日田往還(日田~中津)を歩く

2009年02月06日(金) ~2009年02月08日(日)
総歩数:100734歩 総距離:61km

2009年02月06日(金)

日田~石坂石畳~伏木峠~守実温泉

 日田往還(日田~中津)が中津市しもげ商工会と立命館アジア太平洋大学(以下APU)の共同作業によって復元され、その記念ウォークが行われるとネットで知り、早速応募、参加することになった。
 8時半にJR中津駅に集合し、そこから商工会が仕立ててくれたバスに乗って出発地点である日田駅前まで行く。
 10時から日田駅前で開会式。それによると2年間に渡って日田往還の復元作業が行われ、まだ一部未解明の部分が残ってはいるものの、ほぼ解明できたので、それを記念しての本日のウォークになったということだ。
「漱石が、頼山陽が歩いた道!日田往還中津街道復元ウォーク」をスローガンに商工会の方やAPUの学生等スタッフを入れて総勢160名という大人数だ。
開会式
 10時27分に日田駅を出発。今回中心になって調査されたAPU轟博志准教授を先頭にして48号線を右方向へ進み、三本松の信号で右折して進む。
 JR久大線のガード下を通って進むと右手に「咸宜園」がある。 ここは幕末の儒者廣瀬淡窓の私塾のあとで、淡窓は文化2年(1805)に豆田町の長福寺を借りて開塾したが、その後場所を変え、文化14年(1817)にこの地に移って、「咸宜園」と名づけた。以来明治30年までの約90年間に全国から集まった約4800人の子弟を教授したところだ。
咸宜園
 城内川に架かる濠梁橋を渡って進むと、「中城河岸」の説明板が立っている。それによると文政8年(1825)当時の西国筋郡代塩谷公の許可を受けた広瀬九兵衛や草野宗内らが中心になって荷物積み込みのため河岸を建設、川幅を広くし、御米蔵所や御計屋(年貢米計測所)などが立ち並んでいて港として榮えていたと説明されている。
  そのすぐ先、左手に草野家住宅がある。草野氏はもと筑後の国の領主であり、豊臣秀吉の九州征伐に敗れ、その一族が日田に逃れて帰農したと伝えられている。大分県内の町家では現存最古の建物で、九棟が残っており、このうち「仏間と次の間、座敷蔵」は明和9年(1772)の大火を免れた元禄年間の建物と伝えられ、主屋は安永年間(1774頃)に再建されたと伝えられている。草野家
 天領時代の情緒ある風情が残る豆田町の町並みの中を歩いていく。このあたりは以下に述べる丸山城築城の際、友田町から民家を移して城下町を作ったことに始まり、当初は丸山町といっていたが、元和年間町作りを継続した石川忠総の時に豆田町と改められた。整然とした屋敷割りと旧街路名は当初からのものであると説明されている。 
豆田町
花月川に架かる御幸橋を渡って進むと、右手に空き地があり、その角に「永山布政所跡」の標柱が立っている。
永山布政所
 その前方左手に掘があり、その向こうに石垣が築かれている。 この掘の手前一角が「永山布教所の陣屋跡」であり、当時の跡地四隅に先ほど立っていたような標柱が立っている。ここは西国筋郡代役所跡で「永山布政所」という名称は昭和11年以降に千原豊大が記した「豊後日田永山布政史料」に初めて記述が認められたもので、江戸期には一般に「日田御役所」と呼ばれていたということだ。ここは九州各地から集まる日田往還の終点になるところだ。
 その前に掘で囲まれた石垣があるが、ここは永山城、別称丸山城と呼ばれるところで、慶長6年(1601)に小川壱岐守光氏によって築かれ、寛永16年(1639)に廃城にして幕府直轄地となり日田陣屋が置かれた。天和2年(1682)松平直矩が入封したが、貞亨3年(1682)再度天領となり、九州各地の幕領や各藩の目付けとして威勢を示していた。明和4年(1767)に日田代官から西国筋郡代役所に格上げされて明治元年まで続き、後に日田県知事松方正義によって旧三の丸に知事公舎と日田県庁舎が設けられ、大分県に合併されるまで政治の場として使用されていたということだ。
丸山城お濠
 この後ろ、日田三丘の一つである月隈山上に「月隈神社」があり、その参道には千数百年前の豪族の古墳といわれる横穴群がある。
 古墳横穴
 11時18分に出発する。いよいよ日田往還を歩き始めるのだ。
 堀に沿って進み、日ノ出交差点を横切って直進する。渡里川が左手に流れており、これに沿って歩いていくと、左手小高いところに「羽野天満宮」がある。ここは天歴6年(952)菅原道真公の甥菅原貞光が筑紫下向の際、公の霊示を受けて創建したと伝えられている日田地方最古の菅聖廟だ。境内には江戸時代からの石造物も多いが、社殿横の「筆塚」は広瀬淡窓の父貞恒桃秋が文政10年(1813)77歳の時、手習い筆の供養のため奉納したものということだ。
 羽野神社
 道が分岐するところに「薬師堂」があり、ここから車道と分かれて左斜めに伸びる旧道に入る。
薬師堂
 細い道が続いておりこれを歩いていくと、やがて先ほど分岐した車道に合流する。右手に三和小学校を見ながら進んでいると、パトカーがやってきて「責任者は誰ですか?」と聞いてきた。大人数で歩いているので沿道の人から苦情がでている。一列になって進むようにと注意されていた。こんなことにもパトカーが出動するのだとちょっと驚いてしまった。
 左手に「龍川寺」があり、その境内に「義民穴井六郎右衛門」の碑が立っていた。穴井六郎右衛門は日田郡馬原村の庄屋だったが、日田代官の年貢増徴策に反対して年貢軽減を要求、延享3年(1746)次男要助と馬原村組頭飯田惣次と共に江戸幕府へ直訴、願書は受理され一旦帰国したが、幕府は彼らを処刑し、過料、追放された人間を含むと441人が処罰されたということだ。
 義民穴井氏碑
 すぐ先で道は二股に分かれており、これを左に進む。
 右手に花月川が流れており、左右に山が迫っていて静かで気持ちがいい道を歩く。
花月川周辺風景 
 このあたりは製材所が多いことに気がついた。日田杉の産地なのだ。 
 花月川に架かる明徳橋を渡り、すぐに左折して川沿いに歩く。県道107号線を横切って進み、その先で212号線に合流。「秋原入口」バス停から左へ進む。
小さな橋を渡ると正面に淨應寺があり、ここを右折して進む。
 左手に今は廃校になっている花月小学校があり、12時43分に到着。ここには市ノ瀬町内の方々が待っておられ、甘酒の缶詰を頂いた。これ以降もこうしたお接待を何度も受けることになるが、暖かい甘酒はおいしく、ありがたかった。
 しばらく休憩をとって出発する。
 小学校の校庭の端から車道の下にあるガードをくぐって進み、左折、その先で右折して中井鶴橋を渡って右折、そのすぐ先2本目の角を左折して進む。ここから集落の中の道を左折、すぐに右折、更に左へと何度も曲がりながら進むと、やがて田んぼの中に出、その先で212号線を横断する。
  212号線の上に「石坂石畳道」の表示板がかかっている。]
 石坂石畳標識
 横断した後も集落の中の狭い道を進んでいく。川に突き当たり、これを右折して川沿いに進むと「石坂石畳道」に着く。
石坂石畳道は市ノ瀬から伏木峠の間の急坂にひかれた石畳の道で全部で16ヵ所の曲折をつけながら、1260mの距離を登っていく。
  この石畳は中央部分に堅い切石を敷き、左右に山の自然石を敷いている。急なところは馬や牛の歩行を考えて、2,3歩進んでは、一段上るようにゆるい段差をつけるなど、工夫が凝らされている。ここは日田から中津へ通じる主要道路だったが、岩や石の露出した難路だったため、嘉永3年(1850)隈町の掛屋京屋作兵衛(山田常良)が資金を提供して普請が行われた。道路完成の翌年、廣瀬淡窓が石坂改修の由来を漢文で撰し、隈町森昌明の書で「石坂修治碑」という記念碑が立てられている。石坂石畳
  坂を登っていく途中右手に「茶屋跡」と書かれた紙があり、石垣が積まれていた。昔ここに茶屋があったのだろう。
茶屋跡
 石畳道が終わるところに集落があり、道が二股に分かれているので、ここを左へ進む。
 石畳後の二股
 左手に「伏木町内の日田往還(古道)について」という看板が立っている。それによると、石坂道を登りきった坂ノ辻からそのまま東へ進む道が代官道と呼ばれている日田往還の伏木峠道である。山国境まで約3kmあり、途中二ヶ所(約1km)は県道と合流しているが、あとはほとんど昔の雰囲気をそのまま残している、と記されている。 
  日田往還と刻まれた道標が何本か立っている。これは歩く上で非常に助かるのだが、いつも思うが折角立てるのであれば道が分岐する所に立てて欲しい。そうすれば歩く際、より役に立つのだが。
日田往還石柱
 県道に出て左折し、そのすぐ先、二股になっているところで右斜めへ進んでやがて県道に合流する。
 左手に「昭和天皇開拓者激励御立所」の石碑が立っているところで道は二股になっているので左斜へ進む。
昭和天皇石碑
 これまで全国各地を歩いてきて、明治天皇御巡幸の碑は数多くみてきたが、昭和天皇の碑はあまり見たことがなく珍しい。
 その先右手に小屋があり、その先から右折して入ったところに伏木町公民館があり、ここで昼食になる。昼食はだんご汁とおにぎり。しもげ商工会の方々が準備していてくれたがとてもおいしかった。日ごろ一人で歩く場合、飢餓状態に極端に弱い私は食事をする店があるかどうかに細心の注意を払うのだが、今回のような団体行動の場合、そういったことを考える必要がなく、大いに助かった。というのもこのあたり、食事ができるような店が全くないのだ。もし単独で行動される方はあらかじめ昼食を準備する等の対策が必要だと思う。 
  公民館からもとの道に戻り先へ進む。公民館へ曲がった道を曲がらずそのまま直進すると土道になる。
土道
 集落の中を歩き、やがて杉林の中に入っていく。左手に金網が張ってある横の細い道を歩いていくが、狭くて足場も悪くかなり歩きにくい。写真を撮りたかったが、足元が不安定で、しかも一列になって進んでいるので立ち止まることもできず、写真を撮ることはできなかった。
 やがて舗装された車道にでるが、少しずつ下っていく。
このあたりはとてもいい景色だ。
 杉林の風景
 前方に「境の谷川」があり、そこに「境の谷橋」が架かっているが、その手前右側に川に向かって下る道が作られている。ここが旧道で、今回の歩きのために商工会の皆さんが草刈をし、階段を作るなどして歩くことができるように整備してくれた道だ。境の川旧道
  丸太で作られた橋を渡ったすぐのところ、左側に「境の谷の関所跡」と思える石組みがあった。ここは山国地区が天領となる前、豊前と豊後を分かつ境の谷に関所があったということだ。
境の谷の関所
 しばらく山の中を歩く。今回のために草刈がされているので道ができており歩きやすいが、草刈をする前はかなりの藪だったのだろう。山陽道で何度も藪こぎをしたことを思い出す。
 境の谷藪道 
 やがて左手に手摺がつくられており、それを伝って下りる。手摺がある先の前方にも道らしい跡が続いていた。本来の道はこの先も直進しているが、今は砂崩れ等で道が失われているので、この場所で下るように手摺をつけたということだった。
 ここでも丸太で作られた橋が架けられており、それを伝って川を渡り、あぜ道を通って進む。これらはずべて商工会の皆さんが事前に準備されたもので、大変だっただろうなと思う。
丸太橋 
 車道に出、その左手に「大山積神社」があり、ここには中津市の職員の皆さんが「茸木茶屋」として休憩所を作って待っておられた。おやつとお茶をご馳走になり、しばし休憩を取る。
 こうしたお接待を受けると、準備がさぞ大変だっただろうなと思う。 
茸木茶屋
  休憩を終えて歩き始めるが、すぐに左手山道があり、これを上って行く。
茸木茶屋の先の二股
 二股に分かれているところを左へ行くと杉林の中に入っていく。ここにはしいたけのほだ木が沢山置かれていた。
 突き当りを右折、その先で左折し、道なりに進んでいく。小川を渡り、左斜めへ上って行く。このあたりは森の中で電波が届きにくいらしく、後で見てみるとGPSがうまく機能していなかった。
  右手に集落がある。出羽の集落だ。その先で再び杉林の中に入っていく。さすがに日田は杉の産地で、杉林が多い。
 また道が二股に分かれており、ここを左へ進む。
杉林の中二股
 このあたりは林の中だし、標識が全くないので、一人でここを歩くとなると非常に厳しいだろうなと思う。
 石畳の跡が残っている。これが出羽の石畳なのだろう。
 出羽石畳
 ここも鬱蒼とした杉林の中だ。
 やがて県道〈旧国道)に出る。ここを左へ進んでいくと、左手に三所神社の案内板が立っている。社殿の創建は南北朝以前で、少なくとも室町時代中期にはかなりの権威を持って存在していたということだ。社殿には「水のみ竜」の伝説の木彫りがあり、上宮、古上宮には十六羅漢を含んで二十六体の石像と木彫阿弥陀仏坐像が一体あると説明書にあったので、行ってみたいと思ったが少し距離があるようだ。皆さんはそのまま先をどんどん進まれているので、一人だけ遅れるわけにも行かず、残念ながら行くことを断念した。
 龍集落を通るが、このあたりは古道がかなり失われているので、県道を歩いていく。
 右手に上志川が流れており、これに架かる鳥居瀬橋を渡って進む。
 ろくすけ工房が右手にある。ここは毎年色々な案山子を作って、田んぼにズラッと並べているということだった。今は残念ながら時期はずれで見ることができなくて残念だった。
  そのすぐ先から道は右手のあぜ道に入っていき、左折して県道と併行して歩く。突き当りを左折し、すぐ先の民家の横にある細い道を右折して進むと、右手に山国中学校が見えてくる。
細い分岐
 突き当りを右折して進むと、左手に「大歳祖神社」があり、その横に「河野家」がある。神社の境内に「夏目漱石句碑」が立っている。それによると明治32年熊本五高の教師をしていた当時33歳の夏目漱石は同僚と大分の旅に出ており、境内に隣接する、当時郵便局のかたわら旅宿業を営んでいた河野家に宿泊をしたということだ。その時詠んだ四句が句碑に刻まれていた。漱石句碑 
 ここからすぐ横の道を左折して進むが、これは民家の間の人一人がやっと通ることが出来るような狭い道だ。
 民家の間の細道
 これを抜けて歩いていくと、民家の前に「天領御蔵路」と刻まれた石柱が無造作に横たえられている。これは以前宇佐にあったということだが、ここに持ってこられているということだった。天領御蔵路 
 その先で右折して中津市しもげ商工会山国支所に17時11分に到着する。今日はここで解散し、日帰りの人は帰宅、宿泊者はここからあまり遠くない守実温泉「やすらぎの郷」へ向かう。
 「やすらぎの郷」は静かな山間にある温泉で、今日の泊まりはその中にあるバンガローだ。
一つのバンガローに9名宿泊。二階に4名、階下に5名が布団を敷いて寝たが、かなり狭く、一番端の方は便所のすぐ前だ。夜トイレに行くときに布団を踏まないように気をつけながら行ったが、皆で「修学旅行の時のようだ」と話しながら寝る。これはこれでいい思い出だ。
ちなみに今回の参加費は2泊3日、三食付、しかも途中でおやつまででて、わずか一万円なのだ。よくこれで賄えたものだと思う。裏方で支えられた方々のご苦労を思うと感謝である。

本日の歩行時間   6時間44分。
本日の歩数&距離  32426歩、19.9km。


 

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん