秋月街道を歩く

2009年02月26日(木) ~2009年03月10日(火)
総歩数:179791歩 総距離:114.5km

2009年02月28日(土)

呼野~金辺峠~採銅所~香春~田川後藤寺

                                   晴れ
 呼野駅に7時32分に着き、歩き始める。前方の山は日本有数のカルスト台地である平尾台で、ここの石灰石を原料とするセメント工場があるため山肌は大きく削られている。
呼野駅 
 旧322号線(旧国道)に沿って歩いていくと、左手呼野公民館前に「里程標」が立っている。昔はこの先にあるお糸地蔵堂の前の高札場にあったのだが、現在地に移設されたそうで「従是小倉迄三里弐拾四町」「従是大里迄四里弐拾七町」「従是採銅所迄壱里拾四町」と刻まれている。
呼野里程標 
 そのすぐ先、右手に「お糸地蔵堂」があるのだが、丁度建て替え中で枠踏みだけが建っていた。
 昔、旱魃で餓死者が出たため、村人が協力して平尾台の麓に水を溜めようと堤を作ったが、大雨で流されてしまった。そのため、村人の中から堤防の流失を防ぐために人柱を立てる話が出て、16歳だったお糸が人柱になった。その後いくら大雨が降っても堤防が崩壊することがなくなり、日照りでも枯れることもなく現在に至っており、村人はお糸は地蔵の化身だといって、地蔵堂を建てて霊を祀ったということだ。
お糸地蔵 
 右手に円龍寺の参道があるが、その先はJRの線路になっており、横断禁止の札が立っていたので、渡らずこちら側から写真を撮る。この参道の右横が昔の「城井屋」という藩政時代の御茶屋跡で、山頭火が宿泊したところでもある。表札を見ると現在でも城井という名前になっていた。
円龍寺 
 ここでカウントする。
 7時44分、呼野宿を通る。
 小倉から4時間53分、17.3km。
 このすぐ先右手に「大山祇神社」がある。和銅年間(708~715)、ここで銅鉱の採掘を行うに際し、霊夢の神記により、鉱山守護の神として創建されたものだ。天平宝字八年(764)には従五位下佐味朝臣伊与麿の豊前の寺となり、もっぱら銅鉱及び金鉱の試掘を行い、更に元慶2年(878)には、宇佐神宮の神鏡を鋳造するため、この地の銅を掘らせた。慶長年間(1596~1615)には細川忠興により鉱山採掘が盛んになったため、境内を拡張し、社殿を造営したという古い神社だ。境内には地表5mのところから4本の大枝に分かれている大きなイチョウの木があり、福岡県の天然記念物に指定されている。
大山祇神社 
 ここから道は少し上り坂になり、その先でJRの狭いガード下を通って進むと右手に「大泉寺」がある。ここは寛永5年(1628)に小倉城主細川忠興が呼野で金を採掘する際の鎮護のために創建されたもので、この寺はお糸地蔵の菩提寺であり、お糸の両親の墓もある。 この寺の山門への通路は鍵型になっており、防禦的で、小倉藩家老島村志津磨が金辺峠の防禦陣地に向かう前に休憩したと伝えられている。
大泉寺 
 大泉寺から旧国道を約300mほど行くと上呼野のバス停があり、その先で左斜めに旧道が伸びているのでこれを歩く。
上呼野分岐 
 前方に丸山隧道がある前の金辺踏切でJR日田彦山線の踏切を渡って進む。このあたりに集落があるが、ここを過ぎると山の中に入っていく。
 左手に「日本磁力選鉱吉原鉱山記念碑」が立っている。
吉原鉱山記念碑 
 赤レンガでできている跨線橋を渡り、道は右にカーブしているのでこれに沿って歩いていくと国道に出た。資料によるとこのあたりは旧道が失われていると書かれていたので、そのまま国道を歩いていこうかと思ったが、跨線橋を渡った左手あたりになんとなく旧道の雰囲気があったので、そこまで戻って入ってみた。
金辺峠入口 
 道は全く失われていたが、この時期なので草が枯れており、なんとか歩くことができる。ただ、最近の雨で地面は濡れていて滑るし、草木は昨夜の雨滴がまだ残っていて全身びっしょり濡れてしまった。横に小川が流れていたので、それに沿って坂を上って行くと前方でなにや音が聞こえ、やがて重機が見えてきた。
 そこまでたどり着くと、きれいに整地された道ができている。おじさんが一人おられたので、金辺峠への道を聞くとこの道を上っていけばいいといわれた。秋月街道の旧道を出来る限り忠実に歩きたいのだというと、あの坂を上ってきたのかと驚いていたが、確かに昔は今私が通ってきた所に道があったということだった。整地されているこの場所は廃土処分場ということだった。
 そこから上って行くとまもなく土道に合流したので、これに沿って上っていくと、左手に小屋があり、その横から左に道が分岐していた。ここはそのまま直進するとトンネルがあったので、これを通っていった。このトンネルは金邊隧道で今は使われていないようだ。水滴が天井から盛んに落ちてくる。出口まで来ると、そこは一面の水溜りになっている。困ったが迂回することもできないので、一番隅の少しでも水が浅いところを選んで何とか通り抜けた。出てみるとなんとそこに進入禁止の看板が立っているではないか。入口側には何も立っていなかったので分からなかったが、使われていないようだと思ったはずだ。出口のすぐ横左手に上から下ってくる道がある。
 下ってくるということはこの上に金辺峠の頂上があるはずだと思って、坂を上ってみると、すぐ先に頂上があり、そこに「井戸跡」がある。昔旅人はこの井戸で喉を潤していたのだろう。
金辺峠井戸 
 またその先に「島村志津磨頌徳碑」が立っている。島村志津磨は25歳で小倉藩の筆頭家老に就任し、慶応2年(1866)に始まる小倉戦争においては金辺峠を死守した。後、奥羽出兵や香春から豊津への藩都の建設や学校新設、鉱山経営などに努め、その手腕を発揮した人物だ。明治9年に病没したが、明治19年に士民が志津磨を追慕して碑を建立したという。
島村志津磨碑 
 金辺峠は古くは藤原廣嗣の乱の際登場する田河道で、中世期には戦乱の道、近世では八丁峠とともに秋月街道の難所の一つで参勤交代や幕府巡見使の道となり、人の往来、物資の流通はこの金辺峠を通過せざるを得ないため、穀類の移動を取り締まる関所や茶店があったということだ。
 頂上にきてみると下から道がついている。この道が旧道なのだろうと思って、ここから逆に下ってみたが、ちょうど峠のすぐ下に大きな木が遮断機のように倒れており、その下をかいくぐって下っていった。そうすると、先ほど見た小屋の横に出た。この小屋から左折して峠を登るのが旧道だったのだ。
金辺峠倒木 
 再びその道を登って峠まで戻ってみたが、頂上に着く直前で二股に分かれており、そこに「竜ヶ鼻登山口」と書かれた標識が立っていて、ここを右に登って行くと頂上だ。
金辺峠分岐 
 そのまま道を下っていると、途中で右手から草道が合流している。
 いかにも旧道の雰囲気があるので、そこからまた逆に登ってみると、トンネルの出口と峠から下ってきた道の交点近くに出た。トンネルからでてくると右折する形になるのだが、最初トンネルから出てきたとき、左側の下ってくる道にばかり気をとられていたので気がつかなかったのだ。
金辺峠旧道入口 
 もう一度この草道を通って先ほどの道に合流して下っていくと、322号線に突き当たり、金辺峠の信号を横断して322号線から分岐している旧国道を進む。
 旧国道から少し右手に入った所に枯れた松の大きな切り株があり、その周囲に庚申塔や墓標が立っている。歴史の道調査報告書によると、「堂の前の庚申塔」となっており、古宮八幡神社の神幸行事で古くは神輿がこの場所まできていたと書かれている。
堂の前庚申塔 
 ここから再び旧国道に合流する。
 その少し先、やはり右手に「谷口の庚申塔」がある。大きな字で「庚申」と刻まれている。
谷口庚申塔 
 この先で旧国道はJR日田彦山線を跨いで進むが、資料では線路沿いに進むようになっていて、その道がどこにあるのか分からなかった。線路を跨ぐ前で右斜めに進む道があったので、この道かなと思っていってみたが、途中で行き止まりになっており引き返す。分岐するところに旧国道と併行して草道があったのでこれを歩いていき、線路に沿って進んだが、線路際というより線路の中といってもおかしくない道だったので、この道ではなかったのかもしれない。それでもそのまま進んでいっていると前方に踏切が見えたところで踏切の警報機が鳴り出した。列車がきたのだ。これはヤバイと思って線路伝いに走って電車が来る前に山上踏切に到達し、ここから左折して旧国道に合流して進んだ。後で秋月街道ネットワークの会編「秋月街道をゆく」を読み直してみると「街道は日田彦山線陸橋から西側の線路に沿って観音踏切に続き・・」と書かれており、私が渡ったのは山上踏切なのでちがっているようだ。結局このあたりの道はどの道が旧道なのかわからなかった。
 観音口橋の信号で旧国道は322号線と合流しているが、このあたりも地図ではよく分からなかったので、とりあえず橋を渡ってみたが右折する道がなかったので、橋の袂まで戻って、川に沿って伸びている道を進んでいく。
 右手に神社がある。名前が分からなかったが、資料に載っている「天矢天照皇太神宮」なのだろう。
 その先で322号線を横断して進むと「古宮八幡宮」がある。ここは延喜式神名帳に収録された豊比咩命神社の本社であり、最初の鎮座地は香春三ノ岳阿曽隈だ。香春神社は和銅2年(709)阿曽隈を勧請して香春岳三神を祀る神社として新しく創建されたため、香春神社の新宮に対し、古宮大神と称するようになったという。養老4年(720)宇佐八幡社の託宣で三ノ岳麓の杉谷で金銅を掘り出し、宇佐八幡宮の御正躰の御宝鏡を鋳造して神幸行事を行うようになった。永禄4年(1561)大友義鎮氏と香春岳城主の合戦で社殿、宝庫を焼失、慶長4年(1599)旧社地より現在地に移御する。現在の社殿は安政4年(1857)に再建されている。
古宮神社 
 ここで写真を撮っていると、突然後ろから煙のようなものが漂ってきた。誰もいない境内なので焚き火をしているはずがない。何だ!これは!神様がお出ましになったのかな?と思って振り返ってみると、杉の木があり、その枝にびっしり花粉がついている。そこに私の背中が触れたようで、その反動で花粉が飛び散ったのだ。ただでさえ花粉症に悩まされている身にとって、これは困ったことになったぞと思った。そしてこの後その影響が出てきて大変だった。
 古宮神社の横に採銅所の里程標があり、「従是香春迄壱里」「従是呼野迄壱里四町」と刻まれている。
採銅所里程標 
 またそのすぐ横に「採銅所村役場跡地」の石碑が立っている。このあたりが旧採銅所宿の跡なので、ここでカウントする。
 10時32分、採銅所宿を通る。
 呼野宿から2時間48分、5.7km。
 街道の面影を残す採銅所宿を歩いていき、右手に採銅所小学校を見ながら進むと、清祀殿への案内板が立っているので、それに従ってJRの線路を長光踏切で越えて進むと「清祀殿」がある。「清祀」とは中国語で「清いまつりごとをする荘厳な家屋」という意味があり、この場所で宇佐神宮に奉納した御神鏡を鋳造していたということだ。奉納行事の最初は養老4年(720)といわれており、以後4年から6年毎などと変化しながら八十余度行われてきたようだが、中御門天皇享保8年(1723)に実行したという記録があり、これを最後に長光地区での御神鏡鋳造は廃絶したと推察されているということだ。
清祀殿 
 清祀殿背後上段左手に花崗岩の自然石が三基立っており、これが鋳造が無事終わった鏡を神宿殿で安置するのに使用した「御床石」で鋳造遺跡を今に伝える唯一の文化遺産とされている。
御床石 
 このあたりには「駅長おすすめのJR九州ウォーキング開催中」という旗や道筋を示す矢印が立っており、それも歩く上で参考になった。
JR九州ウォーキング 
 右手に阿曽隈社入口の看板が立っているが、その前に出入りできないように鎖の柵がしてある。ご近所の方がおられたので、入っていいのかお聞きすると、かまわないということだったので、そのまま進んでいくとJRの小さなガード下を通って坂道を上って行くきれいな道がついている。
阿曽隈社入口 
 その先でもう一度柵がしてあり、工事関係者以外立入禁止という香春太平洋セメントの看板が立っていた。ただ阿曽隈社への案内板も同じ道に沿って立っているので、そのまま進んでいくと、道が左にカーブするところから分岐して山の中へ入っていく道があり、そこにも阿曽隈社まで50mという看板が立っていた。
阿曽隈立ち入り禁止 
 阿曽隈社は森の中にあった。古宮八幡宮の主祭神である豊比咩命は当初、この阿曽隈社に鎮座していたが、その後古宮八幡神社に遷座したということだ。
阿曽隈社 
 街道に戻って進むと322号線に合流するところ右手に「古宮八幡宮御手洗池跡」の碑が立っていた。
古宮八幡御手洗池跡碑 
 ここで金辺川に架かる宮原橋を渡るとその袂のところに宮原橋の庚申塔が立っていた。このあたりの道が分かりにくかったので、香春町の教育委員会の方に電話を入れて確認したのだが、橋を渡らずに進む道と橋を渡って進む道の両方があったようだということだった。ただ橋を渡ったところに庚申塔(猿田彦大神)があるということは街道だった証明にもなるのではないかと思ってそのまま川沿いに歩いていった。
宮原橋庚申塔 
 JR九州の矢印もこの道についていた。ただ、322号線の西側に旧道が残っているということも教育委員会の方がいわれていたので、それも注意しながら歩いていった。川とJRの線路の西側にトンネルが見える。資料にある宮原けやき坂煉瓦架橋があれではないかと思ったが、そこに行くためには宮原橋を渡らずに進むしかないので、とりあえず川に沿って歩いていった。最初にある橋で川向こうに渡って左折、JR線路の高架下を通って進んでいったが、右手322号線の向こうに窯元らしい煙突が見えた。教育委員会の方が窯元があり、そこから旧道が山の中に残っているということを言われていたので、急遽田んぼのあぜ道を通って322号線に出て、窯元のところまで戻ってみた。
 窯元の手前に八犬龍王院があり、そこに梯子が作られており、そこから山の中へ入っていく道があった。これが旧道のようだったので、ここを歩いていく。
旧道階段
 その先の神宮院バス停のところから街道を離れて右へ入っていくと庚申塔が立っており、そこから右手へ行くと「高座石寺」がある。ここは最澄の創建による香春社神宮寺六坊の一つで天正年間(1573~1592)に曹洞宗の光翁(長)龍が石上において座禅を行い読経したことから、人々はこれを開山と称した。享保6年(1721)に神宮院から現在の場所に移り、山号を牛頭山、寺号を高座石寺と改称した。境内の岩の上には数多くの石仏が座られており、「そこもここも岩の上には仏さま」という山頭火の歌が刻まれていた。
高座石寺地蔵 
 境内に池があり、その奥に「細川幽斎公菩提之塔」があり、その横には茶色の幹のバクチの木が立っていた。
細川幽斎菩提の塔 
 ここから坂を上ったところに「神宮院」がある。延暦22年(803)最澄の入唐に際し、宇佐八幡宮と香春神社に詣で、、帰朝した後の弘仁5年(814)再び香春神社において神恩報謝のために神宮寺を建立したとされている。その後兵乱にかかったが、享保6年(1721)小笠原忠雄が高座石寺を下所に移し、神宮院を建立したということだ。
神宮院梵字岩
 境内には福岡県天然記念物に指定された推定樹齢800年という大銀杏があり、また石割枇杷がある。
石割枇杷 
更に岩に梵字が刻まれた梵字石や座禅石等の巨岩がある。
 街道に戻り322号線に接したところから右斜めに伸びる旧道を歩いていくと右手に「須佐神社」がある。ここは元応元年(1320)仲津郡今井祇園社(須佐神社)から勧請し、清瀬川の辺に創建された。その後兵火で焼失したが、永禄9年(1566)に再建、元亀2年(1571)に社を鏡山諸興原の西に移し、明治6年に当社の従来の神幸場であった鬼ヶ城に移転したとされている。
須佐神社 
 その先右手に「本町の里程標」が立っている。旧採銅所宿から続く東の追分にあたり、ここを「道標の辻」、「上の辻の道標」と呼んでいる。「従是上野迄弐里拾弐町」「従是猪膝迄弐里四町」「従是久保新町迄壱里」「従是採銅所迄壱里」と刻まれている。
本町里程標 
 「田川郡役所跡」「香春町役場跡」という真新しい碑が右側に立っており、そのすぐ先に「御茶屋香春藩庁跡」碑が立っている。
御茶屋香春藩庁跡碑 
 ここでカウントする。
 12時51分、香春宿御茶屋跡を通る。
 採銅所宿から2時間19分、4.8km。
 その先、突き当りを右折して進むと、右手に「西念寺」がある。門の前に西念寺と書かれた碑が立っており、亀趺碑になっている。山陽道を歩いた際、山口で何ヶ所か亀趺碑を見たが九州では初めてだ。
西念寺 
 ここから左折して進むと右手に「元光願寺の大樟」が立っている。樹齢約800年、樹高42m、胸高周り9.2m、枝張り東西29m、南北20mという大木だ。ここは古くは天台止観の道場であったが、その後無住となっていた。享保元年(1716)に光願寺と改称され、江戸期にはここで宗門改めがおこなわれていたということだ。
元光願寺樟 
 このすぐ横に並んで「伊能忠敬測量止宿之地」の碑が立っている。文化9年(1812)7月13日に忠敬は彦山を出発して香春に入ったと案内板に書かれている。
伊能忠敬止宿跡 
 左手に香春小学校を見ながら進んだところで、川の向こう側にファミレスが見えたのでそこで昼食を取る事にする。じつはこのころには先ほど被った花粉の影響なのだろう、目がかゆくてたまらない状態になっており、とにかく目を洗いたかった。ファミレスに入って食事をして出るまでに4回、顔や目を洗ってしまった。花粉症用の目薬を持参してこなかったことを悔やんだが、後の祭りだった。
 街道に戻っていくと右手に天理教の教会があり、その先から右折して進むと右手に「香春神社」がある。祭神は辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命で、辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡り、崇神天皇の御代に帰国、香春岳の第一岳に、忍骨命は天照大神の第一子として荒磯は第二岳、豊比咩命は三岳に鎮まり香春三所大明神と称した。
香春神社
 元明天皇の和銅2年(709)に一ノ岳南麓に一社を築き、三神を新宮に合祀した。豊比咩命は三岳の麓の阿曽隈に祀られていたが、日置約子という人が阿曽隈を崇め、新宮に勧請した。後に採銅所古宮八幡宮に祀られている。境内には1939年に上部から落石したという「山王石」という大きな岩がある。
山王石
 「新町の里程標」が立っている。「従是西上野兎通筑前道」「従是南猪膝通筑前道」と刻まれている。
新町里程標 
 これを右に見ながら旧国道を横断して進むと322号線の下香春の信号の横に出るので、これを横断して進む。
 田んぼの中に碁盤目のように土道が走っており、二本目の土道を右折して進み、その先の三番目の交点から左折して進む。萩原橋を渡ってすぐ先を右折、その先の突き当たり、糸飛公民館の前から左折、坂を上って行く。やがて糸飛口の信号で322号線に合流し、これに沿って歩いていく。
 その先、川を渡ったところで旧道は右折するようだが、その先で道は失われているようなので、そのまま322号線を進み、東町の信号から右斜めに伸びる旧道に入る。この旧道も短く、すぐ先の鉄砲町の信号で322線に合流、少し322号線を歩いた後、左斜めに伸びる旧道に入って進む。
 やがて彦山川に架かる番田橋にでる。ここは「番田の渡り」があったところで、伊能忠敬の「測量日記」に「伊田川(彦山川)仮橋二十間」と書かれているのが、この「番田の渡し」と思われるということだ。
番田橋 
 その先で街道を離れ、左手に進むと「風治八幡神社」がある。ここには筑紫から穴門の豊浦へ向かう途中の神功皇后が風雨を鎮めるためにそばにあった大石に座して祈祷を行った「腰掛石」が境内にある。
腰掛石 
 また、永禄年間(1558~1570)にこのあたりで疫病が流行ったため、人々は風治八幡神社に願を掛け、そのお礼として神幸祭を奉納するようになったと伝えられ、明治28年には彦山川の対岸に御旅所(武徳殿)が設けられ、川を渡るという川渡神幸行事が行われるようになった。現在は5月第三日曜日とその前日に行われており、大勢の見物人で賑わっている。
風治八幡 
 街道に戻って進むと平成筑豊鉄道と日田彦山線があるのでこれを越えて進むと右斜めに僅かの距離の旧道があり、その先で再び合流、更にその先で二股に分かれているところがあり、ここを右斜めに進む。
 右手に「定林寺」がある。ここは寛文4年(1664)に創建されたが、明治維新以後檀家が減少し、明治23年小倉の大満寺に合併の議が起こったため、猪位金村安養寺の住職大園瑞円が弓削田村の有志と明治33年に現在の地に満園寺と称して再興し、後定林寺と改めた。境内にはお地蔵様が祀られており、毎年地蔵盆には賑わいをみせているということだ。
定林寺 
 左手に田川後藤寺駅を見ながらガード下を通って進み、細い道の二本目を右折して進み、突き当りを左折、その先の信号で322号線を横断して進む。このあたりは細い道で分かりにくく、友末寺があり、その横に「こづきの地蔵」があると資料に書かれていたが、分からなかった。信号を横断して二つ目の細い道を左折すると、95号線に出、それを横断して進む。
 最初の角を左折、すぐ次ぎの角を右折して進むと左手に後藤寺郵便局がある。そのまま直進し、突き当りを左折すると322号線の上本町の信号になるので、これを横断して進み上本町のアーケード街が左にあるところで右折して進む。
 右手に西田川高校を見ながら進み、JR日田彦山線に架かる跨線橋を渡って進むと、左手に丸山公園があり、そこに「十二祖権現神社」がある。明和6年(1769)彦山豊前坊の山岳宗教者によって丸山の中元寺川そばに勧請され、「権現社」と呼ばれたが、水害の危険があったため、文政3年(1820)に現在地に遷されたということだ。
十二祖権現社 
 道なりに進んで行き、左前方に池尻小学校が見える突き当たりの手前で右折し、JRのガード下を通って進む。豊洲団地入口の信号を直進して進み、中元寺川に架かる三ケ瀬橋を渡ってすぐに左折、その先で322号線に合流して猪位金川に架かる新庄橋を渡り、すぐ先で左斜めに伸びる旧道に入る。
 17時近くになってきたため、とりあえず事前に調べていた322号線にあるバス停まで行ってバスの時間を調べようと思った。Googleマップではバス停の場所は分かるのだが、名前までは調べることができないので、バスの時刻を事前に調べてきていなかったのだ。それでも一時間に一本ぐらいはあるだろうと思っていたのだが、甘かった!なんと一日に二本しか通ってなく、しかも土日は運転していないのだ。これには困った。タクシーを呼ぼうにもタクシー会社の名前も電話番号も分からない。これは困ったぞ!!なにか手がかりはないかと思いながら、バスの時刻表を見ていると、その中にバス会社の連絡先の名前と電話番号が記されているのを見つけた。これでなんとか手がかりができたと思ってそこに電話をして、どこか近くにバスが通っているところはないか聞いたがないようだ。そこで申し訳ないのですが、タクシー会社の電話番号を教えてもらえないかと聞いたところ、気持ちよく教えてくれたので、早速電話をして金国というバス停まで迎えに来てもらうことにした。ヤレヤレこれでなんとか帰ることができるとホッとする。
 16時55分、金国のバス停で今日の歩きは終わる。
 その後タクシーはすぐに来てくれ、田川後藤寺の駅まで行ったが、着いてみるとJRは出たばかりで、ここでも30分以上待つことになってしまった。これほどアクセスが悪いと車がなければ生活しにくいだろうし、運転できない高齢者は大変だろうなと思った。 

本日の歩行時間  9時間23分。
本日の歩数&距離 48410歩、29.7km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん