2009年02月08日(日)
耶馬溪~中津城
宿泊した山国旅館と青の洞門は旧道とは山国川を挟んだ反対側にある。そのため今回のウォーキングでは青の洞門へは行かないということだったので、集合前に同室だった方々と個人的に行ってきた。
本当は羅漢寺にも行ってみたかったのだが、朝は9時からしか開かないということでスケジュール上行くことは無理なのであきらめた。
「青の洞門」は宿からすぐ近く。
菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で全国的に知られた名所だ。山国川に面してそそり立つ「競秀峰」の裾にある洞門は、今から250年ほど前、若き日にあやまって人を殺してしまい、そのことを悔いて諸国遍歴の旅の途中、この地を訪れた越後の人禅海和尚が、「鎖渡し」と呼ばれる難所で命を落とす人馬を見て、村人のために安全な道をつくることを決意。ノミと槌だけで掘り抜いた隧道の長さは約342m。30年もの永い歳月をかけて完成したものだ。
現在でも車道の横に手ぼりの洞門が残っており、そこに入るとノミの跡がまだはっきりと残っている。中には明かりとりの窓まで作られており、まともな道具さえない当時としては気の遠くなるような作業だったのだろう。
その崖の上に「競秀峰めぐり」という道がついており、下から見ると絶壁に道が見える。そこへ行く階段があったので上って見たが、その先で立ち入り禁止になっていた。
山国川を渡ったところにあるレストハウス洞門前に全員集合し、9時40分に出発する。
川沿いに歩き、洞門橋を渡って左折して進むと左手に「耶馬溪橋(オランダ橋)がある。これは日本で唯一の8連アーチ橋で、日本最長の石造りアーチ橋でもあるということだ。大分県有形文化財に指定されており、日本百名橋の一つになっている。地元ではオランダ橋と呼ばれているが、これは長崎県の石橋に多い、水平な石積みを採用しているためとということだ。
左手に「樋田酒造」がある。「耶馬の誉」という酒造場でここが樋田宿の本陣があったところだ。樋田宿は中津街道の中では最大の宿場で日田方面と羅漢寺・玖珠方面への官道の分岐点でもあったということだ。
その先で道は二股に分かれており、ここを直進して進むと山国川に突き当たるのでこれを右折、44号線のガードをくぐってすぐに右折、44号線に沿って進み、その先の信号で左折、212号線に沿って進む。このあたり、仏坂越えの区間については川沿いのルートとする説と渋見集落の前後で山越えをしたという説があってまだ解明されていないということで、今回は川沿いのルートを歩く。
途中から右折し、民家の横を通って進み、212号線に合流する。
「釜立八幡神社」が右手にある。由来によると四十五代聖武天皇の神亀2年(725)宇佐神宮一之社殿創建の時、杣始めの式(用材伐採始めの式)を行い、宇佐神宮一之殿に祭る八幡大神と同体の神を鎮座せしめたのが始りで、その四年後に宇佐神宮二之殿創建の時も同様の杣始めの式を行い、五十二代嵯峨天皇弘仁13年(812)社殿創建の時、二神を合祀したと書かれている。随分古い神社で、由来が書かれていたが読みにくく、辛うじてここまで読むことができた。
この神社の前から左斜めに旧道が伸びているのでこれを歩く。この道は舗装されてはいるが、周囲は藪になっている。
その先、突き当りを右へ行き、更に左折して進み、その先で 212号線に合流する。
野路バス停のところで右折して三光村土田公民館に着き、ここで昼食になる。今日はカレーライスでこれもおいしかった。机のこちら側に男性陣が座っていると前の席に女性陣が座った。まるで合コンのようだと喜ぶ男性陣。たわいなくも楽しいひと時だった。
予定より早く着いたようでここでゆっくり休んで出発する。
