2009年02月26日(木)
小倉~呼野
晴れ
まるで梅雨のように連日雨模様の日が続いていたが、今日は久しぶりに雨がやみ、時に薄日が差す天気になったため、急遽思い立って秋月街道を歩き始めることにした。いつもの街道歩きと違って出発は13時過ぎと遅くなってしまったが、それでも今日歩くところは土地勘もあるため、とにかく行けるところまで歩こう。
13時7分、秋月街道の出発点である小倉の常盤橋を出発する。ここは北部九州5街道(長崎街道、唐津街道、秋月街道、中津街道、門司往還)の起点になっている場所で、この地に立つのは今回で三回目だ。
紫川沿いに進み、左手にある井筒屋新館が途切れるところから左折、銀天街のアーケードに入って右折して進む。アーケードが途切れたところから右折して旦過橋を渡るが、左手に北九州の台所と言われる旦過市場がある。ここは大正時代、隣接して流れる神嶽川を昇る舟が荷を揚げ、商売を始めたことから始まったとされている。
そのすぐ先で井筒屋新館の前から真っ直ぐに伸びてきた道に合流して左折して進むと、モノレールの通りに合流するので、モノレールの線路に沿って進む。
香春口という地名が残る場所を通るが、ここは香春口門があった場所だ。その先が三萩野。1887年に三郎丸村、萩崎村、片野村、片野新町村が合併して三萩野村という地名になったということだ。
街道はこの先で直進するモノレールと分岐して左斜めへ進む国道10号線に沿って進む。以前は電車が通っていた道だ。モノレールと分岐するところのすぐ手前に左折する細い道があり、これを進むと「東岸寺」がある。ここは昔、常盤橋の東岸にあったため、この名前がついたということだが、ここに「身替地蔵尊」が祀られている。昔、小笠原家の家人夫婦がおり、妻が毎夜この地蔵様に祈願に通っていた。しかし夫は地蔵様に祈願に行くことを理由として不義を行っているのではと疑い、祈願に行った妻を切ってしまった。ところが夫が家に帰ると妻がいたので驚いて訳を聞き、確かめてみると地蔵様が身替りに切られていたという伝承が残っているということだ。このお寺は我が家の菩提寺でもある。
元に戻って10号線に沿って進み、城野の信号の先でJR日豊線のガード下を通って進み、城野三差路の信号から左斜めへ伸びる旧道に入る。左手に国立病院があり、その前、右側に「天疫神社」があるが、ここに一里塚があったということだ。ここは昔蒲生疫神坂にあったが、元和8年(1823)向田(現在の日の出町)に移り、明治13年に現在地へ移ったと説明されている。境内にはくすのきやあかまつ等の大木があり、北九州市の保存樹に指定されていた。
その先左手に陸上自衛隊小倉駐屯地があり、道路から戦車が見える。
その前右手に北九州市立大学があり、ここで322号線に合流する。このあたりを北方といい、昔から軍隊の駐屯地であり、国立病院は昔は陸軍病院だった。
右手に蒲生八幡宮の大鳥居があるところで国道10号線に合流し、上にはモノレールが走る道に沿って歩いていく。
このあたりを徳力といい、江戸時代には宿場があったということだが、現在では遺構は全く残っておらず、その雰囲気もない。左手に神理教の教会があり、その境内に道標が立っている。ちょっと分かりにくい場所で、境内に入って進むと池があり、そこに小さな橋が架かっている。これを渡ってすぐ左へいくと家があり、その横に立っていた。「従是東中津道」「従是北小倉道」「従是南田川道」と刻まれている。
その先紫川に桜橋が架かっているが、その手前で左折して進む。左手は山が迫っており、右手は川で気持ちのいい道だ。細川忠興が小倉城主になったのは慶長7年(1602)で、父の細川幽斎とともに風雅を好む武将であった。 このあたりの景色が京都の嵐山に似ていることから、細川氏は京都嵐山から桜の樹を取り寄せ、この山を中心とした一帯に移し植えたといわれている。その後この山は小嵐山と呼ばれるようになった。「豊国の嵐の山の麓川 岩越す波は桜なりけり」は細川幽斎がこの地に遊んで詠んだ歌という説明がなされている。これまでもこの道を通ったことがあるが、この説明を読んで改めて見てみると確かに嵐山の似ているように思えてくる。
川沿いに続く細い道を歩いていくが、しばらくいったところ左手に「駒繋碑」があると「歴史の道調査報告書」に書かれていたので、探したがわからない。丁度ここに住んでいる方が家から出てこられたので聞いてみたが、知らないということで、結局分からなかった。
その先で紫川と東谷川が合流するところがあり、そのまま東谷川に沿って進むと、加用橋が架かっているのでこれを渡り、すぐに左折して進む。
左手に加用公民館があり、その前に「山川式部切腹石」がある。永禄4年(1561)神田松山城、門司城、小倉城、香春岳城の各城主が大友氏に反して毛利に属したので、大友宗麟は5万3000人の軍勢で豊前に侵攻した。その頃加用には香春岳城主原田義種の支城があり、守将として山川式部が守っていたが、大友軍に攻められて敗れ、この岩の上で切腹したと伝えられている。
その先、九州自動車道の高架下で322号線に合流、その先で道は二股に分かれるが、右斜めに伸びる旧322号線(旧国道)を進む。この分かれ道付近から旧道は山手に上るのだが、今は失われていると資料に書かれており、実際に見てみたが、痕跡は全く残っていないようだったので、そのまま旧国道を進んでいく。
左手に「豊前刀鍛刀場跡」がある。日本刀創世期、豊前では源義朝の刀、源家重代の藩録を作った長円をはじめ神息定秀正垣という傑出した刀工が出ていた。江戸時代に入り、寛文年間(1661~1673)に紀友行、宝永年間(1704~1711)に紀政平という刀工が出ているが、小倉小笠原藩最後のお抱え鍛冶である紀政広の弟子、政行、政次が刀工として最も名高い。昭和9年父子合作の刀が常展に入賞したのをはじめ、数々の栄誉を受け、日本有数の刀匠としてその名を成した。政次が常に信条とした「鉄は生きている」は備前伝晒鍛の秘法に通じるものだったが、彼の死とともにこの秘法も消えてしまったと説明されている。
そのすぐ横から左斜めに旧道が伸びているのでこれを歩くが、すぐに旧国道に合流する。
石原町公民館前の信号の右手に公民館があり、その裏に「天疫神社」がある。ここは由緒は不明だが、疫病を取り除くために勧請したと伝えられており、明治初期の企救一揆の話し合いをした神社として有名ということだ。
そのすぐ先、右側に「大応寺」があり、その入口に「石原町の里程標」が立っている。これには片面に「従是小倉迄弐里弐拾□町」「従是大里迄参里弐拾五町」、もう一面には「従是呼野迄壱里弐町」と刻まれている。これは昭和30年頃には既に三つに折れていたが、セメントでつないでもとの所に建っていた。昭和50年頃に再び倒れて四つに折れ、その上頭部を持ち去られたので、当時の大応寺住職が保管をし平成13年に現在の位置に復元されたということだ。
大応寺は天正7年(1579)に建立され、本尊は阿弥陀如来だ。地蔵堂があり、「お乳の地蔵さん」と呼ばれている。お乳が出ない人は米や供え物を持って、「どうかお乳をお授けください」と詣り、供えたお米の半分を持ち帰り、おかゆにして食べていた。また、お乳がいらなくなれば、次に必要になるときまで地蔵に預かっていただくように、お礼参りをする人もいたとされている。
右手に明照寺があり、その先で右斜めに進む旧道が残っている。道路に面したところにガソリンスタンドがあったようだが、今では廃業しているらしく、社屋のみが残っていた。この旧道も短くすぐに旧国道に合流する。
右手に「法円寺」があり、その入口に森鴎外の筆による山家秋太郎(旧東谷村長)と子息山家徳象の記念碑が立っている。また、ここには福岡県の有形文化財に指定された梵鐘がある。これは永徳元年(1381)の作で以前大分県国東半島の田原の別府にある盛福寺にあったが、明治10年に法円寺に寄進されたものという説明がなされていた。
その先で旧国道から左斜めに分岐、木下踏切でJR日田彦山線を渡って進み、線路に併行して歩いていく。その先でJRのガードをくぐってきた旧国道を横断して、線路に沿って歩いていくと、右手にガードがあるので、ここから街道を離れて線路の西側に進んでいくと「小野田屋敷跡」がある。
ここは中世の豪族だった小野田種尚の墓や本宅入口の門の石垣等があり、大きな木が数本立っているが、標識もなく分かりにくい。幸いご近所の方がおられたのでお聞きして場所がわかった。ご近所の方は小野田城跡と言われていた。
街道に戻って進むと一旦322号線に合流するが、その先で再び旧国道に分岐する。その先で左に分岐する道があり、街道を離れて左へ進んでいくと、322号線に市丸東の信号があり、これを横断していくと「大清水神社」がある。ここは古くは官社で、大宰府から年ごとに六月の晦日に幣を奉っていたという。霊泉が湧いており、その市があったことから市丸という地名になったということだ。
街道に戻り旧国道を進んでいくと、17時48分、呼野駅があったので今日はここまでとし、ここからJRで帰途に着く。
本日の歩行時間 4時間41分。
本日の歩数&距離 29251歩、20.4km.
まるで梅雨のように連日雨模様の日が続いていたが、今日は久しぶりに雨がやみ、時に薄日が差す天気になったため、急遽思い立って秋月街道を歩き始めることにした。いつもの街道歩きと違って出発は13時過ぎと遅くなってしまったが、それでも今日歩くところは土地勘もあるため、とにかく行けるところまで歩こう。
13時7分、秋月街道の出発点である小倉の常盤橋を出発する。ここは北部九州5街道(長崎街道、唐津街道、秋月街道、中津街道、門司往還)の起点になっている場所で、この地に立つのは今回で三回目だ。
紫川沿いに進み、左手にある井筒屋新館が途切れるところから左折、銀天街のアーケードに入って右折して進む。アーケードが途切れたところから右折して旦過橋を渡るが、左手に北九州の台所と言われる旦過市場がある。ここは大正時代、隣接して流れる神嶽川を昇る舟が荷を揚げ、商売を始めたことから始まったとされている。
そのすぐ先で井筒屋新館の前から真っ直ぐに伸びてきた道に合流して左折して進むと、モノレールの通りに合流するので、モノレールの線路に沿って進む。
香春口という地名が残る場所を通るが、ここは香春口門があった場所だ。その先が三萩野。1887年に三郎丸村、萩崎村、片野村、片野新町村が合併して三萩野村という地名になったということだ。
街道はこの先で直進するモノレールと分岐して左斜めへ進む国道10号線に沿って進む。以前は電車が通っていた道だ。モノレールと分岐するところのすぐ手前に左折する細い道があり、これを進むと「東岸寺」がある。ここは昔、常盤橋の東岸にあったため、この名前がついたということだが、ここに「身替地蔵尊」が祀られている。昔、小笠原家の家人夫婦がおり、妻が毎夜この地蔵様に祈願に通っていた。しかし夫は地蔵様に祈願に行くことを理由として不義を行っているのではと疑い、祈願に行った妻を切ってしまった。ところが夫が家に帰ると妻がいたので驚いて訳を聞き、確かめてみると地蔵様が身替りに切られていたという伝承が残っているということだ。このお寺は我が家の菩提寺でもある。
元に戻って10号線に沿って進み、城野の信号の先でJR日豊線のガード下を通って進み、城野三差路の信号から左斜めへ伸びる旧道に入る。左手に国立病院があり、その前、右側に「天疫神社」があるが、ここに一里塚があったということだ。ここは昔蒲生疫神坂にあったが、元和8年(1823)向田(現在の日の出町)に移り、明治13年に現在地へ移ったと説明されている。境内にはくすのきやあかまつ等の大木があり、北九州市の保存樹に指定されていた。
その先左手に陸上自衛隊小倉駐屯地があり、道路から戦車が見える。
その前右手に北九州市立大学があり、ここで322号線に合流する。このあたりを北方といい、昔から軍隊の駐屯地であり、国立病院は昔は陸軍病院だった。
右手に蒲生八幡宮の大鳥居があるところで国道10号線に合流し、上にはモノレールが走る道に沿って歩いていく。
このあたりを徳力といい、江戸時代には宿場があったということだが、現在では遺構は全く残っておらず、その雰囲気もない。左手に神理教の教会があり、その境内に道標が立っている。ちょっと分かりにくい場所で、境内に入って進むと池があり、そこに小さな橋が架かっている。これを渡ってすぐ左へいくと家があり、その横に立っていた。「従是東中津道」「従是北小倉道」「従是南田川道」と刻まれている。
その先紫川に桜橋が架かっているが、その手前で左折して進む。左手は山が迫っており、右手は川で気持ちのいい道だ。細川忠興が小倉城主になったのは慶長7年(1602)で、父の細川幽斎とともに風雅を好む武将であった。 このあたりの景色が京都の嵐山に似ていることから、細川氏は京都嵐山から桜の樹を取り寄せ、この山を中心とした一帯に移し植えたといわれている。その後この山は小嵐山と呼ばれるようになった。「豊国の嵐の山の麓川 岩越す波は桜なりけり」は細川幽斎がこの地に遊んで詠んだ歌という説明がなされている。これまでもこの道を通ったことがあるが、この説明を読んで改めて見てみると確かに嵐山の似ているように思えてくる。
川沿いに続く細い道を歩いていくが、しばらくいったところ左手に「駒繋碑」があると「歴史の道調査報告書」に書かれていたので、探したがわからない。丁度ここに住んでいる方が家から出てこられたので聞いてみたが、知らないということで、結局分からなかった。
その先で紫川と東谷川が合流するところがあり、そのまま東谷川に沿って進むと、加用橋が架かっているのでこれを渡り、すぐに左折して進む。
左手に加用公民館があり、その前に「山川式部切腹石」がある。永禄4年(1561)神田松山城、門司城、小倉城、香春岳城の各城主が大友氏に反して毛利に属したので、大友宗麟は5万3000人の軍勢で豊前に侵攻した。その頃加用には香春岳城主原田義種の支城があり、守将として山川式部が守っていたが、大友軍に攻められて敗れ、この岩の上で切腹したと伝えられている。
その先、九州自動車道の高架下で322号線に合流、その先で道は二股に分かれるが、右斜めに伸びる旧322号線(旧国道)を進む。この分かれ道付近から旧道は山手に上るのだが、今は失われていると資料に書かれており、実際に見てみたが、痕跡は全く残っていないようだったので、そのまま旧国道を進んでいく。
左手に「豊前刀鍛刀場跡」がある。日本刀創世期、豊前では源義朝の刀、源家重代の藩録を作った長円をはじめ神息定秀正垣という傑出した刀工が出ていた。江戸時代に入り、寛文年間(1661~1673)に紀友行、宝永年間(1704~1711)に紀政平という刀工が出ているが、小倉小笠原藩最後のお抱え鍛冶である紀政広の弟子、政行、政次が刀工として最も名高い。昭和9年父子合作の刀が常展に入賞したのをはじめ、数々の栄誉を受け、日本有数の刀匠としてその名を成した。政次が常に信条とした「鉄は生きている」は備前伝晒鍛の秘法に通じるものだったが、彼の死とともにこの秘法も消えてしまったと説明されている。
そのすぐ横から左斜めに旧道が伸びているのでこれを歩くが、すぐに旧国道に合流する。
石原町公民館前の信号の右手に公民館があり、その裏に「天疫神社」がある。ここは由緒は不明だが、疫病を取り除くために勧請したと伝えられており、明治初期の企救一揆の話し合いをした神社として有名ということだ。
そのすぐ先、右側に「大応寺」があり、その入口に「石原町の里程標」が立っている。これには片面に「従是小倉迄弐里弐拾□町」「従是大里迄参里弐拾五町」、もう一面には「従是呼野迄壱里弐町」と刻まれている。これは昭和30年頃には既に三つに折れていたが、セメントでつないでもとの所に建っていた。昭和50年頃に再び倒れて四つに折れ、その上頭部を持ち去られたので、当時の大応寺住職が保管をし平成13年に現在の位置に復元されたということだ。
大応寺は天正7年(1579)に建立され、本尊は阿弥陀如来だ。地蔵堂があり、「お乳の地蔵さん」と呼ばれている。お乳が出ない人は米や供え物を持って、「どうかお乳をお授けください」と詣り、供えたお米の半分を持ち帰り、おかゆにして食べていた。また、お乳がいらなくなれば、次に必要になるときまで地蔵に預かっていただくように、お礼参りをする人もいたとされている。
右手に明照寺があり、その先で右斜めに進む旧道が残っている。道路に面したところにガソリンスタンドがあったようだが、今では廃業しているらしく、社屋のみが残っていた。この旧道も短くすぐに旧国道に合流する。
右手に「法円寺」があり、その入口に森鴎外の筆による山家秋太郎(旧東谷村長)と子息山家徳象の記念碑が立っている。また、ここには福岡県の有形文化財に指定された梵鐘がある。これは永徳元年(1381)の作で以前大分県国東半島の田原の別府にある盛福寺にあったが、明治10年に法円寺に寄進されたものという説明がなされていた。
その先で旧国道から左斜めに分岐、木下踏切でJR日田彦山線を渡って進み、線路に併行して歩いていく。その先でJRのガードをくぐってきた旧国道を横断して、線路に沿って歩いていくと、右手にガードがあるので、ここから街道を離れて線路の西側に進んでいくと「小野田屋敷跡」がある。
ここは中世の豪族だった小野田種尚の墓や本宅入口の門の石垣等があり、大きな木が数本立っているが、標識もなく分かりにくい。幸いご近所の方がおられたのでお聞きして場所がわかった。ご近所の方は小野田城跡と言われていた。
街道に戻って進むと一旦322号線に合流するが、その先で再び旧国道に分岐する。その先で左に分岐する道があり、街道を離れて左へ進んでいくと、322号線に市丸東の信号があり、これを横断していくと「大清水神社」がある。ここは古くは官社で、大宰府から年ごとに六月の晦日に幣を奉っていたという。霊泉が湧いており、その市があったことから市丸という地名になったということだ。
街道に戻り旧国道を進んでいくと、17時48分、呼野駅があったので今日はここまでとし、ここからJRで帰途に着く。
本日の歩行時間 4時間41分。
本日の歩数&距離 29251歩、20.4km.
旅の地図
記録
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2009年02月26日(木)
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2009年02月28日(土)
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2009年03月09日(月)
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2009年03月10日(火)
プロフィール
歩人
かっちゃん