2008年12月20日(土)
JR小倉~JR長府~赤間関~永福寺
晴れ
小倉を10時40分に出て11時20分に長府から歩き始める。今日はいよいよ日本縦断の最終日だ。幸い天気もよく快適な最終日を迎えることができた。
しばらく歩いていくと右手に駐車場があり、その向こう側、歩いている道から一本通りを隔てたところに土壁の家があり、これが「狩野芳崖宅跡」だ。芳崖は文政11年(1828)この地で生まれ、19歳のとき江戸へ出て活躍したが、その後恵まれない生活に甘んじていた。しかしアーネスト・フェノロサや岡倉天心にめぐり会ったことから進路が開け、時の首相伊藤博文を説いて美術学校(現東京芸大)創立に努めるが、開校一ヶ月前に61歳の生涯を閉じたと説明されている。開校を見届けたかっただろうなと思う。
街道に戻るとそのすぐ先、左手に「田上菊舎の旧宅跡」がある。加賀千代女と並び称される江戸期の代表的な女流俳人である菊舎は16歳で結婚したが24歳のとき夫を亡くしてしまう。その後、句作風雅の旅を過ごし、文人殿様として知られる長府藩主11代毛利元義公からその才知を愛され、文政9年(1826)74歳でこの地で生涯を閉じるまで恵まれた晩年を送ったという。
右手に「大乗寺」があり、その先にある「徳応寺」の境内左側に菊舎のお墓と句碑が立っていた。ここは分かりにくくて隣の法華寺のほうへいってしまい、そこの住職さんに教えて頂いて場所が分かった。このあたりはお寺が並んで建っている。
その先、やはり右手に「正円寺」があり、ここに樹齢千年以上といわれる大銀杏樹が立っている。本堂は明和3年(1766)の建立となっており、このときこの銀杏を根元から伐採したと思われ、その後残った根から枝が生えたらしく、現在は銀杏には珍しく四本の幹に分かれている。この銀杏は写真左手に写っているように女性のシンボルである乳が垂れ下がっており、女性を守るシンボルとして多くの女性の尊崇を集めてきたと説明されている。
その先、同じく右手に「本覚寺」があり、境内には数多くの墓石が集められて並んでいた。丁度舞台に並んでいるような感じだ。
右手に忌宮神社があり、その少し先の左手に中浜市場がある。
このあたりが本陣があった跡ということなのだが、なにも遺構は残っていない。ここでカウントする。
12時33分、長府宿を通る。
吉田宿から5時間21分、28496歩、15km。
右手に「荒熊稲荷神社」がある。文化・文政年間、長府藩11代藩主毛利元義公が江戸参勤交代の帰途、京都の伏見稲荷大社に詣でて、御分霊を勧請し、産業の繁栄を祈願した。嘉永元年(1848)現在地に遷して社殿を再建、平成2年に社殿を改築、御造営したという。ここは11月3日の御大祭の奉納相撲が「長府の三日相撲」として有名で、昭和49年大相撲の魁傑が参拝して九州場所で優勝をして以来、放駒部屋一行が毎年参拝しているということだ。
「忌宮神社」がある。ここは第14代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため、この地に皇居豊浦宮を興して7年間政治を行われた旧址で天皇が筑紫の香椎で崩御された後、御神霊をお祭りしている。現在の社殿は明治10年の造営で、昭和56年に改修されている。長門の国二ノ宮として、文武、安産の神として信仰を集めている。
境内には「鬼石」があり、数方庭の由来が書かれている。それによると第14代仲哀天皇7年旧暦の7月7日に朝鮮半島新羅国の塵輪が熊襲を煽動し、豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は戦いに敗れたので、天皇は大いに憤らせ給い、御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒した。賊軍は退散し、皇軍は歓喜のあまり矛をかざし、旗を振りながら塵輪の屍の周りを踊りまわったのが数方庭(8月7日より13日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられており、塵輪の顔が鬼のようだったことから、その首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいると説明されている。写真に撮ったが、日陰になっており、うまく撮れていなかった。
ここの社務所に「城下町長府散策マップ」が置いてあったので、その後これを見ながら長府の街を歩いた。
昼食のため、近くにあった「お好み焼きひろ田」に入る。ここで先ほど入手した地図で道を尋ねたりしているうちに、街道歩きの話になり、HPのアドレスを教えたところ、夜に書き込みをしていただいた。こうしたちょっとした旅の触れ合いが楽しい。
昼食を終えて街道から少し先の壇具川に架かる壇具橋を渡ったところ右手に「長州藩侍屋敷長屋」がある。ここは中央に出入り口を配し、一見長屋風だ。この長屋は長州藩家老職であった西家の分家の本門に付属していたものをこの地に移設し、整備したもので、江戸後期の建築と推測されているそうだ。
街道に戻り、侍屋敷から来ると左折して進むと、「長府毛利邸」がある。ここは長府毛利家14代毛利元敏公が東京から帰住するため、この地に建てた邸宅で、明治31年に起工し、明治36年に完成している。
明治35年には明治天皇が熊本で行われた陸軍大演習をご視察の際、ここを行在所として使用されたそうで、当時の部屋がそのまま残っており、入口には「明治天皇長府行在所」の石碑が立っていた。
広大な池泉回遊式の庭園があり、部屋数は大小合わせて22室あるということだ。
毛利邸を右折していくと練壁の家が立ち並ぶ古江小路がある。昔はこのあたりまで入り江になっていたことから古江小路と呼ばれていると案内されている。このあたりに限らず長府の町はこのような土壁の家が数多く建っている。
この通りに「菅家長屋門」がある。菅家は長府藩祖毛利秀元公に京都から招かれ、侍医兼侍講職を務めた格式のある家柄だった。下関市指定有形文化財になっている。
「乃木神社」がある。明治天皇に殉死した乃木希典を祀っており、境内には乃木将軍が育った家が復元されている。
六畳と三畳の二間に二坪の土間という極めて質素な家で、当時の生活ぶりが偲ばれる。司馬遼太郎が乃木希典を描いた「殉死」を読んだことがあり、そのことを思い出しながら境内を見て回った。
「国分寺跡」碑が立っていた。聖武天皇が天平13年(741)国家平安を祈り、諸国に建立した国分寺の一つだが、他国のものより寺域は小さかったということだ。今では何も遺構は残っていない。
「覚苑寺」がある。元禄11年(1698)長府藩主毛利網元公が創建、功山寺、笑山寺とともに長府藩の菩提寺になっている。本堂は寛政6年(1794)に建立されたもので、明治8年廃寺となっていた海蔵醍醐寺から覚苑寺に移築されている。江戸時代の黄檗宗寺院の典型的な特徴を示しており、下関市指定有形文化財に指定されている。
境内にはわが国最初の金属貨幣「和銅開珎」を鋳造した「長門国鋳銭所跡地」の碑が立っており、国の史跡指定を受けている。
「功山寺」がある。ここは嘉歴2年(1327)の創建で、「山門」は壮大な二重櫓造りで安永2年(1773)長府藩主十代毛利匡芳公の命により再建されたもので、全て欅の素木を用いて建てられており、下関市指定文化財に指定されている。山門(三門)とは本堂に入るのに通らなければならない門、三解脱門(空、無相、無作)にたとえ、その略からといわれている。
現在の「仏殿」は元応2年(1320)の建立で典型的な鎌倉期禅宗様式として国宝に指定されている。毛利秀元公の戒名「功山玄誉大居士」をもって功山寺となった。
境内墓所には「大内義長」の墓といわれる宝篋印塔がある。大内氏は室町時代の守護大名として栄えたが、重臣陶晴賢の反逆によって滅ぼされ、晴賢が再興した大内義長も弘治3年(1557)毛利軍に追われ、長福寺(現功山寺)で自害、ここに大内氏は滅びたのだ。
「功山寺輪蔵」がある。内部には八角形の回転式経庫を備えており、経庫には一切経が納めら、経庫を一回転させれば、一切経の全部を読誦したのと同じ功徳があるといわれている。
功山寺を出たところに「高杉晋作回天義挙之所」碑が立っているがこの碑は亀趺碑になっている。碑の解説があり「回天とは何の意か 天皇親政の古えに復えすの意であろう 義挙とは何か 義は正義の義であり 忠義の義である ・・・・」と書かれている。これは読売・毎日両新聞記者として活躍した横山健堂の筆によるとされている。
街道から外れるが、功山寺の前の道を直進すると「笑山寺」がある。ここは元和年間(1615~23)に長府初代藩主毛利秀元公が廃寺潮音寺をこの地に移し、開基したと伝えられている。境内には鎌倉時代後期の特徴がよく出ている高さ3.28mの十三重石塔が立っており、下関市指定文化財に指定されている。
また境内左手奥の墓所に長府藩二代光広、七代師就公の巨大な五輪塔が立っている。
これで長府の町の見物を一通り終わったが、時計を見ると14時45分になっている。当初の予定では2時間から、せいぜい2時間半あれば何とかなるだろうと思っていたのだが、3時間半かかってしまっていた。大幅に予定時間をオーバーしてしまったので先を急ぐ。
山手の道を行くと二股に分かれているところがあり、右へ行くと「平家塚」となっている。あまり深く考えずに右の道へ行って見たが、かなり距離があり、坂を上っていくうちに、これは到着が益々遅くなりそうだと後悔し始めた頃、峠の頂上に「平家塚」と刻まれた石碑があった。「霊神社はこの上です」の表示があったが、もうそれ以上は行かなかった。
街道に戻り、茶臼山の周囲をグルッと回る感じで歩いていくと、前方に関門橋が見えた。もう一息だ!道なりに左へカーブしながら下っていくと、国道9号線のすぐ横に出てくるが、合流せずに直進する。道は次第に細くなるが、きちんと続いているのでそれに沿っていくと、階段があり、これを上ったところで右折していく。ここも民家の間の細い坂道だ。
右手前方にパークハイツひのやまというマンションが見える。坂を上って広い道路に出たところが三叉路で、これを左折して進むと関門海峡が一望できる場所に来る。
やがてみもすも川の信号で9号線に合流するが、その左手に海峡に向かって長州砲が並んでいる。
その先に「安徳天皇御入水之処」碑が立っており、二位尼辞世の句「今ぞ知る みもすそ川の御なかれ 波の下にも みやこありとは」が刻まれている。
右手に「赤間神宮」がある。寿永4年(1185)源平壇ノ浦合戦で入水された当時8歳の安徳天皇を祀っている神社で、昭和20年戦災で全焼したが、昭和40年再建された。
また、ここには「西門鎮守八幡宮」があり、貞観元年(859)行教和尚が宇佐から京都の岩清水へ御分霊を勧請される途次、ここに日本西門の守り神として創建されたのが「鎮守八幡宮」である。以来鎌倉幕府をはじめ、南北朝室町時代から江戸時代まで、多くの戦国大名の尊崇を集めた。
ここには「平家一門の墓」があり、その横に「耳なし芳一」のお堂がある。芳一という琵琶法師が平家の亡霊に取り付かれ、夜毎に平家一門の墓前で琵琶を弾いていた。その周囲に数知れぬ鬼火が飛び狂っているのを見た和尚が、このままでは怨霊に芳一を殺されてしまうと思い、芳一を救おうとして芳一の顔手足に般若心経を書き付けたが、耳に書くことを忘れていたため、亡霊は芳一の両耳を取って消えうせたという。 このことから人は「耳なし芳一」と呼ぶようになったという。
右手に「春帆楼」がある。ここは日清戦争後の講和条約が締結されたところだ。このすぐ先で道を右折した突き当りに「赤間宿伊藤宅跡」がある。
ここでカウントする。
16時30分、赤間関本陣跡を通る。
長府宿から3時間57分、18126歩、7km。
その先、右手に「引接寺三門」がある。ここは永禄3年(1560)に建立されたところで、その後慶長3年(1598)小早川隆景公の遺言により隆景公の菩提寺として再興された。この三門は明和6年(1769)毛利匡満公により再建されたものと説明されている。
亀山八幡宮が街道から少し外れたところにあるのだが、とりあえずゴールを目指すことにする。というのも会社の仲間がゴール地点で待っていてくれているのだ。時間を大体4時ごろと設定していたので、随分遅れてしまっており、とりあえず皆のいる永福寺へ急ぐ。
ゴールは「永福寺」だ。ここは今から1300有余年ほど前、推古天皇の御代19年に百済の国、聖明王の王子琳聖太子が聖徳太子の御徳を慕われて来朝されたとき、この風光明媚な関門の地を深く愛でられ護持念仏の観世音菩薩の御尊像を安置され、一宇を建立されたことに始まるという古い歴史を持つお寺だ、昭和20年の戦災で焼失してしまったという。
16時54分、永福寺に到着する。10名ほどの会社の仲間がゴールテープを持って出迎えてくれており、両手を挙げてゴールする。皆、忙しい中、こうしてわざわざ出迎えてくれてありがたかった。
そしてこのゴールテープには数多くの会社の仲間のゴールを祝福する言葉が書き込まれており、これにも感激してしまった。本当にありがたいことだ。
その後胴上げまでやってくれ、無事ゴールのセレモニーを終えることができた。
ただ、亀山八幡宮に行っていないので、日を改めてもう一度来ようと思っていたが、これから皆で一緒に行きましょうといってくれたので、皆そろって「亀山八幡宮」に参拝する。ここは平安時代貞観元年(859)に神託により国主が宮殿を造営し、以来、朝廷、大内、毛利藩主の崇敬厚い神社で古い歴史を持っている。
この神社の前には「山陽道」と刻まれた石碑が立っており、その横に「ここは山陽道の基点 九州渡航の起地なり 山陽道第一塚なり」という標識が立っている。
この頃にはもうすっかり暗くなっており、うまく写真を撮ることができなかったが、それでも無事全ての工程を終わらせることができたのでよかった。
これで「北海道から鹿児島まで街道を歩いて縦断の旅」を達成することができた。
本日の歩行時間 5時間34分。
本日の歩数&距離 27732歩、17.2km。
山陽道全体。
総歩行時間 182時間58分。
総歩数 977050歩。
総歩行距離 630.6km。
宿場間距離合計 524.5km。
小倉を10時40分に出て11時20分に長府から歩き始める。今日はいよいよ日本縦断の最終日だ。幸い天気もよく快適な最終日を迎えることができた。
しばらく歩いていくと右手に駐車場があり、その向こう側、歩いている道から一本通りを隔てたところに土壁の家があり、これが「狩野芳崖宅跡」だ。芳崖は文政11年(1828)この地で生まれ、19歳のとき江戸へ出て活躍したが、その後恵まれない生活に甘んじていた。しかしアーネスト・フェノロサや岡倉天心にめぐり会ったことから進路が開け、時の首相伊藤博文を説いて美術学校(現東京芸大)創立に努めるが、開校一ヶ月前に61歳の生涯を閉じたと説明されている。開校を見届けたかっただろうなと思う。
街道に戻るとそのすぐ先、左手に「田上菊舎の旧宅跡」がある。加賀千代女と並び称される江戸期の代表的な女流俳人である菊舎は16歳で結婚したが24歳のとき夫を亡くしてしまう。その後、句作風雅の旅を過ごし、文人殿様として知られる長府藩主11代毛利元義公からその才知を愛され、文政9年(1826)74歳でこの地で生涯を閉じるまで恵まれた晩年を送ったという。
右手に「大乗寺」があり、その先にある「徳応寺」の境内左側に菊舎のお墓と句碑が立っていた。ここは分かりにくくて隣の法華寺のほうへいってしまい、そこの住職さんに教えて頂いて場所が分かった。このあたりはお寺が並んで建っている。
その先、やはり右手に「正円寺」があり、ここに樹齢千年以上といわれる大銀杏樹が立っている。本堂は明和3年(1766)の建立となっており、このときこの銀杏を根元から伐採したと思われ、その後残った根から枝が生えたらしく、現在は銀杏には珍しく四本の幹に分かれている。この銀杏は写真左手に写っているように女性のシンボルである乳が垂れ下がっており、女性を守るシンボルとして多くの女性の尊崇を集めてきたと説明されている。
その先、同じく右手に「本覚寺」があり、境内には数多くの墓石が集められて並んでいた。丁度舞台に並んでいるような感じだ。
右手に忌宮神社があり、その少し先の左手に中浜市場がある。
このあたりが本陣があった跡ということなのだが、なにも遺構は残っていない。ここでカウントする。
12時33分、長府宿を通る。
吉田宿から5時間21分、28496歩、15km。
右手に「荒熊稲荷神社」がある。文化・文政年間、長府藩11代藩主毛利元義公が江戸参勤交代の帰途、京都の伏見稲荷大社に詣でて、御分霊を勧請し、産業の繁栄を祈願した。嘉永元年(1848)現在地に遷して社殿を再建、平成2年に社殿を改築、御造営したという。ここは11月3日の御大祭の奉納相撲が「長府の三日相撲」として有名で、昭和49年大相撲の魁傑が参拝して九州場所で優勝をして以来、放駒部屋一行が毎年参拝しているということだ。
「忌宮神社」がある。ここは第14代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため、この地に皇居豊浦宮を興して7年間政治を行われた旧址で天皇が筑紫の香椎で崩御された後、御神霊をお祭りしている。現在の社殿は明治10年の造営で、昭和56年に改修されている。長門の国二ノ宮として、文武、安産の神として信仰を集めている。
境内には「鬼石」があり、数方庭の由来が書かれている。それによると第14代仲哀天皇7年旧暦の7月7日に朝鮮半島新羅国の塵輪が熊襲を煽動し、豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は戦いに敗れたので、天皇は大いに憤らせ給い、御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒した。賊軍は退散し、皇軍は歓喜のあまり矛をかざし、旗を振りながら塵輪の屍の周りを踊りまわったのが数方庭(8月7日より13日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられており、塵輪の顔が鬼のようだったことから、その首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいると説明されている。写真に撮ったが、日陰になっており、うまく撮れていなかった。
ここの社務所に「城下町長府散策マップ」が置いてあったので、その後これを見ながら長府の街を歩いた。
昼食のため、近くにあった「お好み焼きひろ田」に入る。ここで先ほど入手した地図で道を尋ねたりしているうちに、街道歩きの話になり、HPのアドレスを教えたところ、夜に書き込みをしていただいた。こうしたちょっとした旅の触れ合いが楽しい。
昼食を終えて街道から少し先の壇具川に架かる壇具橋を渡ったところ右手に「長州藩侍屋敷長屋」がある。ここは中央に出入り口を配し、一見長屋風だ。この長屋は長州藩家老職であった西家の分家の本門に付属していたものをこの地に移設し、整備したもので、江戸後期の建築と推測されているそうだ。
街道に戻り、侍屋敷から来ると左折して進むと、「長府毛利邸」がある。ここは長府毛利家14代毛利元敏公が東京から帰住するため、この地に建てた邸宅で、明治31年に起工し、明治36年に完成している。
明治35年には明治天皇が熊本で行われた陸軍大演習をご視察の際、ここを行在所として使用されたそうで、当時の部屋がそのまま残っており、入口には「明治天皇長府行在所」の石碑が立っていた。
広大な池泉回遊式の庭園があり、部屋数は大小合わせて22室あるということだ。
毛利邸を右折していくと練壁の家が立ち並ぶ古江小路がある。昔はこのあたりまで入り江になっていたことから古江小路と呼ばれていると案内されている。このあたりに限らず長府の町はこのような土壁の家が数多く建っている。
この通りに「菅家長屋門」がある。菅家は長府藩祖毛利秀元公に京都から招かれ、侍医兼侍講職を務めた格式のある家柄だった。下関市指定有形文化財になっている。
「乃木神社」がある。明治天皇に殉死した乃木希典を祀っており、境内には乃木将軍が育った家が復元されている。
六畳と三畳の二間に二坪の土間という極めて質素な家で、当時の生活ぶりが偲ばれる。司馬遼太郎が乃木希典を描いた「殉死」を読んだことがあり、そのことを思い出しながら境内を見て回った。
「国分寺跡」碑が立っていた。聖武天皇が天平13年(741)国家平安を祈り、諸国に建立した国分寺の一つだが、他国のものより寺域は小さかったということだ。今では何も遺構は残っていない。
「覚苑寺」がある。元禄11年(1698)長府藩主毛利網元公が創建、功山寺、笑山寺とともに長府藩の菩提寺になっている。本堂は寛政6年(1794)に建立されたもので、明治8年廃寺となっていた海蔵醍醐寺から覚苑寺に移築されている。江戸時代の黄檗宗寺院の典型的な特徴を示しており、下関市指定有形文化財に指定されている。
境内にはわが国最初の金属貨幣「和銅開珎」を鋳造した「長門国鋳銭所跡地」の碑が立っており、国の史跡指定を受けている。
「功山寺」がある。ここは嘉歴2年(1327)の創建で、「山門」は壮大な二重櫓造りで安永2年(1773)長府藩主十代毛利匡芳公の命により再建されたもので、全て欅の素木を用いて建てられており、下関市指定文化財に指定されている。山門(三門)とは本堂に入るのに通らなければならない門、三解脱門(空、無相、無作)にたとえ、その略からといわれている。
現在の「仏殿」は元応2年(1320)の建立で典型的な鎌倉期禅宗様式として国宝に指定されている。毛利秀元公の戒名「功山玄誉大居士」をもって功山寺となった。
境内墓所には「大内義長」の墓といわれる宝篋印塔がある。大内氏は室町時代の守護大名として栄えたが、重臣陶晴賢の反逆によって滅ぼされ、晴賢が再興した大内義長も弘治3年(1557)毛利軍に追われ、長福寺(現功山寺)で自害、ここに大内氏は滅びたのだ。
「功山寺輪蔵」がある。内部には八角形の回転式経庫を備えており、経庫には一切経が納めら、経庫を一回転させれば、一切経の全部を読誦したのと同じ功徳があるといわれている。
功山寺を出たところに「高杉晋作回天義挙之所」碑が立っているがこの碑は亀趺碑になっている。碑の解説があり「回天とは何の意か 天皇親政の古えに復えすの意であろう 義挙とは何か 義は正義の義であり 忠義の義である ・・・・」と書かれている。これは読売・毎日両新聞記者として活躍した横山健堂の筆によるとされている。
街道から外れるが、功山寺の前の道を直進すると「笑山寺」がある。ここは元和年間(1615~23)に長府初代藩主毛利秀元公が廃寺潮音寺をこの地に移し、開基したと伝えられている。境内には鎌倉時代後期の特徴がよく出ている高さ3.28mの十三重石塔が立っており、下関市指定文化財に指定されている。
また境内左手奥の墓所に長府藩二代光広、七代師就公の巨大な五輪塔が立っている。
これで長府の町の見物を一通り終わったが、時計を見ると14時45分になっている。当初の予定では2時間から、せいぜい2時間半あれば何とかなるだろうと思っていたのだが、3時間半かかってしまっていた。大幅に予定時間をオーバーしてしまったので先を急ぐ。
山手の道を行くと二股に分かれているところがあり、右へ行くと「平家塚」となっている。あまり深く考えずに右の道へ行って見たが、かなり距離があり、坂を上っていくうちに、これは到着が益々遅くなりそうだと後悔し始めた頃、峠の頂上に「平家塚」と刻まれた石碑があった。「霊神社はこの上です」の表示があったが、もうそれ以上は行かなかった。
街道に戻り、茶臼山の周囲をグルッと回る感じで歩いていくと、前方に関門橋が見えた。もう一息だ!道なりに左へカーブしながら下っていくと、国道9号線のすぐ横に出てくるが、合流せずに直進する。道は次第に細くなるが、きちんと続いているのでそれに沿っていくと、階段があり、これを上ったところで右折していく。ここも民家の間の細い坂道だ。
右手前方にパークハイツひのやまというマンションが見える。坂を上って広い道路に出たところが三叉路で、これを左折して進むと関門海峡が一望できる場所に来る。
やがてみもすも川の信号で9号線に合流するが、その左手に海峡に向かって長州砲が並んでいる。
その先に「安徳天皇御入水之処」碑が立っており、二位尼辞世の句「今ぞ知る みもすそ川の御なかれ 波の下にも みやこありとは」が刻まれている。
右手に「赤間神宮」がある。寿永4年(1185)源平壇ノ浦合戦で入水された当時8歳の安徳天皇を祀っている神社で、昭和20年戦災で全焼したが、昭和40年再建された。
また、ここには「西門鎮守八幡宮」があり、貞観元年(859)行教和尚が宇佐から京都の岩清水へ御分霊を勧請される途次、ここに日本西門の守り神として創建されたのが「鎮守八幡宮」である。以来鎌倉幕府をはじめ、南北朝室町時代から江戸時代まで、多くの戦国大名の尊崇を集めた。
ここには「平家一門の墓」があり、その横に「耳なし芳一」のお堂がある。芳一という琵琶法師が平家の亡霊に取り付かれ、夜毎に平家一門の墓前で琵琶を弾いていた。その周囲に数知れぬ鬼火が飛び狂っているのを見た和尚が、このままでは怨霊に芳一を殺されてしまうと思い、芳一を救おうとして芳一の顔手足に般若心経を書き付けたが、耳に書くことを忘れていたため、亡霊は芳一の両耳を取って消えうせたという。 このことから人は「耳なし芳一」と呼ぶようになったという。
右手に「春帆楼」がある。ここは日清戦争後の講和条約が締結されたところだ。このすぐ先で道を右折した突き当りに「赤間宿伊藤宅跡」がある。
ここでカウントする。
16時30分、赤間関本陣跡を通る。
長府宿から3時間57分、18126歩、7km。
その先、右手に「引接寺三門」がある。ここは永禄3年(1560)に建立されたところで、その後慶長3年(1598)小早川隆景公の遺言により隆景公の菩提寺として再興された。この三門は明和6年(1769)毛利匡満公により再建されたものと説明されている。
亀山八幡宮が街道から少し外れたところにあるのだが、とりあえずゴールを目指すことにする。というのも会社の仲間がゴール地点で待っていてくれているのだ。時間を大体4時ごろと設定していたので、随分遅れてしまっており、とりあえず皆のいる永福寺へ急ぐ。
ゴールは「永福寺」だ。ここは今から1300有余年ほど前、推古天皇の御代19年に百済の国、聖明王の王子琳聖太子が聖徳太子の御徳を慕われて来朝されたとき、この風光明媚な関門の地を深く愛でられ護持念仏の観世音菩薩の御尊像を安置され、一宇を建立されたことに始まるという古い歴史を持つお寺だ、昭和20年の戦災で焼失してしまったという。
16時54分、永福寺に到着する。10名ほどの会社の仲間がゴールテープを持って出迎えてくれており、両手を挙げてゴールする。皆、忙しい中、こうしてわざわざ出迎えてくれてありがたかった。
そしてこのゴールテープには数多くの会社の仲間のゴールを祝福する言葉が書き込まれており、これにも感激してしまった。本当にありがたいことだ。
その後胴上げまでやってくれ、無事ゴールのセレモニーを終えることができた。
ただ、亀山八幡宮に行っていないので、日を改めてもう一度来ようと思っていたが、これから皆で一緒に行きましょうといってくれたので、皆そろって「亀山八幡宮」に参拝する。ここは平安時代貞観元年(859)に神託により国主が宮殿を造営し、以来、朝廷、大内、毛利藩主の崇敬厚い神社で古い歴史を持っている。
この神社の前には「山陽道」と刻まれた石碑が立っており、その横に「ここは山陽道の基点 九州渡航の起地なり 山陽道第一塚なり」という標識が立っている。
この頃にはもうすっかり暗くなっており、うまく写真を撮ることができなかったが、それでも無事全ての工程を終わらせることができたのでよかった。
これで「北海道から鹿児島まで街道を歩いて縦断の旅」を達成することができた。
本日の歩行時間 5時間34分。
本日の歩数&距離 27732歩、17.2km。
山陽道全体。
総歩行時間 182時間58分。
総歩数 977050歩。
総歩行距離 630.6km。
宿場間距離合計 524.5km。
旅の地図
記録
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2008年12月11日(木)
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2008年12月12日(金)
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プロフィール
歩人
かっちゃん