二本杉のバス停の先から左斜めに伸びる細い道が旧道なのでこれを進み、その先の佐知地区入口から右折する。以前このあたりに二本杉があり、そこが一里塚の跡ということだったが、どこがその場所か分からなかった。日田往還にも一里塚があったはずだが、現在ではその遺構は残っていないようだ。今後の解明が待たれる。その先に枡形(鉤型)と呼ばれる、道が直角に曲がった場所が二ヶ所ある。重要な交通の要所であり、宿場だった佐知の面影が窺われる。
コーポなかむらの前から右折しそのすぐ先で左折して進む。更に下佐知バス停のところで右折、そのすぐ先で左折し、その先で212号線に合流する。
右手に「鶴市神社」がある。860年ほど前、山国川が氾濫を繰り返し、これを鎮めるために7人の地頭が相談を行い、井堰を作って、そこに人柱を立てることに決まった。誰を人柱にするか決めるため、それぞれ衣を脱いで川に投げ、一番最初に沈んだ衣の人が人柱になると決めて衣を投げた。このときにこの方法を提案した地頭の湯屋弾正が自分の衣に石を入れて投げたため、最初に沈んでしまった。この日から一週間の間に準備を行うこととしたが、その中日頃、弾正の僕だったお鶴とその子供市太郎が自分達が弾正の身代わりになると申し出てきた。弾正は驚いて断ったが、どうしてもという二人の申し出を断りきれず、結局二人が人柱になった。人柱は穴を掘り、お神輿と二人を埋めるのだが、その前に村中を回り、この神社の下で休憩をしたので、その場所に鶴市神社を建てたということだ。
神社の入口には「鶴・市太郎腰かけの石」があった。休憩の際、この石に腰掛けたということなのだろう。
この神社では今でも鶴市花傘鉾祭りとして19台の花傘鉾と1台の神輿が出る大きな祭りが開催されている。
旧道はこの神社の向こう側を通っていたそうだが、今はその場所に浄水場ができていて歩けないため、神社を迂回して境内から山道に入って進む。このあたりの台地を坂手の隈といい、中津城南方の要害だったということだ。
安政4年(1857)中津京町の豪商三原屋泉助が資金を拠出し、この場所に石畳を敷いたので、それを記した「畳石の碑」が左側に立っていた。
今度の旅で同室になった方で豊後街道を歩かれた方がおられ、私も近い将来豊後街道を歩くつもりだと申し上げていたところ、わざわざ奥さんにその資料をこの場所まで届けていただいた。見ると詳細な資料で、歩くに際しとても役に立つ資料だ。思いがけないご親切に感謝する。
212号線を横切って川沿いに歩く。川の中ほどに堰を築いた跡が見える。その先で取水口があり、その横に「鶴市二霊人柱記念碑」が立っている。
ここから右折して進み、212号線に合流する。
その先、中津市街へ進む道は直進するが、宮永方向へ進む道へ左折して進む。
この先、ヘアーサロンマツナガがある先から左斜めへ伸びる細い道に入っていく。
「高瀬の辻」の道標が立っている。ここは豊前と豊後を結ぶ勅使街道(上往還や豊前道ともいう)と中津城下の島田口から宮永街道を通り、日田へ通じる日田往還(高瀬の辻より南は永山布政所道ともいう)の交差点に当たると説明されている。道標には「従是東豊後宇佐ミチ」「従是北中津道」「従是西小倉道」「従是南日田玖珠道」と刻まれており、正に交差点だったことがよく分かる。
ここから先もクネクネとした細い道を歩いていき、その先で県道(旧212号線)に合流する。万田郵便局が右手にあり、その先で左斜めへ進む。
下五領バス停で県道に合流、その先ですぐに左斜めへ進む。ここから「宮永七曲道」に入る。
角に「貴船神社」があり、その境内に七曲の道祖神が集められていた。七曲なので七体の道祖神だ。
この間右、左、また右と曲がりを繰り返すので、とても文字では書き表せなく、また標識もないので、これを間違いなく歩くのは至難の業だろう。できれば、曲がり角に木切れに矢印だけのものでもいいのだが、ちょっとした標識があれば随分助かるのだがなぁと思った。
やがて中津城島田口に到着する。
ここは中津城から日田に向かう出口であると同時に、豊前街道を小倉方から下ってきた一般旅行者も迂回させて島田口を利用していた。島田口の内側には兵力を待機させられる広場「勢溜り」があり、城下防衛の要衝だった。
日田往還はここで一応終わるということで、ここでカウントする。
15時8分 中津城島田口に着く。
本日の歩行時間 5時間28分。
本日の歩数&距離 27999歩、15.8km。
ここから中津城へ向かったが、すぐ先に「上勢溜」の案内板が立っていた。それによると島田口を関所にして、ここ上勢溜は京町、博多町、諸町、新魚町に接した民衆の避難所であり、戦いや災害時には人々を救うための大切な広場であったと説明されている。
ここから中津城まで行き、閉会式が行われた。
中津市長までおいでになって挨拶をされていたが、その中で三日間全て歩き通した人が57人おられ、その方々に「完歩証明書」が渡されて解散になった。
いつも歩く時は基本的に一人なので、今回のように大人数の方と一緒に歩くウォーキング大会は始めての経験だった。
いつもと違うので戸惑うこともあったが、色々な方と知り合うなど一人旅では味わえないことも経験することができ、それなりに面白かった二泊三日だった。
日田往還は昔の道がかなり残っており、自然に包まれてなかなかいい道だと思った。ただ、その分、分かりにくい場所が多いので、大げさなものでなくていいので、ちょっとした標識があれば歩く上でとても助かると思う。今後の整備に期待したいと思う。
今回は初めての試みということだったが、中津市しもげ商工会の皆さんのきめ細かいサポートとAPUの学生さん達のフォローもあって順調に、トラブルもなく歩き終えたことに感謝したい。
日田往還全体。
総歩行時間 20時間2分。
総歩数 100734歩。
総歩行距離 61km。
本当は羅漢寺にも行ってみたかったのだが、朝は9時からしか開かないということでスケジュール上行くことは無理なのであきらめた。
「青の洞門」は宿からすぐ近く。
菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で全国的に知られた名所だ。山国川に面してそそり立つ「競秀峰」の裾にある洞門は、今から250年ほど前、若き日にあやまって人を殺してしまい、そのことを悔いて諸国遍歴の旅の途中、この地を訪れた越後の人禅海和尚が、「鎖渡し」と呼ばれる難所で命を落とす人馬を見て、村人のために安全な道をつくることを決意。ノミと槌だけで掘り抜いた隧道の長さは約342m。30年もの永い歳月をかけて完成したものだ。
現在でも車道の横に手ぼりの洞門が残っており、そこに入るとノミの跡がまだはっきりと残っている。中には明かりとりの窓まで作られており、まともな道具さえない当時としては気の遠くなるような作業だったのだろう。
その崖の上に「競秀峰めぐり」という道がついており、下から見ると絶壁に道が見える。そこへ行く階段があったので上って見たが、その先で立ち入り禁止になっていた。
山国川を渡ったところにあるレストハウス洞門前に全員集合し、9時40分に出発する。
川沿いに歩き、洞門橋を渡って左折して進むと左手に「耶馬溪橋(オランダ橋)がある。これは日本で唯一の8連アーチ橋で、日本最長の石造りアーチ橋でもあるということだ。大分県有形文化財に指定されており、日本百名橋の一つになっている。地元ではオランダ橋と呼ばれているが、これは長崎県の石橋に多い、水平な石積みを採用しているためとということだ。
左手に「樋田酒造」がある。「耶馬の誉」という酒造場でここが樋田宿の本陣があったところだ。樋田宿は中津街道の中では最大の宿場で日田方面と羅漢寺・玖珠方面への官道の分岐点でもあったということだ。
その先で道は二股に分かれており、ここを直進して進むと山国川に突き当たるのでこれを右折、44号線のガードをくぐってすぐに右折、44号線に沿って進み、その先の信号で左折、212号線に沿って進む。このあたり、仏坂越えの区間については川沿いのルートとする説と渋見集落の前後で山越えをしたという説があってまだ解明されていないということで、今回は川沿いのルートを歩く。
途中から右折し、民家の横を通って進み、212号線に合流する。
「釜立八幡神社」が右手にある。由来によると四十五代聖武天皇の神亀2年(725)宇佐神宮一之社殿創建の時、杣始めの式(用材伐採始めの式)を行い、宇佐神宮一之殿に祭る八幡大神と同体の神を鎮座せしめたのが始りで、その四年後に宇佐神宮二之殿創建の時も同様の杣始めの式を行い、五十二代嵯峨天皇弘仁13年(812)社殿創建の時、二神を合祀したと書かれている。随分古い神社で、由来が書かれていたが読みにくく、辛うじてここまで読むことができた。
この神社の前から左斜めに旧道が伸びているのでこれを歩く。この道は舗装されてはいるが、周囲は藪になっている。
その先、突き当りを右へ行き、更に左折して進み、その先で 212号線に合流する。
野路バス停のところで右折して三光村土田公民館に着き、ここで昼食になる。今日はカレーライスでこれもおいしかった。机のこちら側に男性陣が座っていると前の席に女性陣が座った。まるで合コンのようだと喜ぶ男性陣。たわいなくも楽しいひと時だった。
予定より早く着いたようでここでゆっくり休んで出発する。
二本杉のバス停の先から左斜めに伸びる細い道が旧道なのでこれを進み、その先の佐知地区入口から右折する。以前このあたりに二本杉があり、そこが一里塚の跡ということだったが、どこがその場所か分からなかった。日田往還にも一里塚があったはずだが、現在ではその遺構は残っていないようだ。今後の解明が待たれる。その先に枡形(鉤型)と呼ばれる、道が直角に曲がった場所が二ヶ所ある。重要な交通の要所であり、宿場だった佐知の面影が窺われる。
コーポなかむらの前から右折しそのすぐ先で左折して進む。更に下佐知バス停のところで右折、そのすぐ先で左折し、その先で212号線に合流する。
右手に「鶴市神社」がある。860年ほど前、山国川が氾濫を繰り返し、これを鎮めるために7人の地頭が相談を行い、井堰を作って、そこに人柱を立てることに決まった。誰を人柱にするか決めるため、それぞれ衣を脱いで川に投げ、一番最初に沈んだ衣の人が人柱になると決めて衣を投げた。このときにこの方法を提案した地頭の湯屋弾正が自分の衣に石を入れて投げたため、最初に沈んでしまった。この日から一週間の間に準備を行うこととしたが、その中日頃、弾正の僕だったお鶴とその子供市太郎が自分達が弾正の身代わりになると申し出てきた。弾正は驚いて断ったが、どうしてもという二人の申し出を断りきれず、結局二人が人柱になった。人柱は穴を掘り、お神輿と二人を埋めるのだが、その前に村中を回り、この神社の下で休憩をしたので、その場所に鶴市神社を建てたということだ。
神社の入口には「鶴・市太郎腰かけの石」があった。休憩の際、この石に腰掛けたということなのだろう。
この神社では今でも鶴市花傘鉾祭りとして19台の花傘鉾と1台の神輿が出る大きな祭りが開催されている。
旧道はこの神社の向こう側を通っていたそうだが、今はその場所に浄水場ができていて歩けないため、神社を迂回して境内から山道に入って進む。このあたりの台地を坂手の隈といい、中津城南方の要害だったということだ。
安政4年(1857)中津京町の豪商三原屋泉助が資金を拠出し、この場所に石畳を敷いたので、それを記した「畳石の碑」が左側に立っていた。
今度の旅で同室になった方で豊後街道を歩かれた方がおられ、私も近い将来豊後街道を歩くつもりだと申し上げていたところ、わざわざ奥さんにその資料をこの場所まで届けていただいた。見ると詳細な資料で、歩くに際しとても役に立つ資料だ。思いがけないご親切に感謝する。
212号線を横切って川沿いに歩く。川の中ほどに堰を築いた跡が見える。その先で取水口があり、その横に「鶴市二霊人柱記念碑」が立っている。
ここから右折して進み、212号線に合流する。
その先、中津市街へ進む道は直進するが、宮永方向へ進む道へ左折して進む。
この先、ヘアーサロンマツナガがある先から左斜めへ伸びる細い道に入っていく。
「高瀬の辻」の道標が立っている。ここは豊前と豊後を結ぶ勅使街道(上往還や豊前道ともいう)と中津城下の島田口から宮永街道を通り、日田へ通じる日田往還(高瀬の辻より南は永山布政所道ともいう)の交差点に当たると説明されている。道標には「従是東豊後宇佐ミチ」「従是北中津道」「従是西小倉道」「従是南日田玖珠道」と刻まれており、正に交差点だったことがよく分かる。
ここから先もクネクネとした細い道を歩いていき、その先で県道(旧212号線)に合流する。万田郵便局が右手にあり、その先で左斜めへ進む。
下五領バス停で県道に合流、その先ですぐに左斜めへ進む。ここから「宮永七曲道」に入る。
角に「貴船神社」があり、その境内に七曲の道祖神が集められていた。七曲なので七体の道祖神だ。
この間右、左、また右と曲がりを繰り返すので、とても文字では書き表せなく、また標識もないので、これを間違いなく歩くのは至難の業だろう。できれば、曲がり角に木切れに矢印だけのものでもいいのだが、ちょっとした標識があれば随分助かるのだがなぁと思った。
やがて中津城島田口に到着する。
ここは中津城から日田に向かう出口であると同時に、豊前街道を小倉方から下ってきた一般旅行者も迂回させて島田口を利用していた。島田口の内側には兵力を待機させられる広場「勢溜り」があり、城下防衛の要衝だった。
日田往還はここで一応終わるということで、ここでカウントする。
15時8分 中津城島田口に着く。
本日の歩行時間 5時間28分。
本日の歩数&距離 27999歩、15.8km。
ここから中津城へ向かったが、すぐ先に「上勢溜」の案内板が立っていた。それによると島田口を関所にして、ここ上勢溜は京町、博多町、諸町、新魚町に接した民衆の避難所であり、戦いや災害時には人々を救うための大切な広場であったと説明されている。
ここから中津城まで行き、閉会式が行われた。
中津市長までおいでになって挨拶をされていたが、その中で三日間全て歩き通した人が57人おられ、その方々に「完歩証明書」が渡されて解散になった。
いつも歩く時は基本的に一人なので、今回のように大人数の方と一緒に歩くウォーキング大会は始めての経験だった。
いつもと違うので戸惑うこともあったが、色々な方と知り合うなど一人旅では味わえないことも経験することができ、それなりに面白かった二泊三日だった。
日田往還は昔の道がかなり残っており、自然に包まれてなかなかいい道だと思った。ただ、その分、分かりにくい場所が多いので、大げさなものでなくていいので、ちょっとした標識があれば歩く上でとても助かると思う。今後の整備に期待したいと思う。
今回は初めての試みということだったが、中津市しもげ商工会の皆さんのきめ細かいサポートとAPUの学生さん達のフォローもあって順調に、トラブルもなく歩き終えたことに感謝したい。
日田往還全体。
総歩行時間 20時間2分。
総歩数 100734歩。
総歩行距離 61km。
旅の地図
記録
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2009年02月06日(金)
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2009年02月07日(土)
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2009年02月08日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん