。
 無事食事を済ませて、進むと左手、少し入ったところに空き地があり、そこに「内牧手永会所跡」の標柱が立っていた。
内牧会所  
 更にその先左手に「新町火除面碑」があり、その奥に享保3年(1618)と刻まれた「宝篋印陀羅尼之塔」が立っている。
新町火除け 
 その先で国道212号線を横切って進む。
 三宮神社が右手にある。境内に阿蘇町天然記念物に指定された公孫樹の大木が立っている。
三宮神社公孫樹 
 田園地帯を進んでいくと、右手に「十一里木の址」碑が立っている。
十一里木 
 110号線を進んでいくと「自然湧水の里 役犬原」の標柱が立っており、水が勢いよく噴出している。ペットボトルを持った男性がこの水を汲んでいる。阿蘇の溶岩にしみこんだ水はおいしいのだろう。いつものことだが、早速一杯飲んでみた。
役犬原湧き水 
 ここから右折し、街道を離れて「霜宮神社」へ行ってみることにする。看板に0.8kmと書かれているので往復1.6kmだ。ところが入口に表示はあったものの、それ以降表示がなく、迷ってしまった。それでもその途中に六地蔵があったりして、思わぬ発見があり、なんとか神社にたどり着くことができた。ここは寒霜によって五穀に被害が出ないように天の七星(北斗信仰)を祀っている。また神社とは別敷地に「火焚殿」がある。夏が終わりに近づく8月下旬頃、ここで「火焚神事」が行われる。地域の人の中から10才前後の「火焚乙女」が選ばれ、59日間篭って火を焚きつづける。「健磐龍命によって切り落とされた「鬼八」の首を暖める」といった神事ということだ。「鬼八」は的石のところで書かれていた人物だ。
霜宮神社 
 思いがけず時間がかかってしまったが、街道に戻って歩く。左手に阿蘇清峰高校が見えている。この阿蘇清峰高校前というバス停に猿田彦と千手観音がある。
猿田彦 
 塩塚の道標がある。「阿蘇神社(自是東八丁坂梨迄一里余)」と刻まれた道標が立っており、その横に石仏が四体立っている。
塩塚道標 
 ここで道は110号線から分かれて右斜めに進んでいく。ここで道を間違えた。手持ちの地図はこのあたりはわき道に入ることが少ないので、大きな縮尺の地図を持っていたのだ。それによると、ここからほとんど直角に右折するようになっている。ところが右斜めに伸びる道は110号線と少しの間併行して伸びている。一方そのすぐ先で右折して小川に沿っている道があったので、こちらを歩いてしまったのだ。しかしこの道はすぐに行き止まりになったので、元に戻り、再度右斜めに伸びる道を直進した。
 少し先から道は右にカーブを描いて進み、やがて右手に「十二里木」の石碑が立っているところに来る。
十二里木 
 そのすぐ先で道は左に分岐して川に下り、川の中を横断する形で伸びているので、これを歩いていく。
川の中の道 
 川を渡るとすぐ先に「今宿橋」が架かっているのでこれを渡り、すぐに右折して進む。
 その先、国道57号線に出る手前に十字路があり、ここを左折して進み、その先で国道57号線に合流、すぐ先にあるJR宮地駅で今日は終わる。

 17時22分、宮地駅に着く。

 本日の歩行時間   9時間36分
 本日の歩数&距離  52455歩、34.6km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん